三組のカップル(一)
初夏の日射しが強くなりはじめたある日に、大藪のもとに娘婿から家族旅行の誘いがあった。
行き先は信州で日程は8月下旬の四日間程度。
丁度大藪もその頃は夏季休暇の最中で今のところ予定はなく行くのに支障はなかった。
但し、今回の夏休みはゆっくり自宅で寛ごうと思っていたこともあり、彼自身は気が進まなかったが、妻の八千代が避暑に乗り気で、次女の真知が同行をせがんだ。当初は長女の家族だけで行く予定だったのが、仕事の都合で娘婿の予定がつかなくなり、今さら予約を変更することも出来ず、苦肉の策として大藪夫妻に声を掛けたのが、本当の理由であった。
不都合発生の代役のようで少々不愉快な気分ではあったが、最近流行のペンションに泊まれると聞き二人とも大喜びであったし、交通、宿泊費も娘婿の全額負担ということもあり、多少の疑問点は目をつむり申し出を受けることにしたのである。
そして、日が過ぎ出発の当日を迎えた。既に前日から旅行の準備はすっかり終えて、長女等が来るのを待つばかりとなっていた。
「真知、何だその格好は。遊園地に行くんじゃないんだぞ」
スリムなデニムパンツをはき、派手なブランドTシャツを着ているのを見て大藪は注意した。
「これ最近流行っているんだけどな」
「それに行き先は山の中だぞ。そんな薄着じゃ風邪引いてしまうぞ」
「大丈夫よ。寒くなったら上からはおるから」
次女の真知は平然と答えている。
「おまけに荷物が多すぎるんじゃないか。もう少し減らせんのか」
「バックの中には去年買った浴衣セットも入っているんですよ。私は余計じゃないかと言ったんですがね」
八千代が説明すると、真知が言い返した。
「だって夏祭りがあるかもしれないもの。だからあまりダサいもの着れないわ。あら、車の音がしたようよ。私外を見てくる」
そう言い残して真知は玄関に駆け出した。
「まったく何を考えているんだか」
その後姿を見ながら憮然としてぼやいたが、それに対して八千代が言った。
「あの目立ちたい性格はあなたに似たんですからね」
大藪が苦虫を噛み潰したような顔をしていると、すぐに真知の声が聞こえてきた。
「お父さん、お母さん、お姉さん達が着いたわよ」
二人は戸締りを確認しながら荷物を抱えて表に向かった。
玄関を出ると長女の泉と、真知が早速抱っこしてあやしている孫の秀太、そして娘婿がいた。
彼が恐縮しながら挨拶をした。
「お父さん、お母さん、おはようございます。今日は一緒に行けなくてほんとに申し訳ありません」
「そんなに気にすることないよ。皆今度の旅行を喜んでいるから」
「そう言って頂けると安心しました。これから新幹線の駅まで送って行きます。あとは乗り継ぎですが指定券も手配済みで、最寄の駅からはタクシーでペンションまで連れて行ってくれます。全て泉には説明してありますので何も煩わしいことはないと思いますよ」
「涼しくって景色のいいところだそうだね」
「ええ、それは請け合いです。山中のことですから天候が気になりますが、二日後に私は仕事が片付き次第、ワゴン車に乗り現地で合流します。それから観光名所に案内します」
「ウワー、楽しみね。もう待ちきれないわ。出発しましょ」
と真知が言うと、秀太が、
「シュッパツ、シュッパツ」
と繰り返す。そのあどけない口振りに皆思わず笑みがこぼれた。
「それじゃあ準備がよければ出発しましょうか。荷物をトランクに入れ、お乗り下さい」
そして一同あこがれのペンションに向けて旅立つことになったのである。
けれどもそこで彼等を待ち構えていたものは珍しい人々との出合いと、忘れられない体験であった。
*
眼下に広がる大地の広がりに二人の目は吸い込まれそうになっていた。
くっきりとした輪郭の街並み、周囲に配されたのどかな田園、そしてどこまでも続く緑の草原が、今にも手に届きそうなミニチュアの造形物に思えた。
錯覚には違いないが、山岳高地からの絶景に魅了され、抱えている心の迷いも悩みも消え去っていた。
最初に自分を取り戻したのは男の方だった。
「どうだい、もう満喫したかい」
その問いに女は真っ直ぐ前を見たまま身じろぎもせず答えた。
「もう少し待って、この光景を胸に焼き付けておきたいの」
彼女は目を閉じて深呼吸したが、すぐに思いを振り払った。
「私って変ね。もう見納めだっていうのに」
「後悔しているのかい」
「いいえ、私達にはもうこうするしか他に方法はないのよ。決心は変わらないわ」
女が淋しそうに答えると男は頷いた。
「さあ、始めましょう」
男は少し間を置き同意する。
「わかった」
そしてお互い相手の方を向き見詰めあった。
*
海老名真之は妻の恵と一緒に信州高原でペンションを経営していた。
既に開業してから6年の歳月が流れている。今日までの道程は土地柄と同様に山あり谷ありの苦労の連続で、何度かあきらめそうになったが、何とか踏み止まり都会からの固定客を得るまでにこぎつけた。
既に五十代になっていたが、前職が教会の牧師という変り種で、以前は宿泊施設の経営など知識もなかったし、考えもしなかった。
何もなければ敬虔なプロテスタント信者である彼は、都心の福音主義教会の牧師として一生を終えるはずであった。
ところが7年前に最愛の一人息子が冬山で遭難死して悲嘆に暮れてしまい仕事が手につかなくなってしまった。
もちろん人々のために祈り求めて生きる喜びを授けることが職業であるため、心の痛手から立ち直ることに全力を尽くしたが彼にとって子供に先立たれた衝撃は大きすぎた。
もはや以前と同様の純粋な気持ちで信仰に臨み、人々に対して説教職を忠実に行うことが不可能になってしまった。
そしてその年になって初めて牧師としての未熟さと前途に行きづまりを感じた。
彼は決心した。生き方を変えてみよう。
それは悲しみのあまり以前の明るさを失った妻のためにも有益だと判断した。
けれども牧師以外の職業に携わることのなかった彼に、すぐにはいい考えは思い浮かばない。
ところがその年の夏に息子の追悼の旅で信州に行った時、駅前の看板が目に入った。
『アルプスをバックにした景観の地でペンションを経営してみませんか』
彼はその瞬間なすべきことを思いついた。
観光や避暑、或いは休養のための宿泊サービスを真心を込めて人々のために提供すること。利用してもらったお客様の満足を得、喜びを与える仕事で、今までの牧師の精神とも目標は同じである。
接客も教会での信者相手の心構えと共通していると感じた。
転職には厳しい年齢になっていたが、定年後に始める人も多くいると聞きますます乗り気になった。
亡き息子が好きだったアルプス連山の一角で開業できれば、慰霊にもなるだろう。
資金は長年の蓄えと、不足分は知り合いからの調達も可能であった。
妻にその意思を打ち明けると、あっさり同意してくれた。
彼女にとっても日常何かに没頭し忙しくすることで、悲しみを忘れて気を紛らわせる期待があった。
その時から高年夫婦二人の奮闘が始まった。
ある意味では牧師の仕事を全うしていけば、今後も安定した人生が約束されており、わざわざ不慣れな職業に鞍替えして苦労することはないと周囲から引き止められたが、決意を翻すことはなかった。
離職してから二人はペンション経営に必要な知識、技能の修得に全力で取り組んだ。
宿泊施設、設備や必要な用具に関する知識、接客方法等を学び、そして最も重要と思われる食事については、二人して専門の料理教室に通い腕を磨いた。
もともと西洋風の慣習で教会の信者や友人を自宅に招待し食事を振舞ったり、逆に招かれたりしていたため、ある程度料理のレパートリーをもっていたことが幸いした。
一方で信州に何度も往復し彼等の満足できる物件を探した。
そして今の土地、建物を購入し引越ししてきたのは6年前のことであった。
けれどもすぐに営業できた訳ではない。
建物を彼等が頭に描くペンション風に改装する必要があった。
更に間取りも業者に依頼して変更を加える。外装や内部装飾も時間を掛けて手直しし、必要な用具、部材も整えていった。
彼等が目指すのはもちろん洋風ではあるが、今まで携わってきた教会施設の雰囲気を随所に配置していった。
メーンとなる広間は食堂も兼ねているが、天井が高くステンドグラス風の窓があり、部屋の隅に講壇を設け、更に自宅から運んで来たグランドピアノも置いた。
妻の恵は以前ピアノ教師をしていたこともあり、教会の催しがあった際のすぐれた演奏者でもある。
もちろん本来の狙いである家庭的な雰囲気を損なわぬように心掛けた。
そして6ヶ月後にようやく開業の運びとなった。
しかしながら当然のことながら順風満帆とはいかなかった。
当初は名が売れておらず客もほとんどない状況の赤字続きで、本当にやっていけるのかはなはだ疑問であった。
素人経営の危うさを身をもって実感する青息吐息の毎日であった。
それでも挫けず知人を介して専門紙や各種メディアに広告を打ってもらった。
元の職場の関係者にも利用してもらうよう働きかける。
そして悪戦苦闘の末、徐々に一般に知られるようになり、少しずつ客も増えてなんとか採算が取れるようになったのは四年目に入ってからである。
彼等のペンションのキャッチフレーズを紹介すると、
『四季折々のアルプスを体感できる家庭的なペンション』
『元牧師がお客様に落ち着いた雰囲気と憩いの場を提供します』
であった。
*
「あなた、中沢様がお見えになりましたよ」
客の到着に備えて各部屋のチェックをしていた海老名に妻が声を掛けた。
今日初めての宿泊客はこの時期に毎年顔を見せる社員百名を超える製造企業のオーナーで、妻と娘夫婦及び孫達が一家総出の旅行で二泊の予定であった。
「わかった、すぐ行くよ」
彼は正面入り口のエントランスホールに向かった。とはいっても建物の造りも小規模で多数の客を迎い入れる余裕はなかった。
玄関付近は必要な物以外は置かないようにして、出来るだけスペースを広く取れるよう心掛けている。
「中沢様、いつもご贔屓頂き、大変ありがとうございます」
六十台半ばぐらいの初老の男性に声を掛けた。彼は白髪ではあったがさすがにまだ現役の経営者らしく身なりはきちっとしており堂々とした紳士だった。
「ああ、海老名さん、今年も宜しく頼むよ」
「どうぞごゆっくりお寛ぎ下さい。皆様のご滞在中にご要望や気がついた点があれば、何なりとお申しつけください。楽しいひと時をお過ごし頂ければ幸いです」
海老名が歓迎の挨拶を述べると、隣にいた老婦人が嬉しそうな表情で言った。
「まあなんて素敵な建物なんでしょう。上品な趣きで一目で気に入りましたわ。あなたの言ったとおりのいいペンションだわ」
中沢幸夫の妻の頼子である。
「本当ですね。洋風で天井が高くて窓から入ってくる日射しが綺麗ですね。お養母さんのご趣味にぴったりの造りですね」
「来て良かったわねお母さん。ここは景色もいいし、久し振りに羽根を伸ばせそうね」
娘と娘婿がそれぞれ感想を述べた。養子である彼はいずれ養父から会社を引き継ぐそうである。
「大変ありがとうございます。そう言って頂くと嬉しいかぎりです」
海老名が感謝すると、孫達がせわしく催促する。
「ねえねえ早くお外に遊びに行こうよ」
「おばあちゃん。一緒に探検に行こ」
「駄目でしょ。まだ着いたばかりよ。少しお部屋で休んでからよ」
母親が子供達をたしなめると、すかさず海老名が口を挟んだ。
「長旅でお疲れでしょう。早速お部屋に案内しましょう」
彼が指示して歩き出すと、アルバイトの学生が客の荷物を引き受け後ろに従った。他にもお手伝いとして地元女性を雇っている。
歩きながら中沢が海老名に問い掛けてきた。
「今回は他にどのようなお客さんがいらっしゃるのかね」
「ええ、一組は五十代のご夫婦と娘さんお二人とお孫さんと聞いています。当初は娘婿さんがいらっしゃる予定だったんですが、仕事の都合で来れなくなり、ご両親に声を掛けたそうです。丁度二泊で予約されています」
「ははは、何となく似たような家族構成だな」
「ええ、それとちらっと耳にしたのですが、そのご主人の趣味が仲人をすることらしくて、既に二十組以上の取り持ちをされているようです」
それを聞き中沢幸夫の目が輝いた。
「もう一組は私の知り合いのカップルです。もっとも男性のほうは私は初対面ですが今のところ一泊の予定です」
海老名は宿泊客の説明をしながら、昨日一泊した若夫婦のことが気になっていた。
彼等はチェックアウトした後で、しばらく高原を散策したいので荷物を預かってほしいと頼まれ、いまだに戻ってないのである。
二人ともあまり元気がなかったのだが、間違いが起こらないことを祈っていた。
*
「うわあ、寒い寒い、凍えそうね、ここは」
「だから厚着してこいとあれほど言ったじゃないか、まったく」
「わかったわ。早く部屋に入って着替えるわよ。早く行こ」
表から言い合っている男女の声が聞こえて来た。
どうやら次の客がタクシーで到着したようである。海老名は急いで玄関に向かった。
「いらっしゃいませ。大藪様ですね。お待ちしておりました」
「やあ、いい所ですねここは、親子で押しかけました。よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。新藤様からくれぐれもよろしくと言われております。ごゆっくりお過ごし下さい」
新藤氏は大藪夫妻の娘婿にあたる。
二日後に迎えに来るとのことだが、にこにこと愛想のいい幼児を抱いた女性が奥さんだろう。
大藪氏はリラックスした雰囲気の中年男性で一見して親しみを感じた。
「さあ、どうぞ中にお入りください。今日は風があって冷えますね。建物の中は暖かくしてありますから」
早速、海老名は彼等を玄関ホールに導いた。それぞれの荷物を学生アルバイトが受け取る。
「まあ、綺麗だわ。あの天窓。まるで教会にきたみたいね」
大藪氏の奥さんが賛嘆すると、娘さん等も上を見上げた。
「以前は牧師のお仕事をされていたそうですね」
大藪氏の問いに海老名は説明を始めた。
「そうです。6年前にこのペンションを開業したとき、あまり派手にならないよう落ち着いた教会の雰囲気を一部取り入れようと思いましてね、装飾やレイアウトも妻と一緒に工夫したんです。けれどもなかなかお客様がいらっしゃらなくて苦労したんですが、たまたまお泊りになった新藤様に気に入ってもらって、専門紙に広告を掲載して頂いたんです。それから予約が増えまして、何とかやっていけるようになりました。今こうして営業出来るのも新藤様のお蔭ですよ」
新藤氏は広告出版会社に勤めていた。
「そう、彼からは面識のあるペンションとは聞いていたんだが、そういう経緯があるとは知らなかったな。おい泉、亭主はなかなかやるじゃないか」
自分の夫のことを誉められた女性は相好を崩した。
「私も知り合いに紹介したくなるわ。壁際の装飾品も品位があって素敵ね。なんだか中世のお屋敷にきたみたい」
「後でゆっくり見せてもらおうか。早く真知を部屋で着替えさせたほうがいいぞ」
と後ろを見ると、その次女当人がアルバイトの学生に声を掛けていた。
なかなか活発な女の子のようである。
「ではこちらです。見晴らしのいいお部屋を用意しております」
海老名が誘導すると、大藪氏が渋い顔で次女に声を掛けた。
「真知、急ぐんじゃなかったのか、行くぞ」
彼女は一向に気にしていないようで、
「また後でね」
と言う声が聞こえた。
部屋の前で海老名が思い出したように大藪氏の耳元で囁いた。
「大藪様、後でご相談があるのですが、手の開いた折りにお時間頂けないでしょうか」
それに対して彼は躊躇うことなく答えた。
「結構です。後で伺います」
海老名は何のこだわりもなく承知した大藪をすっかり気に入ってしまった。
*
夕方近くに次の客が到着した。
「叔父さん、久し振りね」
「美紀ちゃんこそ元気そうだね。待っていたよ」
桜木美紀は海老名の妹の娘で、時々顔を見せに来た。
彼女はある程度名前の売れたファッションコーディネーターの母親の仕事を手伝っていた。
今回は彼氏も一緒に連れてきている。
「こちらは西城健史さん。アパレル関連のお仕事をなさっているの。その関係でよくお目にかかるのよ」
「始めまして、海老名です。こじんまりとしたペンションですがゆっくりしていって下さい」
「西城です。美紀さんから空気が綺麗で眺めのいい所だと聞き、来るのを楽しみにしていました。ゆっくり骨休めさせて頂きます」
彼は見た目に誠実そうで大人しい印象であった。
行動的な性格の美紀とは釣りあいが取れているように思われた。
実は事前に海老名と恵に対して、西城の人物評価をしてほしいとの依頼があった。その感想を交際していくか否かを決める参考にしたいと言う。
もちろん海老名はその任ではないと断った。妻も同意見であくまで当人同士が決めることだと伝えていた。もっとも彼等の見立ても参考にならないことも分かっていた。
今まで何度か相手を紹介され、いい人だと思っても、その後継続している様子がないからである。
「叔母さんはどこにいらっしゃるの」
「今は厨房で夕食の準備中だよ」
「じゃあ、私挨拶してくるわ。叔父さん、西城さんをお願いね」
「ああ、わかったよ。でも手伝わなくてもいいんだよ」
彼女は頷きながら建物の中に入って言った。
「相変わらずじっとしていられないようだな美紀は」
「ええ、そのようですね」
どうやら西城も承知しているようだ。
「ではお部屋にご案内しましょう」
そのとき、前方の林からペンションに向かってくる人影が目に留まった。
散策に出掛けた家族が戻って来たと思ったが、そうではなかった。
二人だったが外見が識別できるところまで近づき、その異様さに目を奪われた。
二人とも衣服のあちこちが破れ泥まみれになっていて、顔や手首に血が滲んでいた。
「熊飛様、いったいどうされたんです」
二人は昨日一泊し、今朝荷物を置いていったままになっていた若夫婦であった。
その姿に驚き慌てた海老名の問いかけに、男性は平静を保ちながら答えた。
「いえ、山道の急斜面で足を滑らしましてね。情けないことになってしまいました」
女性も同様に冷静で取り乱した様子は見られなかった。
「お願いがあるんですが、どんな部屋でも結構ですがもう一泊させてもらえないでしょうか。もちろん代金はお支払いします」
海老名は彼の説明に首をかしげた。
どう見ても転落事故が原因の負傷のように思えないのだ。全身くまなく着衣が綻び汚れているし、しかも二人とも同じような位置に傷ついているのは偶然であろうか。
「もちろん構いませんよ。とりあえず傷の手当と着替えたほうが良さそうですね。さあさ、中にお入り下さい」
海老名はその場に居合わせた西城ともどもその夫婦を建物の中に生じ入れた。
このときその二人が次の日の主役になろうとは思ってもみなかった。
*
予定していた客は連泊の依頼があった熊飛夫妻も含め全て到着し、ペンション内は活気に溢れていた。
夕食までの間、宿泊客は思い思いに時間を費やしている。
屋外の娯楽施設で遊ぶ子供達。ひたすら目の保養とばかり高原の景色を堪能する者。
外には出ずに建物内部に飾られたチャペル風の文様や絵画、置物を鑑賞する家族。
海老名は彼等が日常のストレスを忘れ、羽根を伸ばして寛ぐ姿を見るのが楽しみであった。
もっとも熊飛夫妻は傷と疲労の回復のためか部屋に閉じこもったままであったし、姪の美紀は客ではあったが妻の恵の夕食の準備を手伝っていた。
海老名は、年配の中沢や同年代の大藪と男性同士世間話に講じて時を過ごしていた。
そして食事の時間が来ると全員が食堂に集まってきた。
海老名夫妻の慣習を取り入れ、皆が席に揃ったところで、短い食前の感謝の祈りを唱えた。
そして料理を食べ始めたが腕によりをかけた自慢のメニューに、泊り客全員が美味しいとの感想を連発し、海老名夫妻も胸を撫で下ろしたのであった。
客同士の会話もスムーズで、話し上手な大藪氏を中心に、大藪、中沢一家、西城氏や美紀のカップルも交え和気藹々の内に夜の団欒を過ごした。
また、大藪氏の娘は子供達に冗談を言って、盛んに笑わせていた。
もちろん海老名も仲間に加わっていたが、久し振りに肩の凝らない会食となった。
但し熊飛夫妻はおとなしく、周囲の目を避けているようであった。
「私、信者ではないけど教会の雰囲気が昔から大好きで、憧れていたのよ。何かこう気品があって身の引き締まる思いがするのよ」
ペンション内を熱心に見て回っていた中沢の妻、頼子が言った。
「私もそうですわ。この建物内の周囲の装飾を見ていると、西欧に旅行に来た気分がしますわ」
大藪の妻、八千代が同調した。
「でももともと海老名さんは福音教会の牧師さんだったし、あらかじめこのペンションの構想を練られていたんでしょうね」
「いえ、当時はズブの素人でしたから、最初は全くの白紙状態で一般的な宿泊施設を前提に専門家に任せていたんですが、打ち合わせが進むに従って、妻と一緒にあれも飾りたい、これもペンション内に置きたいとついつい欲が出てしまって、最終的に決定した時は当初の予定より建築費が2倍、工事期間がかなり延長してしまったんです。結局それでもいいということで完成させたんですが、お客さんが来ないと意味がないんで、後になって無茶な事をしたもんだと後悔したこともありましたね。それからは薄氷を踏む思いの毎日でしたよ」
大藪の問いに海老名が答えた。
「でもご苦労なされた甲斐があって、今は予約がかなり入っていると聞きましたが」
「お蔭様で何とかやって来られましたが、正直、ペンション経営がこんなに大変だとは思いませんでした。維持管理費等の出費も相当かかり今でも夫婦二人がどうにか食っていけるだけの状態ですよ」
「私、大いに気に入りましたわ。来年も連れてきてもらえるかしら」
「もちろん、お前さえよければ今から予約しておこうじゃないか」
妻の希望に対しすぐに中沢が応えると、娘婿も喜びを表した。
「良かったですねお養母さん。そのときはぜひ私達もご一緒したいですね」
中沢家の仲の良さに大藪八千代は思わず口を挟んだ。
「まあ、お互い思いやりがあってなんて素敵なご家族なんでしょう。羨ましいわねお父さん」
大藪は急に振られてまごついてしまった。
何とか適当な言葉で誤魔化そうと思ったが、娘の真知が割って入ってきた。
「もうそろそろ花火の時間じゃないかしら」
その一言に助けられた大藪はすぐさま応じた。
「話しに夢中になってすっかり忘れていたよ。もうそんな時間か」
「あら、叔父様近くで花火が見られるの?」
姪の美紀が聞くと、海老名は説明を始めた。
「今日は、村役場の空き地で花火大会が催されるんだ。もっともそんな派手なものではないんだが結構人が集まるよ。有志が露店も開いているんだ。大いに楽しめると思うよ」
「ぜひ見てみたいわ。西城さん、私達も行きましょうよ」
「もちろん行きましょう。素敵な夜になるといいですね」
「じゃあ用意できしだい出発しましょう。車に分乗して参りますので、皆さんのご協力をお願いします」
海老名が伝えると真知が繰り返した。
「花火大会に出発するわよ。出発。出発」
「シュッパツ、シュッパツ」
これに孫の秀太が真似ると中沢家の子供達も同調する。
「早く行こうよ。出発、出発」
これには大人達も一斉に笑みがこぼれたのであった。
*
三台の車に分乗して向かった近隣の村役場近くの広場は既に大勢の人が集まっていた。
大半が避暑や観光で来ている宿泊客である。
この周辺はアルプスの景観が売り物の旅館や民宿が多数あった。
明らかに登山目的で滞在している人達も見られる。
広場の一角に夜店や即席の遊技場が設置されており、家族連れや若者達が詰め掛けていた。
ペンション客一行で最初に娯楽場所に駆けて行ったのは子供達であった。
それに誘われるように大藪真知や一緒に来たアルバイト学生が続いた。大人たちはその後を露店の風情を味わいながら散策していた。急造の屋台とはいえ、一応タコ焼きや綿菓子、リンゴ飴、イカ焼き等の定番の食べ物が売られていて、広場のあちこちで飲み食いしている姿が目に付いた。
輪投げやボールすくい等の出店では子供達の歓声が聞こえる。
この行事に寄り集まってきた人々は、それぞれが楽しみ小規模ながらも素朴な縁日気分を味わっていた。
しばらくして川原の付近で花火が打ち上げられた。
色鮮やかな輝きが夜空に舞い、全ての目がその方向に引き付けられた。
「ウワー、きれいだー」
「明るくて大きな打ち上げ花火ね。来て良かったわ」
年代を問わず、全ての人々が喜んでいる。
「たまやー、かぎやー」
「あらあら、その掛け声どこで覚えたの」
「なんだおばあちゃん、この前の花火大会で皆が言ってるの聞いてたでしょう」
中沢頼子が孫達と一緒に夜空を見上げている。
「そうだったかねえ。私花火見るのはほんとに久し振りよ」
「ハハハ、でもここで見られるとは思いませんでしたね。結構楽しめますね」
「そうね。村の方で私達が退屈しないよう趣向を凝らしているのね。皆さん親切だし、ありがたいわ」
娘夫婦が交互に言った。
一方で大藪一家は屋台近くの人混みの中で花火に見惚れていた。
「まあ、色鮮やかで噴水のようね。素晴らしいわ。直人さん、来れなくて残念ね」
大藪八千代が言った。
新藤直人は長女の泉の婿で、仕事の都合で今回の旅行は途中から合流することになっていた。
「そうね。あとで見られるようにビデオを持ってきたんだけど」
「そういえば真知はどこに行ったんだ」
その撮影用のビデオカメラは次女が持っているのであった。
彼女は早速持参の浴衣を身にまとっている。
「あら、さっきまで一緒だったんだけど、ちょっと前にアルバイトの子に声を掛けていたようだったわ」
「まったく、肝腎な時にいないんだからな、困った奴だ」
大藪はぼやきながら周囲を見回した。
そのとき偶然泉が広場を囲む石垣の上にいる二人のカップルに気がついた。
「あら、あの二人怪我をされたご夫妻じゃあなかったかしら」
「ああ、確か熊飛さんだったな」
「でも変ねえ、ペンションで海老名さんが誘われた時、お二人は断っていらっしゃったわ。気が変わって歩いて来られたのかしら」
「馬鹿な、ここまでは相当な距離があるよ。こんなに早く来られるわけがないよ」
「じゃあ、別の車を借りて来られたのかしら」
「まあ、そういうことだろうな」
*
大藪一家の注目を浴びてるとも知らず熊飛夫妻はひたすら花火を見上げていた。
けれども二人の顔には風情を楽しむ面影はなかった。
むしろ無表情で何かに憑かれた様子が窺える。
男が女に尋ねた。
「昔のことを思い出したのかい」
彼女は微かに瞼を揺らしながら答えた。
「あの頃も皆が鮮やかな光景に目を奪われていたわ。束の間の幸せを噛み締めていた」
「僕も同じだよ。不思議と惹き付けられ、懐かしい気持がする」
「私達がお互い信頼し合っていた時期ね」
男は少し間を置いて言った。
「そうかも知れないな。ある意味では汚れを知らない純粋な心を持っていたような気がする」
「フフフ、二人ともまだ若かったのね。世間知らずで迷ってばかりいたわ」
「ああ、その通りだ。君も僕もよく似ているんだ。だから苦しむ」
「もうやめましょ。昔のことを思い返しても元には戻らないわ。明日こそこの苦しみから解放されるのよ」
「そうだ。今日は躊躇ってしまった。失敗だったよ。今度は本当に最後だ。明日こそ決着をつけるよ」
二人の胸の内には過ぎし日の哀愁が漂っていた。
その直ぐ近くの広場の一角で同じように追憶に浸るカップルがいた。
西城と美紀が肩を並べて夜空を見上げていた。
「有名な花火大会のスケールとは比較にならないけれど、結構鮮やかな眺めですね。ここまで来て見られるとは思いませんでしたよ」
「あら、西城さん、花火はお好きですの」
「私の子供の頃は東京の浅草に住んでいたんですが、家族で隅田川の花火大会に毎年見に行ったものですよ」
「まあ、私もよくお母さんや海老名の叔父さん達と誘い合わせてよく一緒に行ってたわ。奇遇ね。色とりどりの花火が打ち上がるたびにぞくぞくしたものよ」
「もしかしたら、どこかですれ違っていたのかもしれないですね。僕も毎年趣向を凝らした花火に熱狂してましたよ」
「私もだわ、様々な形を表わしていて、お互い当てっこしたものよ」
二人の胸には在りし日の思い出が蘇っていた。
(何て素敵なの。まるで吹雪が頭の上に降り注いでいるようだわ)
(美紀、あの形は蝶が舞っている姿を現しているんだよ。様々な羽の色も真似ているんだ)
(あら良く知ってるわね。珍しいものもあるのかしら)
(ああ、花や生き物はもちろん人気のキャラクターに似せたものまであるよ。専門の花火師があらかじめ火薬玉の中に細工しておいて、打ち上げられた時、思い通りの形に火花が散るのさ)
(じゃあ、さぞかし魅力的なものもあるんでしょうね)
(そうだよ。変わったところではプロポーズ用の仕掛け花火もあるらしいよ)
(まあ素敵、もし私がされたらコロッと参っちゃうかもね)
(アハハ、本人はさぞかし驚くだろうな。どう美紀はやってほしいかい)
(でもやっぱり相手によりけりよ。意中の人だったら感激だけど)
あの頃の一言一句が美紀の頭の中を駆け巡る。そして気がつくと懐かしい記憶に思わず涙が頬に伝わっていた。
それは彼女にとってはもっとも忘れたい過去の一瞬でもあった。
「どうかしました、美紀さん」
西城が落ち込んでいる彼女に気がついた。
「あ、ええ、ちょっと気分が悪くなって」
「それはいけないな。どこかで休ませてもらいましょうか」
「ご免なさい。ペンションに戻っていいかしら」
「具合悪そうですね。早めに戻ったほうがいいでしょう。私が海老名さんに断ってきますから」
そう言いながら西城は他のメンバーを探した。皆が思い思いの花火見物を体験していた。
*
次の日は朝からあいにくの雨模様であった。
それでもペンションはいつもの慌しい朝の光景が見られた。
朝食もそこそこに最初に出発したのは熊飛夫妻だった。
彼等は車の手配も断り、次の目的地まで簡易雨具をあおり、徒歩で出掛けて行った。
もっとも行き先についてはお茶を濁され釈然としない見送りとなった。
そう言えば二人は来た時も、事前予約もなく、乗り物も利用せず不意に現れたのであった。
海老名にとっては謎の宿泊客としか言いようがなかった。
次に出て行ったのは、西城と美紀のカップルであった。
雨が一段と激しくなって、急カーブ、急勾配の多い山道は危険が伴うことから、海老名も天候が回復してから出発するよう説得したが、美紀が仕事の都合で急ぐと言い張り、視界の悪い中、彼女の運転で出発することになった。
海老名夫妻はくれぐれも無理をしないよう伝えた後、幾分心配顔で二人を見送った。
後の二家族はどちらももう一泊することになっており、食堂に顔を出したのもしばらくしてからであった。いずれも土砂降り模様の天候に恨めしげであったが、のんびりとした気分を味わっていた。
*
熊飛夫妻はお互いが距離を置き、相手の顔を見詰め合っていた。
場所は車道からそれた林木地の直中で、丁度茂みの途切れた空き地に二人は立っていた。
雨具を脱ぎ捨てたその顔には容赦なく雨水が降り掛かっているが、二人とも一向に気にしている様子がなかった。
「波留、始めようか」
「昨日は手加減していたのはわかってるわ小太郎。情けは無用よ。もちろん私は本気でいくわ。それにこの雨は私には有利よ」
「それはどうかな」
そして二人は同時にお互い相手との距離を保ちながら走りはじめた。
けれどもそれは単純な疾走ではなく、障害となる樹木や岩場等を巧みに避けながらの前進であった。
更に驚くべきことにいつ用意したものか、時折相手目掛けて礫を投げかけていた。
それは石や木片ではあったが相当な威力をもち、直撃すれば大怪我をすることは間違いなかった。
けれども二人とも変幻自在な動きで難なくしかも紙一重でかわしていく。
しばらく併走していたが、波留と呼ばれた女が谷川に差し掛かった際に上流からの水しぶき目掛けて身を投げるや、視界から消えてしまった。
けれども男は少しも慌てずその場に立ち止まる。
「小太郎、もらった」
いつの間にか背後に回った波留が、木槍で突きかかる。
彼等にとっては手にしたものは何でも武器になるようだ。
だがその攻撃も予期していたようで、小太郎はバック跳躍して、今度は波留の後ろに回った。
「甘い、お見通しだぞ、波留」
彼はニヤリと笑みを浮かべ、攻勢を仕掛ける。
波留は口惜しそうな表情で咄嗟に体を地面に回転しながら、再び谷川に身を投じた。
その瞬間彼女の姿が消え、二人の動きは止まってしまった。
辺りは雨水の音が聞こえるだけとなり、戦いは膠着状態となった。
二人は常人ではなかった。
お互い相手を標的に技を屈指する戦士であった。