病魔サイカ - 4
寝静まった宿の中――。
動くもののなかった、完全な静寂が破られる。
荒い息づかい。それは苦しげであると同時に、どこか別の色も含まれていた。
よろめきながら、人影が台所に入る。水瓶の前に立ち、蓋を開け、掬った中身をごくごくと飲む。塗れた口周りを乱暴に拭うが、渇きは一向に収まらず、喉はべたべたと粘ついたままだ。
唾液が、後から後から湧いてくる。
「なん、なのよ――これ……」
はあっ、と吐息が漏れる。
息が熱い。動くだけで、夜着と擦れる肌が疼く。
心当たりはある。全く未知の感覚という訳ではない。だがそれは今まで味わった事がない程に強く、激しく、単なる衝動を超えて、己の根元から発しているかの如くに、リサを揺さぶってくる。
とうとう立っていられなくなり、リサはその場に前のめりに膝をついた。
深夜の冷えた床を感じ、自らの身体の熱さを一層意識する。
わからない、どうして、急にこんな。
自らに降りかかった事態を把握できないままに、肉体だけが勝手に昇り詰めていく。
理由不明な感覚の恐怖を、それを上回る陶酔が塗り潰す。重なる脚が、リサの意志とは別に勝手に擦れ合った。
「……これはまた、ある意味じゃ一番困った方向に出たな」
気配もなく背後から響いた声に、ハッとリサは顔を向ける。
いつ起きていつ降りてきたのか、リサのいる台所を覗き込むように、真っ暗な食堂に男が立っていた。隣にはサイカもいる。相変わらず哀しげな瞳が、身悶えるリサを静かに見下ろしていた。
高い背。広い肩幅。無駄のない筋肉。
男を見た瞬間、それまでひたすらにリサの内側で膨れ上がっていた欲望が、一直線となって弾けた。
ああああっ――!
雄叫びをあげて、リサが男に襲いかかる。
一歩、サイカが前へ進み出た。
次なる踏み込みと共に、無造作に繰り出された掌底が、真下からリサの腹に入る。
「かっ……!」
直に腹部を突き上げられる衝撃に、リサは吐きそうになった。
その背中が盛り上がり、服をもすり抜けて、何かが勢いよく飛び出す。
床に落ちて跳ね回るそれの、少し細くなっている、首を思わせる箇所を、サイカの細い足が踏みつけた。
次は、頭。2度の踏みつけで、完全に動かなくなる。
床に蹲り、げほげほと噎せているリサに、男はやや眉を顰め、既に息絶えた獲物を蹴っとばして遊んでいるサイカに言った。
「患者は丁寧に扱ってやれ、サイカ」
「あー? 腰振って襲ってきた雌をどうぞ丁重に扱ってくださいって、そんな高貴な趣味があったとは知らなかったなぁ」
「やれやれ……。
お前さんも、どうにもおかしな状態は治まったようだな」
「う……ん、なんとか、ね。げほっ」
「サカってんじゃねーよ、きゃはははは」
よろめきながらも、リサは立ち上がった。
身体に残っているのはサイカに打たれた腹の痛みのみで、先程までの全身を巡る熱く耐え難いうねりは、跡形もなく消え失せている。
サイカに頭を蹴られ、ぼん、と床を跳ねた死体を恐ろしげに見つつ、リサは己に起きた事を理解して、青ざめた唇を震わせた。
「わ、私、どうなっちゃうの……?」
「どうもならん。
取り返しがつかなくなるのは、症状が最後まで進み、病魔との融合を果たした場合のみだ。ましてやお前さんは発症直後、治療後の身体への影響は全く無い」
「そ、そうなんだ。よかったわ……私も化け物になっちゃうのかなと……」
「病魔は、倒してしまえば消える。
最終ステージに至れば残念ながら手遅れだが、その前なら根治が可能だ。そいつの腕前にもよるだろうがね」
安堵からか、リサは涙声になっている。
床に伸びた死骸を見下ろして、男は言った。
「こいつは病魔フロイド。
しかし妙だな、飯の時、お前さんから病の匂いは――」
その時、宿の外での激しい怒声と騒音が、食堂内に聞こえてきた。
二人は顔を見合わせ、揃って外に向かう。後ろを、心底どうでもよさそうにサイカがタラタラ歩いていった。
飛び出すと、騒ぎは宿のすぐ近くで起こっていた。
深夜という時間帯にも構わず、路地で数名の人間が罵声をあげながら殴り合っていた。
御世辞にも治安が良いとは言い難い町、ちょっとした小競り合いは珍しくないが、これはどう見てもちょっとしたの範囲を超えている。何よりもその顔ぶれに、リサは仰天した。
鼻血を流し、腕を押さえて呻き、それでもなお凶暴な形相を崩さず獣じみた声を発し、殺し合いと呼んだ方が正確な争いに興じているのは、皆リサの見知った、近所の者ばかりであった。
「ちょっ……鳥屋のおじさんとおばさん!!
マキシおじさんも、何してるのよ!! やめてよ!!」
思わず駆け寄ろうとするリサの腕を、男が掴んで止めた。
もがくリサに黙って首を振ると、何かを見定めるかのように、争う人々へと両目を細める。
「ムダムダ、病人に言葉は効かず、ただ叩き伏せるのみだよ」
乱暴な持論を披露し、サイカがつかつかと男達に歩み寄る。
リサにしたのと同じように次々と攻撃を決めては、飛び出た病魔を順に始末していく。
全てが片付き、熱狂から醒めた人々が、訳の分からなさと傷の痛みに呆然と夜の道に座り込むまでは、あっという間だった。
「ははあ……」
「何がははぁよ……何なのよこれ……」
おばさんと呼んだ太った女性の、赤く腫れ上がった鼻に布を当てていたリサが、何かを掴んだらしい男に、半ば自棄を起こしたように聞く。
「さっきも言ったが、お前さんや彼らがやられていたのは、フロイドという病魔だ。
こいつは人間に潜在する欲望を、ランダムでひとつ増幅する。
この3人はどうやら暴力衝動、お前さんは――」
「野良犬とおっぱじめる前に止まって良かったなあ、きゃははは!」
顔を赤くするリサに、男は鼻頭をぽりぽり掻いて続けた。
「だが、感染から発症までは極めて短いとはいえ、俺と会った時点でお前さんが感染していれば、気付かなかった筈はないんだ」
「えっと……じゃあ、夕食の後でやられたのね?
もしかして、おじさん達からうつってきた、とか?」
「いや、フロイドは伝染力を持たない。
だから、彼らからうつったという事はない。また、お前さんひとりならともかく、4人がほぼ同時に別個のフロイドに感染して発症した可能性も、限りなくゼロに近いというべきだろう」
ややこしい話を頭の中で懸命に整理しながら、リサは問う。
ないない尽くしで、つまり結局、どうしたらこうなるというのか。
「他からうつってきたと考えるべきだろうな」
「は? でもあんた、今これはうつらないって自分で言ったじゃない」
「つまり、フロイドは伝染力を持たないが、このフロイドは伝染力を持っていたんだ」
「……どういう事?」
「この伝播速度――病魔マース。
奴ら、互いに食い合って変異したな」
男は落ち着いていたが、表情は幾分厳しさを増していた。
言葉の意味は不明なれど、それだけで、口調ほど悠長に構えてはいられない事態なのが分かり、リサはぞっと身震いする。
「病魔マース。その性質は、増殖。
これとフロイドが合体する事で、伝染力のあるフロイドが誕生した。乱暴に説明するとそういう事だ」
「そんな事が起こるの!?」
「起こる、稀にだがな。
伝染速度は速いものの潜伏期間は数十年単位、万一発症しても症状はほぼ無く、進行も遅い、言ってしまえば無害な部類の病魔なんだが――よりによって最も厄介な形で互いの特性を取り込んでしまったな。マースの速度なら、町全体に行き渡るまでそうはかからん」
いや、リサの話からすれば、既にかなりの広範囲に広がりつつあると考えるべきだろう。町で増えているという小競り合い、それはこの変異型フロイドの仕業に間違いなかった。
反面、殺し合いにまで至っていないのが不思議だが、推測するに、変異の過程で伝染力を得る代わりに、症状そのものは多少弱まったのかもしれなかった。
それも、全ては推測だ。当てずっぽうよりも今は、解決しなければならない現実がある。
「どっ、どうするの! 病魔にやられてる人、片っ端から治療して回るの?
いくら小さい町ったって、くまなく回れば結構広いわよ!」
「いや、順に治していったのでは堂々巡りになってキリがない。
増殖型の病魔にはな、必ず大元が、感染源となった最も強い本体がいる。病はまず元を絶たなきゃな」
「だから、どうやってその本体とやらを見つけるのよ!」
「その為にこいつがいる。頼むぞ、サイカ」
「ほいほい」
つつ、と歩み出ると、サイカは空に向かって愛らしく鼻をひくつかせる。
と思うや、あっさり指をひとつの方角に向けた。
「あっち」
「ほ、本当に?」
「小娘は信じなくていいよ」
「だっ、誰が小娘っ!?」
「後にしろ、行くぞ!」
一言告げるや、男はサイカの指さした方向へ全力で駆けだした。