黒訃
和服の男は、夜の住宅街を歩いていた。
街灯は多くなく、月も雲が覆っている。ぼんやりと浮かぶ風景の中、彼その身を委ねている。
ぱりり。
ぱりり。
男は、横の路地裏を見つめた。明かりが途切れた暗がりから、音は響いてくる。
ぱりり。
薄氷が割れていくような、小さな何かが破裂したような、奇妙な音だった。
「ああ」
籠った声が聞こえ、闇から別の男が出て来た。
遠くの街灯から、差し込む光に照らし出される。
「失礼、ちょっと食感に興味があったもので」
蛾だった。
現れた男の口、その中から、幾重にも重なった羽毛の眼が出ている。
「少々お待ち下さい。ああ、待っていたのは私でしたが」
咀嚼する口を押さえ、ごくりと飲み込んだ。
歩いていた男は、特に驚く訳でもなく、無表情に見つめている。
暗がりから出て来た男は、中肉中背、年は30代くらい、スーツを着ている。口の周りに鱗粉を張り付かせている以外、会社帰りのサラリーマンにしか見えない。
そして笑っている。
満面の笑顔だった。
「いやあ、探しましたよ。センセイ」
男は、路地裏の影から椅子を引き出す。
そして事務机。
続いてもう一脚の椅子。
どう見ても、影に収まるような代物ではない。
「まあまあ、座って下さいよ」
自分は先に座り、机を挟んだ椅子を勧める。
和服の男は座った。
「私も、ちゃんと役目を果たさないとゆっくり出来ないものでね」
言いながら、スーツの男は紙を置いた。
「しかし、センセイ。困りますよ。そんなフラフラされちゃったら」
和服の男は答えない。
そのまま、目の前の紙を見つめる。
何も書かれていない。
白紙だ。
「私が来ること、判ってたでしょう?」
和服の男は視線を上げ、対面の男を見つめた。
「ちょっと、無視しないで下さいよ。ちゃんと喋れる癖に」
眼前の男は、変わらずにやけている。
「いやいや、お会い出来て良かった。さっきまで退屈で退屈で、ちょっと遊んでいました。こんな所じゃ遊ぶのもままならないのですが、その辺のお宅にお邪魔したりして」
和服の男が、眉間に手を当てた。
どうやら皺が寄ってるらしい。
「ああ、勘違いしないで下さいね。変なことしてませんよ。近くに契約があったものですから。そしたら偶然ですね! 窓から何気なく外を眺めていたら、センセイがやって来るじゃありませんか! いやあ、日頃の行いが良かったのかな。幸運でしたよ」
こん、こん。
笑顔で話しながら、男は指先で机を叩いた。
「さあさあ、観念して、とっとと書いちゃって下さい!」
とんとん。
白紙に指を叩きつけ、何かを要求している。
和服の男は、眉間に手を当てたままだ。
と、そこへ足音が近づいて来た。
「ああ! ちょっと! そこの貴方!」
「え? 俺?」
スーツの男が、やって来た若い男に声を掛ける。
「貴方も! 座っていただけませんか?」
「え? 何してんの?」
気が付くと、男達の背後には、メイド服の女性が二人立っていた。鏡像のようにそっくりだ。
一人が椅子を引いて座らせ、一人はもう一枚の紙を置く。
「何これ? え? こんな所にメイド?」
男は美しいメイドに視線を絡ませ、嬉々として紙を見つめる。
「さあ、色を選んで下さい!」
「え? 何なの? マジック?」
和服の男は無言のままだ。
「良いから! その紙に名前を書くとしたら、何色が良いですか?」
スーツの男は、少し高くなった声で叫ぶ。
「名前……名前かあ。じゃあ、黒で良いかな」
「はい、どうぞ! さあ、書いて下さい!」
どこからか出されたペンを受け取り、若い男は記入した。
その隣で、和服の男は吐息を返す。
「……はい、宜しい」
スーツの男は紙を確認すると、満足そうに指を鳴らしました。
その音に反応し、メイドの一人が若い男の目にナプキンを巻く。
別のメイドが椅子を引き、改めて彼を一歩下がった位置に座らせる。そして、ロープを使って身体を固定した。
「何をしようってんだ?」
若い男は、笑いながら首を左右に振り、面白がっている様子だ。
その両脇で、二人のメイドがバットを持ち、打者のように構える。
ごん!
若い男の頭を、両側からバットが直撃した。
ごん!
頭は圧力に潰され。
ごん!
原型を無くしていく。
ごん!
ごん!
ごん!
頭蓋を無くした身体のロープが解かれる。
「あーあ、黒なんて言うから」
糸の切れた人形が、椅子から滑り落ちていく。
「さて! 次はセンセイですね! 色は何が良いですか? 奮発して応えますよ!」
スーツの男は、何も無かったように笑顔で叫んだ。
対して和服の男は、そのままだった眉間から手を離す。
その顔は、満面の笑みだった。
「……へえ?」
スーツの男は、打って変わって笑顔を消した。
和服の男は、懐から一本の筆を取り出す。
勿論、墨には染まってない。真っ白な穂先である。
「ふうん」
言いながら、机にあった指を頬に沿わせた。
スーツの男は、面白くなさそうに、頬杖で紙を見つめている。
筆は、真っ白な中を泳ぐだけで、何が描かれる訳でもない。
「あんた、その方法、どうやって知ったんだ?」
筆を持ち上げた手は答えない。
「まあ良っか。別に、今回は保留になるだけだしね」
スーツの男が立ち上がる。
「ちょっとだけ残念です」
和服の男は、顔を手で覆う。
その隙間から、鋭い眼光が睨め付けた。
「それでは、また」
もう、スーツの男もメイドも居なかった。