三組のカップル(二)
「ご免なさい。私の我儘で朝早くから出掛けることになってしまって」
「いや、いいんですよ。今回はペンションの美味しい手料理を味わうことが出来たし、花火も見られたし充分満足していますよ」
「そう言って頂けると嬉しいわ」
美紀は西城にさかんに謝っていた。
けれども慌しい帰京は仕事の都合ではなく彼女の心境の変化にあった。
本来であればもう少しゆっくりと叔父の経営するペンションで過ごすつもりであった。
そして交際相手として印象の良い西城との関係を進展していくつもりであった。
ところが忘れようとしていた過去のひとコマが蘇り、心の傷を刺激してしまった。
彼女にとっては懐かしいけれども乗り越えなければならない思い出である。
今回もこだわりの心情を克服することが出来なかった。むしろ心の動揺が増し、一刻も早くペンションを後にしたかった。
山道を下るに従って雨は更に激しく降り注いだ。
美紀にとっては何度も通った道とはいえ、運転は難渋を極めた。
最大限の注意を払ってスピードを抑え慎重なハンドル操作で進む。余計な神経を使わぬよう、補助席の西城も言葉を控えている。
そしてそれが現れたのは急カーブの連続する下り坂であった。
突然、車の前を山鳥が横切った。その姿形を見た途端、彼女の耳にある言葉が聞こえてきた。
(美紀のために雷鳥を撮ってくるよ)
(まあ、嬉しい。帰ってくるのが楽しみだわ)
彼女の目はその鳥の後を追った。
「西城さん、見て見て、あれ雷鳥じゃない」
「いやあ、こんなところにはいないと思うよ。見間違いだよ。それより・・」
脇見となり一瞬ハンドル操作が間に合わない。ブレーキを踏む事も忘れてしまっている。
「危ない!」
西城も身を乗り出して、急カーブに沿って車を戻そうと試みる。
更に悪いことに前方向は保護柵のない急斜面の崖であった。
「キャー!」
必死の行動も空しく車は保護柵を乗り越えて、音響とともに谷底に落ちて行く。
車は横転を繰り返し、車内の二人は全くなすすべがなかった。
何度かの衝撃を経て、車は岩だなの茂みで止まった。
その下に落ちれば垂直の壁で大破することは間違いなかった。
辛うじて急斜面の途中に引っ掛かっている状況であった。
先に気がついたのは西城だった。
体を動かしてみると、腕や足に痛みが走ったが、骨は折れておらず運よく軽傷ですんだ。
美紀の具合を見ようと向きを変えた途端、車が大きく揺らいだ。
恐る恐る外を見ると、まだ危険な状況であることが分かった。
「美紀さん。大丈夫ですか、美紀さん」
何度か呼びかけたが、意識はないようであった。
けれどもうわ言で、
「マサト、マサト」
人の名前を口にして、気にはなったが、とりあえず無事であることがわかった。
「早くここから出ないと」
西城は焦りながらも車の外にでることに専念した。
そして何とかドアをこじ開けることができた。
その後、運転席で意識を失っている美紀を引っ張りながら、苦労して車外に出る事に成功した。
が、次の瞬間、車は再び動き出し真っ逆さまに谷底に落ちていく。
その様子を西城は呆然と見守る。正に九死に一生を得た場面であった。
けれどもまだ危機を脱したわけではなかった。
頭上を見ると急斜面で直登は無理に思えた。
ましてや美紀を抱えて行くことは不可能である。雨は絶え間なく降り注ぎ、気温も下がりこのままでは二人とも体が冷え切ってしまう。
西城は途方に暮れてしまった。
*
二人の戦いが再び始まった。
お互い体を休めた後、ほとんど同時に姿を現し、相手に対しにわか造りの木刀で向かっていった。
何度か打ち合ったが小太郎のほうが力で勝り、波留の木刀を跳ね飛ばした。
彼女は咄嗟に小太郎の懐に入り、素手で腕を掴んだ。これに対し小太郎は木刀を手離し、彼女の腕を取り組み合った。
更に、そのままの体勢で二人は山の斜面を転げ回る。
お互い死力を尽くしてのせめぎあいとなった。
そして、ようやく二人の戦いの終焉を迎える。
腕力では数段上回る小太郎が波留を地面に押さえ込み動けなくしてしまった。
波留はもはや抵抗は無駄と判断し、腕の力を緩める。
そして、小太郎は波留の首に両手を食い込ませる。指に力を入れれば決着がつく。
「もはやこれまでだな波留」
二人はお互いの顔を見詰め合う。
勝者である小太郎は苦しそうに頬をゆがめている。むしろ、首を絞められる寸前の波留が、微笑みを浮かべ満足そうだった。
その表情は早く楽になりたいと望んでいるようである。
そのとき、二人の耳に轟音が聞こえて来た。彼等はそのままの姿勢で動かない。
そして頭を巡らせる。
「聞こえたな、波留」
その口振りには幾分安堵感が漂っていた。
「そうね、車が崖下に落ちたようね」
「人の悲鳴も聞こえた。行ってやらねばなるまいな」
「私達、ついてないわね」
小太郎は波留から手を離し、立ち上がった。
波留も何事もなかったように体を起こす。
「行くぞ、波留」
と言いながら小太郎は走り出した。波留も笑顔のままで彼に続いた。
*
西城は車道まで登る足場を探していた。
岩棚を何箇所か確認し、斜面に生える木株を伝っていけば登っていける可能性があったが自信がなかった。
ましてや意識を失っている美紀を背負っていくことはとても無理であった。
かといって彼女を寝かせたままこの場から離れることも出来なかった。
避けるものもなく、まともに雨に濡れたままで放置すれば生死に係わるからである。
彼女は一向に意識を取り戻しそうになかった。
助けを求めるにもこのような所に人の気配は皆無であった。
携帯も車に置いたままで取り出す余裕はなかったし、彼女も同様で持ち物は何ひとつなかった。
西城は絶望的な気分になった。
「おーい、誰かいないか!」
無駄な努力と思いながらも、声を張り上げるしかなかった。
ところが思いもよらないことが起こった。
「ああ、そこでしたか。すぐに行きます」
信じられないことに頭上から即返答があった。それも近くであった。
彼は必死で叫んだ。
「ここです。ここです。下の岩場にいます」
西城は一転、元気を取り戻した。そして、急斜面を二人の男女が降りてくるのがはっきりと目に入った。
彼等はほどなく岩だなに辿り着いたが、その顔を見て驚いてしまった。
「あなた方は熊飛さん。どうしてここに」
「ええ、ほんの近くにおりましてね。大きな音を聞きつけたんです。どうなさいました」
二人とも雨具もなしで、西條達と同様に全身びしょ濡れであった。
「上の道でハンドル操作を誤りましてね、崖から落ちてしまいましたが運よくこの岩場で止まり、辛うじて抜け出しました。彼女を引っ張り出した途端に車は谷に落下したんですが、助かったのは奇跡としかいいようがありません。ただ彼女は意識がなくここで孤立状態になり途方に暮れていたんです」
彼の話を聞き、女性が由紀の症状を見るため近寄った。
そして顔を近づけ彼女の全身をチェックした。
彼女には診療経験があるようだった。
「体は大丈夫よ。脳震盪を起こしているだけみたい」
その言葉で西城は胸のつかえがとれた。
「ただ、このままではまずい。早めに助けを呼ぶ必要があるな。西城さん私が誘導すればこの崖を登れますか」
「私一人なら何とかなります」
「波留、助けを求めに先にペンションまで行ってくれないか」
「わかったわ」
意味を理解した彼女は急斜面をいとも簡単に駆けあがって行く。
その様子を西城は目を丸くして見守っていた。
そして更に驚嘆すべきことが起こった。
「さあ、私達も行きましょう。上の車道までゆっくり上りますのでついて来てください」
美紀をどうするのか心配だったが、聞くまでもなかった。
熊飛は美紀の側に寄り、彼女を背負った。そして紐で結びつけ落ちないようにして、斜面を登り始めた。
熊飛は彼女の重みも降りかかる雨水もほとんど苦にならないようだった。
西城はその底知れぬ体力に呆然としたが、すぐに我に返り足場を慎重に確認しながら後に続いた。
*
連泊の二家族はペンション内で休暇を過ごしていた。
大雨で外出を控えざるを得なくなり、特に子供達は退屈しがちだが、悪天候時を想定して館内には様々な娯楽設備や鑑賞用のツールが用意されていた。
食堂では大人から子供向きまで各種ビデオが見られるようになっており、娯楽室にはゲーム機や玩具類、もちろん図書も幅広く置かれていた。
いずれも山間で余暇を出来るだけ楽しんでもらおうと事前に海老名夫妻が気配りして準備したものである。彼は元牧師とはいえ、決して規律に厳格な人間ではなかった。
世の中の最新流行の文化や機器も柔軟に取り入れていた。
午前中、大藪真知が娯楽室で子供達の相手をしていた。賑やかで笑い声が堪えず、彼女の存在は大人たちにとって大助かりであった。
年配者達は一通りの館内の見学を終え、海老名も含め食堂に集まり、それぞれの苦労話に花を咲かせていた。
「私達も今の会社を立ち上げた時は、丁度結婚直後で休む暇もありませんでした。私と仲間が数人のスタートで作った商品は果たして売れるものやらさっぱり自信がなかったのですが、とにかく数年は無我夢中の毎日でしたな」
中沢幸男の話に大藪は興味を示し相槌を打った。
「さぞかし大変だったでしょう。とにかく仕事を継続していくにも意気込みだけでは難しいでしょうしね」
「その通りです。何度仕事を止めようかと思ったことか。頑張っても頑張っても報われないという時期があるもんですな。だがその都度家内に引き止められましてね。たとえ収入がなくなっても生きていけるし、今止めたら後悔するだけだとその都度励まされ、そのうち、世の中がバブルになって、運良く私達の仕事も軌道に乗ったわけです」
「じゃあ、今の会社があるのは奥様の内助の功のたまものですわね」
大藪八千代が感心して口を挟んだ。
「ええ、家内には頭が上がりませんでしてな。その後会社の規模が大きくなってからも、若い社員の面倒はある意味では家内の役割になって、私は商品の販売だけに専念できたわけです。今でも社員からは私よりも家内のほうが慕われていますよ」
「まあ、素敵ですわね。ご夫婦が一心同体でお築きになった会社なんですね。奥様のご苦労も並大抵ではなかったでしょう」
「あの頃はお金がなかったし、食べていくだけでやっとの有様でしたわ。でも我慢すればなんとかなる。とにかく主人の願いを叶えさせてあげようと、慣れない内職もやりましたわ」
中沢頼子が懐かしそうに言った。
「まあ、それは大変でしたわね」
「ハハハ、家内は裕福な家庭の娘でご両親の反対を押し切って、貧乏人の私がさらって行ったようなものでしてな。気の毒なことをしてしまいました」
「あら、私はちっとも後悔しなかったわ。むしろ色々なことを体験できて幸せでしたよ。もちろん今でも。ひとつ心残りがあるとすれば、私達結婚式を挙げてないのよ。一度でいいからウェディング気分を味わってみたかったわ。子供の頃から教会で挙式するのが夢でしたのよ」
「それはご同情しますわ。さぞ楽しみにしていらっしゃったのですわね」
「家内はクリステャンの家庭で育ったんですよ」
中沢が捕捉すると、海老名が言った。
「今のお話をお聞きしてふと思ったんですが、私どものペンションでは十分とは言えませんが挙式の用具を取り揃えております。もしご希望があればご相談に乗りますが」
そのとき、不意に海老名の妻の恵が外から入ってきて彼を呼びかけた。
「あなた、ちょっと」
明らかに狼狽気味でせわしなく耳打ちする。
話を聞いた海老名も一瞬にして顔色が変わった。
そして彼は振り向いて言った。
「急用が出来ましたので、ちょっと失礼します。この後もごゆっくりおくつろぎ下さい」
そう言い残して足早に外に出て行った。
「何かあったのでしょうかね」
八千代が心配そうに言うと、大藪も眉間にしわをよせた。
「さあ、大きな事故でもなければいいんだがな」
*
その疑問の答えは一時間も経ずに明らかになった。
慌しく車で出て行った海老名が戻って来ると、同乗していた男女の手を借りて、全身びっしょり濡れた意識のない女性をペンション内に運び入れた。
彼女は早朝に西城と一緒に出発した桜木美紀であった。
食堂に集まっていた宿泊客は、この様子を目にしていたが、帰館者の中に、熊飛夫妻がいることに驚いてしまった。
海老名が彼等の方を向き、山道で二人が乗った車が谷に転落し、熊飛夫妻が助けたことを簡単に伝えた。
美紀は事前に用意していた奥の部屋で寝かされ海老名夫妻や熊飛夫妻に看護された。
しばらくたってから食堂の人達に、美紀は頭を打った衝撃で意識を失っているが、命に別状ないと知らされた。皆一様にほっとした表情で喜びあった。
昨夜彼女と親しく会話していただけに我がことのように心配し同情を誘っていたのだ。
ただ、ほとんどが慎みがないと自覚していても、好奇心に勝てずその場を動かずにいた。
雨は今も降り続いており、館内で時間をつぶす以外なかった。
気の毒ではあったが、彼等にとっては格好の話題には違いなかった。
そのうち、海老名が着替えをした熊飛夫妻と一緒に食堂にやってきた。
妻の恵と西城は美紀に付き添っているとのことだった。
が、一同の注目は熊飛夫妻にあった。
二人とも昨夜以上に顔や手足が擦り傷だらけで、痛々しく感じた。
けれども表情は打って変わって穏やかな印象が見受けられた。何か心境の変化があったように感じられる。どうやら、傷の手当てをした後、海老名からそれとなく集まっている人達に事故の状況の説明をしてほしいと促されたようである。
二人とも心得ているようで、迷惑そうな素振りはしなかった。
早速、熊飛が崖道の真下の岩だなで二人を見つけた経緯を話し始めた。
間一髪、西城氏が落ちる寸前の車から美紀を抱えて這い出たところは、皆固唾を呑んで聞いていた。
もっともこの場面は彼等が実際目にしたわけではなかったのではあったが。
そして奥さんがペンションに走り、海老名に知らせたところまで一通りの説明を終えたのである。
「美紀を助けて頂いたことは大変感謝しております。事故現場近くにあなた方がおられたことは、二人にとってまことに幸運でした。美紀の叔父として心からお礼申し上げます」
海老名は二人に感謝した。また、一同は素早い行動を口々に称賛した。
しかしながら、その場の人達はある種の疑問を抱いていた。
それは車の転落事故とは関係なく熊飛夫妻の素性にあった。
彼等はなぜ体中に傷を負っているのか。昨日といい今日といい山中で何をしていたのか。
二人とも超越した体力をもっている理由等、むしろそちらの方に興味を覚えた。
皆を代表して示唆したのは大藪であった。
「お二人の適切で迅速な行為に感服しております。ただ、お気を悪くされると恐縮ですが、お二人には何か事情があるのではないかと推察するんですが。昨日も今日も同様の怪我をなさっていますが、とても転倒してついたとは思えないですし、しかも普通の人間なら直すのに二三日静養しなければならないような傷です。何か特殊な理由で行動されているように見受けてならないのですよ。何か私達でお役に立てることがないかと願っているんですが」
「あなた、ご夫妻にいきなりそんなこと言っても困ってしまわれるんじゃない。多勢いる中で打ち明け話なんかするのは無理ですよ」
八千代が二人に助け舟を出すと、熊飛夫婦はお互い目を交わしうなづき合った。
そして男の方が淡々と語りだした。
「いえ、もはや今となっては、私達の身の上を話すことに拘りはありません。むしろこれも何かの縁、私と彼女との関係を告白することで区切りをつけることが出来るかもしれませんね。ただ信じてもらえるかが心配です」
そこで彼は一呼吸置いた。皆固唾を呑んで聞いている。
「実は私達は夫婦ではありません」
それはある程度予想できた。そう驚くことではなかった。
が、次の一言に皆仰天した。
「私達はお互い敵同士なんです」
*
信州の戦国武将上田氏と小笠原氏はお互い隣国同士で覇権を争っていた。
長年対立を繰り返したが、智謀知略で勝る小笠原氏が近隣の豪族を従え、勢力を拡大していく。
その中にあって、安曇の小部族の忍び集団は生き残りを掛けるために、いくつかの有力武将の配下に陰忍を送り込んでいた。
いずれも彼等の役目は情報収集と工作活動にあった。
集団内の規律は厳格で全て頭領の指示で行動していた。
両武将のもとにも間者を差し向けていたが、普段は正体を見破られることがないよう組織の一員として溶け込み、必要な時以外は仲間と連絡を取ることはなかった。
戦闘力に劣る上田氏は小笠原氏との戦いを避けるために、味方としてその軍門に下るべく恭順の意思を伝えた。
一族の存続を賭けた苦肉の策であった。
規模の拡大を目指す小笠原玄蕃にとって、その申し入れは渡りに船で歓迎であったが、寝返りを避けるために一定期間の人質を要求した。
この時代家臣の欲に絡んだ変節は珍しいことではなく、それを防ぐための担保を取る事が一般的であった。親や兄弟、子供等が対象であったが、主である上田秋光の場合適当な該当者がなく、二年前に伴侶となった正室が1年を目途に人質として小笠原氏の城内で離れの館を与えられ寄宿することとなった。
彼女が許可なく城外に出ることは禁じられたが、夫が離邸に立ち寄り泊まることは可能であったし、忠節に疑いなければ元の領地に戻ることが約束されていた。
ただ、彼女は信州一円で稀に見る美貌で知られており、遠縁にあたる上田秋光のたっての希望に応え妻となったが、二人の間に子供は恵まれないものの誰もが羨むほどの仲のいい夫婦であった。
しかしながら、この名高い噂の器量が悲劇を招くことになるのであった。
「波留、波留はおりませんか」
人質としてもう1年あまり小笠原城内の離邸暮らしを余儀なくされている葵の方が下女を呼んだ。
「はい、お方様、波留はここにおります。何か御用で」
「殿が一昨日城内にお入りになって、小笠原玄蕃殿と面談されているはず。昨夜はこの離邸にお越しになりませんでした。様子を見てきてほしいの」
波留と呼ばれた年下の小間使いは葵の方にもっとも信頼されており、相談相手でもあった。人質が逃げないよう館に番人がいるが、葵の方以外の出入りは自由であった。
「そうですわね。何かあったのでしょうか」
「この前来られた時には、間もなく私が上田の地に帰れるとおっしゃってました。今回はまだなのかもしれませんね」
彼女は夫からの吉報を心待ちにしているのであった。
人質生活からの開放、以前のような夫との領地での水入らずの暮らしを楽しみにしていた。
それを察知した波留は、
「案じられることはございません。必ず戻れますとも。これからすぐに行って、詳しい者に聞いて参りましょう」
と安心させてから邸内の勝手口に向かった。
そして、外に出た彼女の行き先は、小笠原配下の有力武将が住む屋敷であった。
その隣接した林に来て、彼女は鳥の鳴き声を模した口笛を吹いた。
何度か吹き続けその場で屋敷内で雇われた仲間からの返事を待つ。
そう彼女は安曇の部族が上田氏に送り込んだくのいちであった。
同忍郡は特定の女性も忍びとして育てていた。
彼女は二年前に葵の方付きの小間使いとして勤めだし、気に入られるようになった。
また、母親も兄弟姉妹もいない波留にとっては、肉親以上に親密な間柄となり、葵の方が人質となってからも付従って来たのであった。
「いないようね」
仲間の忍びと連絡がつかないと分かると、心当たりの知り合いに上田秋光公の居所を問い合わせた。
その結果、着いた日は城内で一泊し次の日慌しく上田の領地に帰ったことがわかった。
いつも必ず離邸に立ち寄っており、素通りしたことは気にはなったが、小笠原城で長時間過ごしたことは喜ばしいことには違いなかった。
主の小笠原玄蕃から信頼を得た証と言ってよかった。
恐らく急用が出来て領地に戻ったのであろうとの推測を交え待遇良化の兆しを報告すると、葵の方は喜びを表した。
その日の夜、波留に仲間から連絡があった。
(赤目、昨日はどこに行ってたの)
(村に戻っていた。頭領に報告することがあってな。ところで波留、親父殿が甲斐で偵察中に深手を負われた)
(え、父様が、そんなに悪いの?)
(ああ、何とか気力だけで村に辿り着かれたが、相当悪い。おぬしに戻るよう言付かってきた)
(分かったわ、すぐ支度して戻るようにするわ)
波留は主人である葵の方に事情を説明して里に帰る許可をもらった。
但し、父親は病で倒れたと偽り、落ち着いたら再び戻ると約束した。
そして、朝早く離邸を発った。
その日の宵深く、突然離邸に小笠原玄蕃が訪問してきた。
葵の方やお付きの者達にとっては寝耳に水で前触れもなかった。
ましてや夫が不在の部屋に玄蕃が突然訪れたことは、驚天動地のことであった。
葵の方が慌ててもてなしの支度をしようとするのを遮り、付き人を下がらせ彼女と二人だけとなって玄蕃は言った。
「わしは今夜ここで泊まることにした。葵の方、相伴するように」
この言葉に彼女は青ざめた。頭を働かせ必死に言葉を探した。
「恐れ多くも私の夫は在所にあって留守にしておりまする。上田はこのことを存じておりましょうや」
「おや、知らなんだのか。上田秋光殿はそちと別れる決心をしたのを」
「今、何とおっしゃられました」
「うむ、我が小笠原と上田氏がより強固な関係を築くために、わしの妹を腰入れさせることになった。我々はお互い義兄弟となるわけだ。ついてはそちの処遇のことを相談したが、なに何も心配することはない。わしの側室にすることにした。つまり人質の身分ではなくなるのだ。よってここで今までと同様に暮らせばいいし、望みのものがあれば何でもわしに言うがよい」
「いきなりのことでとても信じられませぬ」
「そうか、初耳では疑うのも無理はないわ。じゃあ、これを見せよう。秋光殿がそち宛にとわしに託していったのだが」
玄蕃が懐から書きつけを取り出し、葵の方の前に置いた。彼女は恐る恐るそれを手にとって目を通す。
それは間違いなく夫である上田秋光筆跡の離縁状であった。
「秋光殿は直接そちに渡すのはさすがに気がひけたと見える。後をわしが引き受けると、安心して挙式準備のため慌しく在所に帰っていったわ」
彼女は茫然自失の状態で考える気力を失ってしまった。
「だが悲観することはない。今後は側室とはいえわしの妻であることに変わりはない。申すがよい。欲しいものは何なりと求めてとらそうぞ・・」
彼女には玄蕃の後の言葉は聞こえてなかった。
感覚が麻痺し時間が止まってしまっていた。もはや彼の言いなりになるしかなかった。
その頃、暇をもらって村里に向かっていた波留は、途中で懐かしい声に呼び止められた。
「波留、波留、何を急いでいる?」
「小太郎ね。久し振り。元気そうね」
二人は同郷の幼馴染で、物心ついた頃から忍びとして鍛えられ苦楽を共にしてきた間柄であった。
彼女の張り詰めていた気持ちがいちどに和んだ。
「父様が甲斐で勤めの最中に深手を負われたと聞いたの。里に向かっているところよ」
小太郎は首を傾げて言った。
「それはおかしい。親父殿には昨日見掛けたが大事なかったぞ。それに甲斐などには行かれておらぬ。何かの間違いではないのか」
それを聞き波留は愕然とした。
小太郎は嘘を言う人間ではなかった。
「謀られた・・」
彼女は声にすることなく呟いた。
いったい何のために。頭を懸命に働かせる。
「いったい、どうしたんだ」
小太郎は彼女の戸惑いを察し心配そうに見守っている。
葵の方の身に何かが起こる。
そのために邪魔な私を遠ざけた。彼女はそのように結論づけた。
彼女の六感は葵の方を守れと告げていた。
「小太郎、私は小笠原に戻る。また今度」
と言うなり波留は踵を返し駆け出した。
「おい、何が起こっているんだ」
小太郎は唖然として見送る以外なかった。
夕刻に離邸に辿り着いた波留は、門番のものものしい様子に気がついた。
彼等と顔を合わせるのを避けて、塀を乗り越えて中庭に入った。
邸内はひっそり静まり返っている。
彼女は悪い予感を覚えた。いつもと異なり不穏な空気が漂っていた。
廊下に上がり忍び特有の足音を立てない歩き方で目的の部屋に向かった。
奥の間まで来て線香の臭いに気がついた。
そして部屋の中から嗚咽が聞こえて来た。もはや異常な事態が生じていることは明らかであった。
ゆっくりと襖を開ける。
彼女の目に飛び込んできたのは、敷物に寝かされ顔に白布を被せられた女性で、着衣や輪郭からして、明らかに葵の方その人であった。
その傍らに老女が寄り添う。
彼女は葵の方の最も古い世話役であった。
「どうしてこんなことに・・」
波留は絶句してその場で放心状態に陥った。
老女は彼女に気がつき声を掛けた。
「ああ、波留ね。戻りが早かったのね」
「途中で知り合いと出合い、帰る必要がなくなったのです。いったい誰がお方様をこのような目に」
彼女が最後に見た葵の方は明るく元気な表情だっただけに、誰かが危害を加えたとしか思えなかった。
「いえ、そうじゃないのです。お方様は自ら命を絶たれたのです」
「いったい、なぜ・・」
波留の疑問に対して、老女は涙ながらに説明をはじめた。
昨夜突然、小笠原玄蕃が現れたこと。
そして葵の方が政略の巻き添えとなり上田秋光に離縁され、今後は玄蕃の側室としてこの離邸で暮らすことになる経緯を途切れ途切れに話した。
「そして、その夜は玄蕃公はこの部屋に泊まられ、朝早く帰って行かれました。私達は部屋越しにお二方の声を耳にしていましたが、途中からお方様の声が聞こえなくなってしまいました。恐らく悲嘆に暮れて口もきけない有様ではなかったかと思われます。一部始終を耳にしていた私がお部屋に入り目にしましたのは、普段とは打って変わり、魂の抜け殻のようなお方様のお姿でした。おいたわしい限りで、何を申しましてもご返事はありません。落ち着かれるまでそっとしてさしあげようと思い退出しましたが、その気配りが逆にあだになってしまいました。しばらくして部屋の中から呻き声が聞こえます。私が声を掛けながら襖を開け中を覗くと、お方様が小刀で喉を突き苦しんでおられました。あたりは血の海で私が抱え起こした時はもはや手遅れでした。束の間、虚ろな眼差しをされ息絶えられたのです」
老女は涙にむせび言葉が途切れた。波留の頭に無残な状景が映し出されている。
「遺書さえありませんでしたが、ご自害の理由は明らかです。お方様にとって故郷である上田の地に帰り、秋光様や親しい方々と暮らすことが生きがいの全てでした。それが絶たれた今となっては生きていく意味が無くなったのだと思います。ましてや玄蕃公の捕囚のような身になって行く末を絶望されたのだと察します。私はこのことをすぐに外に知らせませんでした。自分で判断し屋敷内の付き人全てに暇をとらせ、門番を適当に誤魔化して、それぞれの里に帰らせました。もし玄蕃公がこのことを知ると、あのご気性からすると口封じのため全員殺されかねません。お方様の御身をお化粧直しした後で、先ほど城に知らせてもらったばかりです。波留、あなたはお方様のお気に入りで、姉妹のように親しくしていたのは誰もが知っています。ここにいるとあなたも危険です。すぐにここから立去るのです」
波留は葵の方の枕元に座り白布を外し両手を合わせた。そして薄幸の亡き女主に対し、心から冥福を祈った。玄関あたりが騒がしくなっている。
「ご老女様はどうされるので・・」
「私は役向きの方に事情をお話した後、お方様の後を追うつもりです。お一人では淋しい思いをしておられましょう。さあ波留、ここから出るのです。間もなく彼等がこの部屋にやってきます。一刻も早く安全な場所に行きなさい」
男達の怒鳴る声が聞こえてきて、波留は後ろ髪を引かれる思いでその場から離れた。
裏庭に向かいながらも彼女は腸が煮えくり返っていた。
小笠原玄蕃の卑劣な仕打ちに怒りを覚え、夫である秋光公の背信を許せなく感じた。
外に出ようと塀に近寄ったとき、忍び仲間の気配を感じた。
(波留、なぜ戻って来た。親父殿に会わなんだのか)
(赤目、よくも私を騙したわね)
(まあそう怒るな。わしもこうなるとは思ってもみなかったわ。ただ、おぬしを帰すように言ったのは、頭領と親父殿なんだ)
(なぜ・・)
(わしは玄蕃と秋光公の取引を盗み聞きして知ってしまった。ただ葵の方に情が移ったおぬしが知ると、逆上して何をしでかすか心配だったので、村に相談に行った。そして親父殿の提案でご自身が深手を負ったことにして、おぬしを呼び戻すことにしたのだ。結果として葵の方は自らの命を絶った。可哀そうだが戦国の世の武門の身内にありがちな宿命そのもの。嘆き悲しんでもきりがない、早く忘れることだ。ましてや我々は忍びの者。人情は不要。波留、もうここには用はない。帰るのだ。早く村に帰り、指示を待て)
彼女は一瞬頭を巡らし頷く。
(わかったわ。これから村に戻るわ)
(そうか。わかってくれたか。それがよい、それがよい)
赤目は胸を撫で下ろすや、徐々に気配を消し去った。
それを確めた波留も名残惜しそうに一度振り返ったがすぐに塀を乗り越えて出て行った。
しかしながら波留は村里に戻らなかった。
忍び一族は手分けして彼女を探した。
頭の指示に従わず、勝手な行動を取る事は掟破りで糾弾される。
明らかに抜け忍とみなされれば討手を差し向けられるのである。
ましてや葵の方の死に同情し且つ憤慨したと思われる彼女のこと、弔いのための騒動を引き起こす恐れがあった。
そして、その予感は的中する。
彼女の姿は発見できなかったが、その行動は明らかになった。
「殿、殿、大変です」
「何事だ、血相を変えて。誰かが攻め込んで来たとでもいうのか」
小笠原城の居室でくつろぐ玄蕃公のもとに側近が駆け込んできた。
「い、いえ、そうではございません・・」
「どうしたのだ。はっきり言え」
「は、はあー、お、御曹司が、御曹司が、中庭の池で溺れて・・」
「な、なにー、それで具合はどうなのだ」
「い、意識がございません。今、医者を呼びにやっております」
「たわけ、なんてことだ。わしも行く。案内せい!」
すぐに玄蕃は現場に走ったが、辿り着いた時はもはや手遅れだった。
近習や側近達が詰め掛けていて、池中央にうつ伏せで浮いた状態の御曹司を、水面から引き上げ蘇生処置を施したが息を吹き返すことはなかった。
まだ5歳の男の子で、玄蕃の跡継ぎとして大事に育てられ、正室の唯一の子でもあり愛情を注いでいたのであった。
それだけに彼の嘆きと怒りはすさまじく、一種の狂乱状態に陥った。
「わしの大切な嫡男をいったい誰がこんな目に。下手人を探せ。世話役も許さん。処分しろ」
もはや誰かが手を下したものと信じ込んでいた。
その剣幕を恐れ側近達が行った関係者の処分は過酷なものになった。
嫡男の付き人や世話係は職務怠慢で重大な罪を犯したものとみなされ全て打ち首を含め厳罰に処せられた。又、下手人探しに全力を尽くすよう命じた。
そして配下の者はその指示に従って、城内外の探索、聞き込みに駆り出されたが、数日後手掛かりが見つかったのであった。
ひとつは中池の近くで上田氏の紋が入った細工物が落ちており、また、当日、上田の郎党と思われる者が城外に駆けて行くのを目撃したとの情報もあった。
早速玄蕃に注進に及ぶと、彼は烈火のごとく激怒。
「おのれ、秋光めが、内儀の死に狂いおって、恩を仇で返すとは、許さん、許さんぞ、皆の者出陣だ、目指すは上田城だ。上田を滅ぼせ」
もはや冷静に証拠を吟味する余地などなかった。
葵の方の自害で面目を潰されたばかりで、彼の頭は上田憎しで凝り固まっている。
また、その剣幕を恐れ、諌めるものなど誰もいない。
むしろ、手柄を立てようとほとんどの家来が出撃していった。
一方、安曇の忍び一族では、一連の犯行が誰の仕業か判っていた。
姿を隠している、くのいちの波留は水術が得意であった。
彼女からすれば、幼い御曹司を水中に引き込むくらいは容易であったろう。
城中に忍び込み、中池で身を隠し、御曹司が近づくまで待ったのに相違なかった。
忍びの者は何日も気配を絶って動かずなりをひそめることは可能であった。
そして、数日も経ない内に上田城は火の海となった。
城下は短時間で小笠原の大群に占拠され、上田の手勢も刃向かう間もなく散りぢりになった。
主である秋成の申し開きも聞き届けられなかった。玄蕃からの指示は、
「城にいる者は全て討ち取れ。一人も生かして逃がすんじゃないぞ」
との過酷なものであった。
秋成の忠実な臣下は果敢に戦ったが、多勢に無勢ほとんどが討ち死にしていった。
更に阿鼻叫喚が城内を襲う。
もはやこれまでと、戦えない女子供がそれぞれの部屋で自害していった。
主の秋成や近習の者も無念の切腹をして上田一族は滅んだのであった。
燃え盛る奥の間に一人の女子が潜んでいた。
絶体絶命の状況ではあったが、恐れている様子はなかった。
彼女にどこからともなく声が掛かった。
「やはりここだったか、波留」
影がみるみる実体化し正体が明らかになる。
彼女の最も親しい忍び仲間が現れた。
「小太郎ね。私を成敗するためにきたの」
「ああ、全てが波留の仕業だとお見通しだ。ここにいることもな。親父殿が毒をあおった。責任を感じたようだ。我ら一族の掟は厳格だ。破った者は仲間の手で抹殺される。俺にそのおはちが回ってきた」
波留は父親の死に動揺した。
彼女のせいで、あまりにも多くの命が奪われてしまった。
「ここで3年前初めてお方様と出会った。日が経つにつれ分け隔てなく優しくて泉のような澄み切った心根に私は虜になった。いつのころからか、私の境遇も使命もどうでもよくなってしまい、気がついたら、お方様を姉のように慕い、最も大切な存在になっていた。そして、その身を守り、幸せを願うことが私の全てになってしまった」
「今となっては殉じるつもりだな」
「忍びとしては失格ね。激情に駆られたありふれた女にすぎないわ。でもあなたが来てくれて助かった。最後にくのいちとして腕を奮えるわ」
「わかった。俺は役目を果たすだけだ。容赦はしない」
そして二人はお互い向き合った。
どちらからともなく武器を手に相手の方に動いた。
ところが交差の瞬間思いがけないことが起こった。
燃え盛る建物が彼等の頭上で崩れたのだ。
避ける間もないぐらいの一瞬の出来事で、二人とも炎の中に飲み込まれていた。
*
話はとりあえず一区切りがついて、そこで言葉が途絶えた。
しかしながら食堂に集まった人々からは誰一人声が出なかった。皆瞬きしつつお互い見交わしている。
しばらくして最初に口を開いたのは海老名であった。
「それではお城に残った二人があなたがただと・・」
その問いを受け再び熊飛が話しだした。
「そうです。建物の下敷きになって私達は意識を失ってしまいました。二人とも一瞬にして体が燃え尽き命を失ってしまったのかもしれません。ところが、ほんの数日前私達は同時に蘇ったのです。つまり、五百年後のこの世界の全く別人の体に乗り移ったのです。いや、私達が城で戦った時と同年齢になった瞬間に、前世を思い出したといって差し支えありません。不思議なことにお互いを探す必要はありませんでした。交際さえしていませんでしたが、身近にいた知り合いどうしだったんです。私達はお互い成すべき事を思い出しました。そして忍びの能力も備わっていて、足は自然とここに向かっていました。この地はかつて上田城があった場所なのです。五百年前ここで掟に従った闘いをしていました。私達の本能と意志は果たしえなかった決着をつけるよう呼びかけています。もう城はありませんから、この山林でケリをつけようとしていたのです」
そのとき大藪が口を挟んだ。
「やはり超自然的な出来事で納得することが難しいのですが、それが事実だとしても五百年前のことでお仲間も知人も誰一人おられないはずです。悲しむべき記憶もおありでしょうが当時の伝統に縛られることはないと思いますが」
「確かに掟通りに行動しても誉めてくれる者はおりません。ただ私達の過去の履歴は血に染まっています。波留は子供に手を掛け、又、直接ではありませんが多数の人々の死を招いたことに苦しんでいます。私も同様に多くの尊い命を奪ってきました。要するに、この世界にいてはいけないのです。私達のような罪人は蘇るべきではなかったのです。もし二人のうちどちらが生き残ったにしてもすぐ後を追うでしょう」
熊飛が波留であった女性に目を投じると、彼女もうなづき返した。
再び海老名が問い掛ける。
「私が元牧師だから言うわけではありませんが、お二人が現在に復活された理由は命の奪い合いではないように思えるのです。むしろ過去に成しえなかったことを神というか主が期待されているように想像します。その点でいうと、美紀や西城さんを助けて頂いたことはその精神に叶ったものではなかったでしょうか」
「かといって私達の罪は消えるわけではありません。価値観の異なるこの世界ではより一層の罪悪感にさいなまれています。私達の戦いは苦しみを絶つ意味もあるのです」
二人の意志は固そうに思えた。
けれども迷いも見受けられた。
そこを突いたのは最年長の中沢であった。
「お二人は五百年前に犯した罪を命を絶つことで清算しようとしておられる。けれどもそれは新たな犯罪を作り出すことになると思えるのですが」
「いえ私達は過去の人間です。当時の流儀で裁かれるのは当然だと思っています」
「確かにその通りかもしれません。ただ、お二人が蘇る前の人格は現在の人間です。もしあなた方が別人の肉体を借りているだけとしたら大変なことになってしまいます」
皆がその説明の意味を理解し、うなづき交わした。
「どちらが相手を負かそうが息絶える寸前に元の人格に戻ったとしたら、お二人だけの問題では無くなってしまいます。もしかしたら無意識の内にその恐れを抱いておられ、ためらいの気持がおありなのかもしれませんね」
二人は困惑した。
確かにお互い攻撃を繰り返していてもほんのわずかのところで急所を外していたからであった。
彼等本来の体型や容貌が異なっていることが決着をつけられない理由でもあった。
「じゃあ、私達どうすればいいのでしょう」
今度は波留と呼ばれた女性が尋ねた。
心細げに当惑したその表情からは、とても子供を死においやった人とは思えなかった。
二人の生死を決める微妙な問題であるため、しばらく誰からも答えがなかった。
ところが思わぬ者からアイデアが投じられた。
「二人いっしょになればいいわ。本当の夫婦になればいいのよ」
「真知、そんな無理なことを言うんじゃない」
大藪が次女をたしなめる。
彼女は子供達の相手をしていたが、途中から耳をそばだてていたのだ。
ところがその案に中沢の娘婿が賛同した。
「案外、お嬢さんの意見は的を得ているかもしれませんよ。夫婦であれば生き方や今までの考えそのものが変わるかもしれませんね。どう思いますお養父さん」
振られた中沢は慌てることなく応じる。
「確かにその通りかもしれないな。お二人とも相当悩まれたはずだが、昔の慣習や行いが尾を引いているのは共通しているし、これ以上お互いのことが判っている人間は他にはいないはずだな。夫婦であるという意識をもてば、自然に相手を庇うだろうし苦難を乗り越えようと助け合うだろうな。夫婦喧嘩くらいはするだろうが、傷つけあうことはないはず」
注目の二人は顔を見合わせた。
「実は、私達夫婦は昔一緒になったとき事情があって結婚式を挙げていないんですよ。今朝、海老名さんから挙式の提案があったとき、思い切ってお願いしようと考えていたところなんです」
「まあ、あなた、なんて素敵なんでしょう」
妻の頼子が目を輝かした。娘や娘婿も首を縦に振り賛成した。
「どうでしょう、あなた方お二人もご一緒に。私達だけでは年をとっていて気恥ずかしい気がしますが、お若い方と合同であれば大変心強く感じます。もちろんお二人のお気持ちしだいですし、海老名さんの了承も得なければなりませんが」
「私は大歓迎ですよ。むしろ二組のカップルの式を主催できれば非常に光栄です」
海老名が快諾すると頼子も二人にすすめる。
「私達の場合は記念のようなものだけど、お二人は新たな出発として臨まれてはどうかしら」
「奥様のおっしゃる通りですよ。私どものペンションのイベントはお客様のご要望に応じて企画しております。一種のお客様へのサービスで、あまり硬く考えずご利用頂ければ結構です」
周囲からの説得に二人は心を動かしたようだ。再度顔を見合わせ見詰め合っている。
昔の忍びどうしは、声を発しなくとも目で意思疎通出来るのである。
しかも、彼等は感情を顔に出さないように仕込まれており本心は窺い知れなかった。
やがて踏ん切りがつき申し出に応じることになった。
「わかりました。お任せします」
その言葉にその場の全ての者が喜びに沸いた。
「やったね。結婚式が始まるわ」
「おめでとうございます」
「よかった、よかった」
皆が口々に祝福しあった。
「さあ、それでは挙式の準備に取り掛かります。真知さん、皆さん、申し訳ないが手伝って頂けますか」
「ええ、喜んで、なんでもやるわ」
ペンションは悪天候を吹き飛ばすような祝賀気分に溢れていた。