湖氾~2~
夢の中で大体4年が過ぎた。
相変わらず、リュックは脱げない。
自分でも気にしているのか、唯一、眠るという描写は無い。断続的に時間が過ぎるのだ。
それでも、4年は長い。
どうして目が覚めないのだろう。
ふと、昔読んだ物語を思い出した。
夢の中で、何年も過ぎるということはあるのだろうか?
不安に苛まれる。
せめて、家族と共に過ごしているのが救いだった。
妻と娘は背中にリュックなど背負っていない。その代わり、俺のリュックも見えていないようだった。
リュックについてだが、少しずつ小さくなっている。
それに伴って、感覚が芽生え始めた。
触感、味覚、痛覚、聴覚に、はっきりと話している自覚もある。
細切れの日常とは言え、不満は無い。
いつも通りの仕事に、家族との団欒。
――もう、このままでも良いんじゃないか――。
諦めとも、麻痺ともとれる、何とも言えない感情が、俺を支配していた。
ある時、朝の目覚めからシーンが始まった。
俺は、いつものようにベッドから立ち上がる。
時計を見ると、いつもより時間が早い。
矢張り出来たか。
感覚が鋭敏になってきた所為か、ある程度のコントロールが効くようになっていた。
顔を洗って、リビングへと向かう。
キッチンでは、妻が朝食を準備しているだろう。
「お、おお……」
なんだ?
何かが呻いている。
妻の声ではない。
侵入者だろうか。妻の無事を確認しなくては。
俺は、ゆっくりとキッチンの扉を開けた。
「おおおおお……」
そこには、妻が居た。
大口を開けた妻が。
溶けた娘を吐き出していた。
俺は、零れそうになる悲鳴を堪えた。
なんだこれは!
必死に口を押さえる。
娘は流動体から固まり、無表情に立ち上がる。
「「おはよう」」
二人は見つめ合い、口を揃えて言う。
「あれがそろそろ起きる頃よ。起こして来なさい」
「解った」
娘のような『なにか』が、こちらを向く。
まずい!
全身が泡立った。
こっちに来る!
背中に、顔に、冷たい粒が吹き上がる。
どうする!
どうする!
頭を必死に回転させる。
アレの歩幅は小さい。
俺は、出来る限り静かに、しかしなるべく早く距離を取り、さも今起きてきたかのような顔をした。
「おはよう」
「あれ? パパ、今日は早いね」
娘のようなものは、俺を見つけると笑顔を向けた。
近付いてきて手を引く。
大丈夫だろうか。
俺は鳥肌が立ったままだ。
狼狽えながらキッチンに入ると、妻が振り返る。
その顔が、一瞬固定された。
「…………」
しまった。
「…………」
冷や汗を拭いていない。
「お、おはよう」
頼む。
気付かないでくれ。
「あら、早かったわね」
何処か、見透かされているような視線を感じながら、俺は無理矢理口角を上げる。
出勤した振りをして、直ぐ会社に休みを告げた。
公園で時間を潰す。
まだ午前も早いからか、他に人は居なかった。
子供は学校に出ただろう。
妻は専業主婦だ。
つまり、このままこっそり戻って、普段家で妻が何をしているのか見るつもりだ。
ベンチに座っていると、目の前に足袋が映る。
「大丈夫か?」
顔を上げると、眉間に皺を寄せた男が立っていた。
和服だ。
住宅街の公園に、和服の男。
浮いている。
「あ? ああ」
俺が虚ろな返事を出すと、男は横に座った。
「質が悪いのに捕まったな」
「え?」
男は、握った拳を差し出す。
「このままでは死ぬぞ?」
ゆっくりと拳を開く。
そこには、植物の破片が置いてあった。
「この世界が気に喰わないのなら、これを噛むがいい」
「これは?」
手に取って見つめる。
大きさは、小指の爪くらい。
球面から切り出したようなものだった。
「なあ、これは……」
ふと顔を向けると、もう男は居なかった。
ゆっくりと鍵を開け、家に入る。
リビングで物音がした。
どうやら、妻を模ったものは、其処に居るらしい。
リビングのドアにはガラスが嵌め込まれている。
俺は、少しだけ中を覗いた。
妻が。
溶けていた。
かろうじて妻だと見える顔が、肌色の波に浮いている。
そして、家具の上を泳いでいた。
俺は、意を決して扉を開く。
「何をしているんだ」
妻の顔は、目だけでこちらを見つめた。
「あなた……」
「あなたじゃない。お前は誰だ?」
肉の溜まりを見る。
「お前達は何だ?」
思い出した。
4年?
本当か?
俺は。
俺は結婚していない。
いつからが夢だったんだ?
俺は心の中の絶望を隠し、妻が形作られていく様を待つ。
「私は、湖だ」
あの時の。
「喰おうとして逃げられたのは、お前が初めてだ」
「だから、追い掛けて来たのか?」
「喰おうと思っていた」
「ああ」
「でも、お前の眼は優しくて。少し様子を見ようと思った」
「それで?」
何が言いたい。
「解らない。ただ、喰べたくなくなった。それだけだ」
「何故だ?」
「解らない」
何なんだ。
化け物が愛してるとでも?
馬鹿馬鹿しい。
「くだらない」
俺は呟く。
「ああ」
「くだらない」
「ああ」
それでも、4年は長過ぎた。
結婚していなかった。
知らない女だったとしても。
それが化け物だろうとも。
「くだらない」
「あなた」
俺は泣いていた。
「あなたじゃない」
喉が詰まる。
「おなたじゃないだろう」
言葉が濡れる。
どうすればいい。
俺だって判らない。
もう既に、あの湖に溺れてしまったのだ。
「どうすればいい」
ポケットの横で、拳を握りしめた。
ふと、手に何かが当たる。
俺は、ポケットからそれを取り出した。
さっきの植物だ。
「くそ!」
訳が解らなくなった俺は、口に放り込んだ。
そして、噛んだ。
こうして、俺は目を覚ました。
もう二度と、その夢を見なかった。