三組のカップル(三)
気を失っていた美紀はようやく目を覚まし、意識を取り戻した。傍らには叔母の海老名恵が寄り添っていた。
「美紀ちゃん、ああよかった、気がついたのね。もう大丈夫よ」
「叔母さん、ここは?」
「ペンションのいつものお部屋よ。あなたは事故に遭ったのよ。覚えてる」
彼女は自分の足取りを振り返り思い出した。
「ええ、雨の中で車を運転し操作を誤って谷間に落ちたんだわ。でもそれからは何も覚えてないの」
「車は駄目みたいだけど、二人とも運良く助かったわ。怪我はないししばらく安静にしていれば元に戻るそうよ」
「西城さんは大丈夫なの」
「ええ、元気よ。西城さんと熊飛さんご夫妻があなたをここに送ってきたのよ」
「熊飛さんが?」
「たまたま近くにおられたそうよ。どう、西城さんに詳しいことを聞いてみる」
「そうね、お願いするわ」
「じゃあ、西城さんに来てもらうわ。彼心配してたわよ。私はその後、皆さんにも知らせてくる。何かあったら呼んでね」
「ありがとう、叔母さん」
彼女は部屋から出て行ったが、間を置かず西城が入ってきた。
「美紀さん、良かった、気がついたようだね」
「西城さん、ご免なさい、叔母から聞いたわ、すっかりご迷惑かけてしまって」
美紀は起き上がろうとしたが、西城が押し止めた。
「ああ、そのままそのまま、横になったままでいいよ。とにかくお互いが無事でなによりだった」
「私が悪いんだわ。叔父の忠告も聞かずに視界の悪い大雨の中を運転して。軽率だったとしか言いようがないわ。西城さんに命を助けてもらったのね」
「いや、僕も美紀さんに頼ってばかりでいけなかったよ。それに僕達がここまで来られたのは熊飛さんご夫妻のおかげなんだ」
そして彼は事故の経過を説明した。
車の前を鳥のようなものが通り過ぎ、気を取られてハンドル操作を誤り谷に転落したこと。
途中の岩場で一旦引っ掛かり、止まっている間に辛うじて車から脱出できたこと。
そして、途方に暮れていたところを熊飛夫妻が駆けつけてくれたことを順を追って話した。
「皆さん大変な目に遭っていたのね。その間私は気を失ってたんだわ」
「でも、あのご夫婦には驚いたよ。急な坂道も平気で登っていかれるし、美紀さんを背負っていても重荷になる様子はなかったんだ。おまけに僕も手を貸してもらったよ」
「じゃあ、くれぐれもお礼を言わなくちゃいけないわ」
そして、美紀は思い出したように尋ねた。
「私はその間どうだったの、何か言ってなかった」
西城は一瞬躊躇ったが、話すことにした。
「人の名前を呼んでいたよ。確かマサトさんと言ってたかな」
美紀は思わず息を凝らした。心当たりがあるようだった。
「もしマサトさんと言う人が美紀さんの思っている男性だったとしても、僕は悪く思わないよ。美紀さんのように魅力的な女性であれば、意中の人がいても不思議はないしね。それに時折何か事情がありそうな様子が見受けられたし。元々僕達は知人の紹介でお付き合い始めたのだけど、別に遠慮するような義理はないから。もし気になる人がいるのなら、僕は身を引いても構わないよ。残念だけどね」
その言葉に彼女は温かみを感じた。そして本心を明かそうと決心した。
「確かに雅人は私にとっては特別の存在なの。私の従兄弟で叔父さんや叔母さんの一人息子でもあるのよ。そして、雅人は7年前に冬山で遭難死したの」
西城の顔色が変わった。
「それはお気の毒に」
「私達は子供のころから一緒に遊び一緒に育った。私の母がシングルマザーだった関係で、叔父の教会によく行って1日を過ごしたのよ。私達は同じ家族のように遊園地やハイキングに行ったわ。バザーや教会のイベントにも参加したし、祭りや花火には必ず私を誘ってくれた。雅人は陽気でユーモアがあって周りを明るくさせたわ。楽しかった。いつの頃からか私達はお互いを異性として意識しだしたの。だからといって二人の間が変わったわけではなかった。相変わらず冗談を言い合い、時には励ましあったの。そして、自然と結婚相手として認めるようになったわ。母や叔父も二人が一緒になることに反対はしなかった。むしろ当然のように受け止めてくれた。その雅人が冬山に登ると言った時、誰も心配はしなかった。アルプスは好きで何度も行っているし、ベテランの登山仲間が一緒だし、いつものように明るい笑顔で帰って来るものと信じていた。私には独身最後の登山で、雷鳥の写真を撮ってくるからと約束して出掛けて行った。でも帰ってこなかった。再び雅人の顔を見ることはなかった」
美紀は昨日のことのようにたんたんと語った。
「私達の嘆きは痛烈だった。天真爛漫で誰からも愛された雅人の死はとても信じられなかった。今にも私達の前に顔を見せると思えてならなかったわ。衝撃が大きすぎて、皆が心の中に空洞が出来てしまった。叔父夫婦は牧師の仕事が手につかず職を辞してしまったわ。私もしばらくは放心状態に陥ったの。でも私達は時間とともに過去にとらわれず未来を見詰めようと決心したの。そして、叔父夫婦は今のペンション経営に第二の人生を見出した。私は母の仕事を手伝いある程度自立するまでになったわ。一方で適齢期になった私に結婚を勧めだした。ある意味では私に失った幸せを取り戻してほしいとの思いからなの。でもそのためには雅人のことを吹っ切る必要があったの。西城さん以外の男性とも交際したわ。いずれもこのペンションに招待し叔父夫婦に引き合わせたの。本心は迷惑だと感じているでしょうね。けれど私が乗り越えなければならない試練だと思っている。雅人のことを忘れこれからの幸せを求めていくこと。それが出来なければ私の夫となる人には失礼だと思ったの」
西城は黙って聞いていた。彼には美紀の苦悩がそれなりに納得できた。
「でも今回も駄目だった。花火を見ていて雅人の面影が頭を過ぎったわ。以前と同様に懐かしさに心が締め付けられそうになってしまった。もうこれ以上ここにいられない。そして大雨だったけど一刻も早く戻ろうと心に決めたの。恐らく私の軽率な行動に対して罰が与えられたのだわ。車の前を雷鳥が横切ったと錯覚して運転を誤ってしまった。西城さんには大変危ない目に合わせてしまって申し訳なく思ってます」
このとき西城が不意に声を掛けた。
「忘れることはないんじゃあ」
「え、なんておっしゃったの」
美紀は怪訝な声で聞いた。
「いや、僕も正直美紀さんの悲しみを理解できているわけではないよ。でも雅人さんを想う気持は大変強くて、ご両親と同様に固い絆で結ばれているんでしょうね。それは車が転落の途中で、無意識の内にその名を呼ばれたことでも判るよ。恐らく雅人さんは美紀さんの脳裡から切り離すことの出来ない大切な存在なんでしょう」
彼の言う通りその思い出の数々は今でも美紀の記憶の大半を占めていた。
「それならば忘れようと思わないで、過去の掛け替えのない思い出を心に留めていくことも大事じゃないかな。恐らくそれは美紀さんだけにしか感じることのできない追憶だろうし、例え口では反対のことを言っていても、もしかしたらご両親もそれを望んでいるんじゃないかな。親からすれば雅人さんをいつまでも偲ぶ人がいるのは嬉しいはず。それと本当に美紀さんに心を寄せる男性であれば、正直な胸の内を知っておきたいと思うよ。外観と同様にその記憶も含め内面も、美紀さんそのものなんだから」
その一言一言が美紀の胸に突き刺さった。
最も大切な人に対して背信を犯していることに相違なかった。
そして何よりも貴重な思い出を消し去ろうとした自分を、情けなく感じた。
詫びる相手はもういない。自然と瞼から涙が溢れ出した。
「ああ、そうそう、車が転落して一旦岩棚に引っ掛かったんだが、後から思うととても途中で止まるような場所じゃなかった。それと、美紀さんを車から引っ張り出した途端に再び谷底に落ちていったんだが、奇跡としか思えないよ。妙なことを言うようなんだが、まるで誰かが車を押さえてくれたみたいだったな」
それを聞き美紀は、
「雅人・・」
と最愛の顔を思い浮かべ、大粒の涙が頬にこぼれ落ちた。
*
食堂の正面に設けられた祭壇の前に二組のカップルが並ぶ。
老境に差し掛かった中沢夫妻と過去からの蘇生者、小太郎と波留の合同結婚式が行われていた。
いずれもペンションで用意したモーニングコート、ウェディングドレスを着用しており、緊張気味で且つ厳粛な雰囲気は、見違えるような瑞々しさがあった。
両脇には付き添役の大藪夫妻が立並び、その後ろには家族や宿泊客、ペンション従業員等が着席しセレモニーを見守っている。
出来るだけ教会結婚式のスタイルを演出しようと、テープの賛美歌を再生し、司会役である海老名の祈祷、聖書の朗読が行われた。
そして誓いの言葉を順次朗読した後、ペンション自家製の指輪の交換が続く。
その間の当事者の印象は好対照であった。
幾分顔が紅潮し真剣な表情の中沢夫妻に対し、戸惑い気味でぎこちない様子の小太郎、波留のカップル。
その一方で参列者はそれぞれの思いに浸っていた。
中沢家のメンバーは当主の晴れ姿に喜びを隠せなかったし、大藪一家や従業員は予期しなかった式典に臨むこととなり、いささか感激の体であった。
そして、体調がある程度回復し、西城とともに出席した美紀は、瞳を潤ませてまるで自分が新婦であるかのように夢見心地であった。
挙式の一連の進行が終えた頃には、雨も上がり夕日が山間を鮮やかに照らす眺めになっていた。
全員が協力しあって、式場は披露宴の会場に早変わり。
といっても、普段の食事用のテーブルが並べられただけであったが、いつもと違って持ち込まれた飲み物や食べ物は豪華であった。
豊富なサラダ類、焼き物、炒め物、魚介類さらにはステーキまでもあった。
さらにデザート用のケーキも用意されていたし、ビールはもちろんワインやシャンパンまでも取り揃えてあった。これには出席者も目を丸くし、驚嘆の声が上がった。いつの間にこれだけのご馳走が準備されたのか不思議でならなかったのだ。
大藪八千代が夫の耳元で、
「お父さん、この食費も宿泊費用に入っているんでしょうね」
と囁き、慌てている場面もあった。
そして全員がそれぞれの席に着いたが、一応披露の体裁を繕うために、経験豊富な大藪が祝いの言葉と乾杯の音頭をとることになった。
「弱輩者ではありながら今までに何組かの仲人役を務めさせて頂きましたが、今回のお二組ほど人生の貴重な体験を乗り越えて結ばれたカップルはありませんでした。私にとってはいずれも大先輩でむしろ教訓を学ぶ師といって差し支えないのですが、ただ間違いのないのはいつの時代でも夫婦の絆はこの上もなく固く、愛情は普遍のものであります」
無難な挨拶、祝杯、拍手の後は全員目の前の料理に舌鼓を打つのにしばらくは専念した。
なにしろ普段味わえないペンション自慢の特別のメニューが取り揃えてあった。
もちろん子供用の食材も用意されていたし、果物や菓子類もその都度口にすることができ、目の色を変えて存分に味わった。
さらにはジュース、ワイン、ビールも飲み放題でテーブルの上は隙間がないほど食品が溢れ、食事を満喫するのにそう時間は掛からなかった。
食後のコーヒーや紅茶が回り始めると、めいめい気分が和み雑談となった。
おのずと話題の中心は謎の小太郎と波留のカップルに集中した。昨夜は二人とも無口だっただけに余計に関心がもたれた。
「安曇でございましたか、お二人のご出身の村は今はどのようになっているんでしょうね」
大藪八千代の問い掛けに、気持がふっきれた様子の小太郎、波留のカップルは滑らかな口調で答えた。
もはや真実を語っても非難する仲間はいないのだ。
「実は私達はここに来る前、村里のあった場所に寄ってきたんですが、まったくの荒地で人が住んでいた気配はありませんでした」
「その場所で間違いないんですか」
「ええ、山の起伏や谷川や目印になる岩場の位置は変わってないので確かです。念のため家屋のあった地所を掘ってみると、燃え殻に混じって食器が出てきたんです。昔の生活の名残ですが、しばらく調べてみたところ、誰かに襲われたわけではなく、どうやら村人が自ら痕跡を留めないよう焼き払ったようです。あくまで想像ですが何らかの理由で全員が自分達の正体を隠して他所に移ったのではないかと思われます」
「小説などを読むと昔の忍者には我々が到底うかがい知れないような厳しい約束事があったようですな。じゃあ、上田城や小笠原城はどうですか」
中沢の問いに今度は鶴が答えた。
「どちらもお城があったとは思えないような変わりようよ。今は街の中心部でビルや大きな建物が立っていて、前の道路には車が頻繁に走っていたわ。昔の面影は全く無いわ」
「そうですか。ある意味では残念なことですね。過去の名残が消えてしまったのですから。じゃあ、お二人が係わりのあった人物、確か小笠原玄蕃はその後どうなったんでしょうな。歴史に名が見つけられますかな」
小太郎がやや浮かない顔で答えた。
「彼については郷土史の文献に記述がありました。上田城が焼け落ちて、私達が消え去った一ヵ月ほど後に毒殺されたようです。ただ誰が手を下したかは不明とのことです」
「それはそれは、まさに盛者必衰の実例ですね。戦国時代は特に目まぐるしく時局が変転しましたから」
「玄蕃の後は彼の従兄弟が継いでいますが、もしかしたら私達の仲間の仕事かもしれません。毒を使うのが得意な忍びもおりましたから」
「赤目がやったのかもしれないわ。彼なら気配を殺して近づくことは可能よ」
波留が確信したような素振りで言った。
「ある意味ではお二人や葵の方の仇を打ったことになるのですな」
「いや、今となっては真相はわかりませんが、悲劇を招いた者の宿命なのかもしれません」
小太郎は感慨深げに意見を述べた。
波留も相槌を打ち同調した。
居合わせた者にとっては現実離れの話題ではあったが、大いに好奇心をそそられた。
時空を超えた会話は尽きることなく、食堂の明かりは深夜までついたままであった。
*
次の日は前日と打って変わって真っ青な空に清々しい日射しの朝となった。
最初に出発したのは、ほんとの夫婦になった小太郎と波留であった。
ほとんど寝る時間はなかったはずだが、二人とも元気一杯であった。見送りの海老名夫妻に何度も礼を述べ、軽やかな足取りで山を下っていった。
その表情は晴れやかそのもので、来た時の悲壮感は消えていた。しばらく歩いたところで前を行く小太郎に波留が尋ねた。
「小太郎、私達これからどうするの」
「わからない。さしあたり今の両親に僕達のことを伝えないとな」
「そうね、その通りだわ」
頷いたが、すぐに再度口を開く。
「もう一つ質問していい」
「なんだい」
「もし、あの時車が落ちなかったら私の首を絞めていた」
その問いに思わず小太郎は立ち止まった。
波留はその顔を覗き込む。
彼は一瞬困ったような顔付きをしたがすぐに返事した。
「それもわからない」
そして再び歩き始めた。
波留はその答えに思わず笑みを浮かべた。
「待ってよ小太郎」
波留はその後を遅れまいと続く。
その様子は仲のいい幸せなカップルといってよかった。
美紀と西城は前日の転落事故について、警察職員に事情説明することになっていた。
最寄の警察署には連絡ずみで、ペンションの車を借りて現地で落ち合うことになっている。
車体はほとんど大破しているはずで、処分の手間ひまや車両の損害もばかにならないが、朝食を終えて出掛ける美紀の表情は意外と晴れやかだった。
体はすっかり回復し、海老名からは事後処理や代車の申し出もあったが、それ以上に彼女が長年抱えていた心の痛みが解けたことが機嫌の良い理由であった。
「気をつけて行くんだよ」
「大丈夫よ叔父さん。西城さんに運転してもらうから」
更に出発の寸前に海老名に耳打ちをして、
「私、西城さんとだったらうまくいきそうよ」
と打ち明け、彼を信頼し切っているようで、ようやく意中の相手が見つかったようである。
二人が出掛けた後、しばらくしてから二家族が玄関に出揃った。
中沢家の出発の時刻に、丁度、大藪の娘婿、新藤直人が迎えに来たのである。
彼は海老名夫妻とも以前から面識があり互いに挨拶を交わしあった。
そしてすっかり親しくなった両家族は別れを惜しんだ。
「お姉ちゃん、秀ちゃん、元気でね。また遊ぼうね」
「家に来なよ。面白いもの見せてあげるよ」
「ちびちゃん達も元気でね。楽しみにしてるわ」
「バイバイ」
意気投合した大藪真知や子供達だけでなく、大人達もペンションから去るにあたってお互い感謝の言葉を交わした。
「海老名さん、無理を聞いて頂き大変ありがとうございました。家内も念願叶って大喜びです」
「いえいえ、大したことも出来ず恐縮しております。これに懲りずまたお越しください」
「ええ、ぜひ参りますとも。そのときはよろしくお願いします。それと大藪さんのご家族には私達の身勝手な願い事にお付き合いいただき申し訳なく思っています」
「とんでもない。私達こそいい休日を過ごすことが出来て感謝しています。それも中沢さんご夫妻とご一緒できたおかげです」
「その通りですわ。こちらこそ素敵な気分にさせて頂きました。忘れられない思い出になりますわ」
大藪夫妻は口々に感謝の意を表し再会を願った。
その後もお互いに別れの言葉を掛け合ったが、いよいよ出発の時刻となった。
「じゃあ、お元気で」
「気をつけてお帰りください」
「バイバイ、また会おうね」
見送りの海老名夫妻にとってはいつもの光景ではあったが、心温まる感激のひとときであった。
二人とも彼等の車が見えなくなるまで、その場から動かなかった。
そして両家族が去ってようやく、海老名は妻の恵に声を掛けた。
「さて、それじゃあ私達も行こうか」
彼女は頷き、二人は肩を並べて歩きはじめた。
そして彼等が向かった先は、ペンションの裏手の見晴らしの良い高台であった。
そこからは信州平野部の展望が見下ろせたし、アルプス連山の威容を目にすることも出来た。
しばらくして二人は石片が敷き詰められた一角で足を止めた。
そこには膝くらいの高さの石柱が据え付けられてあった。
近づいてみると表面に文字が書かれていた。
『誰よりもアルプスを愛した海老名雅人ここに眠る』
二人の最愛の一人息子の墓碑である。
傍らには野の花が置かれてあった。
「美紀ちゃんが飾ってくれたんだね」
「ええ、今朝早く西城さんと一緒にこちらに向かうところを見かけたわ」
「どうやら理想の相手とめぐり合ったようだね」
「西城さんはいい人よ。幸せになってほしいわ」
そしていつものように海老名が墓碑に向かって語りかけた。
「雅人、ちょっぴり妬けるかい。でも彼女もお前と別れてかなりの年月が過ぎてしまったよ。もう新しい人生に踏み出してもいいんじゃないかい。温かく見守ってやろうな。もしかしたらあの二人を助けたのはお前じゃないかい。言ってたぞ、転落する車から途中で抜け出せたのは奇跡だって。私はそう思っているよ。これからもこの美しい大地と人々を私達と一緒になって守っていこうな」
そして彼は十字を切り祈りを捧げた。
「あなた。あの雲を見て、雅人が笑っているわ」
妻の声で彼は頭上を見上げた。
空に漂う白雲の形が亡き息子の顔の輪郭と瓜二つであった。
それはまるで彼の呼び掛けに応えているかのようであった。
*
ペンションから次の観光地に向かう大藪一家は、合同結婚式の話題でもちきりであった。
車の運転をしている長女の婿、新藤直人に、二組のカップルが挙式に至った経緯を一通り説明したのであったが、偶然神聖な教会の雰囲気の祝宴に同席できたことを感激する一方で、彼が仕事で最初から来れなかったことに同情した。
「私決めたわ。結婚式は教会でする」
真知が目を輝かせて広言すると、
「でもその前に相手探しね」
と姉の泉がからかった。
ところが父親である大藪の次の一言が波紋をもたらした。
「ところで、アルバイトの学生とはどうだったんだ」
「しー!、しー!」
思わず周りがその質問を制止した。
どうやら禁句だったようだ。
「構わないわ。彼女がいたのよ。近くの民宿でアルバイトしてたの。なんだかがっかりしちゃった」
大藪の目からは、真知のほうが積極的にアプローチしているのに対し、正直相手が迷惑そうにしているように見えた。
女だてらに少々軽率だったように思えたが、辛うじて言葉を飲み込んだ。
「それは残念だったな」
とさりげなく伝えると、真知は照れくさそうに繰り返す。
「残念、残念」
すると、孫の秀太がニコニコしながら真似た。
「ザンネン、ザンネン」
「あら、秀ちゃん同情してくれてるんだ。ありがとう」
そのあっさりとした態度に皆思わず噴出した。
「それよりもあの豪華な料理を食べられたことに大満足。美味しくてお腹いっぱいになっちゃった」
「まあ、はしたないこと。でも不思議ね。いつの間にあれだけの食材を用意したのかしら」
「そうね、シャンパン、ステーキ、ケーキもあったわ。まるでホテルの披露宴のようなメニューだった」
母親の八千代と泉が口を揃えて言った。すると大藪が少し迷い気味に答えた。
「実はあの食事は昨日のために用意されていたんだ」
「ええ!、それはどういうことですか」
八千代が問い質す。
「もう話しても構わないと思うが、中沢夫妻のあのペンションでの挙式は今回が四度目らしいんだ」
「えー!」
今度は皆が驚いてしまった。
「ペンションに到着した日に海老名さんから聞いたんだが、実は奥さんが四年ほど前に認知症に罹っていることが明らかになって、徐々に物忘れがひどくなったそうだ。それまではご主人と一緒に会社に出られていたんだが、社員の名前や会社の場所自体が判らなくなったそうで、自宅で治療に専念されることになったんだ。ただ現在の医学では、あの病いは進行を遅らせることが精一杯らしい。本人もそれを知ってひどく嘆いて落胆し、ご主人も不憫に思い看護のために会社から身を引かれたそうだ。ご主人からすれば奥さんに苦労を強いて事業を立ち上げてきただけに、今度はお返しの気持で決心されたんだな。
その後、徐々に病いは悪化し、物忘れとともにうつの症状も出始め陰気になって、ご家族の心配も募っていったそうだが、3年前に避暑でこのペンションを利用された折に、教会風のたたずまいを見られて以前と同様の温和な表情に戻ったそうだ。そして、今回のように夫婦の結婚式をしていなかった、そして子供の頃からの夢が教会で挙式をすることだったと言い張られたんだ。実際には教会ではなかったが、お二人が一緒になられたとき神式で挙式されたそうだが、奥さんの病いを耳にした海老名さんがペンションでの式の提案され、行われたのが発端だそうだ。結婚式のあと奥さんは、もちろん記憶は戻らないにしても明るい性格になられるらしい。それ以来定期的にペンションに泊まったときには式を挙げるそうだが、ご家族で奥さんに悟られ悲しまれないよう口裏を合わせているそうだ」
「そうか、それでわかった。ちびちゃん達がこれから面白いことが起こるよって言ってたわ。それと以前にもあったようなことも時々漏らしてた。何か変だなって思ってたんだ」
「そういえば奥さんの側には必ずご主人か娘さんが付いておられたし、海老名さんが式の提案なさった時もご家族が皆、即座に賛成されてたわね」
「でもあなた、なんでその事を話していただけなかったんですか。内緒にされていたなんて水臭いじゃないですか」
妻の八千代が問い質すと、途端に大藪は歯切れが悪くなってしまった。
「い、いや海老名さんから奥さんに悟られないように自然に振舞ってほしいって頼まれてね。あえて伝えることもないと思って」
「私は誰かさんみたいに口は軽くありませんから」
と更に畳み込むと、今度は真知が物言いをつけた。
「あれ、それは私のことかな。そりゃ、あんまりだ、あんまりだ」
「アンマリダ、アンマリダ」
「これ、秀ちゃんに変な言葉教えるんじゃありません」
八千代が娘の真知に注意した。
「アハハ、お養父さんからすればあらかじめ知らないほうが、予想外の結婚式に出席されて感激が大きいと思われたんではないですか」
大藪は娘婿の助け舟に思わず頷いた。
「その通りなんだ。夕食の食事の費用は全て中沢さんが出されたんだがあの豪華なメニューには私もびっくりしたよ。同じ日に宿泊することが分っていた我々や、挙式に係わった人全てに祝儀代わりにご馳走を振舞われたんだ。だから食料や式の小道具は事前に用意されていたし、その代金も過分に支払っておられたんだよ」
「そうね、なにしろ会社の経営者だけにお金持ちなんだわ。私達もある意味では協力したんだし遠慮することないわね」
「それにしても奥さんを一家で大切にされているのには感動するわ。確かに認知症に罹っておられるのは気の毒だけどご家族優しい人ばかりで奥さんも幸せね」
泉と八千代が交互に言った。
「ところで今回は偶然二組の仲人役を引き受けられた訳ですが、今までに相当な数の媒酌なされたと聞いています。そこでお養父さんとお養母さんにご相談なんですが」
「なんだねいったい」
少々気押され気味の大藪は娘婿の話しに膝を乗り出した。
「ええ、お仲人をされたそれぞれのご夫婦に場所と日を選んで集まってもらって、懇親会を開くっていうのはどうでしょう。もちろんもうお子さんが大きくなっておられる方もいらっしゃるだろうし、まだ新婚のカップルもおられますよね。ご家族も含め集まってもらったら大いに盛り上がるんじゃあないですか。もちろん主役はお養父さんとお養母さんになるわけですが」
「しかしなあ。何分にも全国に散らばっているし、夫婦の数も多い。そして子供達も含めるとなると出費も馬鹿にならんだろう」
「いえ、ご相談というのはそこなんです。私の会社では色々な企画を立ててイベントを行っています。同じ仲人が取り持った多数の円満夫婦の集いという名目で懇親会を開催するとすれば評判になり雑誌やメディアが飛びつくんじゃないかと思いますよ。その場合費用は全て会社もちで、皆さんの懐を痛めることがないようにします。もし同意いただければ早速社内に諮り根回ししますが」
「賛成!私会場の受付係りをするわ」
娘の真知が二人より先に声を上げた。
「アハハ、ありがとう。どうですお養母さんは」
「なんとなく晴れがましいわね。でも構わないわ。もし来て頂けるんなら今元気でやってらっしゃるのか聞いてみたいしね」
「お養父さんはどうですか」
「でもなあ。忙しい人もいるだろうし、日程の調整や連絡を取るのも大変だろうな」
「その点は任せて頂いて結構ですよ。リストだけ頂ければ、お二人の手を煩わすことはないようにします」
「そういうことなら君に任せるよ。まああまり期待しすぎないようにするがね」
「やったあ、なんだか楽しみが増えたみたいね。私なら喜んで何でも手伝うわ」
真知が嬉しげに言った。
「ヤッター、ヤッター」
と秀太もはしゃぐ。
「もちろん真知ちゃんにも色々とお願いするよ。これから忙しくなりますが成功すること請け合いますよ」
「もしそのときは今回の二組も対象になるわね。来ていただけるかしら」
泉が言うと大藪が首をかしげ、
「うーん。中沢さんの場合、ご主人はともかく奥さんは覚えておられないかもしれないな。私達の顔もそれと結婚式そのものもね」
「じゃあ、忍者のご夫婦はどうかしら」
「そちらのほうも難題じゃないかな。あの二人は予約もなしに突然泊まりに来られたそうだよ。幸い部屋が空いていたんでよかったんだが、宿帳に記入された名前と住所がどうも偽りじゃないかって海老名さんがおっしゃってたよ」
「じゃああまり期待できないってことか」
「それよりも私達だまされているんじゃないかって思ったりもしてる」
不意に真知が真顔で言った。
「それはどういうことよ」
「いえね、もののけかなんかが化けているんじゃ。あの二人人間じゃあなかったりして」
その意見に皆一瞬言葉を失ってしまった。
「馬鹿ね、真知、変な事言わないでよ」
泉が注意すると皆一斉に笑った。
「アハハハ、とにかく変わった人達だったな」
大藪一家が乗った車は賑やかに次の目的地を目指す。
『コーン、コーン』
ただ、彼等が通った山道を二匹の狐が仲良く横切った姿を見た者はいなかった。