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Disease of Calamity  作者: 田鰻
本編
5/105

病魔サイカ - 5

男の足は速く、都市計画とは無縁な狭くて入り組んだ路地を、迷う事なく駆けていく。

ワンピースをなびかせて先導するサイカもまた、華奢な少女の姿とはかけ離れて速い。

やはり、人間ではないのだ。道に慣れているおかげで辛うじて見失わずに追うのが精一杯のリサは、ようやく本気で信じる気になりつつあった。

と、男が足を止めて振り向いた。

息切れを起こしながら追い付いてきたリサを、困ったように見る。


「お前さんは宿に戻ってろ」

「……いやよ、私も行く!

このまま戻ったって休めっこないし、またあれに感染するかもしれないでしょ。

さっきまでの見てる限り、ここはあんたの側にいるのが一番安全みたいだしね」

「――フ、忌み嫌われる病魔憑きの側を、安全、とはな」


男は少しだけ笑った。

自嘲というよりは、寂しそうな微笑だった。

すぐに笑みを消して真面目な顔を作ると、呼吸を整えているリサに対し言う。


「でも、そう息急き切って走らなくていい。

すぐそこだ」


親指を向ける男に、リサの顔に緊張が走る。

言うだけ言ってさっさと歩いて行く男に、慌ててリサも後に続く。


ふしゅ、ううう……


角を左に曲がってすぐ、噴気音と、饐えた臭気が鼻をついた。

掻き出された汚泥の匂いと、男の背中越しに見えた光景に、リサは息を呑み立ち尽くす。

一人の人間が、暗い道に屈み込んで、側溝を素手で掘り返している。

腕も、顔も、胸も腐った泥塗れで、その姿と悪臭に、リサは吐きそうになった。

思わず漏れた呻き声に、気付いたのか人影が立ち上がる。

女だ。

見覚えのない顔だった。一見、滑稽なまでに一部がぼこりと膨れ上がった腹部。

それとは対照的な、痩けた頬とぎらつく目。

口周りには灰色の泥と何かのカスがこびり付き、唇の端からは涎が垂れている。

後退ったリサを庇うように、佇む男は平然としていた。


「こいつは、食欲か」

「……食欲? 暴力とかに比べたら、平和な……」

「平和なもんか、食欲だって極限まで増幅されれば人を殺せる。

際限なく食い続ければいずれ死ぬし、目の前にいる人間が肉に見えてくる」


想像して、リサは青くなった。

それにしても、下水など漁って何をしていたのか。極力、想像したくなかったが。


「ミミズでも探してたんじゃねーの」

「………………」


目を凝らせば、深夜の道にもうひとり、倒れている人間がいる。

更に、背後から別の唸り声。確認する間もなく、狂った目をして襲いかかってきた小太りの少年を、男は一見軽い拳の一撃で、難なく昏倒させる。

あの倒れている人間も、既にこの少年にやられた後なのか、あるいは睡眠の欲求を増幅されたのか。食欲でも人は殺せるが、睡眠でも人は殺せる。眠り続けていれば、いつかは餓死するしかない。

男が戦う所を、リサは初めて見た。鍛えられた肉体は、サイカなどより余程そうするのが様になっている。


「治さないの?」

「言ったろ、まずはあっち、だ!」


薄笑いを浮かべて、サイカは女と対峙している。

ぐ、と女の背が盛り上がるや、見る間に巨大な瘤となって膨れ上がる。

幅だけならば女よりもある瘤から、一斉に4本の脚が生えた。そして瘤もまた、男とサイカ、ひとり悲鳴をあげるリサの前で、形状を病魔のそれへと変容させていく。

瘤の上面が硬化し、甲羅に似た器官が現れる。

脚には3つの節が生じ、あたかも背後から女を抱くかのようにして、胴体に掴まっている。めり、と音を立てて、瘤――否、いまや完全な姿を現した病魔が、女から分離した。

不恰好な海老に、亀の甲羅を被せ、鼠の尻尾を生やした。

この醜悪な怪物に対して、最大限、表現の努力をするならばそうなるだろう。

サイカの持つような美しさは微塵も無い。だが、こうした化け物こそが、世間で知られる病魔の姿であった。

これが人体との完全融合を果たした時、その人間の命運は尽きる。


頭部と思わしき部位から発せられる、金切り声に似た異音に、リサは耳を塞ぐ。

男の言葉によれば、こいつこそが本体、親玉という事になる。

しかしそれは姿からして、リサ達から飛び出してきた小さな病魔とは、まるで違っていた。辛うじて、あれが育てばこうなるかという面影はある。親子、まさにその表現が当て嵌る姿だった。

弓なりに湾曲した尾が、女の背中、腰の辺りに刺さっている。あるいは、くっ付いていると言うべきか。

かあ、と十字型に口が開く。甲羅の下から伸びた長い目が、ぎょろりとリサ達に向けられた。


化け物だ。


「フロイド、ステージ3。

患者体外への病魔本体移動、尾部先端の、背骨との接続――だいぶ進行してるな。

もう叩いただけでは分離不可能な段階だ、あのまま片付ける」

「できるの? だってあの子……!」


不安げな視線を、リサが男とサイカに向ける。

力は見ているとはいえ、飢えに狂った大人と、それに覆い被さる程の巨大な怪物。

勝てると気楽に構えるには、サイカの姿はあまりに幼く可憐に過ぎる。


「病魔が、いつから現れたのか。

なぜ現れたのか、そもそも一体何であるのか。

それらを知る者は、誰もいない。

だがな、分かっている事もある。それは奴らもまた、俺達と同じ生物だという事だ。心臓となる核を持ち、生物の定め――弱肉強食の理からは逃れられん!」


男が言い終えるのを待っていたかのように、サイカが石畳を蹴って跳んだ。

何ら容赦のない打撃が胸の間に吸い込まれ、まずは女が倒れる。

ガラスの引っ掻き音そっくりの一際不愉快な鳴き声と共に、女から離れて飛び退こうとする病魔の顎下に、掬い上げるようなサイカの蹴りが入った。脚が、ほぼ水平近くにまで広がっている。

剥き出しになった病魔の腹中央に、成人の拳大の黒い球体があった。

神の手による細工品の如き細腕を、サイカは脈打つ球体に叩き込む。

目一杯に広がった5本の指が、爪を立てて球体を鷲掴みにしている。


「めんどくせー、ぜんぶ始末してやるよ!」


ざわり、とサイカの髪が大きく扇形に広がった。

いかなる力が発揮されているのか、胴体中央部を腕一本で握られただけで、病魔は逃げる事ができない。

ギュウウウウウ、と、得体の知れない唸りに似た音が、掴まれた球体部から発せられる。

引き付けを起こしたかのように病魔の全身は震え、脚は限界まで突っ張っている。

と、脇で倒れ伏していた男が一度びくんと仰け反るや、盛り上がった背から一匹の病魔が飛び出して、道に落ちた。

ぎょっとなってリサは身を引く。サイカが何かしたのかと視線を戻すが、相変わらず巨大な病魔を捕まえたままだ。

男は――治療はできないと自分で言っていた。

事態が把握できないリサの見ている前で、それは弱々しく身をくねらせると、動かなくなる。


「本体の核を通じて、子株に干渉してるのさ。

干渉というか、食ってるんだがな。いまやこの町全ての範囲のフロイドが、サイカの支配下にある」

「そんな事が……!」


できるのか、そんな事が。

想像の限界を超える能力に絶句するリサの前で、サイカの髪が、付け根から毒々しい濁った赤に染まっていく。眩いまでの白銀が、どす黒い赤に侵される。それは目を背けたくなるまでに、冒涜的な光景であった。

髪だけではない。黄の瞳もまた濃さを増し、闇夜に獣の如く爛々と輝きを放っている。

ひとつの生命を易々と握り潰す少女の、唇が嫌らしく吊り上がった。

至上の美貌に類稀なる邪悪を顕現させ、サイカは高らかに哄笑する。


「吸い取ってやがるんだ、病魔の毒素を」

「髪が赤くなってく……」

「赤じゃない」

「え?」

「腐った、血の色だ。あんなものが、赤であってたまるものか」


もはやサイカの髪は、先端まで完全に変色を遂げていた。

掴んだ手の内で、カッと病魔の核が白く発光する。


「――ひれ伏せェ、惰弱な兄弟どもォ!!」


ビシリ。

眩しさに翳した掌の向こうに、リサはその光景を見た。

サイカの掴む核に、ビシリ、ビシリ、と、次々に黒いヒビ割れが走っていくのを。

核の破片が、ばらばらと零れ落ちる。輝きが更に強さを増したと思った次の瞬間、分厚いガラスを叩き割るような派手な音を響かせて、病魔の核は粉々に砕け散っていた。

最も大きな欠片が、リサの近くまで飛んできて、道に当たって割れる。

核の破片はそのまま水のように溶けるや、黒い染みを作って石の中に消えていった。

サイカが、用済みとなった病魔の死体を邪魔そうに投げ捨てる。

ようやく、女の背骨と一体化していた尾がずるっと抜けた。

道にだらりと広がる死体は、憎い敵ながら惨めでもあった。

終わった、という事なのだろうか。リサがそう思っていると、次にサイカは、病魔から解放されたものの、意識は失ったままの女の方をくるんと向く。


「あとはこっち」


そう言うや、倒れた女の膨れた腹を思いきり蹴る。

ぐ、と喉が反って、女は口から大量の吐瀉物を撒き散らした。

無理をして胃に詰め込まれていた分が、全て出てきたのだ。何ともいえない臭いが、辺りに立ち込める。


「……サイカ、耳にたこが出来るくらい言ってるだろう、もっと丁寧にやれと。

人間の身体は痛みやすいんだ、パンパンに張った胃を蹴ったりして、破裂したらどうする」

「胃が破裂すれば死ぬよ、そりゃもう苦しみまくって。あたりめーのこと聞くなよ、きゃはは」


溜息をつきながら、吐いたものが喉に詰まらないよう頭の向きを変えてやっている男に、

おそるおそる、リサは尋ねた。


「……やった、の?」

「ああ。病の匂いも薄れていっている、遅くても朝までには全て消えて――」

「この病魔憑きがっ!! いつ入り込みおった!!」


背後から、けたたましい怒鳴り声がした。

騒ぎを聞きつけて出てきて、そして男のした事を見ていたのだろう。

一人の老人が、皺だらけの顔を嫌悪に歪めていた。いや、老人だけではない。他にも数人の人間が、通りに立ち、あるいは物陰に隠れ、しかし一様に嫌悪と恐怖の表情を浮かべ、男とサイカとを見比べている。

すぐ上の窓が開き、人の顔が覗いたかと思うや、病魔憑き、の言葉を聞いたのだろう、慌ててピシャリと閉まった。

騒ぎが更なる騒ぎを呼び、男への非難と侮蔑の眼差しは弥増しに増えていく。

男もいる。女もいる。子供も、年寄りもいる。

人間が、そこにいた。


病魔憑きだ。

病魔憑きよ。

なんて恐ろしい。

バカ、寄るな、病をうつされるぞ!

汚らわしい……ああ、神様……。

こわいよ、ママ。


「とっとと出て行け、町が汚れるわ!!」


ヒュッと風を切る音がして、一人の投げた石が男の脚に当たった。

さすがにこれには黙っていられず、自分に危険が及ぶ可能性も忘れて、リサは口を開く。


「ちょっとみんな待ってよ、この人は町を……」

「うるせえッ!!」


前触れもなく叫んだ男に、不意をつかれたリサは驚く。

ごく短い時間とはいえ、男の、これまでの佇まいは、自らの運命を悲しみながらも受け入れた人間特有の、泰然自若としたものに見えた。幾多の悲劇を味わい、数多の中傷を受け、こうした扱いには、酷い話だが慣れているように思えたのだ。

リサは知らない。過酷な扱いに耐え抜いてきた人間が、ある瞬間に、ふと崩れる時があるという事を。

99の平然と、1の激情。100の中の1は、特に優しく接された直後に訪れやすいのだという事を。

リサの宿で受けた人としての待遇が、一時とはいえ男の障壁を脆くしていたのだ。

盛んに男を罵っていた者達が、途端に怯えた顔を晒して一斉に退く。

激昂は、ただの一度きりで終わった。

血が滲む程に固く拳を握り締め、男が項垂れる。


「好きで憑かれた訳じゃねえ……誰だって、好きで……」


掠れた声を繰り返し繰り返し絞り出す男を、為す術なくリサは見守っていた。


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