楽園を征く者 - 2
火に炙られた枯れ枝が、パチパチと泡の爆ぜるような音を立てる。
控え目に起こした焚き火の上に鉄製のカップを吊るし、レッシュはそこに水を注いだ。あとは沸くのを待ってから、携帯用固形スープを溶かせばいい。それと保存用の固パンが、今夜の夕飯だった。
食事にしろ飲用にしろ、余程環境が悪くない限り、彼は必ず水は一度湯にしてから口にするようにしていた。サイカがいる限り妙な病気を拾う心配は要らないが、念には念を、という事もある。
獣避けを考えるなら、火はもっと強くした方がいい。しかし、彼はあえて最低限の火勢に保っていた。
あまり目立たせると、場所によっては見咎めた巡回兵が来る。
兵の質によっては、難癖をつけられて小銭をせびり取られそうになる。
兵の強さを恐れている訳ではない。彼とて、腕前でその辺りの雇われ兵士数人に遅れを取りはしない。
彼が案じているのは、単純に面倒事を避けたいのと、絡んできた兵士がサイカに惨殺される危険性であった。
「また野宿かよー! たまには気の利いた部屋で寝かせろよー!」
「我侭を言うんじゃない、子供かお前は」
子供に対して子供かとは些か的外れな言い草に感じるが、この途方もなく美しい少女の正体を知れば、レッシュの方こそが正しいと誰でも理解しただろう。
だが、サイカのように騒ぎはしないものの、そろそろ宿にありつきたいと思っているのは彼も同じだった。
ひとつ前の町は、外れだった。
珍しい事ではないとはいえ、中に入る事さえ許されなかったのだ。
医者を必要としている町ならば、門に半分に割いた旗を掛けておく。
病魔憑きの間では知られたサインだ。見当たらない場合は、とにかく入ってみるしかない。今回は駄目だった。
そういう理由で、ろくに休息もとれないまま歩き詰めに歩き、さしもの彼も疲れている。
病魔憑きの身では、馬車も滅多に利用できない。特に風当たりの強い地方となると、知らずに乗せてしまった馬と車を、最悪、持ち主はその一度きりで廃棄処分せねばならないからである。
騒ぐだけ騒いで気が済んだのか諦めたのか、サイカは彼の真正面にどっかりと座った。
天与の芸術品としか言いようのない二本の脚を、膝をがっちり立てて組んでいる。
立ち居振る舞いに、品性というものが根本から欠如していた。
「あの料理は良かったのになあ」
ぼやくサイカに、レッシュも少し前に出会った病魔憑きの事を思い出していた。
その男は、滅多に見ない味覚を侵す病魔にやられていた。
これの病魔憑きになると、宿主の視覚、嗅覚、聴覚、触覚が病魔のものと融合し、相手の味の好みが、好き嫌いのみならず、体調や必要としている栄養なども含めて完璧に判定できるようになる。
だが、宿主自身の味覚は全て失われる。何を食っても砂と変わらない。
最高の料理人になれても、自分では味が判らない。ましてどこの誰が、病魔憑きの料理など食うというのか。
よって客もまた、病魔憑きに限定される。
「お前に食事の必要はないくせに」
「なーにを言ってる、病魔だって生き物だよ。
食いもすれば眠りもする。切られれば血を流すし痛めつければ死ぬし犯されれば声をあげるぞ。
なんなら試してみるか」
「遠慮しておく」
ワンピースのスカート端を摘み上げるサイカに、レッシュは冷淡に言った。
「そりゃあおかしいなー。この姿は、人間の雄にとっては大層魅力的なものに映る筈なんだが」
「お前の考える人間と、俺の知ってる人間は違うんだろう。
豚か案山子でも相手にしてろ。俺から見て、お前にとっての人間はそれで充分だ」
吐き捨てるように言い終えてそっぽを向いた途端、胸に凄まじい衝撃が襲ってきた。
避ける間も、防ぐ間も反応する間さえもなかった。サイカの放った蹴りがレッシュの胸部を直撃し、彼は仰向けに吹き飛ばされ、地面をバウンドして倒れる。
戦士として訓練と実戦を重ねてきた屈強な男が、赤子のように。
身を起こす余裕も与えず、サイカはその逞しい胸板の上に跨ると、片足で彼の喉を踏みつけた。
小さな素足が、喉に食い込んでいく。退けようとした彼の手は軽々と払われる。力で敵う相手ではなかった。
更に、喉が絞まる。
「が、は――」
「そうすげなくするなよぉ、傷ついちゃうだろ?」
愉悦に歪んだ顔から出る、声だけは無闇に愛らしい。
言葉と行動とが完全に乖離していた。
「私は、お前を気に入ってるんだから」
「俺は、貴様を」
蹴られた胸の痛みと、呼吸困難。
気を抜けば即、霞んでいきそうになる意識を、レッシュは歯を食い縛って保つ。
「殺してやりたい」
「きゃははははは! 殺したいの?
だったらあの時そーしてりゃよかったのに! あんな風にされた後で、今更言われたって!」
レッシュの顔色が変わった。
青ざめた顔で、締まる喉から、やめろ、と声を振り絞る。
「あの時なぁ……。
知らない外の世界に出て、不安でいーっぱいで、まるで生まれたての仔兎のように震えていた私に、おっかない刃を向けなかったのはお前ぐらいだ。
お前の、村の、奴らは」
「――やめろ」
「私が何なのかを知るや、全員が向かってきた。
ヨボヨボのジジィも、戦闘員じゃない女どもも、避難させられてたガキもだぞ。
実の親の目ン玉飛び出た生首投げつけられて、もう逃げられないと悟ったら、棒っきれ武器に、それが無い奴は素手で殴りかかってきた。
まぁ10にも満たねー子供が、親の死に泣くより戦う事を選んだんだ。
後から知ったけど、さすがは戦士の村ってなもんだよなー、リッパリッパ。
なのに、お前は!」
「やめろ!」
「命乞いをしたから、助けてやったんじゃないか。
ちゃーんと願いを聞いてあげたのに、なんで不満に思うかなー?」
レッシュの抵抗が、全て止まった。
サイカの足首を掴んでいた手がずるりと離れ、力無く地面に落ちる。
「……どうして」
「ん、泣いてんの? ダメだよ泣いちゃ」
「……どうして…………どうして……殺したんだ……どうして……」
サイカに憑かれてから、何十回目かの問いだった。
「どうしても何も、私は病だからな。目の前に人がいれば蝕もうとするよ」
サイカは唇を尖らせて肩を竦める。力こそ抜いたものの、足はまだレッシュの喉を踏んだままだ。
それから、ぐ、と前屈みに腰を折り、彼の顔に顔を近付けて、聞いた。
「なー、病魔憑きってなんで生まれると思う?」
「貴様ら病魔が存在するからだ!」
「でもでも、病魔憑きにならないで死んじまうか異形化する病人が大半だろ?
そのラッキーな連中と、うっかり病に耐えちまって病魔憑きになる不幸者との違いって、何だと思う?」
「……俺が……俺がそんなの知る訳ないだろう……」
「私はなー、病魔がそいつを気に入るかどうかの違いじゃないかと思ってるんだ。
助けを求めて呻き苦しむ声か、世界と運命を呪って絶望に沈んだ瞳か、際限なく垂れ流す涙と脂汗の味か。とにかくその中の何かが、病魔にとって、こいつは殺しちゃ惜しいと思わせるもんだったんだ。
だから助けた。命を囲った。そして共にある事を望んだ」
「そんな、ふざけた理由が――!」
「何がおかしいんだよー。
さっきも言ったろ、異形の姿をしてたって、病魔も生き物だって、さ。
食いもすれば眠りもする。食い物にうまいまずいの好き嫌いがあれば、人間にも好みかそうじゃないかはあるさ。
私はそれを、お前たち人間の言う愛に近いものだと思ってるよ」
ずきずきと響く痛みとは別に、彼は吐き気がした。
「これも今更だな。私がお前を気に入ってるってのは、出会った時から何度も言ってる事だ。
敵からも守ってやってる。頼まれれば力も貸してやってる。
なのにお前は一向にありがたがろうとしない。こんな美少女なのに」
「必ず」
わざとらしく白銀の髪を掻き揚げたサイカの、その、美しい、と称した顔を彼は睨みつけた。
病魔憑き特有の目が、射殺すような獰猛な光を帯びる。
「必ずお前を祓い落としてやる。必ず」
「まぁ、お前のその答えも一貫してるもんな。
祓い落とす、ねぇ。なかなか難しいと思うぞ、なにせ私はサイカだから」
いまだ喉から足を退けないまま、サイカは猫のように両眼を細めた。
「恨むのに疲れたら、たまには縋ってみるといい。蝕むように愛してやるよ。
もっとも病ってのは、誰もそんな風にしか愛せないが」