界転~1~
どこの街にも、歓楽街というものはある。
「あれ? しばらく来てないじゃない。どうしたの? もう来ないの?」
馴染みの呼び込みに笑顔を返して、僕は雑居ビルの一つに入った。エレベーターに乗り、一人になったところで呟く。
「悪いけど、割に合わないしね」
酒好きとしては、外より家で呑んだ方が安上がり。
なにしろ、出先のグラス一杯で缶三本は買える。僕は酔えればいい。アルコールならばなんでもいい。別に家で缶を空けようが、外出先でコップを空けようが変わらない。雰囲気などで酔えるタイプではないし、味を舌で転がして如実に再現出来る語彙力も持ち合わせていない。日々を生きる為には、家でアルコールを摂取した方が遥かに効率的だ。
それでも、僕が街に出るには意味がある。
「うぃーす」
ドアを開けると、見慣れた背中が目の前にあった。
「よお」
こちらへと振り向き、グラスを上げる。
そう、コイツが理由だ。
「いらっしゃいませ」
L字カウンターから、マスターが丁寧に頭を下げた。
「ビールね」
広さは六畳ほど、奥に細長く、こじんまりとしたバーだ。白髪を撫でつけたマスターは、洗練された身のこなしで動き始める。ステレオタイプなバーのマスターといった風体だが、それも気に入っている。
「どうした? 今日は早いじゃないか」
入り口に背を向けた隣に、僕は腰を下ろす。
「いやさ、早く話を聞いて欲しかったから早く来たんだ」
この店に通い始めてから、随分と経った気がする。
最初は驚いた。
なんせ、このビルどころか界隈には風俗店しかない。こんなバーがビルの片隅に収まっているようには見えないし、看板も無い。そもそも、そんなものを求める人は来ないエリアなのだ――――結果、誰にも気付かれない。
「とりあえず、今日もお疲れ」
「ほい、お疲れ」
グラスを合わせる僕らの他に、客は誰も居ない。
時刻は夜八時、今日は金曜だ。好きな店であるだけに、少し心配になってしまう。僕らしかり、固定客は何人か居るらしい。けれど僕は、ほとんど他の客を見たことがない。まして新規なんて来ない。周囲の店と同じ感覚でドアを開けた人間は、店内を見渡すとすぐ出て行ってしまう。
以前、酔ったせいもあってマスターに大丈夫なのかと聞いてみた。かなり失礼な質問だったと、今は反省している。彼は微笑んで言った。
「必要と思った人が来てくれていれば満足です。お酒ってそんなものですから」
すらっと立つ彼を見て、僕はただただ渋い大人だなと思った。
「それで?」
「またフラれた」
「またか」
隣で苦笑しながら、グラスを上げる。
端正な顔立ちの耳に連なるピアス、青い髪、独特なデザインの服装。
中々にエキセントリックな姿を持つコイツの名前を、僕は知らない。もう一年以上の付き合いになるが、別に知らなくていい。ここでしか会わないし、ここだけの関係だ。名前なんて必要ない。今が楽しければ、それで十分だ。それでも、酒で本音を語り合ってきたせいか、そこらの友人達よりも、よほど濃密な時間を過ごしてきたと思っている。
「他に好きな人ができたんだとよ」
「またか」
くくくっと笑うヤツの前に、カミカゼが差し出された。マスターに聞いた話では、ウォッカベースのこのカクテルは、実に五分の四が酒らしい。それをコイツはグイグイ空ける。名前は知らないが、きっとヤツは化け物か、酒の神か、あるいは酒自身か、そのどれかである。
「どうしてさ」
「あ?」
「どうして、僕の好きになる人は、僕を好きじゃないんだろうね」
「あー」
「他に、ぜったい好きな人ができるんだ」
「ふーむ、言葉に苦しむな」
モテるであろうヤツを恨めしく見つめながら、ビールを流し込んだ。
「それは、お前が強いからだよ」
言いながら、煙草に火を灯す。
「え?」
「強いんだよ。だから隣に居ると不安になる。自分はこのままで良いのか、そんな気分になる。そして、一緒に過ごすのが辛くなる」
煙を吐き出しながら、意味不明なことを告げた。
「またまたぁ」
「ほんとほんと、大真面目だよ。オレは」
「いやいやいや」
「一つ、確証をやろう」
灰を落としながら、カミカゼをあおった。
「別にお前に非があって別れた訳じゃないだろ?」
「ああ」
「なら、再び会ったこともあるだろう?」
「むしろ相談受けるわ」
「そりゃ災難だ。それはそれとして、その時、相手はどうだった?」
「どうも何も、友達通り越してカウンセラーに話すような反応だよ。相談してくるのに、寂しいもんさ」
「他人行儀に見えるのは、お前が過度な期待をしているからだ」
ヤツは笑いながら言葉を続ける。
「お前と別れた女は、強くなったんだ。お前と接すると強くなれるんだ。お前が強過ぎるからな」
「そんな強くねえよ」
「強いよ。お前はさ、きっと一人でも生きていける。居るんだ。世の中にはそんな人間が」
「止めて!」
「他人を必要と言ってはいるが、誰も居なくても、一人でも寂しくないんだ」
「止めてよぉ!」
残ったビールを一気に呑んだ。
「マスター! ソルティドッグ!」
「落ち着けよ。何も悪いことじゃないだろ? その後、幸せになってるんだろ?」
「まあ、なぁ……みんな結婚まで行きついたみたいだし」
「なら良いじゃないか」
「よくねえよ! 僕が幸せじゃねえよ!」
「お前の愛した女が幸せになれたなら、それで良いだろ?」
そりゃ、そうだけど。
「彼女が欲しい……」
ソルティドッグを一口呑み、僕は呟いた。
「ああ」
「彼女が欲しい」
「頑張れ」
「彼女が欲しいです!」
「お前のそういうところ、嫌いじゃないぞ」
「ありがとうございます! ちょっとトイレ!」
「トイレで泣くのか?」
「ちがいます!」