病魔サイカ - 1
それが、いつから現れたのか。
なぜ現れたのか、そもそも一体何であるのか。
知る者は誰もいなかった。
ただ人々が気付いた時には、それは既に、当たり前のようにそこにいた。
知らず人に迫り、人を蝕み、やがては逃れられぬ結末へと導く。
いつしか、人はそれを病魔と呼んだ。
数日前まで人の言葉を使っていたとは信じられない、屠殺される家畜そのものの絶叫が空気を震わす。
地響きを立てて、屋根をも越える程の巨体が、べちゃりと地に崩れ落ちた。
それが完全に沈黙したのを確かめ、男もまた動きを止める。
胸元で、太い指が小さく、祈りの印を結んだ。
「ああああ。バート。うちの子が。あああああ」
灰色をした粘土の塊にしか見えなくなったそれに駆け寄り、縋り、慟哭する女。
「人殺し。この人殺しめ」
涙で顔をぐちゃぐちゃにした女に口汚く罵られても、男は反論するでもなく、静かに立っていた。
遠巻きにしていた村人の中から、一人の老人が近寄ってくる。
代表者、おそらくは長にあたる立場の者であろう。
先に、男の方から口を開いた。
「わかっていると思うが、こうする以外に止める方法はなかった」
「わかっているとも。ああなってしまっては、おぬしらといえども他に手はない。
だが、それはあくまでわしらの理屈だ。ベンダにとっては、おぬしは我が子を殺した憎い男に過ぎん」
「それもまた、わかっている」
老人は疲れた声で、男は落ち着いた声で言った。
どうなっても母は母、子は子。旅の間、繰り返し繰り返し見続けてきた光景であった。
「礼は言わぬ。だが、礼はしよう」
ちゃりんちゃりん、と硬い音がして、男の足元に幾許かの硬貨が散らばる。
「手渡す訳にはいかんのでな。
今のおぬしは、手を病に染めた直後。不浄がうつる」
男は屈み、黙って硬貨を拾っていった。
これもまた、慣れた扱いだった。
うつるような事はないと説明するのは、とうの昔にやめた。
特にこのような辺境では、そういった誤解は事実として凝り固まっており、理屈で崩せるものではない。
何より、事実ではなく感覚に根ざしているものを、どうこう言っても不毛なだけなのだ。
謝礼を求めた事は滅多にないが、大抵の者は賃金を支払おうとする。
そうする事で更なる災いを避け、また、僅かばかりの罪悪感を打ち消そうとするのだろう。
「去れ」
全て拾い終わるのを待って、老人が告げた。
男は頷き、踵を返す。
できれば宿をとりたかったが、これでは無理だ。また、当分は野宿が続く。
背に突き刺さる多数の視線の中、男は無言で、たったいま救ったばかりの人々と村を後にする。
「おぬしの魂が、いつかは穢れから解き放たれ、安らかなる死を迎えられん事を」
「悪いが、その日が来るとするなら、それは世界から奴らが消え去る日だ」
振り返らず、男は言った。
老人が何か言おうとした気配があったが、もう男は足を止めなかった。
やや離れた場所で、もうひとつの人影が、頭の後ろで手を組み、つまらなそうに男が来るのを待っていた。
人々が気付いた時には、病魔は既にそこにいた。
そして病魔の存在が確認されるのと前後して、病魔を斃す者達が現れだした。
囚われた鎖から、人を救う者。
逃れ得ぬ運命から、命を解放する者。
戦い、救い続ける彼らが、感謝と歓待を受ける事は無い。