湖氾~1~
俺は、夢の中で釣りに来ていた。
釣り好きなのは解っていたが、夢の中まで釣りに来るとは思わなかった。
まあ、悪くはないな。
湖畔に車を着け、トランクから竿を取り出す。糸を巻き、ルアーも備えて、手網と小舟に載せる。
小舟の脇には、小屋が建っていた。中を覗いても誰も居ない。掲げられた看板を見ると、使用は無料らしい。念のためポケットを探る。財布は入っていなかった。
あらためて湖を見る。
霧が強い。
何艘か浮かんだ影からは、俺と同じ釣り人が糸を垂らしていた。
先客が居るのか。邪魔しないようにしなきゃな。
なんて考えていると、一隻が湖畔に戻って来た。
「ああ、あんた。釣れるかい?」
見覚えがあるのか無いのか、判らない湖だった。
正確に言えば、見覚えはある。
場所がバラバラなのだ。ある場所は、あそこの湖。ある場所は別の湖。要するに、行った、あるいは何処かで見たものの継ぎ接ぎが、一つの湖になっているのだった。
夢だから、か?
正直、釣りが出来れば良いので、どうでも良かった。
強いて言うなら、問題は釣れるかどうか。
だから聞いてみたのだ。
「あんまり釣れないなあ」
20代だろうか、若い男だった。
口の利き方が気になったが、怒るほどではない。
ある程度の礼儀は必要だろうが、俺も威張れるほど年上じゃない。
40手前になって家庭も落ち着き、やっと趣味の釣りを楽しめるようになった。
それに、聴覚がはっきりしない。男の言葉も、言ったような気がするだけだ。
ただ、男の背中が目に留まった。
リュックサックを背負っている。
それが、明らかに大きいのだ。
カタツムリのように。
「あんた……」
男も俺を見ていた。
「なんだ?」
「いや、なんでもない」
ふと、自分の背中が気になった。
どうやら、俺もリュックを背負っているらしい。重さを感じないので気付かなかった。脱ごうと肩ひもに手を掛けようとする。
おかしいな。
触れられない。
夢だからか?
重くないし、別に良いか。
男を見送り、舟を出す。霧が濃く、あまり近付かないようにしている所為もあって、周りの人間は影にしか見えない。ただ、遠目から見ても、リュックを背負っている人間は居なかった。
俺は少しだけ漕ぐと、釣り糸を垂らした。
一時間ほど経っただろうか。
『当たり』が無い。
夢の中だから、感触があっても気付かないのだろうか。
相変わらず、霧は濃いままだ。
どうすれば目覚めるのだろうか。
などと考えていると、糸が動いているのが見えた。
きた!
興奮してリールを巻く。
強い!
大物か!
いくら巻いても、獲物が見える気配は無い。
俺は水面を見てみた。
「え?」
水は無かった。
肉だった。
肉や血が、水のように船の下を埋め尽くしている。
「なんだこれは!」
咄嗟に竿を捨てた。
竿は、飲み込まれて沈んでいく。
直ぐオールを手に取る。
重い!
異常な負荷が掛かっているのか、ゆっくりとしか動かせない。
感覚が無いながら、俺は必死に漕いだ。
幸い、岸からそんなに離れてない。
波が意思を持ったように、舟に覆い被さろうと迫る。
「うわあぁぁ!」
必死に漕ぐ。
どれほどの時間だっただろうか。
対して時間は経っていないだろうが、俺には永遠にも感じられた。
やっと湖畔に辿り着くと、俺は地面に飛び降りた。
「おのれ」
何かが聞こえた気がした。
振り向くと、霧は晴れていた。
何処にでもある湖が、静かに空を映している。
「え?」
見間違いか?
ただ、他に居たであろう釣り人の姿は無い。
俺は、船に残っていた手網を湖に放った。
その瞬間、水は浮き上がり、口を開いて飲み込んだ。
幻じゃなかった。
波の狭間に、牙が見えたのだ。
俺は車に走り、一目散に家へと帰った。
そして、夢から覚めれなくなった。