界転~3~
座敷を男が走っている。
なに? これ。
延々と続く座敷、それを走り抜けていく男を、僕は天井から見下ろしている。身体の感覚は無い。視界は薄い膜のようなものが張っていて、ぼやけた視界から見せつけられている。音も聞こえないし、どうやら声も出ない。
八畳ほどの座敷には、所狭しと糸で綴じられた本が積み重なっている。時代劇で見るような、所謂和装本だ。男はどれほど走ってきたのか、本に躓き、転がし、なんとも頼りない走りだった。
その時。
え?
積み重ねられて崩れた本、縦になってぺらりとめくれたページから。
指が出た。
え? え?
その指を追って、ずるりと身体が出てくる。髪が長く、顔は窺い知れない。ただ、左手は無く、下半身も無い。それがバッタンバッタンと、身体を跳ね上げながら彼を追い始めたのだ。
なんだ、あれ?
一冊だけではない。崩れた他の本からも、身体は次々と這い出てくる。短髪であったり、白髪であったり、足が無かったり、右腕が無かったり、どこかしら欠損していた。
それが、初めに出てきたものに、絡みついていく。トーテムポールのように連なりながら身体は密集し、みるみる肉の塊でムカデが出来て、不規則に突き出た腕や足を動かしながら走る男を追う。
気持ちわるっ!
僕は天井に居るからか、どこか映画を見ているような印象だった。感覚も無いから、どこぞのヒーローのように彼を助けようにも、化け物をどうにかしようにも、まったく動けない。
なんだ、どうなってる。
その時、男が転んだ。
ああ!
僕は出ない声で叫ぶ。
逃げろ!
顔が無数に浮き出たムカデが、瞬く間に追いつく。
や、止めろ!
男を押さえつける。
「ヒキトリニキマシタ」
初めて声が聞こえた。
低音で、高音で、幼く、老いた声が重なっている。
「ヒキトリニキマシタ」
男を口で、腕で、足で、身体で押さえつける。
ぶぢい、という音が聞こえる。
この音は聞きたくなかった。化け物は、男の右腕を根本から引き千切ったのだ。
おい。
ぶちっと、今度は左腕を引き千切る。
なにしてる。
左足。
出血はすさまじく、みるみる血が流れだしていく。
男は何か叫んでいた。僕には聞こえない。
と、そこで。
彼と目が合った。
え?
男は何かを決心したように、口を引き締め、僕を見つめる。
なんだ?
気が付くと、男の腕は真っ黒だった。腕だけではない。左足の露出した肌も黒い。
日焼けじゃないな、黒すぎる。
右足も引き千切られる。やはり黒い。だが、彼の顔は黒くない。首元も。四肢だけが黒いのだ。
僕は未だに、どこか現実でないような、頭の隅が冷えているのを感じていた。
ムカデの一つが男の顔を掴む。
おい、まさか。
指の隙間から、まだ瞳はこちらを見つめている。
それは無いだろ。
化け物は、男の顔を剥いだ。
「やめろぉ!」
声が出た。
その途端、視界がぐるりと反転した。
「うわっ!」
天井には座敷が広がっている。その中心に、四肢と顔を失った男の死体が転がっていた。
ふと、自分が見上げているのが判った。
辺りを見回すと、天井と同じように、襖と畳と本が繋がっている。まるで鏡合わせのように、天井と自分が寝転がっている空間が同じなのだ。違うのは、今まで見下ろしていた男が天井で死んでいるか、天井に居た僕が地に落ちているかだけ。
「な、なに?」
いや、もう一つ。
「クッツケニキマシタ」
あれが地面に居る。
天井の世界から逆さまになった、こちらの世界に這っている。
「クッツケニキマシタ」
身体は動かない。恐怖じゃない。感覚が無いのだ。
「クッツケニ……」
「冗談じゃない!」
必死に声を出した。それは男の四肢を持っている。
身体が。
あっという間だった。
僕の四肢は引き千切られ、男の腕が、足が、ぐちゃりと据え付けられる。
叫んだ。力の限り。
でも無駄だった。
当然ながら血は流れ出て、激痛を通り越した熱さが身体を支配した。
「クッツケニキマシタ」
顔に手が迫る。
「い、いやだ……」
もう声は枯れた。
涙も出ているようだ。
我ながら情けない。
こんな化け物に、こんなよくわからないところで。
「クッツケニキマシタ」
くそ。
「おい」
不意に、横から声が聞こえた。
「人のツレに何してんだ、バケモンが」
畳が破裂したような音が聞こえた。
同時に、視界を覆っていた肉が消える。
「な、なに?」
「よう」
僕を見下ろす、不敵な顔。
「おまえ……」
煙草を咥えたヤツは、両手をポケットに突っ込んで、悠々と立っていた。
「無事、じゃねえみてえだな」
「あ、ああ。いづっ!」
身体を起こす。起こせた。感覚があるのだ。見ると、黒い四肢が僕にくっついている。化け物が、ただ断面に合わせただけなのに、結合しているのだ。感覚があるのも、この四肢のせいだろうか。
「お、おお?」
ふと見ると、ヤツの足元に穴が開いていた。
この酒呑み友達は、歩いた状態から膝を化け物に当て、震脚で吹き飛ばしたのだ。
「お前すげえな」
あなた達人?
ただの酒精じゃないと思っていたが、いやもはや酒だと思っていたが、それでもなかったのかしら?
「何言ってんだ。それより、あれ見ろよ」
煙草を手にもって指す方向を見ると、化け物がわらわらと集まっている。
どうやら、衝撃で塊だったものが霧散し、また絡まろうとしているようだ。
「キモイな。何あれ?」
僕に聞くなよ。
「よく解らんが、呪いのヴァージンロードを歩んで、誓いのキスを迫られていたところだ」
一人じゃないのは助かる。まだ激痛に包まれているが、どこか心がほぐれた。
「え? マジ? ジャマした?」
「むしろ遅い」
「えぇー! 助けたのにぃー」
特に軽口を叩き合う相手が居るのは良い。冷静になれ。そうすれば。
「なあ? ウワサが本当なら、一度は戻れるんだろ?」
ヤツは吸っていた煙草をプッと吐いた。
「お前は楽観的だな」
「なんで?」
「一度は戻れるなんて、眉唾だからな?」
「ん?」
胸元から新しい煙草を取り出し、火を点ける。
「たまたま運良く戻れた奴が居て、話を広めた。それだけのことかもしれない。戻れなかったやつなんて、話は広まらないだけだろ? 全員が戻れる確証なんて、まだ無い」
「それは……」
そうだが。もう少し希望を持たせろ。そして僕の周りを見ろ。僕の血肉で作った血溜まりを。そして憐れめ。
しかし、なんだこの世界は?
あの女はそもそも何なんだ?
そして、この現実感の無さ。
まあ、だからこそ冷静でいられるのだが。
「ふむ」
化け物は距離を取り、こちらの様子を窺っている。
僕はガクガクと震える膝で立ち上がった。血を失っているのに、頭は冴えている。四肢をもがれて出血したのだ。ショック死してもおかしくない量が流れただろう。となれば、これも新しい手足が作用しているのか。しかし、その脚はまだ馴染んでいない。いや、自分の身体じゃないものがくっついたのだ。拒絶反応が出ているのかもしれない。
「一応聞くが、走れるか?」
「ゼッタイ無理」
「だろうな」
身体がダメなら、頭を回転させろ。
戻れるのなら、何かきっかけがあったはずだ。
考えろ。
考えるんだ。
「おい、来るぞ」
一瞬で、化け物が宙を舞った。
飛び上がってきたのだ。
「うおっ!」
「大丈夫っと」
間に相棒が割り込む。両腕をクロスして、巨体を防いだ。
「コイツは良い男なんだ。どこの馬の骨とも解らんやつには……」
今度は頭突きで吹き飛ばす。
「やれねえなあ」
天を仰ぎ、紫煙を吐き出した。
「ん?」
その視線の先を見る。
「あれ? 誰?」
天井の死体を指した。
「ああ、あれ? あれは……」
頭の中で、何かが弾けた。
「そうだ」
「え? 誰よ?」
目の前の化け物は、何から出てきた?
天井と同じ風景。
ヒキトリニキマシタ。
クッツケニキマシタ。
「反転?」
「え?」
「反転だ!」
僕は近くの本に跳んだ。その中でも、縦向きに崩れた本を手に取る。
「こうか!」
上下を逆さまにする。
「何してんの?」
呆気にとられる友人をよそに、化け物から一つの肉体が解れた。
そして、天井に戻った。
「あっち!」
僕は指差す。
「あっちの方に向かって、立っている本を上下逆さまにするんだ!」
天井の男が走って来た方向は覚えている。その中で、縦に崩れた本を反転させるのだ。
「事情はよく解らんが、解った」
相棒が返す。そして走り出す。
僕は走れない。
化け物の相手は務まらないだろうが、なにがなんでも足止めしなくてはならない。
この四肢を持ってしまった僕は、もしかしたら帰れないかもしれない。
それでも、今まで付き合ってくれた友人一人くらいは帰って欲しい。
なに、この化け物も、ちゃんと付き合えば悪くないやつかもしれない。
和室は嫌いじゃないしな。
「頼む!」
僕は拳を握り、ぶるぶる震える太ももを叩く。
「動け! 動け!」
足に力を込める。また千切れてでも動いてもらうぞ。でなきゃアイツが戻れない。
「うおぉぉぉ!」
走る。
すぐさまムカデ野郎に組み付き、力の限り押し返そうとする。
「おいっ! 大丈夫か!」
大丈夫じゃない。
僕の身体はみるみる肉に囲まれた。
全身を色んな腕に掴まれる。
すごい力だ。
おそらく、蛇のように僕を包んでいるのだろう。
「いいから! 早くしろ!」
少しだけ、圧力が弱まった気がした。
「やってる!」
目の前に、腕の一本が近付いてくる。
「クッツケニキマシタ」
「なんだ、そりゃ」
また圧が弱まる。
「クッツケニキマシタ」
目の前に、面が現れた。
え? お面?
男の顔を剥がしたはずだが。
「そういうのホント要らないから、止めてくんないかな」
その途端、面を持っていた腕が消える。
それに代わり、別の腕が面を拾い上げる。
「クッツケニキマシタ」
声色も少なくなってきた。
「ヤローで酒池肉林なんざ、趣味じゃねえよ」
アイツがやってくれてる。
それだけで、僕は勇気が湧いてくる。
「があああああああああ!」
僕は、全身に力を込めた。
気付くと、僕はカウンターに座っていた。
「おっ、まだ呑みかけあった」
一瞬、今までのは僕の幻覚かと思った。
けど、今の言葉じゃ、やっぱりコイツも一緒に居たんだな。
「セーフ」
ぐいっとグラスをあおって、満面の笑みを浮かべている。
「まったく、お前ってやつは」
僕は苦笑いを浮かべた。
良かった。
本当に良かった。
「ん?」
「え?」
僕らは、周囲を見回した。
「あの女はともかく、マスターは?」
「あれ?」
マスターの姿が無い。
僕は、嫌な予感がした。
咄嗟に手を見る。
黒く染まってはいない。
だが、頭をよぎるものがある。
「あの天井で死んでいた男……」
「ああ」
「バーテンダーの姿じゃなかったか?」
どうしてさっき気付かなかったのか、それには訳がある。
「なあ」
「ああ」
「マスターの顔、覚えてるか?」