界転~2~
奥にあるトイレから出ると、目の前に珍しく客が座っていた。髪の長い女だ。左手を頬に添え、肘をついている。
「あなた……」
「え?」
向きはそのまま、急に話しかけられた。酔いの席ではままある話だ。顔は手に隠されて、よく見えない。
「神様、信じる?」
「は?」
「神様よ、神様」
「うーん、どうでしょうね」
「アタシが神様だって言ったら、信じる?」
どうした、なんだ?
この女、タチの悪い酔っぱらいか?
「は、はは……」
笑ってごまかしながら、元の席に戻った。
「おい」
隣に小声で話しかけた。
「何だ?」
「トイレの前に女が座ってるんだけどさ、話しかけられた」
「あっそ」
めちゃくちゃ興味なさそう。
「神様を信じるかって」
「は?」
「アタシ神様だってさ」
「それは凄いな。女神様だってか。笑える」
「いやいや」
「自分によっぽど自信があるのか、マジで電波受けてるか、宗教もあるな。あるいは薬、か……この辺で、あんまり薬流れてるって話は聞かねえがな」
やばい。
「あの女、めっちゃこっち見てる気がする。目の端で見えるんだけど」
「無視しろ。そんな女に関わると、ろくなことにならん」
「ちなみにお前さ、神様って信じる」
そこで、ヤツは声量を上げた。
「信じないね! 神様なんざ居ねえよ!」
「ちょ……声、下げろって」
めっちゃ見てるー!
「仮に居るとしても、そいつは盲目で耳も聞こえないね。こっちがどれだけ叫んでも、何にも助けちゃくれねえ。居ないのと同じさ」
「へ、へえー。個人的には、そういう考えなんだぁ」
み、見てるから!
「……そういえば」
「な、なに?」
話を変えてくれるとありがたい。
「女と言えば、知ってるか?」
ビミョーに変わってねえな。
「知らん」
「会話してくれ」
「知らん知らん」
「最近ネットで噂になってるんだが、街で見知らぬ女に会うと、消えるらしい」
続けんのかよ。
「消える?」
やれやれといった顔をしながら、僕は話に乗った。
「消えるんだとよ。行方不明」
言いながら、持っていた何本目かの煙草をもみ消した。
「ウソだぁ」
「オレは、今までお前に嘘吐いたこと無いだろ?」
「もうウソじゃねえか」
何度かウソ言われたぞ。
「むしろ、まみれていると言えるくらいだ」
「ありゃ冗談だろ。嘘は言わん」
めっちゃニヤニヤしてるし。
「大体、消えるんだろ? なんでウワサが広がんだ」
僕は、目の前に置かれていた豆を口に入れた。
「それがさ、一度は戻って来るらしい」
「消えてねえじゃん」
「最後まで聞けよ。戻って来て、周囲に吹聴する。女に会った。変なことに出くわした。よく考えれば、女自体もおかしな女だった、とな」
「それで?」
「数日経ったら、また消える。今度は、もう戻って来ない」
「あのさぁ」
「何?」
眉間にシワを寄せ、僕は肩を近付けた。
「この状況、まずくない?」
「何で?」
「今、まさに変な女に会ってるじゃん。しかも話しかけられてるんだけど」
「だから無視しろと言ってる」
「いや、でも」
「お前は馬鹿なのか? それとも馬鹿なのか?」
「バカとしか聞いてねえ?!」
ヤツは、新しい煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吐き出した。
「無視しなきゃ、消えるかもしれんぞ」
「それこそ、そんなバカな……」
「条件を見つけたんだ」
「条件?」
「気になって調べてみたんだよ。そしたら、曖昧だけどな、出会う条件を見つけた」
またウソじゃないだろうな。
気になって顔を覗いても、張り付いた薄ら笑いのおかげで、何を考えてるか判らない。
「条件って……なに?」
「知ってることだ」
「え?」
「だから、知ってることだ。話を聞いても、文章で見ても、消えた奴を知っているだけですらいい。女はウィルスのように感染し、無差別にやって来る」
「ぼ、僕は知らなかったぞ」
「オレが知ってたから、女が来たのかも」
「えー」
何それ、巻き添えもアリなの?
「話は終わった?」
「わぁ!」
いきなり耳元に囁かれた。いつの間に隣に座ってたんだ?
「おい、どうすんだ。無視できねえよ!」
顔を向けないように小声で叫ぶ。
「ねえ」
ち、近えええええええ!
ひたすら反らす僕の頬に、サラサラとした髪の毛の触感が伝わってくる。
「マスター」
横で声が上がった。今まで棚に向かっていたマスターが、こちらへ振り返る。
「こいつの話、聞いてた? どう思う?」
な、何?
「女は居るか? 神は居るか?」
マスターは穏やかな顔で、首をかしげた。
「女、ですか?」
「そう、女」
「確かに、女性のお客様はいらっしゃいますが」
いるじゃん。
「そう? オレには見えない」
「またまたぁ」
「しかし、神様ですか……それは何とも……いやはや、卵が先か、鶏が先か……」
な、なんだって?
マスターは不思議な言葉を綴った。
「いくら興味ないからって、見えないなんてひどいじゃないか、ねえ?」
僕は愛想笑いを浮かべながら、女性に向き直った。
「……え?」
おかしい。
「ふ……」
彼女の後ろに、あるはずのないものが見える。
「は、はは……」
女の背後に、襖が見える。
「ははは!」
女が笑いだした。
とても面白そうに。
「ははははははははは!」
女を中心に、視界に畳と襖が広がっていく。
「アタシ神様だから! こんなこともできちゃうの!」
「おいおい、なんだかマズイぞ!」
僕は隣の相棒を見た。
「無視しろって言ったのに」
コイツ、やっぱり見えてやがった!
「やっと見つけた。こ、これでえええええ……。」
女が白目を剥く。
「なにそれこえー!」
刹那、がさっとした音が耳に広がった。女の顔に腕が伸びる。
「なあんちゃって」
女の眼が元に戻り、首を傾けた。
「ちっ……」
どうやら、相棒が肩越しに、灯ったままの煙草を突き出したようだ。避けられたが。
「せいぜい頑張ってね」
目の前の女が消え、女の座っていた椅子が消え、僕の椅子も消えていく。
襖が開く。
開いた先には座敷、そして襖。
その襖も開き、さらに座敷。
果てしなく襖が開き、座敷が延々と広がっていく。
「今日を生きられますように」
頭の中に声が響いた。
「何か起こるぞ。気ぃしっかり持てよ」
その声をかき消すように、背後からも声が聞こえた。