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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興7年(229年)
13/41

孫権の遼東への介入の開始

 孫権と諸葛亮の名代として送られた陳震による交渉により、蜀と呉の同盟は再び締結され、両国の協力によって魏を打倒した後の天下を、蜀漢は現状の支配地である益州に加えて并州・涼州・雍州・冀州・兗州は蜀に所属させ、呉は現状の支配地である揚州と荊州・交州に加えて、徐州・豫州・幽州・青州を呉に所属させ、司隷の土地は函谷関をもってその境界としたのであるが、三輔の地が雍州に加わっていることを考えれば司隷は呉がほぼ独占するに近い。


 孫権はこれを持って魏を打倒した後の正式な漢の後継は自分たち呉であると示したのである。


 そして孫権は229年の5月に張剛(ちょうごう)管篤(かんとく)を使者として遼東に向かわせている。


 遼東では昨年の228年に公孫淵(こうそんえん)兄である公孫恭(こうそんきょう)を追いやって太守となっていた。


 そもそも190年にはすでに公孫度(こうそんたく)が漢王朝の命運はつきており、自分が帝位につく時が来たと言って、遼東の王を自称している。


 もっともその後を継いだ公孫康(こうそんこう)は、袁紹のあとを継いだ袁家の兄弟を滅ぼして烏桓を恭順させた曹操へ帰順をしているが、その公孫康が死んで性的不能である公孫恭が後を継ぐと、それを名目に公孫淵はその地位を奪い取っって独立を画策したのである。


 そして呉と公孫淵は遼東の馬と交州経由で手に入る南蛮地域の特産品の交換からスタートした。


 孫権はこの遼東への介入がうまく言っていると自画自賛した。


「こうして交流しつつ北方の夷狄とともに奴らが魏を攻めてくれればいうことはないわい」


 公孫淵としても呉が魏を牽制している間に自分は遼東の王として自立したいという野望があったためこれはうまくいくかと思われた。


 遠交近攻という同盟の原則を考えれば孫権がとったこの方策はかならずしも過ちではない。


 しかし魏を倒した後の幽州の領有権は呉にあるという前提でのこの交渉は 、孫権が公孫淵の人となりをよく調べないままに早急に同盟を結ぼうとし、そしておそらくは蜀漢同様に自分を実質的盟主としての同盟を結ぼうとしたのが失敗であった。


 公孫淵はその地位の入手経過や、その後の史実での動きを見ても信用に足りない人物であるし、実際にそれについて張昭が孫権を諌めている。


 そして遼東の勢力をもって魏に対抗できると考えたのは公孫淵のもつ武力に対する過大すぎる評価でもあった。


 さらに協力して魏を攻撃しようとしても呉と遼東ではあまりにも遠すぎ、しかも往復手段として海路を用いるしか無い状態ではその往復にかかる時間も天候に左右されるため、はっきりしないという問題があった。


 かと言ってすでに皇帝となった孫権を止められる者はいないのが呉の実情であり、特に孫権が帝位につき百官を呼び集めた席で、帝位に即位できたのは周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対し「もしあの時、張公の(赤壁の戦いで曹操に降伏する)進言を聞いていたら、私は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていた」と皮肉ると、張昭は酷くそれを恥じいって出仕を控えていたというのも孫権の暴走に歯止めがかけられぬ理由であった。

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