楽園を征く者 - 1
青年の周囲には、沢山の人々が集まっていた。
顔ぶれは様々だ。元気な子供もいれば、足取りのおぼつかない老人も、力仕事が得意そうな男も、今にも夕飯の支度に取り掛かりそうな、エプロンの似合う女性もいる。
夕刻、ふらりと小さな村を訪れた、素性さえ定かではない人間に、だが村人達の向ける目はとても温かい。
軒先でのんびりと煙草をくゆらせていた年寄りの前に屈み、熱心に話し込んでいた青年が、やがて立ち上がる。
軽い会釈をして、村を囲む柵の出口に向かう青年を見送る人々は、一様に穏やかな微笑みを浮かべていた。
人の世の安らぎを体現したかのような、優しい笑みであった。
どうか君たちに、この幸せがいつまでも続きますように。
祈るように青年の呟いた祝福は、この距離からでもきっと彼らの元に届いた事だろう。
「お疲れ様です、ジョン」
青年に歩み寄り、その首にしなやかな両腕を回しながら、女が労りの言葉をかけた。
女の声は、誰が聞いても疑いようのない、青年への深い気遣いと愛情に満ちている。柔らかな内に確かな熱の篭った声音は、愛情の中でも、恋と呼べる部類のものであるかもしれない。
青年もまた、身を寄せてきた女の瞳を、間近から見返す。
女と同種の熱を湛える瞳の、上。前髪に隠れた青年の額には、髑髏を戴く杖に絡み付く、蛇の刺青があった。
「疲れたりしていないさ。皆、いい人達ばかりだったよ」
「私達にも別け隔てなく接してくださって、本当に優しい人達ですね」
「ああ、はじめはちょっと緊張してたみたいだけどね、話したらすぐに分かってくれた。
僕らだけじゃない。もうこの村では、病魔と共に生きる者達が迫害されるような、悲しい事にはならないよ。これからは誰であれ、手を取り合って共に歩めるはずだ」
村を見る、慈愛に満ちた青年の眼差しが、ふと曇った。
「皆、僕らのようであればいいのに」
女に戻された目が、悲しげに細められる。
永遠に続いていく平和に包まれる村を前に、愛しい女を前に、青年の瞳は別の所を見ているようだった。
世界の大半は、この村とは違う事を青年は知っている。病魔に憑かれた者達が、自分達とは違う事を知っている。
憎しみと争い。恐怖と差別。親から子へ継がれていく負の連鎖。途切れぬ怨恨。
そこに、愛は無い。
何ひとつ不足のない幸せを噛み締めながらも、青年は世界の有り様を悼んでいた。
どうして、皆が仲良くできないのだろうか。
どうして、苦しんでいる者に石を投げるような、悲しい事ができるのだろうか。
硬く冷たい石を掴んでいるその手を広げ、代わりに、痛みに泣く者を抱き締めてやれば、絶望など失くなるのだ。
強く手を握られ、青年ははっと目を見開いた。女は励ますように、熱意を込めて話す。
「いつかその日は必ず来ます。
その為に、あなたは旅をしているのでしょう、ジョン」
「そうだね。こんな大変な旅路に付き合わせてしまって、君にはいつも済まないと思っているよ」
「なぜ謝るのですか? 私はとても幸せですよ、ジョン」
「エデン」
偽りのない瞳が見つめ合う。
やがてどちらからともなく、唇が重なった。
「……僕も幸せだ、君と出会えて。こんな奇跡は世界のどこにも無いだろうね。
でも、本当に疲れていないかい? どこかで長めに休みを取ろうか?」
「ありがとう。私の心配はいりませんよ、これでもあなたよりずっと丈夫です。
ジョン、旅だと思うから大変に思えるのですよ。こういうのはいかがでしょう?
今も苦しんでいる方々を思うと少し不謹慎ですけど、私達ふたりの幸福のお裾分けだと思ってみるのは」
おとなしそうな印象から一転して、エデンと呼ばれた女は、茶目っ気のある仕草でウインクをしてみせた。
青年、ジョンはその言い換えが気に入ったらしく、こちらも存外に子供っぽく笑った。
「幸福のお裾分け、か。
ははっ、君にはユーモアのセンスもあるんだね!」
「あら、今更ですか?」
とぼけた表情で女が言い返し、今度はふたりとも声を合わせて笑う。
限りない信頼と愛、あるいは恋。
それは紛れもなく、人の世界はかくあるべきという、正しく、そして美しい光景であった。