忘却
大藪次郎は出勤日の朝、車で隣に乗せた少女の自宅に向かっていた。会社には私用で出社が遅れるとの連絡は入れてある。
昨夜突然、長男の鉄平が痛々しい格好をした彼女を自宅に連れて来たが、照れながら語った経緯は次のようであった。
鉄平が勤務先の外回り仕事から車で帰社途中、用足しの為公衆トイレのある街外れの公園に立ち寄った際に、暗くなった森の方向から女性の悲鳴が聞こえた。彼が気になってその場所に行ってみると、3人の若者が少女に乱暴しようとしていた。
彼は生まれつき正義感が強く見逃せず、すぐさま止めに入った。
これに対し与太者達は彼に食って掛かってきた。けれども彼は一向に動じなかった。もともとが学生時代に柔道部所属で全国大会にも参加した経験もあり、軟弱な若者など赤子の手を捻るようであった。
あっという間に三人とも体に触れさせることもなく投げ飛ばしてしまった。
彼等は這う這うの態で停めてあった車で逃げ出す。
そこまでは守備良くいったのだが、その後が思うように事が運ばなかった。
彼は乱暴されかかった少女に出来るだけ優しく慰めにかかったのだが、ショックが大きかったのであろう一向に泣き止まない。
人目もあるので車に乗せ、自宅に送って行こうとしたが、興奮状態で話すこともままならない有様。
まさか独身の彼の住まいに連れ帰ることなどできる訳がない。結局頭に閃いたのが実家の両親に頼ることであった。
その彼の行為を妹の真知は、
「お兄ちゃん、カッコいい」
と絶賛し、母親の八千代は大藪に向かって、
「お節介なのはあなたに似たんですよ」
と皮肉った。
その後少女を落ち着かせようと大人三人が試みたがうまく行かず、結局彼女が心を開いたのは同年代の真知に対してであった。
少女は真知より一つ年下の高校一年生で名前は鹿鳥由紀、母親との二人暮らしのようであった。
彼女は親子喧嘩をして不貞腐れ、家を飛び出した後一人で繁華街をぶらついていたが、彼女好みの魅力的な男性に声を掛けられ、ドライブに誘われたそうである。安易な気持ちで彼に従ったが、しばらくして仲間二人が車に乗り込んできて、嫌がる彼女を束縛して郊外まで移動し、そして公園で降ろされ狼の歯牙にかかる寸前、あわやの時に鉄平に助けられたと語った。
真知が聞き出した連絡先に、大藪が早速電話してみると、母親は娘が帰って来ず心配していたとのこと。
彼女を保護した理由を説明すると、さかんに何度も礼を述べ、これから迎えに来ると言う。大藪は夜も遅くこれからでは大変だと彼女の意向を制止し、彼自身が明日出勤の途中で自宅まで送っていくことで何とか了解させた。
もちろん彼女を安心させるため、大藪の素性と連絡先を詳しく伝えたことは言うまでもない。
そのような事情で一夜少女を預かることになり、事態の収拾を確認した鉄平は安心して後を両親に委ね帰って行った。
ある意味では面倒な役目を押し付けられたのであったが、少女の指示した方向に車を走らせる大藪は機嫌が良かった。
息子の鉄平が他人の災難に見て見ぬ振り出来ずに果敢に行動したことは父親として誇れることであったし、日頃おてんばでいい加減に思われた次女の真知がシャワーを勧めたり自分の服に着替えさせたりして、甲斐甲斐しく少女の世話をしたことは嬉しい誤算であった。
又、最近は長女も亭主とうまくいっているようで帰って来なくなった。孫の顔が見られず少々寂しくはあったが。
その内、彼女の住むアパートまで来ると、母親が表で待っていた。
昨夜は眠れなかったのであろうか、幾分やつれが目立つ。娘が車から降りると、母親は強い調子で彼女を叱りつけた。少女は昨夜のことを思い出したか、涙を浮かべ謝っている。その様子を見ていると、仲の良い親子そのものであった。
母親は大藪に向かって何度も感謝を繰り返した。そして改めて御礼に伺うと言う。
大藪は誰もがする当たり前のことをしただけであって、丁重にその申し出を断った。
彼女は彼の言い分に一旦従ったが、思い出したように小物入れから名詞を取り出し、手渡した。
それは彼女が働いている飲食店の名前と住所及び簡単な地図が記入されてあった。狭くて地味な店だが、ぜひ時間があれば覗いてほしいと。その際はお好きな物をサービスさせて頂きますと言った。
これがきっかけとなり、途方もなく珍しい体験をすることになろうとは思ってもみなかった。
*
高杉春男は今日も勤め帰りに立ち寄る居酒屋に入った。金曜日で、休日前のためか店内はほぼ満席である。色褪せた看板が店頭に掛けられたこの店は古く、昼前から夜遅くまで営業していて、安価ということもあり、酒類愛好の常連や年配の男性客が多い。
今日もいつも見掛ける顔触れが、世間話に花を咲かせ、賑やかにコップのビールや酒を口に運んでいる。
彼は円卓の空いた席に腰掛けた。同じテーブルには、既に隠居の身であろうか、むっつり熱燗を手にした暇潰しの老人。競馬新聞を念入りに赤鉛筆でチェックしている労務者風の中年男性。ひたすらテレビの野球中継を見入っている若者達が席を占めていた。
「高杉さん。うっとおしいお天気が続くわね。今日もゆっくりしていってね」
と、給仕の中年女性が1合酒とコップ、煮物の小鉢を彼の前に置きながら声を掛けた。
馴染みのせいか、注文は聞かずとも心得ているようだ。
店内はいつものメンバーの談笑が聞こえてくる一方で、隅の方で手酌で酒を飲んでいる者もいる。店柄、社会の底辺で生活している者も多い。
もちろん大人しい客ばかりではない。客同士の話し合いがエスカレートし、相手に罵詈雑言を浴びせて回りから顰蹙を買う者もいる。
けれども、高杉にとって店内の雑多な人格の中で、自分とは異なる人と交わり、観察することが好きなのだ。明日から二日間、仕事から解放されると思うと、今夜の気分は上々である。
ときおり中央のテレビを見やりながら、いつものように空想の世界に浸る。寡黙で、他の人に話し掛けたりせず、自問自答を繰り返す。その多様な想像に酔っていた。
気がついてみると、看板の時刻が過ぎ、いささか酒量も限度を超えていたようだ。店の主人に別れを告げ、彼は通勤電車の駅に向かった。
徒歩で数分の距離にあるが、酔いが回っており千鳥足で時間が大変長く感じられる。
まだ終電まで何本も電車があり、改札口前のベンチで一休みすることに。
駅に着いた安心感と、仕事の疲れが残っていたのであろう、椅子にもたれかかるように座り込んでしまった。
ところが突然睡魔が押し寄せ、意に反して長々と体を横たえてしまう。今夜は比較的暖かく、外気が心地よかった事も災いして眠り込んでしまった。
しばらくして、彼を呼ぶ声が聞こえた。
「ご主人、ご主人」
薄っすらと目を開けると、初老の男性が彼の肩に手を置き話しかけてきた。
「ご主人、もうすぐ最終電車が来ますよ。早く起きないと」
今度ははっきりと彼の声を耳にして慌てて飛び起きた。
「さあ、行きましょう。まだ間に合いますよ」
高杉はもぐもぐと礼を言いながら彼と一緒に足早で改札に向かう。
それが彼の勤める工場の親会社総務、大藪との出会いであった。
*
ある日の夕刻、大藪が仕事から帰宅すると二階の真知の部屋が騒がしい。
「ほら、先日鉄平が連れて来た娘さんですよ。学校の帰りに真知が貸した服を返しに来たんですよ。気が合うようで二人で音楽を聴いているようね」
時々、笑い声が聞こえこの前と打って変わって楽しそうである。
「元気そうで良かったじゃないか。しかしもう遅いんじゃないか。母親が心配するんじゃあ」
と大藪が注意すると、妻の八千代も同意して腰を浮かす。
「そうですわね。私が行ってお仕舞いにさせますわ」
と二階に上がって行った。思春期の子供は些細なことでも心に痛手を被ると、落ち込むのも急だが、回復するのも早い。但し、年齢や生活環境に開きがあるとそのシグナルをなかなか把握しにくいと思っていると、賑やかな声が1階に降りてきた。
そして鹿鳥由紀が大藪のいる居間に顔を覗かせ挨拶をしてきた。
「おじ様、この前はどうもありがとうございました」
「ああ、元気そうだね。その後お母さんとはうまくいってるかね」
「ええ、もう大丈夫です。私がいけなかったんです。もうあんなことはしません」
「そう、それは良かったね」
「皆さんには大変お世話になって。特に真知さんには親しくして頂いて嬉しかったです」
その横で次女の真知が得意げにうなずく。
「今度、カラオケやライブに行こうって誘ってもらったんです」
大藪はもう少し女の子らしい趣味を紹介できないものかと思ったが、胸の内に止めておいた。
「じゃあ、私が途中まで送っていく」
気を良くした真知が彼女を促す。
少々不安があったが、真知に任せることにした。
「気をつけてな。くれぐれも寄り道するんじゃないぞ」
大藪が念を押すと、由紀が母親からの言付けを思い出し彼に伝えた。
「それとお母さんがぜひお店に来て欲しいと言ってました」
大藪は確か名刺を受け取ったが、正直失念してしまっていた。
とりあえず首を縦に振ると、二人は元気良く家から出て行った。
あれがあの娘の素顔なのであろう。無邪気そのもので以前の悲痛な面持ちなど影すら無かった。魔が差したとしか言いようがない。
その時、ふと彼女が誰かに似ていると感じた。けれども思い浮かばない。恐らく当然母親なのだろうと思っていると、横で八千代が疑わしそうに尋ねた。
「あなた。お店って何のことです?」
大藪は名刺の件を、妻に話していなかったことを後悔した。
*
大藪次郎は休日の土曜日の昼過ぎ、名刺にある飲み食い処の店を訪れようとしていた。
その店は、私鉄の駅の裏口にあった。表口がバスやタクシーのターミナルになっていて、大手スーパーや大型ショッピング店舗の立ち並ぶ賑わった一帯であるのに対し、裏口はアーケイドに沿って小型店舗が立ち並ぶ商店街になっている。
近年の開発の波に取り残された影響もあって、シャッターが閉まったままの店もあるが、家具、雑貨屋や和菓子等販売の昔からある小店舗に加え、パチンコ店や遊戯場、比較的安価な飲食店が目に付く。駅から真っ直ぐに伸びた通り中ほどの十字路を曲がると、スナックや小料理屋が入居しているビルが集まった一角があり、メーンストリート寄りの一階にその店があった。
案内板を見ると、昼時と夕方から夜にかけて店を開けているようだった。
まだ2時前だったため、辛うじて間に合ったようだ。間口は狭く戸を引いて中に入ると、カウンター席と4脚位のテーブル席が目に入った。14,5人くらいが座れる程度の広さだが、客は誰もいないようだった。どうやら真昼時を外して正解だったようだ。
「いらっしゃい」
女性の声が二人耳に入って来た。
一人はお年寄りで食器の片付けや洗い物をしており、正面で食材を選り分けているのが、以前に会った鹿取由紀の母親に間違いなかった。
彼女はすぐに気がついた。
「まあ、ようこそいらっしゃいました大藪さん。お待ちしておりました」
この前と打って変わって笑顔を浮かべ親しみ易い人柄であった。
「お言葉に甘えて参りました。ご迷惑でなかったでしょうか」
「いえいえとんでもない。その節は、由紀が大変お世話になりました。先日も娘さんに良くして頂いたとか。喜んでおりましたわ。いずれお礼をしなければと思っていましたが、お越しいただいて少しはお返し出来そうですわ」
その後、さかんに飲み物と料理を勧めてきた。
まだ昼日中のためビールにしたが、彼女の手造りの料理はなかなかのものだった。
店内は決して広くはないが、整理整頓が行き届き落ち着いた雰囲気があった。
昼間は定食中心でメニューもある程度揃えてあるとのこと。夜は単品物が主で常連相手の飲み屋となる。同じビルのスナックとも協力し合っており、依頼があれば食材を供給することもあるそうである。
大藪はすっかりこの店が気に入ってしまった。彼女は娘から大藪一家の善良で人に対して親切な気質を耳にしているようで、店のことや自分の立場についても気さくに話しかけてきた。大藪自身が聞き上手ということも拍車をかけた。
この店を経営している、いわゆる女将さんは別にいて、彼女は雇われている立場だそうである。但し、彼女より十以上年配の女将が体を壊して療養中で、今は実質的に彼女が店を切り回しているとのこと。
この街の中心が表口に移行するのに伴って、この店も年々客の数も減る傾向にあり、将来は明るくないそうだ。
しばらくして、大藪も真昼間からアルコールが入りほろ酔い気分になったせいか、余計なことを聞いてしまった。
「ところで由紀ちゃんのお父さんは?」
と。彼は口に出してしまってから後悔した。けれども後の祭りである。もしかしたら気を悪くしたのではとほぞを噛んだが、取り越し苦労であった。彼女は娘と自分の過去をためらうことなく話し始めた。
彼女の名前は鹿鳥静江で福岡の炭坑町の出身である。
今から十七年前、彼女は地元の以前から親しくしていた男性と結婚した。彼は早くに両親を亡くし、いわゆる孤児として育ったため、一部で反対もあったが、彼女の意志は固くお互いが幸せを実感していた。
一年後に娘、つまり由紀が生まれ彼等の間は順調に思われた。ところが炭坑が閉鎖となりその影響で彼の勤めている金属加工会社も破綻してしまった。
彼は急遽他の仕事を探したが、炭坑以外これといった産業のない地元では思わしい職がほとんど無かった。ある意味では彼にとっては以前からの希望を叶えるいい機会であった。この斜陽化した町から出て、憧れの大都会で働くこと。
彼は色々な情報を集めた後、決心し妻の静江に言った。
「俺、関西方面に行く。今震災の復興事業で仕事はいくらでもあるそうだわ。しばらくは仕送りする。落ち着いたら迎えに来るさ。なにそんなに時間かからん。それまでは我慢しよ」
静江も寂しくなるが他に名案もなく受け入れた。
彼は娘の由紀を目に入れても痛くないほど可愛がっていた。出発の間際まで娘を片時も放さなかった。静江も夫のために三人のイニシャル入りの刺繍をした赤のセーターを手編みして着させた。そして親子3人別れを惜しんだ後、夫は関西方面に出発していった。
が、それが彼を見た最後となった。
その後彼からの連絡がぷっつり途絶えた。待てど暮らせど彼からの便りが来なくなった。
当初は何か事故でもあったのではと憶測し、藁をもつかむ気持ちで、様々な機関を通じて問い合わせたが一向に消息が掴めない。その内彼女のもとに色々な嫌な噂が入ってくるようになった。
「あいつはこの町から出たがってた。元々身寄りも無い事だし、一人で再出発するいい機会じゃあなかったか」
「実は彼の好きな女の子が別にいて、彼女がこの土地から出て行ったので、追いかけていったに違いない」
いずれも静江にとっては耳を塞ぎたくなるような風聞であった。
けれどもその後もなしのつぶてのまま日が過ぎ、ある日彼女の知り合いが連絡してきた。
「彼が神戸で女の人と一緒にいるところを見掛けたわ」
もはや彼との再会も空しいものでしかない。たとえそうであったとしても直接会って質したかった。けれども彼女はこの地から身動き出来なかったのである。
娘が小さかったこともあるが、一人っ子である彼女の両親が病の床に就いてしまった。二人の看病もあったが、一家の暮らしが全て彼女の両肩にかかってしまった。彼女は縫製の仕事をしながら家族の面倒をみた。必死でやりくりしながらの毎日だった。
そして5年が過ぎ、相次いで両親が亡くなると、彼女には空しさだけが残った。もはや彼女が町を出るのに何の未練もなかった。
もちろんそれからも苦労の連続であった。
ようやくのことで、以前に夫が向かったという神戸に知り合いを頼りに行く事が出来た。しばらくは泊めてもらったものの、いつまでも甘えている訳にはいかない。
なけなしの貯えも底を尽きかけている。娘がいるため住み込みの仕事を探そうと思ったが、右も左も分からない。着のみ着のままで街中の公園のベンチに座り、親娘ともども途方に暮れていると、声を掛けてきたのがこの店の女将であった。
幸運だったとしかいいようがない。彼女も子供はいないが似たような境遇で、地方から出てきてその時は旅館で仲居の仕事をしていた。
二人に同情し、丁度洗い場のパートを探しているところだったので、早速静江と由紀を自分の勤め先に連れて行った。住み込みも問題なく、他の従業員からも由紀は可愛がられた。
そしてしばらくはそこで働いたが、数年後、今の女将から独立して店を持つので手伝ってもらえないかと誘われた。もちろん静江にとって恩人からの依頼で、二つ返事で了承し今の店に職場を移したのである。
その間、失踪した夫については、もはや考えるゆとりもなく親娘手をたずさえ今日に至っているのである。
大藪は彼女の正直な苦労話を聞き、ただただ頭が下がる思いであった。親娘で知り合いもいない街を放浪するかつての心細さを想像すると、自分も影ながら応援したくなった。
これからも度々寄せて貰うと伝え、ご馳走にになった礼を言いながら店を出たのは夕方近くであった。
*
高杉春男は帰路の居酒屋通いを辞められないでいる。もう長年の習慣となってしまい、どうしても足が向いてしまうのだった。
店の真近まで来た時、後ろから彼の肩を叩く者がいた。振り向くと、大藪のにこやかな笑顔があった。
「やあ、高杉さん。私もご一緒してよろしいですか」
「ああ、どうぞどうぞ、一向に構いません」
二人はベンチで寝ていた高杉を大藪が起こし、揃って終電車に駆け込んだ縁で親しくなっていた。
親会社と子会社の違いはあるが、同じ工場で勤めており、その後帰りに出会った時は高杉の行き付けの居酒屋に何度か同伴している。
「お二人さんご一緒って久し振りね。いつもの席空いてるわよ」
給仕の女性と大藪も馴染みになっていた。
いつもどおりに、高杉は熱燗、大藪は焼酎を頼んだ。いずれも勝手気ままに手酌で飲む。
二人は気が合うというより、いつも大藪の話を高杉が聞くという関係である。
もともとが高杉が寡黙であるのに対し、大藪は話し好きであった。仕事や人間関係の苦労、家族の問題、趣味に至るまで様々な事柄を高杉に話しかける。高杉は相槌を打つ程度でほとんど喋る必要はなかった。
時には大変重要と思える話題もあり、少し不安になることもあるが、それだけ信頼されていると得意な気分でもあった。恐らく高杉の性格からして、他に洩れる心配はないと確信しているからであろう。
更に二人の勤め先が親会社と子会社で直接仕事の関係がないことも幸いしていた。大藪も、日頃の心の内をさらけ出すことで、もやもやを発散することが出来、高杉は普段垣間見ることの出来ない自分とは別の世界の新鮮な情報を耳にする利点があった。
たまに高杉も質問され答えることもあるが話題が少なくうろたえることもある。
「高杉さんはどちらのご出身で」
「神奈川です。こちらに来てもう十五年以上になります」
「ご家族は」
「もうとっくに両親とも亡くしましてね、向こうには兄が居るんですが、ほとんど行き来はありません」
「そうですか。今はお一人だそうで寂しくありませんか」
「全く、もう四十を越えましたが、慣れてしまって、不自由はありませんしむしろ気楽でいいですよ」
「でもあまり派手なご趣味もなさらないようで、ギャンブルの方はどうですか」
「いえ、そちらの方もあまり関心がなくて、私の趣味と言えば飲むことと、家でごろごろテレビを見ることですかな」
「それとお仕事ですか」
「ハハハ、他にすることがないから行くようなもので。おかげさまで今の仕事に就いて一四年ほどになりますが、何とか休むことなく今日までやってこられました」
「それは感心ですね。うちの女房なんかは絶賛しますよ。じゃあ大変失礼なことを伺いますが、飲むこと以外あまり散財されないとすると結構お金が貯まっているんじゃないですか」
「確かに、そうですかな。あまり使い道をしらないもので」
「ハハハ、なんだか他人事のようですな。将来なにか計画されているとか。例えば、旅行をなさるとか」
「いえ、そんな予定はないんですよ。でも不思議なんですよね。もらった給料は必要以上には手を付けてはいけないと思ってしまうんですよね。根が貧乏性なんですかね」
*
ある日の夕刻に鹿鳥静江の店を覗くと、入れ替わり白髪の老人が帰るところだった。
「よく考えて返事をくれんかな」
と静江に言い残して外に出て行った。
「あら、大藪さん、いらっしゃい。しばらくですね」
と言って、彼がキープしている焼酎を棚から取り出す。昼間に初めてこの店に来てから、その後何度か夜にも立ち寄るようになっていた。
会社から少し離れた駅前にあり、仕事が早く退けた日に限られる。
今だに娘の由紀の件で恩義を感じているようで、何かとサービスしてくれる。
最近は娘同士も仲良くつきあっており、家族ぐるみの交友と言ってよかった。今度は奥様もご一緒にと誘われているが、少々照れ臭くまだ実現はしていない。
今日は見た感じやや彼女に元気がなかった。
「何かあったの?」
と大藪がさりげなく質問すると、他に客がいないこともあり、困惑した表情で話ししだした。
「今出て行ったご老人がこの店のオーナーなんです。実は今入院中の女将さんは彼のおめかけさんで、この店を買ってもらって商売を始めたんです」
それは大藪も初耳だった。
「今日来られたのは女将さんの容態が悪く、先も長くないだろうと知らせに来られたんです」
「そう、それはお気の毒に」
「いえ、そのことはある程度覚悟していたんですが、それとは別に思いもよらない申し出があったんです」
彼女は一旦言い淀んだが、そのまま続けた。
「女将さんの代わりをして欲しいと」
今度はうまく言葉が出ず途切れてしまった。
「つまり、静江さん、あなたにおめかけさんになれと」
代わりに大藪が捕捉した。
彼女が頷く。
「それであなたの気持ちはどうなんですか」
「もちろん断りました。私は嫌ですし、そんなことになれば女将さんにも顔を合わすことが出来ません」
「立ち入ったことを聞くようですが、もし女将さんが駄目になった場合、この店はどうなるんでしょうな」
「もちろんオーナさんの思いのままです。辞めるのも続けるのも彼の意志次第です」
大藪は納得した。ご老人からすればこの店は自分の気に入った人物に任せており、もし提示した条件が気に入らなければ首をすげ替えるのは自由である。
だからと言って自分の囲いものにしようとするのは、卑劣なやり方に思われて腹立たしい。
セクハラが何かと話題になっているこの時代に、欲深い人間は年老いても変わらないのかもしれないと思っていると、静江が溜息まじりに言った。
「私もこの店が長いし、そろそろ辞め時かもしれませんねえ。お客さんも年々減る一方で水揚げも落ちてますしねえ。ただ、せっかく常連さんには贔屓にして頂いているのに。何となくもったいなくて」
「これから何かと大変ですな。別のお仕事を探されるにしても迷われることも多いでしょうな」
大藪は彼女に同情した。今までも苦労を重ね、これから先も不透明である。新たな職にトライしても紆余曲折が予想される。けれどもまだまだ老け込む年ではない。女性へのエチケットとして聞いてはいないが四十台前後であろうか。これからの人生いくらでもやり直しがきくのである。
そう考えると大藪のお節介の虫が頭をもたげてきた。
彼は少し姿勢を正して彼女に尋ねた。
「ところで、話は違うんですが」
「何でしょう」
「もう一度身を固める気はありませんか」
*
透明な日射しを知覚する瞬間は、ありふれた街角の景色であっても新鮮で穏やかな風情を実感することがある。
道を挟んだ両側に同じ造りの隣接住宅が立ち並ぶ。
注意深く見ると、玄関先に置かれた鉢植えと花の種類、置物、郵便受けの色や形状の違いが、それぞれの家の個性を区別し、特徴を表しているかのよう。
もちろん、表札も目立たず、飾りめいた装いを省略した住居もあるが、通りすがりの繊細な感性が味わう情緒を、損なうことはない。むしろ相違があることでほどよく調和を自覚する。
しばらく歩くと右手に公園が見える。
数組の親子連れ、友人どうしであろうかのんびりと遊び、くつろぐ風景。道行く人はまばらで、庭のある家の垣根から顔を出す犬の姿。廃品回収車のアナウンスと行き交う。
その一方で、反復練習しているピアノの音が耳に入ってくる。
左側に折れ、突き当たりに二階建てのアパートが見える。かなり年数が経っているようで外壁の処々に補修の跡が。
その二階の一室に高杉春男の部屋があり、今、大藪が訪れようとしていた。
数日前に大藪は久し振りに一杯やっていこうと思い、駅前の居酒屋を覗き、高杉の姿を探した。けれどもいつもの席にも見当たらず、まだ来ていないようだった。
念の為顔見知りの給仕女性に聞くと、
「高杉さん。ここのとこいらっしゃらないんですよ。どうされたんでしょうね」
との答えが返ってきた。
珍しいこともある。ほとんど毎日立ち寄るはずなのに、もしかしたら何かあったのではと心配になった。
早速次の日彼が働いている職場に立寄ってみた。
普段飲み仲間として良好な関係を保つのに、事業所内のお互いの仕事に立ち入らないとの暗黙の了解があり、余程の事がなければ行く事はなかった。
その部署の責任者に聞いてみると次のような事情があった。
「高杉さん、二週間前、仕事中に作業車両に当てられて、大怪我をされたんですよ。すぐに救急車を呼んで病院に搬送したんですが、左肩の骨折でね。しばらく入院されたんですが、もう退院して自宅に戻られてますよ。出社されるまでもう一週間ほど掛かるかな」
大藪は自分自身が腹立たしく感じた。
同じ工場に勤めながら、別会社とは言え総務担当の自分が傷害事故を知らなかったこと。それも救急車まで来た事実を認識していなかったことは職務怠慢と言われても仕方なかった。
しかも日頃、親しくしている友人が当事者だけになおさら情けなく感じた。
そしてその日の午後急遽休みを取り、お見舞いに駆けつけたのであった。
部屋の前で表札を確認する。目立たない細字で高杉春男と書かれている。
大藪は呼鈴を押した。
かすかに応える声が聞こえて来た。中でごそごそと音がする。
そしてしばらく待った後、扉が開いた。
「どちら様で」
三角巾で腕を固定した高杉が顔を覗かせた。
「大藪です。突然で申し訳ない」
「ああ、大藪さん。これはまた」
「いえいえ、お怪我をされたことを今日初めて知ってね。総務の人間でありながら全く恥かしい思いですよ。お詫びかたがたお見舞いに参ったわけです」
「いやあ、そんなに気を使って頂かなくても」
高杉はさかんに恐縮していた。逆に自分こそ連絡しなかったことを謝罪した。
一通り挨拶を交わし手土産を渡した後、部屋の中を見回すと、あたり一面色々な物が散乱していた。
新聞、雑誌、空き缶等が無造作に置かれている。一人住まい特有の足の踏み場もない乱雑さといっていい。高杉は慌てて片付けようとしたが、途中で諦め外に出ようということになった。
彼はさかんに言い訳をする。
「めったに人が来ないし、おまけに今は左手が使えない状態で」
「もともとがずぼらな性格なんですよ。部屋の整理もたまにしかやらないし」
歩きながら何度も繰り返す。
ようやく近くの喫茶店に入り腰を落ち着けたが、大藪は事故と同時に高杉のわび住まいを気の毒に思えた。又、事前に連絡してから来るべきだったと後悔した。ただ高杉は大藪の心遣いに何度も感謝した。
さらに怪我についても自分の不注意だと強調する。
仕事の慣れから来るルーズさと油断が今回の事故を招いたと反省し、自分の仕事を見直すいい機会が与えられたと神妙に話した。
大藪は高杉の善良で人の良さをあらためて感じた。
あくまで自分自身は謙虚に振舞い、誰に対しても相手を立てることを心掛ける。
更に寡黙だが言葉遣いはしっかりしている。普段目立たないが、見た目の印象は悪くない。
この時、大藪は不思議に思った。
なぜ彼が今だに独身なのだろうと。
*
それから一月後の土曜日の昼前に大藪は鹿鳥静江の店にいた。
開店前の時間帯であった。まもなく彼のいわゆる飲み友達の高杉が現れるはずであった。
以前彼は静江に結婚の意志を確認したが、あまり気が進まないようだった。もう子供も大きくなり彼女自身も年でいまさら夫婦生活の苦労を味わいたくないというのが理由であった。
どうやら、以前の夫との予期しない離別が影響しているのであろう。
けれども大藪は諦めなかった。彼の仲人役としての真価のみせどころであった。
彼女がまだ充分若く大人としての魅力の持ち主であること。それが証拠にこの店のオーナーから白羽の矢が立ったことも事実で、逆に独身だと何かにつけて好色な男性から関心を惹かれ易いことを説明した。
そして、伴侶ということではなく良きパートナーを見つけると考え、必ずしも結婚にこだわる必要はないと粘り強く説得した。けれどもこの時点では大藪も特定の男性はまだ念頭にあるわけではなかった。
が、説得の甲斐あって彼女は折れ、断っても尾を引かないようであれば、構わないということになった。
彼女から他の条件を確認すると、
「そうね、もちろん真面目で裏切らない人。それと商売柄、飲んでも人に迷惑を掛けない人かな。まあこの年で理想を並べても可笑しいって言われそう。でもそういう話抜きでこの店をご贔屓にして頂けるのであれば大歓迎よ」
との私見から、多少難点はあるものの高杉が念頭に浮かんだのである。
これに対し高杉も気乗り薄であった。
相手が子持ちとだからいうことではなく、彼の場合はあまりに独身生活が長過ぎ、夫婦生活そのものに自信がないと言う。
けれども大藪は辛抱強く説得。相性さえ合えばその心配は取り越し苦労だと。不安視しながらもうまくいっているケースはいくらでもあると。
結局、高杉が興味を示したのは、相手が自分の店ではないが飲食店を営んでいて、酔い潰れなければ、もちろん飲酒にも理解があり、とにかく行ってみようということになった。
*
約束の時間が過ぎた。高杉はまだ現れない。
迷った場合の連絡先を教えてあるが電話は一向に入ってこない。
大藪は念の為、高杉の自宅に電話を入れてみた。すると当の本人が出てきたではないか。彼は何度も謝り、言い訳を繰り返した。
昨夜酒量が過ぎて、ぐっすり眠り込んでしまい、つい先ほどまで目が覚めなかったそうである。これからタクシーでこちらに向かうと言ってきた。これには大藪も失望してしまった。彼女が指摘する約束が守れないタイプそのものである。
がっかりした表情で事情を静江に伝えると、逆に慰められてしまった。
「私はちっとも構いませんわ。むしろ飾り気の無い方のようでかえって気が楽になりましたわ。待つのも何ですからビールと軽いおつまみでもいかがですか」
大藪は手持ち無沙汰になり、ありがたく頂戴することにした。
*
高杉は遅参の理由を飲酒のせいにしたが、実はそうではなかった。
大藪からの申し出を熟慮した末に出た結論は、どのようにして婉曲に断るかであった。
けれどもいい口実が思い浮かばない。
逆に相手から断るように仕向けることは出来るだろうか。
彼がルーズな人間だと思わせることが早道であろう。
そして大藪さんには悪いが、故意に時間に遅れることにした。
そう、誰にも言ってないが、彼には結婚出来ない理由があったのだ。
暗いトンネルのはるか彼方に薄明かりがぼんやりと見える。
その二つあるかすかな輝きを目指して、必死に手探りで進もうともがいているが、体の自由が利かずもどかしい限り。
その時、『ゴオーン、ゴオーン』と大きな音響が頭を貫いた。それと同時にいい知れない怯えと緊張が体の隅々まで走る。
もう一度、更に巨大な轟音を合図に、一転猛スピードで光源に向かって進みだした。もはや止めることもおぼつかない。
全身を貫く脱力感、不安、あらん限りの絶叫。
そしてついに光の渦に突入した。
今度はあまりに不意を突かれて、大空に解き放たれた感覚。
明るい空気に触れた瞬間、二つの光は懐かしい双眸に変化した。
「ご主人!ご主人!」
強音も耳慣れた言葉に取って代わっている。
「ご主人、気がつきましたか。もう大丈夫ですよ。よく頑張りましたね」
「・・・」
「ご主人、一週間ぶりのお目覚めですよ。私がわかりますか?」
ようやく自分に対して話し掛ける声の正体が判り、答えようと努力するも言葉にならない。
「ああ、いいですよ無理なさらなくても、回復されたことさえわかればもう一安心ですよ。良かったですね。あとはじっくり治されるといいですから」
「ど、どうして・・・」
なんとか振り絞って言えた一声。
「ああ、不思議に思われるのも無理ありませんね。私は医者ですが、あなたは昏睡状態で眠りっぱなしでしたからね。一週間前に自動車事故に遭われ全身打撲、意識不明でこの病院に運び込まれました。症状はひどかったのですが、あなたの忍耐力と集中治療の甲斐あって快復されたわけです。リハビリに専念なされれば、元通りになるのもそう時間はかからないでしょう。ただ、一つ困ったことは事故に遭われた時、あなたの持ち物が一切なく身元が不明で、ご家族にも連絡できなかったことです。でももう照会の必要なくなりましたね。改めてお名前伺ってよろしいですか」
「な、名前・・」
「そうです。あなたのお名前です。それとご家族はどちらにいらっしゃいますか?」
「わ、わからない・・」
「では、ご出身はどちらですか?」
「そ、それも、わからない・・」
どうやら質問が性急すぎたようである。不安を駆り立てるのは得策ではないと当番医師は判断した。
「ああ、まだ意識が戻られたばかりで、急ぎすぎたようです。でもゆっくり養生されれば徐々に思い出されますから心配ありませんよ。とにかく後は焦らず体力作りに努めましょう」
ところがその後も一向に思い出せなかった。
要するに記憶喪失。頭部の損傷が彼の過去の大半の記憶を奪ったようだ。
名前、家族、出身地等々。退院後も自分が何者かを懸命に調べまくった。
しかし、身につけていた服以外の所持品も見付からず、行方不明者の問い合わせも該当がなく、結局わからずじまいで時間が過ぎていった。その内加害者からの補償金も底が尽き、働いて収入を得る必要に迫られた。
もう体力は充分回復していた。けれども自分の身元がはっきりしないままでは履歴書も書けないのである。すっかり気落ちしてしまった。
ところがある日、日雇いの仕事で親しくなった男性に悩みを打ち明けると、大変同情してくれた。
そして、彼は自分の身分書を出し年齢も同じくらいでこれを使えばいいと言ってくれた。自分にはもう不要だと。世を拗ね、心身とも疲れ切った彼はそれを押し付けてその場を立ち去った。
その身分書には高杉春男という名前で、現住所と本籍が記載されてあった。
念の為、役所で照会すると間違いなく当人であることがわかった。
彼は、好意に甘えて高杉春男となり、募集中の仕事に応募し職を得た。
その後、当の本人を再び目にすることはなかった。
それから十四年が過ぎた。その間職も変えず、高杉春男という人間になりきり、ひたすら真面目にめったに休むことなく勤めた。
ただ、別人であることが露見することのないよう日頃の行動に気を配った。
なにしろ、名前も経歴も偽ったままで、いわゆる詐称の罪を犯していることになる。いつ何時発覚するか分からず、不安を抱きながら毎日を過ごした。
そういう立場にあって結婚など論外であった。
普段、親しくしてくれる大藪からの熱心な誘いを断りきれず、相手の女性の店に行く事になったが、わざと遅れた理由は彼の人に言えない素性の秘密にあった。
昨夜久し振りに事故の時着ていた服を押し入れから取り出し、それを見ながら感傷に浸っていたのである。
大藪から電話を受けて、ようやく思い腰を上げた。普段着でいいと言われたが着ていく服を思案した。昨夜取り出したセーターが目に付き、充分綺麗だったため、そのまま身につけて部屋を飛び出した。
*
大藪は高杉が来るのをビールで喉を潤しながら待っている。
その間に開店の時間を迎え客も数人店に入って昼食をしていた。
もはやお見合いの雰囲気ではなくなっている。仲介者の不手際であったが、静江は、
「ちっとも気にしてませんから」
と言ってくれており、胸を撫で下ろしている。
そうこうする内に表の戸が開き、娘の由紀が入って来た。
「あら、大藪のおじさま、久し振りですね」
ニコニコ笑顔を浮かべながら挨拶してきた。土曜日は昼時お手伝いに来ていると言う。
彼女とニ、三言葉を交わしている内に再び戸が開く音を耳にした。
ここからは後から思い出すと、目に焼きついた印象に残るシーンの連続であった。
「大藪さん、すみません。すっかり遅くなって申し訳ない」
背後から高杉の謝る声が聞こえて来た。
すぐさま振り返り、由紀を見ていた目を高杉の方に移す。
その瞬間、以前に彼女に似ていると感じた相手が一体誰なのかが明らかになった。
高杉は入り口で恐縮した表情で立っている。
彼にしては幾分派手な赤のセーターを着込んでいて普段より若々しく感じた。胸にはKSYの英文字が青色で刺繍してあった。
「ようやく来られましたな。先に失礼して飲み物を頂いてましたよ」
大藪は彼に向かって声を掛ける。
気に掛かったことがあったが、とりあえず紹介することにした。
「こちらが同じ事業所で僕が親しくしてもらっている高杉さんです」
と静江の方に向き直った。
ところが既に彼女の目は高杉に釘付けになっていた。
その瞼は見開き顔は強張っている。
しばらく凝視した後、彼女の口から、
「こうさん・・」
との言葉が洩れた。意味が定かでなく明らかに様子が変であった。
「静江さん、どうかしました?」
大藪の呼び掛けも耳に入ってないようである。
すると彼女の顔はゆがみ怒りと悲しみが混在したような表情に変わった。
更に思いもよらない行動に出た。
「人でなし!」
そう言うや否や彼女は睨みつけながら高杉に駆け寄る。
そして歯を食い縛り両こぶしで高杉の胸を叩き始めた。
「人でなし、人でなし!」
と声を発しながら、その行為を繰り返す。
大藪をはじめ、娘の由紀、店に居合わせた客もその様子を呆気に取られて眺めていた。
*
人生には運命の糸に導かれたような出会いが生じることがある。
全くの偶然にすぎないのだが、無理矢理その誘因を見つけ出そうとする。けれどもどうしても理由を突き止められない場合に奇跡と呼ぶのであろう。
大藪は数奇で感動的な再会を演出した張本人として、興奮し誇らしい気分であった。
彼は自宅に戻り、妻の八千代と娘の真知に今日の思いがけない体験を説明していた。
二人とも強い関心を示し聞き入っている。
「静江さんが何度も何度も高杉さんを叩いているんで皆びっくりしたんだが、ようやく私も我に返り止めに入って彼女を引き離したよ。すると今度は堰を切ったように泣き始めてね」
「その間当の高杉さんはどうしていたの?」
「それなんだ。彼はどうやら彼女との関係を察知したんだろうな、叩かれるままで抵抗すらしなかったよ。そして彼も覚悟を決めて静江さんに言った。『すまない、すまない』とね。そして続けてこう言ったんだ。『俺は十四年前、事故に遭ってそれまでの記憶を全て失い、今だに本当の名前すら思いだせないんだ。もし知っているんなら教えてもらえないか。俺が誰なのか、そして何をしたのか』てね」
「それじゃあ、高杉さんは叩かれた理由が解らなかったのね」
「そうなんだ。でも私にはその時全てが理解出来た。そして静江さんの代わりに私が彼に伝えたよ。『もしかしたら、ここにいる静江さんがあなたの奥さんで、そちらの娘さんがお子さんですよ。そのセーターは静江さんが編んだもので、しかも由紀さんはあなたにそっくりですよ』と。更に『地元では、あなたが失踪したと思われてましたよ』と説明すると、彼は『何てことだ、すまない、すまない』って繰り返し謝ってね」
「じゃあ、誤解が解けた訳ね」
「うむ。今度は静江さんに説明したよ。『彼が十四年前の記憶を無くした直後から、今の会社に勤めていて、その間ずっと一人だったことは間違いないですよ』と。それに対しようやく納得した彼女は、泣きながら言ったよ。『こうさんは昔からぶきっちょで恥かしがりやだったわ。だから私たちを見捨てる訳がないと信じていた。いずれは戻って来ると信じてた』と、そして一方の高杉さんは自分に家族がいると分かって感激していたよ」
「じゃあ、由紀ちゃんのお父さんが見つかったのね」
と娘の真知が目を真赤にしながら言った。
「そう、その後静江さんが高杉さんに説明を始めた。彼の名前は鹿鳥幸一で両親は無く孤児であったこと。二人は結婚し由紀さんが生まれた後、出稼ぎに行ったまま消息不明になったこと。ちなみに、セーターの刺繍の文字は三人の名前を並べたものだそうだ。鹿鳥という名前は彼の苗字なのだが、周囲から籍を外して元に戻せと言われたが、彼の失踪をどうしても信じられず変えなかったそうだ」
「彼女、苦しかったでしょうね」
「その通りだと思うよ。それに対し高杉さんは言ったよ。毎月もらう給料を必要以上に使うなという意識が心の底で働いていたと。今までその理由が分からなかったがやっと納得出来たって。そういえばかなり貯まっているって言ってたな」
「それはあなたも見習わないといけないわね」
八千代からチクリと痛いところを突かれた。
「人の心は多くを失ったとしても、意識の奥で大切なものを守ろうとするんだろうな。その後、静江さんが持っていた写真を見せていたが、なるほど高杉さんそのものだったな。彼は言ったよ。『俺のようなずぼらで横着な人間とやり直しがきくかな』って、それに対し静江さんは笑顔で答えたよ。『こうさんは昔からそうだった』ってね。そして、親子水入らずの方がいいと思い、お客さんと一緒に店を出たよ。気を利かして『営業中』の表示を裏返しにしてね」
「いいお話でしたわね。でも今回は仲人役にはなれないわね。もともと夫婦ですもの」
「いや、十四年も離れ離れだったんだ。再婚披露のようなものを提案してみるよ」
「じゃあ、その時は私も由紀さんの親友ということで式に出られるのね」
と真知が目を輝かせた。
「ま、まあそういうことだな」
と大藪は答えた。その時玄関のチャイムが鳴った。
「私見てくる」
と真知が部屋から出て行った。
「でも名前と経歴を偽っていた件はどうなるのかしら」
「それは私も骨折ってみるよ。詐称行為とはいってもきちんと税金や保険を支払っているんだし、それに夫婦、親子がようやく巡り会えたんだ。融通が利くと思うよ」
真知が困ったような表情で戻って来た。
「お兄ちゃんだったわ」
「それは丁度良かった。もともと鉄平があの娘を連れてきたのが今回の美談の発端になったんだ。知れば喜ぶだろう。早く上がるように言いなさい」
「でも、また女の人と一緒よ」
真知が言い難くそうに伝えると、大藪は八千代と顔を見合わせた。
「まさか、また助けたっていうんじゃあ・・」
そう言いつつ腰を浮かして玄関に向かう。その後を八千代と真知が続く。
廊下に出ると、笑みを浮かべた鉄平の姿とその隣には恥ずかしげな表情をした女性が立っていた。
彼女は髪の毛も服装もきちんとしており、とりあえず一安心。
鉄平は言った。
「お父さん、お母さん、近くに寄ったので丁度いいと思って。僕の彼女を紹介するよ」
大藪は何と答えていいのかすぐに言葉が見つからなかった。