人餌
私は会社に居た。
時刻は午後5時、休憩もせずに仕事を続けている。
「はあ」
自分の机で溜息を吐く。
終わらない。
どうやっても定時で終わる量じゃない。
今日は残業だ。
どうにも調子が悪い。あの双子の夢所為だろうか。
私は馬鹿だ。
あの男を殺したところで、何かが変わる訳じゃない。ただただ、気分が悪くなるだけだった。
「お先に失礼します」
先に帰る同僚を見送る。
きっと、私の顔は疲れているのだろう。苦笑いされた。
「仕方ない」
気分転換しようと、私は休憩所に向かう。
「よう、お疲れ」
嫌な男に会った。
階の片隅にある自動販売機、その周りに椅子が並んでいる。
男は、椅子に座ってニヤニヤと笑っていた。
年は二十代半ば、院卒で会社に入った若者だ。私より年下だが、馴れ馴れしくタメ口だ。
「お疲れ」
私は、視線を合わせないように自動販売機を眺める。
「久しぶりだってのに、つれないな」
顔を見ていないが、声が笑っている。
きっと、まだ笑っているのだろう。
腹立たしい。
「そうね」
失敗した。
なるべく避けていたのに、どうしてコイツが此処に居るんだ。残業なんかしない癖に。
「いやあ、また会えるなんてさ。仕事終わりの一服も悪くないな」
仕事終わりに駄弁るなよ。早く帰れ。
「そう?」
なるべく平静を装う。
私は、以前コイツと付き合っていた。
気の迷いだったとしか言えない。
最初は可愛いと思っていた。でも、付き合い始めたら、どんどん粗が見えていった。我が儘は多いし、自分の思い通りにならないと、直ぐ機嫌が悪くなる。暴力こそ振るわなかったが、声を荒げる。まだ子供なのだ。五月蠅くて煩わしくして、ほとほと嫌になって別れた。
「私、まだ仕事があるから」
離れようとすると、手を掴まれた。
「せっかく会えたんだ。もう少しゆっくりして行けよ」
触るな、と叫びそうになるのを、私は必死に耐えた。
向かい合って座る。
でも、視線は合わせない。
そろそろ、新しい靴買わなくちゃな。
細やかな現実逃避に、私は足元を見つめる。
早くこの場を離れたい。
コイツは最低な男だ。
年上の女と付き合えたのがよほど嬉しかったのか、私とのやり取りを、陰で吹聴したのだ。
会社は閉鎖空間――そして他人ばかりの集合――女性ともなれば、当然やっかみや妬みもある。
私の陰口は多くなった。
信頼出来る同僚達に、コイツがどんな奴か吹いて回り、その子達が別の陰口を流してくれたお陰で、最近やっと環境が改善したところだ。
「面白い話があるんだ」
お前の話は全て面白くない。
もう喋るな。
私が目を細くしたのを、コイツは興味を持ったと勘違いしたのか、再びニヤニヤし始めた。
ムカつく笑顔だ。
気持ち悪い。
でも、確かに口は上手かった。うちの会社では、院卒は大卒より給料が高い。要するにエリートだ。加えて、コイツは外面だけは良くて、上司にも気に入られやすいのだ。きっと評価は私より上だろう。それも面白くない。
「釣りするヤツから聞いたんだけどさ。お前、ウオノエって知ってるか?」
ウオノエ?
「知らない」
「魚の餌って意味で、ウオノエ。寄生虫なんだ」
なんだコイツ。
久しぶりに会ったと思ったら、なんでそんな悪趣味な話するの?
「魚の口の中にへばり付いて、魚の体液を吸うんだけどさ。フナムシみたいに甲殻節足で、釣り上げたら口に居て、すげえ気持ち悪いらしいよ?」
気持ち悪いのはお前だ。
そんな話、元とはいえ彼女にするな。
私は、ドン引きしながらコーヒーを啜る。なんだか味がしない。指先を弄っていると、なんだか爪がくすんで見えた。
「それで?」
「最近さ、ヒトノエってのが発見されたらしい」
「は?」
「ウオノエは魚にしか寄生しない。食っても問題無いらしい。でも、人に寄生するウオノエが発見されたんだってよ」
「なにそれ」
どうせ寄生なんてされないだろうし、他人事だ。
「中には、舌とそっくり成り代わるヤツも居るんだってさ」
元々悪かった気分が、さらに悪くなった。
コイツは何が言いたいんだ。
「オレみたいにな」
目の前で、大きく口が開かれた。
真っ白い虫が蠢いていた。
「キャアァァ!」
私は立ち上がって後退る。
「悪くないだろ?」
迫り出した虫を奇妙に動かしながら、男が言う。
私は走り出した。
「エ、エレベーター」
振り向かずに走る。
いつの間にか、廊下の明かりは消えていた。
やっとのことでエレベーターの扉に辿り着き、縋りついてボタンを連打する。
「早く! 早く来てよ!」
「待てよぉー」
遠くから、アイツがゆっくり近付いてきた。
ポーンという音と共に、エレベーターが開いた。
その中には。
口を開けた同僚達がひしめいていた。
「いやぁぁぁ!」
「あとはお前だけだよ」
背後から声が聞こえる。
ガシリと頭を掴まれた。
叫んでいる口に、指が差し込まれる。
「ふっ、ふぐっ」
噛み切ろうとしても、手は凄い力で口を開けてくる。
目の前に、ヒトノエ達が迫って来る。
い、いやだ。
不意に、手に何かの感触があった。
横目で見ると、いつかのナイフが握られていた。
なんで?
私は混乱する頭で、滅茶苦茶にナイフを振り回した。
「ああああああ!」
最後のヒトノエにナイフを突き立てる。
あの男だ。
「死ね!」
倒れた身体に馬乗りになっていた。
「死ね!」
ヒトノエは、小さく呻いたかと思うと、動かなくなった。
ガッタン、ガッタンと、エレベーターは男の死体を挟んでいる。
「はあ、はあ」
肩で息をしていると、悲鳴が上がった。
「え?」
「ひ、人殺し!」
顔を上げると、同僚の顔があった。
「え、ちが……私はヒトノエを……」
男を見る。
ヒトノエは、無かった。
「え? え?」
そんな、馬鹿な。
「「夢に殺される」」
頭の中で、声が響いた。