病魔サイカ - 2
夕暮れと共に、その客はやって来た。
自他共に認める安宿の通気は悪く、晴れの日は窓を持ち上げて空気を通さないと、すぐにカビ臭くなる。
宿の女主人リサは、その日も日課となった窓の開け閉めをこなしていた。
昨日、最後の客が出て行ってから、今日はまだ一人も客が来ない。
湿っぽい空気に、つい愚痴と溜息が混ざる。
夜くらいは休みたいのだが、明日もこの調子なら、そろそろ食堂だけの開放も考えねばならない。
利用する客はたかが知れているし、得られる金は雀の涙だとしても、無収入よりはマシだ。
そこへ、玄関扉の開く音が聞こえたのだ。
食堂のテーブルを拭いていたリサはパッと振り向き、いらっしゃーい、と、半分は本心、半分は商売上の、精一杯の愛想の良い笑顔を作って帳場へと向かい、そこで固まった。
悲鳴をあげなかったのは、亡き父より宿を受け継いでから、それなりに様々な客を見てきたおかげである。
泥の塊が立っているのかと、はじめは思った。あるいは墓土の下から蘇ってきたか。
「いらっしゃい。すごい格好だね」
顔を引き攣らせつつ、さすがに汚い格好とまでは言わなかった。
相手は客であり、目下の台所事情では貴重な存在だ。
だらしなく伸びた髪が、こびりついた泥で縒れて固まっていて、目さえほとんど隠れてしまっている。
肌もまた泥と垢で汚れており、何枚も重ね着したボロボロの服に負けず劣らず黒かった。
むっとする臭いに耐えつつ、風呂を先に使っておいて良かった、とリサは思った。
髭だらけの口がもぞりと動き、そこから低い男の声が漏れ出す。
風貌に似合わず、不思議と、人の耳を引き付ける声をしていた。
声と容姿だけでは、どうも年齢は良く分からない。かなりの歳を重ねているようには感じる。
「確かに凄かったよ、泥の雨が降ってるようだった」
「あー、あそこを通ってきたの。
あの辺は、この時期だけ特にぬかるむのよ。橋を通ってくれば良かったのに」
「通行料を節約したくてな」
「そりゃまた、高くついたわね」
愛想良く答えながら、リサは早々に世間話を切り上げにかかった。
悠長にお喋りなどしていると、せっかく掃いた床が取り返しのつかない事態に陥りそうだったからである。
既に、移動過程で多少の被害は避けられない状況となっているが。
「泊まるの?」
「ああ。部屋と、それから風呂と食事を頼みたい」
淀みなく答える男に、リサはふと心配になった。
橋の通行料すらケチるような男だ。加えて身なりは、ご覧の通り。
果たして、汚れと悪臭を見ぬ振りしてこの男を泊めたとして、肝心の支払う能力があるのかどうか。
泊めてしまってから無一文だと判明し、役人に突き出したとて、彼らが代金を立て替えてくれる訳ではない。
完全な保証にはならないとしても、先にそこを告げておく方が良さそうだった。
あるいは、取れるなら前金ででも。
「うちは素泊まりは400、夕食付きなら450。
朝食も付けるならプラス30だよ。代金は、次の日の午前中までで区切ってるからね」
「その前に、言っておきたい事がある。
黙って泊まるのはルール違反だし、何よりフェアじゃないからな」
「なに?」
「この町、病の匂いがする」
意識せず、ひっ、と喉が鳴った。
入ってきた時とは全く違った意味で、男を見るリサの全身が硬直する。
足が、木張りの床を僅かに後退った。そんな態度には慣れているのであろう、男は平然とつっ立っている。
たじろぎつつ、リサは小さな声で尋ねる。声か、身体か、震えているのは、どうしようもない。
「……あんた、医者?」
「病魔憑きとは呼ばないんだな」
自嘲するように、男は髭に埋もれた唇を曲げた。
医者。
尊称であり、蔑称である。
またの名を、病魔憑き。だが、一般にはこちらの方が用いられている。
忌み嫌われる一方で、必要とされる人々。まず、ひとところには定住できず、町から町を彷徨い続ける。物心ついた子供は真っ先にその存在を教えられ、そして大人達と同じように、嫌悪の目を向けるようになる。
代々と紡がれ続ける、負の連鎖。
「それと、これも見せておかなければな」
ごわごわの前髪を、汚い手で捲る。
パラパラと乾いた泥を落としながら剥き出しになった男の額には、はっきりと、病魔憑きの証である、髑髏を戴く杖に絡み付いた蛇の刺青が浮かび上がっていた。
だが、ようやく露わになった男の瞳の方に、リサは注意を引かれていた。
強く、哀しい目だと思った。諦め、受け入れ、それでも抗うのをやめていない人間だけが持てる目だった。
見せるべきものは見せたとばかりに、男は手を退け、黙っている。
迫られる決断に、リサは迷った。
この町では誰でも、生活は厳しい、少しでも金は欲しい。
しかし男の身分を考えると、どうしたって躊躇してしまう。
医者を、病魔憑きを直に見るのはリサも初めてではないし、前に見た時も、特別の嫌悪感があった訳ではない。
病魔憑きと見れば唾を吐く人間とて存在する世の中では、リサの差別意識はかなり薄い方だろう。
だが、こうして身近に置くとなると、素直に頷くとはいかなくなってくる。
有り体に言って、怖いのだ。
リサもまた、周囲の大人達から病魔と病魔憑きの話は、散々聞かされて育ったのだから。
「まーだーかー?
決めるならとっとと決めろよ、ボロ屋にお似合いのドンくせー女!」
「――!?」
唐突に、ひょこりと男の背後から上半身を覗かせた少女に、リサは危うく叫ぶところだった。
背丈は、男の腰より上程度までしかない。年齢も行って12か13かだろう。
だが問題は、背丈よりも年齢よりも、その容姿だった。
こんな寂れた町には――否、どんな大王国であれ、この少女に相応しい舞台となると世界でも一握りに過ぎまい。
白銀色の髪は一切の癖なく滝のように腰まで流れ、薄暗い宿内で、その眩さ自体がひとつの明かりと化している。
幼い肌を隠すのは、純白のワンピースのみ。身に付けている物といえば、それだけだ。
靴すら履いておらず、整った小さな素足を剥き出しにしている。
限りなく清楚でありながら、そこにはどこかしらの妖艶さすら漂わせる、白と銀の少女。
全体に白系統で統一された容姿の中で、目だけが黄色い。
イエローダイヤモンドの瞳が、上目遣いにリサを捉えて、色の薄い唇ともどもニィと歪む。
このような美しい少女が決して持ってはならない、明白な悪意がそこにあった。
誰しも絶句せずにはいられぬ絶世の美少女を前に、リサもまた例外ではなかった。
物乞いじみて汚れ放題に汚れた年嵩の男と、曇りひとつなき白の美貌に彩られた、まだ子供と呼べる歳の少女。
あまりにも、不釣合いで不自然な組み合わせだった。
一瞬、親子連れだったのかと思ったが、それにしては容姿も格好も雰囲気も、あまりに二者は懸け離れている。
リサの視線で、初めて少女の事を思い出したように、ああ、と男は呟く。
「こいつはサイカ」
男の口調は、自分の正体を明かした時と同じく淡々としていた。
「俺の病魔だ」
病魔に侵された者は、等しく同じ運命を辿る。
潜伏期間を経ての、発症。最終ステージを過ぎての、異形化。
だが、ごくごく稀に、どうしてか病魔に耐える者もいる。
耐え抜いた者は、病魔と意思を疎通し、その力を以て病を狩る者と化す。
それが義心からなのか、憎悪からなのか、狂ったからなのか、他に何もできなくなったからなのかは分からない。
いずれにせよ、病を克服して生き残った者が、死の運命を逃れたとして羨望の眼差しを受ける事はなかった。
彼らは病魔憑きと呼ばれ、忌むべき病魔と共に生きねばならぬ、最下層の賎民とされた。
病魔憑き。またの名を、医者。
人によっては、こうも呼ぶ。
病に魅入られた者、と。