病魔サイカ - 3
飯と、風呂。
お世辞にも上等とは言えないが、この値段でどちらも揃っていただけで有り難い。
部屋に戻れば、ベッドもある。固くて狭いがシーツは取り替えてくれる。完璧だ。
粗末なタオルで頭を拭きつつ、風呂からあがってきた男を見て、リサは驚いた。
肌にこびり付いた垢を落とし、伸びた髭を剃ってしまうと、男は存外なまでに若かった。
五十は行っていそうに見えたが、せいぜい三十過ぎといった所だろう。
ボサボサだった髪もさっぱり切られていて、通った鼻筋と、強い意志の滲むダークブラウンの瞳に目を奪われる。
服も着替えられていた。簡単なシャツとズボン姿になった事で、重ね着した汚らしいボロの向こうに隠れていた、
引き締まった筋骨が見て取れるようになっている。
一目で周囲に威圧感を与えるような巨漢でも、盛り上がって血管の浮いた筋肉でもないが、必要な箇所のみに必要な量が配分された、均整の取れた身体は、草原を疾駆する肉食獣のそれを思わせる。
男は席につく。ほぼ同時に、温かいスープと料理が運ばれてきた。
スープはやや紫がかった色でどろりとしていて、どうやら豆を潰して漉したものらしい。
料理は、全て一皿に盛られている。山盛りの米の飯に、肉と玉葱の煮込みと、やはり豆が添えられていた。
酒を注文すると、黙って首を横に振られた。
男は肩を竦めて、それから凄い勢いで料理を掻き込み始めた。風体から予想できたが、余程、空腹だったようだ。
あっという間に半分を片付けてしまい、ぐっと水を飲み干して一息つく。
他に客はいないのか、すぐに新しく水を注いでくれるリサに、男は言う。
「追い出さないでくれて助かった。
なにせこんな身分でな、門前払いの上に塩を撒かれる事もしょっちゅうときてる」
「追い出せるほど上等な宿でもないし、裕福でもないしね」
可能であれば追い出したかったに決まっているという態度を隠そうともせず言うリサに、正直だな、と男は微笑んだ。
人好きのする笑みに、この屈強な男がともすれば醸しがちな、獰猛な野性味が消え去る。
剃り残しが無精髭のようにぽつぽつ残る顔は、格別整っているという訳ではないが、人間としての愛嬌と、鍛えられた魂の者に宿る、自然と頼りたくなる雰囲気があった。
そして相変わらず、久しぶりの安らぎを享受している瞳の奥には、正体の分からない哀しみがあった。
絶望を見た人間の目。
リサにもっと人生経験があり、あるいは他の医者がここにいたなら、男の目をそう表現しただろう。
「ビンボービンボー、どこもビンボーは辛いねえ、きゃはははは!」
耳を刺す甲高い声に、ぎょっとなってリサはそちらを見た。
知らぬ間に食堂に現れた少女――サイカ、だったかが、椅子を持ち上げると男の横に叩きつけるように置き、ひょいと飛び乗って座った。
乱暴すぎる扱いに、ボロ椅子がガタリと揺れる。
肘を付くテーブルもまた、年季が入ってあちこちにガタがきている。
怒るのも忘れ、半ば呆気に取られて、リサはこの粗雑な振る舞いの少女を、改めてまじまじと見た。
安宿の薄暗い明かりの下でも、その際立った美貌は一切妨げられていない。
見つめていると、むしろ珠の肌自らが光を放ち出したかのようにさえ思えてくる。
人間味に溢れる男の容姿とは、あらゆる面で対照的であった。
単純な美しさの比較以前に、白銀の髪など見た事も聞いた事もない。
――こいつは、俺の病魔だ。
宿に入ってきた時、男の口にした言葉を思い出す。
だが、にわかには信じ難い。
リサも医者を見るのはまったくの初めてではなく、宿の客から時折その存在について話を聞く事もあったが、病魔というのはいずれも正体の掴めない、要は化け物そのものの姿形をしている筈だった。
それが、人間の姿。しかも、このような美しい少女の姿。
そして人のように喋り、人のように振舞う。
確かに人間離れした美貌であり、こんな男とワンピース一枚の女の子とが行動を共にしている理由としては、まあ納得のいくものではあるのだが、それより男は人攫いで、少女は商品の人間だと考えた方が、より自然なのも間違いなかった。
「……病魔、って言ったわよね、その子」
「ああ」
否定してくれればいっそ良かったものを、男は頷く。
「人間の姿をした病魔なんて……」
「そいつは、お前さんが見えていないだけだ。
お前さんも――コレを得れば分かるようになる、奴らの本質がな。
ま、こいつは特別だが」
そう言って、ちらとサイカを見やる。
しかしそれよりも、リサは前髪を捲られて再び露わとなった、男の額に目を奪われていた。
髑髏を戴く杖に、絡み付いた蛇。病魔に憑かれた人間には、額に例外なくこの不気味な刺青が浮き上がる。
よって、この男が病魔憑きである事は、ほぼ疑いようがない。
わざわざ病魔憑きを騙る理由もメリットも、全く無いのだから。
かといって、ではサイカなる少女は病魔かというと、やはり今ひとつ信じられないのだが。
困惑するリサの前で、サイカは男の皿に手を伸ばし、残っていた料理をあろう事かむんずと手掴みにすると、遠慮会釈無く自分の口に押し込んだ。
「わ、下品な味!」
「……おまけに人間の食事をとる?」
煮込みの汁で汚れた口周りを拭こうともせず、挙句にそう言う。
もはや、無作法を咎める気にもなれなかった。
元よりマナーなどには無縁な宿だが、どんな荒っぽい客だろうと、とりあえず食べるのに食器くらいは使う。
「るせーな洗濯女、この饐えた匂いの飯はてめーのケツからひり出したものか?」
「なっ……」
「きゃははは!」
「……ともかく、だ」
サイカの頭を掌ひとつでグッと抑え込みながら、不意に男の顔付きが真剣味を帯びたものになる。
「で、どうだ。この町の様子」
中断されていた話を、再開する。
リサにも、僅かに緊張が戻った。
忌み嫌われる医者だが、彼らの病を探り当てる嗅覚は確かだと聞く。
が、幾ら言われても考えても、心当たりがないものはない。
むしろ、あってくれれば逆に安心できるのに、全く無い事で却って不安が募る。
宙ぶらりんにされた疑惑は、気持ちが悪いものだ。
「病魔が出たなんて話は聞かないわ。
小さな町だし、そんな事になれば、遅くたって二晩あれば伝わりきる」
リサは首を振った。
「ただ……」
「ただ?」
「事件は増えてるわね。
軽い小競り合いや、暴力沙汰。見ての通り、もともと、そんなに治安のいいとこでもないけど」
「……ふむ」
男は、残りの料理に手を付けようとせず、がっちりした腕を組んで考え込んでいた。
サイカはといえば、一口で料理に興味を無くしてしまったようで、裸足の足を交互にぶらぶらさせながら、椅子を前後にガタつかせるという、飽き始めた子供そのものの行為に勤しんでいる。
見れば見るほど、不均衡な組み合わせであった。
リサは、さして広くもない食堂の隅にある帳場と、そこへ繋がる玄関を見る。客は相変わらず来ない。視線を戻すと、いつの間にか騒ぐのを止めたサイカが頬杖をつき、ニヤニヤしながらこちらを眺めていた。
あえてその視線を無視して、リサは男に慰めのような声をかける。
「せっかく嗅ぎ付けてきたのに、仕事にはありつけそうもないわね」
「仕事でやってる訳でもないさ。
他に出来る事がなくなったから、やっている。それでも殺されなかっただけ、まだ運が良かった。……いや、果たして運が良かったのかどうか、な」
男の哀しげな瞳は、その時だけ、遥か遠くを見るものに変わった。
自分では、いや、他の誰でも決して踏み込めず知り得ないであろう、男の見ている光景を思い、リサは黙る。
もしも共感の許される者がいるとしたら、それは男と同じ、病魔に憑かれた人間のみだ。
「他の奴らも、そんなのが多いんじゃないかな」
「……そう、大変ね。……これ、食べないならもう下げていい?」
「待ってくれ」
思い出したようにスプーンを握り、がつがつと残りを大急ぎで掻き込み終える。
「ありがとう、うまかった。久しぶりに、人間らしい食事ができた」
「どういたしまして」
リサは少しだけ微笑むと、空になった皿に水差しとコップを乗せて、ごゆっくり、と洗い場へ運んでいく。
満腹になった腹に片手を置いて、何となくその後ろ姿を見送っていた男だったが、ふと現実的な問題に思い当たり、些か慌て気味に懐の中を探った。
頬杖姿のまま、きょろりとサイカが目だけを向ける。
「支払い、足りるかー?」
「なんとかな」
擦り切れて、元が何色だったのかも分からなくなった財布を開き、男は外見に似合わぬ切ない溜息を吐いた。