餅系彼氏の攻略法
本作は、短編『観音様系彼女の年末大セール』の多恵子さん視点の物語です。
観音様系〜を読まなくてもお楽しみいただける内容ですが、こちらを後で読むほうが分かりやすいかと思います。
よろしくお願いいたします。
私が実家を出たのは二十二歳の時だった。
大学は、実家から通えるところを受験。うちは、仕送りをしてもらえる程裕福ではなかったから。でも結局受かったのは、電車で二時間半近くもかかる遠方の学校で。私はすぐに長い通学時間に嫌気がさして、親に下宿したいと申し出た。けれど、親は猛反対で取り付く島もない。私は奨学金とバイトで何とかなると思っていたけれど、うちの家は厳しいので許してもらえなかったのだ。
学生時代の四年間、特に辛かったのは門限だ。親には、日々細かく私生活をチェックされていたし、大変窮屈な思いをしていた。その反動からか、就職して独り立ちしてからは、生活がすっかり荒れてしまった。
憧れの一人暮らし。しかも都会。狭い賃貸のアパートに住み始めてすぐの頃の私は、地元から出てきた友達や、学生時代の友達を招いて、頻繁に家飲みをしていた。それにもすぐ飽きて、今度は友達に誘われるままに合コンにたくさん参加した。何度かお持ち帰りされたこともあれば、したこともある。そうやって、一見地味顔で貞淑な雰囲気だと言われがちな私のプライベートは、少しずつ、少しずつ荒れていった。同時に、貪欲に楽しいと思えることや、好きと思えることに手を伸ばし、そのための努力は決して惜しまなかった。
そんな私にも、ついに結婚したいと思える男性ができたのは二十八の頃。彼はとてもオシャレな人で、上品だし、紳士だし。それでいて、冗談もちゃんと言える人。毎週末のようにデートしていたし、誕生日やお付き合い記念日には豪華なプレゼントも貰っていたと記憶している。だから、本気なのは私だけではないと思い込んでいた。
当時は、周囲の友達の結婚ラッシュは二度目が過ぎ去ろうとしていた頃合い。それでなくても、大抵の女性は三十を目前に控えると、いろいろと考えることが増えてくる。いずれは子供も産んでみたいし、でも仕事もがんばりたいし。肌のハリを保つためにはどうしたらいいのかしら?などなど。でもその筆頭は、やはり結婚についてだ。結婚は、自分だけの努力だけでは何ともならない。当たり前だが、相手があることなのだ。
実家の両親からは、いい人がいないのか、いないならば帰ってこいと頻繁に電話もかかってきていた。何度か見合いをさせられそうにもなった。でも、私は親の勧める人とだけは結婚したくないと、漠然と考えていたし、単純に焦っていたのかもしれない。そして、本当に大切なことは何も見えていなかったし、見ようとする目を育てることすら怠っていたのだ。
あれは、クリスマスイブの前日のことだった。私は、ショッピングモールのフードコートの片隅にいた。少しだけ離れた席には、彼と、彼とそっくりな息子さんが二人、そして綺麗な女性。四人は仲良くランチをしていた。ハンバーガーに齧り付く息子さんが、彼のことを「パパ」と呼んだ。そして女性は「ママと後で公園に行きましょうね」と言った。それは、あまりにもありふれた平和な風景だった。
まさか、彼が既婚者だったなんて。私は、涙を堪えるために歯を食いしばって俯いた。その日から、彼からの連絡もパッタリと途絶えてしまった。
たくさんの恋をして。そして破れて。恋に恋する乙女なんてとっくの昔に卒業し、すっかり大人の女になっていたつもりだったのに。実は、結婚という言葉と結婚したがっているだけの、馬鹿な女に成り下がっていたなんて。
私は、私のことを誰よりも失望し、そして決断した。
実家に帰ろう。
私はそこそこ大きな広告代理店に勤めていたけれど、思い切って退職。まだ転職先も決まっていないのに、だ。親には叱られることを覚悟していたけれど、いざ打ち明けると母親からは予想外の言葉が返ってきた。
「今までよくがんばったね。多恵子の家はここにあるんだよ。いつでも帰っておいで」
ちゃんと泣けたのは、久しぶりのことだった。
やっぱり私は、大都会では生きていけない人種なのかもしれない。私は田舎で一からやり直すことにした。
とは言え、プータローをするわけにもいかない。いい歳した大人が働かず生きていける程、世の中甘くないのだ。私は、再就職するために、地元では大きな会社の中途採用に応募した。すると、私の前職での経験や、地元出身であることなどが買われて雇ってもらえることになった。
仕事は、基本的に事務ばかりだ。正直言って、前の会社と比べれば何もかもが緩いし、仕事内容も楽。だからと言って、新人の癖に手を抜いてはクビになるかもしれないと思って、いつも笑顔は絶やさず、どんな仕事も進んでやる。そうやって、少しずつ周囲との信頼を築いていった。
そして、広報部へ異動になったのは昨年の四月のことだ。それまで私はいろんな部署を転々としていたけれど、ついに前職に近い業務に就くこととなったのだ。
異動初日、ほぼ初めて入る広報部の部屋で、一番に目についたのは太った男の人だった。ここまで横にも縦にも大きな人は、ほとんど見たことがない。なぜか分からないが、自然と目が吸い寄せられていく。そういうオーラをもった人物だ。名前は岡本さん。私と同じタイミングで中途採用された山田くんによると、部署の皆さんからは「餅」や「もっち」と呼ばれているらしい。私は後輩に当たるので「もっちさん」と呼ぶことに決めた。
もっちさんは、同じ部署だけれど、私とは別チームだったので、声を交わす機会はほとんどなかった。確か、初めて長い会話をしたのは、異動してから一ヶ月以上過ぎてからのことだったと思う。それは、コピー機のトナーの在庫が切れた時だった。
私は、急な会議で使うための資料をプリントしようとしていたのに、出せなくなって困っていた。それに気づいたもっちさんは、すぐさま隣の経理部の知り合いに掛け合ってくれて、そこで私のデータを出力してくれた。うちの部長は時間に厳しい人なので、無事に書類を揃えることができて大助かりだった。
もっちさんは体が大きいので、どことなく怖い人なのかと思っていたのは完全に私の誤解だったようで。それどころか、とってもいい人だ。私は、三年ぶりぐらいに、男の人に興味をもった。それから、私は無意識にもっちさんを目で追いかけるようになった。すると、今まで知らなかったことが少しずつ見えてくる。
まず、もっちさんは、弄られキャラだった。何をやっても冷やかされてしまうというか、いろんな人に話しかけられていることが多い。もっちさんは、その度に考えていることが顔に出るので、皆そのリアクションの面白さを見たくて話しかけているのかもしれない。それに、彼は親切だし、関わってみると親しみ深い人でもあるのだ。彼の周囲は、いつも賑やかで楽しい空気に包まれている。遠目で眺める私まで、ついついほっこりしてしまうのだ。何より、彼の笑顔が好き。
そう。知らぬ間に私は、また男の人を好きになってしまっていたのだ。
親にはそれとなく、大失恋をして傷心のため、当分は結婚なんて考えたくもないと話している。お陰で、最近は見合い話も来ていない。私自身は、当分どころか、このまま一生独身かもしれないと思っていた矢先のことだった。
私は動悸する胸に手をあてた。もっちさんならば、好きになってもいいんじゃないだろうか、と思ってしまう。
彼は隠し事などできないタイプだし、職場の人から既婚者じゃないと聞いている。あんな見た目だから、モテすぎるという心配もなさそうだし、噂では仕事も几帳面で誠実と聞く。私とも歳は離れすぎてはいないし、優良物件なのではなかろうか。
もう私は、見た目だけの男や、上っ面な美辞麗句、心のこもっていない贈り物などには騙されない。落ち着いて、まっさらな目で彼を見て、素直に素敵だなと思った。
けれど、私は何もしなかった。以前の私ならば、早速アタックしていたかもしれない。でも、また失恋するんじゃないかと思うと、たちまち動けなくなってしまう。それに、フラレたら今まで通り涼しい顔をして仕事を続けられる気がしない。それならば、同じ職場にいられて、時々挨拶してもらえるだけでいい。それだけで十分癒やされるし、幸せな気持ちになれるのだ。
そして、その年もクリスマスが近づいてきた。私にとってクリスマスは鬼門だ。ここ毎年この時期は、実家に引きこもってゲームしながら乗り越えるのが定番。今年もそうやって、未だに残る心の傷を誤魔化そうとしていたのに、とんでもない誘いがやってきた。
「多恵子ちゃんもおいでよ!」
山田くんが主催のクリスマスパーティーだ。そんな華やかなところには行きたくない。でも会場は部長の別荘だと言うし、職場のお付き合いも大切だ。もしかすると、もっちさんとお近づきになれるチャンスもあるかもしれない。
「行きます」
だけど、結果は無惨というか、惨めだった。
山田くん本人も含め、参加者は全員、家族やパートナーを連れていたのだ。そういう暗黙の了解を知らなかった私は、たった一人、ポツンとチキンを齧っていた。さらには、もっちさんの姿も見当たらなくて、なんで私こんな所にいるのだろうと虚しくなった。なのに、山田くんときたら、こんなことを言うのだ。
「多恵子ちゃん、楽しんでる?」
見て分かりませんか?と問いたい。でも、次の言葉には驚いてしまった。
「もっちが来てないから、楽しくないかな?」
「知ってたの?」
「多恵子ちゃんのことは、いつも見てるから」
私は、こういうことを言う人が嫌いだ。山田くんの彼女なんて、ちょっと派手な美人で、私とは真逆のタイプなのに。しかも、十年以上付き合っていると、先程小耳に挟んだ。人のお節介よりも、自分の彼女の相手をすればいいのに。
お酒を飲んでいた私は、山田くんに思いっきり本音をぶちまけてやった。
「まぁ、そう怒るなって。でも多恵子ちゃんこそ、もっちにデートしようって誘えば良かったのに」
「言えるわけないよ、そんなの」
「じゃぁさ、来年のクリスマスまでには、もっちに告白してみようよ」
「放っといてほしいんだけど」
酔った勢いで、私は山田くんに冷たく当たる。でも彼はふと真剣な表情になってしまった。
「俺さ、そろそろ彼女と結婚したいんだけど、なかなかプロポーズできなくって。あの子、すげぇ綺麗だし、性格もいいし。だから、自分が釣りあえてるのかなって、時々自信失くしちゃって」
「それ、山田くんの話?」
「もちろん」
意外だった。どちらかといえば、自信家タイプだと思ってたのに。
「でも、そろそろ俺達もいい歳じゃん? だから来年のクリスマスまでには、ちゃんとプロポーズして、婚約指輪をあげたいなって」
「山田くんも悩みがあったんだね」
「多恵子ちゃんって意外と失礼だよね」
「山田くんだけだよ」
「そんなこと言われても嬉しくないし」
「ま、がんばってね。うまくいくといいね」
「多恵子ちゃんもね」
「私は……どうだろう」
「俺は、絶対に上手くいくと思うな。だから、多恵子ちゃんもがんばって! もし来年のクリスマスになってもまだ燻ってたら、俺が責任もって焚き付けるから覚悟しとけよ?」
――なあんてことがあったなぁ。と思い返したのは、それから一年後。私は、未だにもっちさんとお近づきになれないでいた。山田くんは、この春係長に昇進。それが自信に繋がったのか、先日彼女の誕生日にプロポーズし、無事にOKをもらえたそうだ。
そして今日、私は山田くんに言われるがままに、ある特殊なケーキを手作りして冬空の下で立ち尽くしている。目の前にそびえ立つのは高層マンション。今日のパーティーはここの503であるらしい。ケーキは山田くんが、今年のクリスマスパーティーで使うから、特別に作ってほしいと言ってきたのだ。私が料理を得意とするのは、彼も知っている。昨年のパーティーでは、おかずが足りなくなって、私がありモノを組み合わせていろいろ作ったから、目をつけられてしまったのだと思う。
さて、私は昨年の反省を活かし、今年のパーティーはすぐに帰るつもりだ。長居して、独り身の寂しさを一層強く感じることになるのは勘弁だもの。
でも、ケーキを使ったゲームには最後まで参加するように、山田くんからは言い含められている。面倒だけれど、それぐらいはいいかな。せっかくがんばって作ったケーキだから、私も食べてみたいし。
エレベーターに乗って五階へ上がる。端から三番目の部屋に辿りついたけれど、表札は無い。山田くんの彼女の家かな?などと思いながら、インターホンを押した。返事はない。代わりに、ドタバタとした大きな足音が近づいてきて、勢いよく扉が開いた。
「へっ?」
こういう時、どうしたらいいんだったっけ?
「こんばんは」
とりあえず挨拶してみた。
目の前に立つもっちさんは、目を瞬かせて硬直している。これまでスーツ姿しか見たことがなかったけれど、今夜はジャージだ。職場では決して見ることができないリラックスした姿。それだけでときめいてしまう。
でも、ウキウキしたのは一瞬だった。
もしかしてここ、もっちさんの自宅ではないだろうか。よく考えれば、山田くんから指定されたケーキの大きさは小さすぎた。パーティーの人数を考えると、軽くこの十倍ぐらいの大きさが必要。しかもこのマンションは、広くて2LDKぐらいだろう。こんなところにたくさんの人数が入るわけがない。
騙された。
悔しい。
だけど。
だけど。
目の前にはもっちさんがいて、その奥には彼の家がある。
私、どうする?!
この様子では、もっちさんは山田くんからも何も知らされていないのだろう。きっと、私が個人的に彼を訪ねてきたと思って驚いているに違いない。となると、まずはこのケーキを手土産と見立てて渡すしかない。何の用事もなく来てしまったら、あまりに不審だもの。
「もっちさん、どうぞ。ケーキを持ってきました」
クリスマスだもの。もっちさんは甘党だから、ケーキを食べる習慣ぐらいありそうだよね? もっちさんは素直に私からケーキの袋を受け取ってくれた。うん、何とか誤魔化せたような気がする。その時、マンションの廊下を強風が吹き抜た。足元から年末特有の冷え冷えとした空気が駆け上ってきて、私は盛大にくしゃみする。ちょっと恥ずかしい。でもこれが功を奏したのか、もっちさんは私を抱き寄せるようにして部屋に入れてくれた。
それは、私の運命を決める夜の始まりだった。
◇
もっちさんの家はとても整理整頓されているし、掃除も行き届いていた。私にとって、家事ができる男性はポイントが高い。将来家族になった時に、共働きだと家事が全て私の負担になると辛いもの。
玄関入ってすぐ右手は洗面所とお風呂、左手は寝室らしき場所。奥は広いリビングで、真ん中にコタツがあった。私は少しでももっちさんのことが知りたくて、こっそり寝室に忍び込む。窓際には大きなベッドがあって、座るとフカフカした。ここで毎日彼が寝ているのだなと思うと、ドキドキしてしまう。壁沿いの本棚には、たくさん漫画が詰まっていた。私が知っているものもある。こんな趣味があるなんて、全然知らなかった。すると、もっちさんから、「読んでいい」との許可がでる。久々に見てみたいなと思うものに手を伸ばした瞬間、私は我に返った。
いけない。私、浮かれすぎた。
私は、ケーキを渡すためにここに来たのだ。だから、ミッションコンプリート! でも、待って? 山田くんのことだから、ケーキのゲームを済ませて帰らないと後々怒りそうだ。私は仕方なく、もっちさんにケーキを食べようと誘った。そして小さなケーキだからニ等分し、コタツの上に置く。もっちさんは、珈琲を淹れてくれた。彼がコタツに入ってくると、足が私の太腿を掠める。それだけでドキドキしてしまうけれど、それを悟られるわけにはいかない。私は必死で無表情を貫いた。
ケーキを食べ始めたもっちさんは無言だった。もしかして、口に合わなかったのかな?と心配になりかけた頃、彼はふとフォークの手を止める。
「ケーキ、美味しいです。ありがとうございました」
良かった。
じんわりと嬉しさが胸に広がっていく。好きな人に食べてもらえる幸せ。こんなことならば、もっと気合をいれて作ったのにな。
その時だ。
「あの、このケーキって」
突然、もっちさんが「ん?」という顔をする。そして口の中から何かを取り出してきた。
しまった。
私は山田くんに頼まれて、ケーキの中に紙を仕込んでいたのだ。私が食べる方に入っていたと思っていたのに、彼の方に入っていたなんて! しかも紙に書かれている内容を私は知らされていない。確か、御籤みたいなものだって山田くんは言っていたけれど、変なこと書いてないよね?
「もっちさん」
「は、はい!」
「それ、何と書かれていますか?」
もっちさんの顔色は悪い。山田くん、何書いたんだろう? 失礼なことを書いていたら、絶対に苦情を言ってやる。
「私、内容を知らされていないんです」
私が読んでほしいと促してみると、もっちさんは少し赤くなって俯いた。
「このケーキを運んできた人に、何でも言うことを聞いてもらえる券、です」
つまり、もっちさんに何かお願い事をしてもらえるということだ。何それ。私に都合が良すぎる。もっちさんの望みならば、何でも叶えてあげたくなる。
だけど、もっちさんは戸惑っている様子だ。私としてはこの機会にもっちさんともっと仲良くなりたい。だから、その券を使わないという選択肢はとってほしくないのだ。
「では、私に何か命令してください」
もっちさんの顔はさらに固まってしまった。もしかして、私が突然家に押しかけたことを怒ってるのかな? だから、
「それを聞いたら私、もう皆さんの所に帰りますので」
と付け足した。それでも彼の表情は冴えないまま。何か迷っているかのように、もぞもぞしている。その仕草がちょっと可愛い。
「何にするか決まりましたか?」
「あの、本当に何でもいいんですか?」
「はい。何でもいいです」
「じゃぁ……」
ここでもっちさんは、まっすぐこちらを向いてくれた。私の期待が高まっていく。
「えっと、今夜」
今夜?
「あなたを抱きしめて、寝ていいですか」
もちろんです。
私はコタツから這い出ると、三指をついて頭を下げた。
「中野多恵子、謹んでお受けします」
抱きしめるだけじゃなくて、抱いてくれてもいいですよ。私、相手がもっちさんなら、後悔しません。
◇
その後はお風呂を借りた。いつもよりも念入りに体を洗って出てみると、彼が自分のパジャマを置いてくれていたので、お借りすることに。スボンは大きすぎたので、上の服だけ袖を通してみる。やっぱり大きい。完全にワンピース状態だ。でも、もっちさんの匂いがして幸せ。
その後は、同じくシャワーを浴びたもっちさんとベッドに入った。彼は宣言通り、私にやらしいことはしてこない。これまで付き合ってきた人は、これぐらいのシチュエーションになると、すぐに体を要求してきたものだけれど、彼は違う。何となく、大切に扱ってもらえているようで嬉しくなる。
だけど、何も意識してもらえないのも、女としては悲しいものだ。自分からスキンシップしてみたり、体をくっつけてみたりして煽ってみても無反応。やっぱり貧乳なのが駄目なのかしら。うっかり、彼の腹の肉を摘んで、
「これ、ぽろっと外して、私のおっぱいにくっつけられたらいいのに」
と言いたくもなるわけだ。
その後も、もっちさんは紳士的だった。私が抱きしめてほしいとお願いして初めて、彼から私に触れてくれた。私はもっちさんに包まれて夢心地になった。こうやって毎晩一緒に眠れたら、どんなにいいだろうか。ずっと独りでいいと思っていた時期も長かったけれど、それは強がっていただけだったのだ。本当はやっぱり寂しかったのかもしれない。
私は寝たフリをした。すると、もっちさんの腕が少し弛んでしまう。でも、代わりに時々「多恵子さん」と名前を呼びながら頭を撫でてくれた。いつもは「中野さん」なのにね。私は、もっちさんがいい、と思った。もっちさんの特別になりたい。
◇
朝起きると、もっちさんは眠ったままで、全く起きる様子がない。私はツミレ入りのお味噌汁を作って、冷蔵庫にあったキノコ類を入れた炊き込みご飯を炊飯器にセットする。後は小松菜の卵とじと、揚げ出し豆腐を作った。
もっちさんはまだ起きない。
私は眠り続ける彼の枕元で、ある不安に駆られていた。
もし、もっちさんが昨日のことを忘れてしまっていたらどうしよう。私としては結構仲良くなれたつもりだけど、これっきりで元通り挨拶しかしない仲に戻ってしまったらどうしよう。何より、また私自身が恋すること、好きになることが怖くなってしまったらどうしよう。
心配しても仕方のないことを心配して、私の頭の中は真っ黒に塗りつぶされていく。
よし。じゃぁ、もうもっちさんから離れなくて済むようなことをすればいい。そうだ、また気軽にここへ来れるようにすればいい。
私は、玄関の下駄箱の棚に置かれてあった、この家の鍵を握った。これは、ずばり犯罪である。でも、この時トチ狂っていた私はそれにも気づかず、足早に近所のホームセンターで合鍵を作ってしまったのだった。
鍵を持っていれば、もっちさんと繋がっていられるような気がして。後々思い返すと、完全に病んでいた。
◇
その翌日、私はいつもよりもソワソワして出社した。でも、何もかもがいつも通りだった。山田くんだけは、「もっち、どうだった?」と尋ねてきたけれど、フンッ!とそっぽを向いて無視してやった。できれば、あんなお膳立てされずに、もっちさんに抱きしめてもらいたかった。だから、お礼なんて言ってらやないんだ。
そして肝心のもっちさん自身も、本当に通常運転で。私には挨拶以上の接触はしてこないし、年末締切の仕事をこなしていくだけ。私はモヤモヤし始めた。
あの時、私を愛おしそうに抱きしめてくれたのは誰だったの? あれは嘘だったの?
私のフツフツとこみ上げる怒りは、仕事納めが過ぎて正月休みに入っても収まらなかった。合鍵を握りしめて、あの時の幸せを思い出そうとしても、もう抑えることのできないこの気持ち。
私は、彼の家へ行くことにした。
となると、またまた手土産が必要になる。私はお節を作ることにした。彼も実家に帰るかもしれないけれど、また私の料理を食べてほしい。
私はいそいそと材料を買い集め、台所に籠もりきりになる。さすがに異変に気づいた母親がいろいろと問いただしてきたので、ここはちゃんと説明することにした。
相手は職場の先輩であることや、品行方正で頼りになる人だということ。穏やかな雰囲気で、紳士的で、私はとても彼を信頼しているということ。そして、年越しを彼と過ごしたいということ。
母親は「節度は守りなさいね」の一言はあったものの、快く送り出してくれた。
◇
再び舞い戻った高層マンション。私はそれを見上げて、呼吸を整えた。
今日こそ。
私は彼の家の鍵を開けた。さすがのもっちも怒るもしれない。ちゃんと謝ろう。そして、合鍵をもちたいぐらい、一緒にいたいのだと伝えたい。だけど女の子としては、男性から告白されたいものなのだ。
「中野さん?」
もっちさんは、ただただ驚いていた。私は、まず正直に話してみる。
「こんにちは。先日もっちさんが寝ている間に、すぐそこのホームセンターで合鍵を作らせてもらいました」
ここからは、頭の中で何度もシミュレーションした通りに、作戦を決行するだけだ。
「あなたは、悪い子です。クリスマスには、私というサンタが来たにも関わらず、相変わらず意気地がないままでした」
たぶん、もっちさんも少なからず私のことを好いてくれていると思う。なのに、あの場限りの関係で終わらせようとしていたのだ。ギルティ!
「でも、来年から心を改めるのであれば、私から一足早いお年玉を差し上げましょう」
「お年玉ですか」
「はい。私の気持ち知ってる癖に、もう知らないフリをするのはやめてください」
私は持ってきた大荷物を床に下ろすと、ダッフルコートのポケットから紙切れを一枚取り出した。
『この紙を持ってきた人に何でも言うことを聞いてもらえる券』
紙切れを受け取ってしまったもっちさんは、紙と私を何度も見遣る。
「もう、間違えないでくださいね」
もっちさんは、それでも何かを迷っている様子だった。私はもう、迷わないでほしい。私を、選んでほしい。
その時、持ってきた紙袋の中身を見て、変なことを閃いてしまった。それは、うちにあった古いゲーム機。その箱に貼りっぱなしになっていた赤いシールを慌てて剥がすと、自分のほっぺに貼り付けた。
「今ならば、大安売りです」
もっちさんが、目を見開く。
「これで、どうですか?」
今度は、へにゃっと笑ってくれた。
「買います」
「もう一声、ほしいです」
「一生大切にします」
「よろしい」
我ながら、何様だ。
そんなツッコミはさておき、私は嬉しすぎて天にも登りそうな気分だった。そのままもっちさんに抱きついて、寝室へ。彼を押し倒して、その上に馬乗りになってみたら、もっちさんも私の方へ腕を伸ばしてくれた。
「好きでした。ずっと前から」
「僕も、ずっと好きでした」
年明け、もっちさんは私のお節を美味しいと言って食べてくれた。一緒に食事する機会はどんどん増えて、一月も経たないうちに私達の関係は職場にも知れ渡ることとなる。山田くんには、一応お礼を言っておこうか。
秋には結婚式を挙げる予定だ。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました!