蘇る言葉
蘇る言葉
大藪次郎は封書を投函するついでに自宅の周辺の散策に出掛けていた。
今ごろ長女の泉と孫の秀太を亭主が迎えに来ているはずであった。
大藪は彼とは顔を合わせたくなかった。従って、わざとゆっくり時間を掛けながら歩き回っている。
三日前、長女が再び亭主と別れたいと言って帰ってきた。彼が浮気をしていると言う。
けれども前回と同様今回も長女の誤解のようである。
亭主が多忙で毎晩帰りが遅くて、おまけに休日出勤も多く、ろくに家族サービスもままならならないため、長女も欲求不満が溜まり気疲れしたものと思われる。その結果精神が不安定となり、あらぬ妄想が嵩じたようだ。
日頃長女の心理面の弱さを歯痒く思っていた大藪は、その時つい口が滑ってしまった。
「それほど別れたいのならそうしたほうがいい。私がもっといい男を探してあげるから」
この一言が波紋を呼んだ。しまったと思ったが後の祭り。長女、泉は見る間に顔をくしゃくしゃにして、
「お父さん、ひどい・・」
と言うなり泣き出してしまった。
妻も追い討ちをかける。
「あなた、その言い方は無責任ですよ」
更に、次女も孫に同意を求めるように、
「じじ悪い、じじ悪いね」
と加勢する。
大藪もこれには白旗を揚げざるを得ない。即座に前言撤回。
「わかったわかった。彼はどこにいるんだ。私が話ししてみるから」
結局、亭主と連絡が取れ、やはり想像していたような事情で盛んに謝っていたが、疲労回復の必要から、二三日泊まらせ今日迎えに来る事で話がついたのであった。
ただ大藪としては何となく釈然とせず、亭主とは顔を合わさないことで苦言を呈したつもりであった。
自宅に戻ると、妻と次女だけで、もう既に長女一家は晴れやかな顔をして帰った後だった。
「お父さんにくれぐれもよろしく伝えてほしいとのことでしたよ」
「そうか、それ以外に何か言ってなかったか?」
「さあ、どんなことかしら」
「例えば、もう迷惑を掛けないようにするとか」
二人ともきっぱりと首を横に振った。
結局、彼の無言のメッセージもあまり効果なかったようである。
少々落胆したがすぐに気を取り直す。そして彼の副業ともいえる縁談の斡旋役に力を入れようと決心した。但し、出費が嵩む割には実入りは期待出来ないが、胸の内の親切心、言い換えれば、お節介の虫が騒ぎ出すのであった。
***
雨上がりの晴れた日曜日の朝は清々しくて気持ちがよい。いつもは慌しく職場に向かう通勤者の多いありふれた住宅地も、大気が澄んだのどかな景色が見られた。
「ママ、ポストにお手紙が入っていたよ」
「あら、そう、昨日帰った時に見忘れていたのね。誰かしら」
「えーと、大、何とか次郎って書いてある。知らない人から」
と5,6歳位の女の子が、ベランダに出て部屋の空気を入れ替えようとしている母親に手渡した。
「課長さんからだわ。困ったわ。随分早いのね」
手紙の内容に心当たりがあった。
会沢瞳は二年前に夫を交通事故で亡くし、そのまま今のマンションに娘と二人で住んでいる。
当時は大変な衝撃を受け、心身ともに打ちのめされ、立ち直るのに時間が掛かった。
その後の生活は夫の生命保険、事故の補償金、見舞金である程度しのげたが、何もしないでいるわけにはいかず、知り合いの紹介で今の会社にパート勤めを始めて一年半になる。
彼女の実家は遠方で、しかも未婚の兄弟が何人かいることもあって、戻るのも気が引けるため、そのままの暮らしを続けることを選んだのであった。
「ママあ、今日遊園地に行こうよ」
以前に約束をしていた事を思い出したが、仕事の疲れからか、今日は気分が優れなかった。
「ごめん、今日は体の具合が良くないの。お昼はご馳走してあげるからお友達と遊んでくれないかしら」
瞳の哀願するような口調に娘も不満気ではあったが無理強いせずあっさり同意した。
「仕様がないわね。でもママ忙しいのね。今日は許してあげる」
大人びた言い方ではあるが、母親思いの娘であった。
「ありがとう」
と瞳は感謝した。とりあえず手紙は封を切らずそのまま机に無造作に置いた。
彼女はまだ二十八才だった。夫の勇二とは学生時代に知り合い、彼の卒業後すぐに結婚、出産した。
まだ二人とも若く、社会人としても未熟でもちろん生活は苦しかったが、親子三人の住まいは幸せに溢れていた。
将来の夢の実現を目指して、夫と二人三脚で出来る限り質素な暮らしに努めたが、その毎日は充実していた。
そして二人でこつこつと金を貯め、ようやく念願叶って新居を購入、狭いアパート暮らしから今のマンションに引越ししたのだが、その直後に突然訪れた悪夢。
ようやく新築の広い住居で親子水入らずの幸せな生活をと思っていた矢先の事故だけに、瞳は悲しみを通り越してしばらくなにも手に着かず、放心状態に陥ってしまった。彼女にとっては自分の人生が全て終わってしまったかのように気力を失い、事後のことを考える余裕など皆目無かった。
その彼女を、同じ悲哀を共有した勇二の両親は実の子以上に心配し、物心両面で手を差し伸ばした。
その結果心の傷は徐々に癒え、ようやく最近は以前の明るさを取り戻すようになっている。
又、勇二が亡くなってから三年が経ち、彼女も初婚といっても不思議でない年齢のため、盛んに再婚を勧め始めた。
「ママ、公園で遊んでくるね」
「気をつけるのよ」
娘を送り出した後、食事の片付けをと考えたが、仕事と家事の疲れが残っているようで、溜息を吐き椅子にもたれ掛かった。
少しぼんやりしていたが机の上の封書に目が止まった。
その中身は職場の上司の見合いの話に間違いはなかった。
しばらくながめていたが、
「そう、私も今年二十九になるのね」
無意識に言葉が吐いて出た。自分の将来のこと。娘のことを考えると、過去にこだわり続けてはいけない。これからの幸せを考えなくてはと自問自答した。初秋の陽射しが心地よく感じられ、窓からの風がそよそよと体を包み込む。
やがて彼女は、
「あなた、ご免なさい」
と封書に手を伸ばした。
*
金子明美は今年二十七になる。現在大手産業機械メーカーに勤務し、販売支援の仕事をしている。
社内では大変真面目な人間として通っており、仕事のほうも精力的にこなし、上司から常にいい評価を得ている。但し、こういった青年によくみられるように、多少堅物で一本気な気質の持ち主でもあった。
学生時代にラグビーをやっていただけに、体格はがっしりしたスポーツマンタイプでありながら、童顔で嫌味の無い性格は、社内の女性からは秘かに人気の的となっている。
恋人に関しては、学生時代に何人か付き合ったものの、彼の融通の利かない面が災いして長く続かず、目下のところ特定の相手はいない。
しかしながら彼自身、そろそろ身を固める時期であると思うようになっている。
地方から上京し、学生時代に住んでいたアパートに、今も居心地が良いようでそのまま暮らしており、朝は六時半に起床、八時半には出社している。
事業部勤務で関連商品の販売をサポートすることが主な仕事となり、技術、生産部門、営業部門等、社内各部署との打ち合わせや会議に出席する必要があり結構忙しい。もちろん本社や国内各拠点に出張することも多く、自宅に帰れないこともある。
営業サイドからの依頼で客先に同行することもある。
商品のプレゼン、PRもさることながら、外に出て様々な人と会い、多種多様な会話を体験することが好きで、精力的に動き回り、日課をこなしている。
体を動かすことが趣味で、平日早く仕事を終えた時は、昔から利用しているアスレチックジムで汗を流す。日曜日等の休日も、スポーツセンターに行ったり、ジョギングをしたり、長期休暇の際は山登りに出掛けるといった按配である。
「金子さん、帰りの早い日もあるのね。お食事はいつもどうしているの」
「休みの日はいつもなにしているの?」
職場の若い女性から秘かにモーションを掛けられることがあるが、いつも真面目を装い、
「これでも結構忙しくってね、時間の遣り繰りに大変なんだ」
もてない男性には羨ましい限りである。
彼自身、女性に関心がないわけではないが、過去の経験から活発な女性はどうも苦手であった。
今でも一人のほうが気楽で、プライベートな時間にまで相手に気を遣ったり、自分を必要以上に飾ったりすることはあまり好きではない。
けれども最近親元からも結婚を前向きに考えるようプレッシャーがかかっており、のんびりとばかりしておられないようだ。強いて理想のタイプを挙げるとすると、控え目で常に男性を立ててくれて、信頼して付いて来てくれそうな女性が好みで、今の職場には見当たらないようである。
「金子君、話があるんだが久し振りに帰りどうだい」
総務課長の大藪から夕刻に誘われた。同郷の出身の大先輩にあたり、日頃懇意にしてもらっている。
以前は本社勤務で、金子が出張の都度色々便宜を図ってもらったが、今は同じ事業部で日常の行き来、仕事の相談も多い。
「はい、いいですよ。事務が片付き次第、あと三十分ほどで出られます」
大藪は五十代半ばの年齢で三十近く年の開きがあり、日頃率直な人柄である金子を自分の息子のように可愛がってくれる。
時々、帰りが一緒の場合には飲みに誘ってくれて、社内外の様々な話や興味ある情報を聞かせてくれる間柄なのだ。
事業所を出て最寄の駅までに飲食街があり、その内の一軒の炉端店に入った。勤め帰りのサラリーマンでいつものように満員であった。
店内のあちこちで仕事の意見交換、職場の人間関係、家庭の問題、趣味談義等、賑やかに話の花が咲いていた。
空いた席に座り二人とも注がれたビールを一気に飲み干した。仕事の疲れを癒すのにもってこいの方法である。
大藪は上層部から次々と指示や新たな方針が打ち出されて、楽をさせてもらえないと、ひとしきりぼやいた。
そして、大藪が耳にしている新たなプロジェクトの動き、社内編成や人事の問題についても、差し支えない範囲で金子に伝えた。そういう点では自分自身に係わる社内組織の最新情報が入手でき、大藪の話を結構重宝していたのである。
その後しばらく四方山話が続いた後、大藪は用件を切り出した。
「ところで君ももう二十七になるのだろう。そろそろ結婚のことも考えてもいいんじゃないか」
「私もそうは思っているんですが、こればかりは相手がいないと」
と彼は悪びれずに答えた。
「社内では、君に関心を持った女性が多いと私は聞いとるぞ。君さえその気になれば嫁さん相手は簡単にみつかるんじゃないか」
大藪は社内でもあちこち顔を出しているため、その方面でもかなりの情報通である。
「いいえ、私なんかとんでもない」
彼は慌てて否定した。
「君も理想が高いんじゃないかね。私といっしょで。ワッハッハ」
金子はますます困惑の態である。
「実は私と入れ替わり着任した本社総務の渡辺課長から頼まれているんだが、君も知っているだろう役員秘書の川藤範子君は。彼女も今年二十五になるんだが、仕事もてきぱきと良くこなすし、明るい女性でなかなかの美人だ。ただ彼女の身近にいる男性は妻帯者が多いのと、独身男性も彼女の好みに合わないようでいまだに彼氏がいないんだ」
金子も本社で出会った時に挨拶はするものの、秘書ということもあり、他の事務の女性とのようには気楽に接するのに躊躇いが感じられる。
「それでこの前、渡辺課長がそれとなく社内の誰が気に入ってるかを聞いたところ、どうやら君の誠実で活動的な点にいい印象を持っているようでね」
大藪は間を置かずそのまま続けた。
「どうかね。我々できっかけを作ってもいいんだが、君は彼女のようなタイプをどう思うかね」
金子はいきなりの話に答えに窮してしまった。
「い、いや困りましたね。川藤さんとはほとんど話したことがないんで」
一肌ぬぎたい大藪は更に畳みかける。
「よし、それじゃあぜひ一度機会を持とう。君もきっと気に入ると思うよ」
普段自分に対して何事につけ面倒を見たがっているのを知っていたし、感謝してはいたが、さすがにこうも話がトントン拍子に進むのには当惑するばかりであった。
金子はただ、
「ハイ」
と答える以外なかった。
*
会沢瞳は朝、子供を送り出し、片付け物を済ませ、九時前には自宅を出ている。
彼女の勤め先はバスで三十分ほどの距離にある総合機械工場内にある総務部門である。
工場全体で二千名近くの従業員が働いており、子会社や関連会社も含め様々な施設、建物が点在している。彼女の仕事は各所から送られてくる多数の郵便物や資料等の整理と、各種伝票類の発行や仕訳作業をすることにある。
パートであるため正社員より出社は遅くてよく、又、帰社時間も定時で職場を出る事が出来る。
社員も年配の人が多いため、瞳の境遇に同情的で仕事がし易く、いい職場だと彼女は思っている。
「おはようございます」
いつものように挨拶をしながら部屋に入っていった。
「おう、会沢君おはよう。やはり職場の花が来ないことには仕事に熱が入らんよ。今日も頼むよ」
総務部門を実質的に束ねる課長の大藪が声を掛けた。五十半ばのベテラン社員である。
「あら失礼ね。それじゃあ私達がいてもあまり仕事がはかどらないってわけ」
と中年の女性が不満気に言った。
「そうよ。課長さん失礼よ。会沢さんが来ると急に元気が出て鼻の下が伸びるんだから」
別のパート女性が混ぜ返し、周囲が笑いに包まれた。
「冗談だよ冗談。君らには社交辞令もわからんのかね」
「いや先程の課長さんの口振りは冗談とは思えないわ。かなり本音の部分もありそうよ。用心しなさいよ会沢さん」
「まったくかなわんなあ、おばさん連中には。まあいい、さあ仕事した仕事した」
大藪も毒気を抜かれてしまいバツが悪くなって自分の机に戻った。瞳の所属しているオフィスは男女ともほとんどが家族もちである。
「娘さんは元気で学校に行ってる?」
家庭的なムードがあり、同僚の女性が気を遣って声を掛けてくれる。
課長の大藪も母子家庭の身の上である瞳には何くれとなく親切で、今回お見合いを勧めているのも彼である。
一方で事業所内でもここは人の出入りの多い所である。
場内各部門の社員や関連会社の職員、時には暇潰しで来る者等、様々である。仕事さえ滞りなく順調であれば、そう規律は厳しくはない。
他の部門に見られる上下関係の気配り、規則に縛られた日常の重苦しさはなく、束の間の骨休めにと世間話に時間を費やしに来る者も多い。
課長である大藪自身が定年に近く、出世を望んでいないこともあり、もともと営業畑出身で陽気でざっくばらんな話好きの性格が、他の部門の人間が遠慮せず気楽に来られる一因であろう。
更に全体的に開放的で明るく賑やかな従業員が多く、時には横着物がいて、初めから女性職員にコーヒーを要求する者もいる。他の部署には見られない珍しい光景ではある。
その中にあって瞳のおとなしく口数の少ない従順さが良い印象を持たれている。
しばらくして突然入り口の扉が開き、がっしりした体格の若い男性が入って来た。
「おお、しばらくだね金子君。こんな朝早く来るとは珍しいね」
大藪は白い歯を見せながら歓迎した。
「大藪課長、おはようございます。外出の途中なんですが用事を思い出しましてね」
「何かね、ところで来週の火曜日会議で本社に行くんだったな。私も呼び出されて行くことになったんだ。丁度良かったどこかで合流しようや」
「課長がご一緒なら安心です。また連絡します」
と謙遜して言う。販売推進課の若手社員の中でも金子は評価が高く、開発分野の会議には必ず声が掛かり、同年代社員の羨望の的になっている。
「実は作成した報告書とサンプルを関係者に送ってほしいんですが」
「ああ、いいよ。会沢君、手配してやってくれないかね」
大藪は金子の依頼を好意的に応じ、瞳に指図した。
「ハイ、金子さん、送る物はどれかしら」
「資料は宛先別の部数を作成しています。それとサンプルモデルはこの箱に入っています。それぞれ同数送付してほしいのですが」
「わかったわ。早速手配するわね」
「どうもありがとうございます。お願いします」
はきはきとした口調のため、いつも周囲に颯爽とした印象を与えている。瞳は釣られるように金子に尋ねた。
「金子さん、時々西住宅行きのバスに乗られません」
帰りのバスでたまに見掛けることがある。
「ああ、週に一度早仕舞いしてトレーニングジムに行くんです。たまに体を動かさないと鈍ってしまいますんで」
「あらあ、毎週なの、それは感心ね」
「でも最近は仕事が忙しくってなかなか行けないんですよ」
とちょっぴり無念そうである。
「そう、それは大変ね。でもあまり無理して体を壊さないようにね、お一人なんでしょ」
瞳は金子が社内で女性から人気のある独身男性であることは以前から聞いていた。
「どうもありがとう。そうします。体が唯一の財産ですからね私は」
二人は共に笑った。
「じゃあ、お願いします。行って来ます」
「行ってらっしゃい」
金子を見送った後、瞳はさわやかな気分であった。
一瞬ではあったが以前味わったことのある懐かしいイメージに捉われたが、何であるか彼女には思いつかなかった。
*
「遅くなってしまいまして申し訳ありません」
「いやいや会沢くん、私も先程着いたばかりなんだ」
職場の長である課長の大藪が言った。
「会沢くんもようやく決心してくれたんで私もほっと一安心だ。今日紹介する相手は釣書に書いてあったように、年齢は三十五歳で少し上なんだが、お医者さんで生活力は問題ないよ。なかなかしっかりした人らしいが、でも本人同士の相性もあるんで、会ってみて気に添わないようならそう言ってもらって結構だよ。私はいい話だと思うんだが」
さりげなく自分の意見も付け加える。
大藪は会沢瞳が夫を二年前に事故で亡くした気の毒な未亡人で、娘との二人の家庭であることは以前から知っていた。
当初はまだ亡夫への思慕が強く、再縁の話など歯牙にもかけない様子であった。しかしながら時間を経るにつれて、周囲の説得もあって思い迷う気持ちが生じてきたようである。なにしろまだ充分若いことと、娘の将来のためにも理想的な家庭環境が望まれ、その為にはいつまでも過去を引き摺っているようでは駄目だとの意識に傾きつつあった。大藪はその心境の変化を読み取り、彼女に負担を掛けないように注意しながら、お見合いを勧めたのであった。
瞳は逡巡したあげく、亡夫の両親と相談した上で、とにかく会ってみるだけとの意思を大藪に伝え、今日の対面の運びとなったのである。
「もう先方は来ておられるよ。向こうのレストランで待ってらっしゃる。行こうか」
ホテルの一階のコーナーに喫茶、軽食用のレストランがあり、この時間帯は比較的空いていた。瞳は大藪に伴われて中に入って行く。
奥のテーブルに二人の男女が腰掛けて話ししていたが、その内の女性がこちらに気がつき歩み寄ってきた。和服に身を固めた六十過ぎと思われる初老の女性で、笑みを浮かべながら挨拶した。
「会沢瞳様ですね。私、向山フサと申します。大藪様とは長年懇意にして頂いております。今日はいいご縁になればと願っております」
丁重な言葉を聞いて瞳はドギマギして答えた。
「ハ、ハイ、会沢瞳です。宜しくお願いします」
「まあ、そう硬くならないで、いつも通りでいいんだよ」
と大藪がとりなした。
「そうですとも。先様も瞳様のことはご存知で、お気楽にお会いなされてよろしゅうございますわ。それでは早速ご紹介させて頂きましょう」
二人は案内され奥の席に向かった。
「加納様、会沢瞳様がいらっしゃいました。ご紹介いたします」
紺のスーツを着用し青地にオレンジ彩色のストライプのネクタイを締めた中肉中背の男性が立ち上がった。彼は落ち着いた雰囲気で礼儀正しく挨拶した。
「加納です。宜しくお願いします」
それに対し瞳は消え入りそうな声で返答し、お辞儀をした。向山フサに促され夫々席に着く。
飲み物を注文した後、フサが切り出した。
「加納様のお母様と私は、古くからの知り合いでして、長年お付き合いをさせて頂いております。今日、ぜひにとお誘い致しましたのですけれど、もうお互い大人同士ですし、お二人のお気持ちを尊重したいとのことで、ご遠慮なさいましてね。何分にも宜しくと申されておられましたわ」
「まことにその通りで、こればかりはお二人の相性、つまりフィーリングですな。それが大事で我々が決める事ではありませんよ。私も全く同意見です」
と大藪が相槌を打った。
「お父様が市内で開業医をお始めになられたのは、もうかれこれ二十年ほど前になりますか、年々患者さんの数も増える一方で、最近は内科医としては評判の医院ですのよ。私もたまに診察して頂くこともありますの」
加納は経験豊かな医師にみられるような、ソツのない気配りと穏やかな表情で話しを聞いていた。少し年齢よりも老けて見えるのは職業柄のせいかもしれない。
「数年前、東都大学病院でインターンをしておられた加納様をお父様が呼び寄せられ、今では医院を任せていらっしゃいます。大学でお学びになられた医学知識の豊富さと、診療技術の確かさが大層評判になり、私のように遠くから診てもらいに来る人も多いんですよ」
ひとしきり加納を持ち上げ、話を続ける。
「もうご存知のように加納様はご結婚されまして、お子様もお二人おられます。けれども瞳様とご同様、数年前に奥様に先立たれられまして、今日のご縁を取り持ちさせて頂くこととなった訳でございます」
その後、フサは加納の家族、仕事、住居の事などを詳しく説明した。瞳は社交的な場に慣れていないこともあり、終始俯き加減で、時たまフサの話に相槌打つため顔を上げたが、飲み物には手を付けなかった。
視線の向こうには色とりどりのバラの花が活けられていた。
次に大藪が話しを引き継ぎ、瞳の近況を説明した。
そして、一通り二人のプロフィルを双方が披露し合いやがて雑談に移った。加納の話しぶりは、平素多くの患者と接し、会話慣れしているせいか澱みがなかった。大藪の質問に対しても、慌てることなく沈着冷静に答えた。それに対し瞳はもっぱら聞き役に徹している。普段仕事や家事に追いまくられている彼女にとっては、勝手が違い緊張のせいもあって、時間が大変長く感じられた。
その内フサも察したようで、
「それじゃあお話も尽きませんが、大藪様、私達はそろそろ失礼させて頂いて、お二人にお任せしたらいかがでしょうか」
と切り上げ時を口にすると、大藪もそれに呼応した。
「ああ、私もすっかり話しに夢中になってしまって、我々は退散することにしましょう。加納さん、会沢さんをよろしくお願い出来ますか」
「はい」
と加納は快く返答した。二人は共に席を立ち、改めて瞳と加納に丁寧な挨拶をした上で、レストランを後にした。別れ際に大藪が瞳の耳元で囁いた。
「なかなかいい青年じゃないか。また後で感想を聞かせてくれないか」
二人だけになると加納も話の糸口がなかなか見つからず苦労しているようだった。瞳も取り残されて当惑していたが、思い迷いながらも先に口火を切ったのは加納のほうだった。
「今日、娘さんはどうなさっているんですか」
子供の話をしているのが無難と考えたようだ。
「ええ、今日は同じマンションの知り合いの女性のところに遊びに行くって申しておりました」
「ああ、それは安心ですね。うちの息子達はいつも勝手に友達の家に行ってしまって、親である私も知らないことが多くて困ってしまいます」
二人とも子供のいる親であるため、家庭中心の話題となった。ただ、努めて先夫先妻の話は避けていたが、瞳には終始緊張した一日となった。
*
次の週の火曜日、金子明美は本社の開発会議に出席していた。
彼は新たな企画商品の説明を会社幹部、関連の各部門責任者の前で行っていた。会社経営にとって将来の発展に係わる重要な役回りと言ってよい。企画品を商品化するかどうかの決定はもちろんトップの判断にあるが、彼の発表の成否がかなり影響を与える。そういう意味で資料類やサンプル品等を入念に準備し、何度も事前のリハーサルを行って本番に臨んだ。
その甲斐あって周りの反応は総じて好評であった。商品化の結論はまだ時間が掛かるが、彼としては、とりあえずの緊張から開放され胸をなでおろした。
とりわけこの会議に出席していた事業部総務の大藪はベタ誉めであった。彼にとって郷里の後輩である金子が脚光を浴び、鼻高々であった。本社のほとんどの部署で顔の広い大藪は、金子の発表が好評であったことを触れ回った。
夕刻それぞれの用事や打ち合わせを終えて、二人は本社を出た。金子は久し振りに一杯付き合うことになったが、途中で誘い合わせのあることを知った。
「今日は連れがあるんだ。いつもの飲み屋ではなく、結構流行のビヤホールでね、ここいらだったと思ったんだが」
金子は誰と一緒なのかと首を傾げながら後に従った。
「ああここだここだ。どうだなかなかシャレた店だろう」
表は洋風の飾り付けがされていて、看板には横文字が並んでいる。ウェスタン風リズムの音楽が店内から流れてくる。メニューには生ビールやワイン等の飲み物、生ハム、ポテト、チーズ等スナック的な料理が並んでいた。いつも居酒屋通の大藪にしては珍しいと思いながら並んで中に入った。
店内は満員であちこちから賑やかな談笑が聞こえてくる。客層としてはいつもの店と比べると平均的に若く、女性の数も多い。日中はオフィスの花とおぼしき淑女が、大ジョッキ片手に特大ビーフと格闘している姿が目についた。
「おーい。ここ、ここですよ大藪さん」
と中央のテーブル辺りからの大声が耳に入った。大藪は先客を見つけ大股で近寄る。テーブルには声の主である中年男性と二十代半ばの若い女性が向かい合っていた。金子はどこかで見かけた様に感じたが、近づいてみて誰か判った。
「すまんすまん渡辺君、遅れてしまって申し訳ない」
本社総務の渡辺課長は大藪の後任者で、年下だが普段から仲がいい。
「いやあ、失礼して美人をビールの魚に先にやってます」
「あら、いやだあ課長さんたら」
と役員秘書の川藤範子が目を輝かせて言った。社内にいる時と同様明るくにこやかである。
「総務課の渡辺課長と川藤さんは知っているね金子君」
「はい、存じております。宜しくお願いします」
金子と大藪は向かい合うように二人の間の席にそれぞれ付いた。渡辺が気さくに謝る。
「悪かったね。今日の主賓を待ちきれずに先に始めてしまって」
「主賓?」
金子が訝しげに問いかける。
「ああ、なんだ聞いてなかったのか。実は今日大藪課長に頼まれてね、君が今回の開発商品のナビゲーターに抜擢されたのを祝って一杯やろうと誘われたんだ。ただよく考えてみるとどうも我々だけでは寂しい。もう少し賑やかなほうがいいという事で回りを見渡すと、ちょうど川藤君が飲みたそうな顔をしていたんで紅一点誘ったわけだよ」
渡辺がちらちらと目配せしながら説明すると、大藪はうまいこと言うなと感心しながら引き継いだ。
「そうなんだ。ちょっと驚かせてよろうと思ってね。君も重責を担い何かと大変だろうから我々で応援しようということになったのだよ」
少々オーバーだなと内心戸惑ったものの、
「それはどうも有難うございます」
ととりあえず感謝の意を伝えた。一方で範子は不満を表す。
「失礼ね、それじゃあ私はいかにも飲みたがっているような言い方じゃないですか渡辺課長」
「まあいいじゃないか範子君。さあ金子君も今日は我々の奢りだよ。好きなものを選んでくれたまえ」
「そうよ、金子さん。今日はどんどん飲んでたらふく食べちゃいましょ」
と範子も調子を合わせ、飲み物と料理を勧めた。快活な女性だと金子は思った。
その後四人の話は盛り上がったが、話題の中心は範子に集中した。大藪、渡辺の両課長も二人を盛り立てようと趣味、娯楽、ファッション等若者向きの話題を選んで質問した。
金子は途中で、以前に大藪と飲みに行った時、川藤範子を引き合わせると言っていたことを思い出し、今日の意図を感じ取っていた。悪い気はしなかったが、正直困惑している。
すっかり料理も平らげ飲み物も空になってお開きとなった。範子は若干顔が赤らんでいるが結構強いようでしっかりしている。むしろ上司の渡辺のほうが色々気を遣っていたこともあり、少々怪しくなっている。
大藪が勘定の支払いを終え、外に出て金子に言った。
「金子君、我々はちょっと話があるんでね、もう一件立ち寄るよ。すまんが川藤君を送ってやってくれないかね」
金子は少し躊躇ったが、結局承知して両課長と別れた。
範子は楽しそうであった。地下鉄の駅まで二人は並んで歩いた。
「川藤さんはなかなかお強いですね。よく飲みに行かれるんですか」
野暮な質問だと思ったが金子は聞いてみた。
「そう思われます。ところが私が秘書であるのと、父が関連会社の重役だからかしら意外と回りが敬遠して誘ってくれないんです」
と範子はちょっぴり寂しそうに言った。案外そんなものかなと金子は同情したが、範子は直ぐに気を取り直して付け加えた。
「でも今日は楽しかったわ。またぜひ誘って下さいね」
*
金子は開発会議を終えた直後は社内各部門からの問い合わせがひっきりなしに入り、しばらくはその対応に忙殺された。
ようやく仕事も一区切りついた頃、先日大藪、渡辺両課長の取り持ちで会食した川藤範子から電話が入った。
「この前はご一緒させて頂いて有難うございました。その後どうですか。お忙しいでしょうね」
彼女の解放的な明るい笑顔が目に浮かぶ。金子は面食らいながらも即座に応じる。
「ええ毎日あちこちから連絡が入り大変だったんですが、今日は仕事が早く終わりそうで、久し振りに体を動かそうとトレーニングジムに行こうと思っているんです」
「まあ、金子さんらしくって活動的なご趣味なんですのね」
大いに興味を惹かれた様子であった。
「私もときどき友達とエアロビクスに行っているんです。全体運動でかなり過酷なんですが、終わってみるとすっきり爽快な気分ですね」
範子は金子と調子を合わせ自分の趣味について持ち出した。そしてしばらく雑談を交わした後、用件を切り出した。
「金子さん、今週の日曜日は何かご予定がありますか」
金子は少し間を置いて記憶を探りながら答えた。
「いえ、特別には何も。家でブラブラしてるんじゃないかな」
「実は友人から頂いた演劇のチケットが二枚あるんです。誰も行ってくれる人がなくて」
一息吐いて早口で続ける。
「金子さんさえよければ、ぜひご一緒して頂けませんか」
「え!」
金子はびっくりして思わず声を出した。
「僕なんかでよろしいんですか」
「もちろんぜひお願いしたいんです。私一人ではつまらないなと思っていたんです。金子さんとだったら私大変光栄です」
そう言われると金子も弱く、プライドをくすぐられたような気分であった。もちろん否応もなく承知した。早速待ち合わせ場所、時間を取り決める。
「どうも無理お願いして迷惑じゃあなかったかしら。私のために大切な休養日を潰してしまって」
「そんなことないですよ」
金子は慌てて否定するのに精一杯であった。けれども電話を切った後、正直彼は困惑気味であった。
もちろん女性から誘われて悪い気はしない。満更でもない気分で早々に仕事を切り上げ、退社し行きつけのジムに向かう。
勤務帰りのサラリーマン、OL、パートがバスの到着を大勢並んで待っていた。混みそうで人数をざっと調べていると、前列に顔見知りの女性が立っていた。
その内バスが到着して、行列は中に吸い込まれて行った。金子も続いて乗り込み、彼女の近くの位置まで入り込んだ。少しためらったが、思い切って声を掛けた。
「会沢さん」
会沢瞳は突然に呼ばれて驚き振り返った。金子は申し訳なさそうに遠慮気味に言った。
「すみません、金子です。後ろでお見かけしたものですから」
「あら、金子さん。今日はお早いんですね」
彼女は以前に直接聞いた話を思い出した。
「このバスに乗られるということは、トレーニングに行かれるんでしょ」
金子は自分の話を覚えてくれて嬉しくなった。
「やっぱり恐れていた通り、体が鈍ってしまいまして」
「あらあ、金子さんて意外と面白い人なのね」
「そうですか。じゃあ私は堅物だと思ってらしたんですか」
二人とも可笑しくなって共に微笑んだ。正直瞳は金子が社内では有能だが仕事一途の人間であるとの噂を信じていた。ところが、面と向かって受けた印象では、必ずしも真面目一本槍の人ではないと感じた。
「お仕事は忙しいんでしょうね」
「ええ、でも販売推進の仕事も徐々に慣れてきましてね、要領も何とか掴めるようになってきましたよ」
「それじゃあ、このバスに乗る機会もまた多くなりそうね」
「そうなるといいんですが」
切実な願望であるかのように答えた。
「でもお休みは行かないの。それともデートで忙しくってそれどころじゃなくって」
瞳の推測した質問に金子は慌てて否定する。
「とんでもない。そんな相手まだいませんよ」
「あら、そうかしら」
「それより会沢さんこそ毎日大変でしょ。日曜日はゆっくりお休みになられるんでしょ」
「金子さん。ご存知でなかったかしら。私には娘がいて休みの日もお相手しなくちゃあいけないし、のんびり寛ぐっていう訳にはいかないのよ」
金子も会沢瞳が未亡人であること。娘がいる母子家庭であることを以前耳にし同情したが、見た目には子供のいるような年齢とは思えなかった。
「そうですか、それじゃあ疲れるでしょうね」
「そんなオーバーなことはなくってよ。適当に息を抜いてるから」
瞳は金子の反応を面白く感じた。
「あら、このバス停じゃなかったかしら」
「あ、そうだ話していてすっかり、運転手さん僕も降りますから」
金子は慌てて声を張り上げた。
「じゃあお先に」
と言いながら出口に急ぐ。瞳は金子のそそっかしい面を見て可笑しくなる一方で、親しみを感じた。その時、以前に金子と話をしたときに脳裡を掠めた懐かしい感触が、再び蘇った。そして今その理由が分かった。
*
「百合、百合ちゃん、ご飯が出来たわよ」
返事はなかった。瞳はいつもはすぐに来るのに珍しいと、首を傾げながら娘の百合の居る部屋に呼びに行った。扉を開け顔を覗かせた。
「百合ちゃん、夕食が出来たわよ」
百合は床に敷かれた絨毯の上で、一人で遊び道具を出して触っていた。いつもと違って元気の無い様子である。
「どうしたの、体の具合でも悪いの?」
近寄って額に手を当てる。
「ううん、でも今はお腹空いていないの。もう少し後で食べる」
瞳は百合の前に置かれた遊具を見て思い当たった。
「あら、それマンションのお友達から頂いたオセロゲームね。やり方教えてもらったの?」
先日、娘が同級の友達の部屋に遊びに行った際に、二つあるからといってもらった物である。
「うん、マーちゃんとお兄ちゃんがいつも遊んでいるんだって。お父さんも早く帰った時は一緒にやるそうよ」
娘が駒を並べながら言った。両親と兄妹の四人家族で、いつも騒がしく笑いが堪えないそうである。何気なく漏らした娘の言葉に、瞳はショックを感じた。
百合の場合は兄弟姉妹もいなければ、父親もいない。瞳が仕事の都合で帰りが遅くなった時は、一人で部屋に入り寂しく過ごしている。いわゆる鍵っ子と呼ばれているが、気にはなっている。
「お母さん先に頂いているわね。百合ちゃんも後でいらっしゃい。お食事の後でオセロゲームのお相手してあげるから」
瞳はキッチンに引き上げたが、百合が以前に比べ多感な年頃になっていると感じた。普段はっきりと口に出しては言わないが、家族の多い友達を羨ましく思っているに違いない。
「やはり父親が必要なのかもしれないわ」
百合が大きくなっていくにつれ、自分一人では手に負えなくなることを心配した。
彼女は食卓に付くなり、次の日曜日にお見合いの相手の加納と会う約束を思い出した。先日仲介役であり会社の上司でもある大藪に彼の印象を尋ねられたが、はっきりした返事が出来なかった。大藪は何回か交際して、その上で答えを出しても失礼でないと瞳を承知させ、加納にもそのように伝えた。
その後、加納から絵画鑑賞に誘われ承諾したが、胸に引っ掛かるものを感じた。
もう忘れなければいけないと自分に言い聞かせながらも、やはり亡き夫の顔が頭を過ぎるのである。いずれは加納から結婚の申し込みがあるかもしれないと想像した矢先、昔勇二からプロポーズされた日を思い出していた。
その頃二人ともまだ学生であった。
一時の過ちで瞳は身籠った。彼女は二人の年齢、生活環境、お互いの親の反対を考え、熟慮した末に中絶する決心をした。
しかし勇二は反対し彼女に結婚を申し込んだ。
「卒業してすぐに働く。なあに君ぐらい養っていけるさ」
「でも勇二さんはまだ若いのよ。皆がそんな苦労することないって言うわよ」
「僕が決めたんだ。気にすることないさ」
「子供が出来ていいの?」
「君と一緒だったら平気だよ」
「私の家庭は貧しいのよ。勇二さんのところのように名家ではないのよ」
「ちっとも構わしないさ」
「ご両親はきっと反対されるわ」
「必ず説得してみせるさ。駄目なら家を出るよ。だから僕と結婚してほしいんだ」
走馬灯のようにその時の一語一句が思い返された。懐かしさに胸が締め付けられ目頭が熱くなった。
その時部屋の扉が開き、百合のいつもの明るい声で、彼女の追憶の世界が途切れた。
「ママ、お腹空いたよ。百合も食べる」
「うん」
と瞳は瞼の滴を拭いながら答えた。
*
「コーネリア役の女優大変チャーミングで素晴らしかったわ。最後のクライマックスシーンの演技、表情を見て、私ジーンときちゃった。金子さんもそう思われません。そうそうそれと相手役の男優さんも渋い感じで魅力的ね。あら金子さん男性ですものね。私とはセンスが違います?」
「いや、そんなことないですよ。でもあの女優どこかで見た事あるな」
「あーら、知らないんですか。テレビにも最近よく出演してかなり人気がありますよ。金子さん、テレビドラマはあまり見ないんですか」
「もっぱらスポーツ番組とかニュースはよく見るんだけど、ドラマはあまり・・」
「ほんとうにスポーツ好きなんですね。でもああいった演劇もたまには面白いでしょう。特に舞台でスリリングな場面とか感動的な場面とかがあると私自身が主人公になったような気がして、ボーとすることがあるんですよ」
金子は範子の話を一方的に聞かされていた。
今日、川藤範子に誘われ演劇を見に来たが、彼女の赤青の水玉模様のワンピースに朱色のベルトを身に着けた鮮やかなファッション感覚と比較すると、いつもと同じスーツ姿の金子は外見上気後れを感じた。
その上、彼自身舞台劇やコンサートの鑑賞等、じっと大人しく見たり聞いたりしていることが苦手で、体を動かしているほうが性に合っていた。それだけに演劇を見て範子のようには熱中しなかった。
「金子さん少し疲れません。もう少し行くと素敵なお店があるんです。ちょっと休んでいきません?」
「ああ、いいですよ」
範子はその後も楽しそうだった。歩きながら彼女は自分の夢、希望を語り、それについて金子に何度も質問し率直な意見を求めた。
*
「あの画家は今もっとも期待されていましてね、新感覚の具象的筆致で描く気鋭と紹介されて一躍有名になったんですよ。二、三年前に二科展で入賞して以来、若手の有望株と言われていますよ。あ、会沢さんは二科展をご存知ですか?」
「ええ、時々耳にしますわ。画家の卵が出展する展示会で、あの有名な男優さんも入賞なさったことがありましたわね」
「そうです。よくご存知ですね。それで私も今日の画家の絵を以前に一枚購入したんです。もし将来もっと有名になれば価値はグンと上がると期待を込めてね」
「まあ、絵の収集もしておられますの」
「いや、今はたいした事はないんですよ。ただ、たまに休日に知人と個展を見に行ったりすると、人に頼まれて断り切れなくて」
と二人は公園を歩きながら今日鑑賞した美術館の絵の話をしていた。
加納さすがに医者だけあって知性があり趣味が高尚であった。彼女も昔学生時代、デザイン関係に興味を持ったことがあったので、かろうじて加納の話題についていけたが、付け焼刃の知識に過ぎない。ましてや日々の生活に精一杯の身では、絵画の購入など想像すら出来なかった。
萩の花も満開近く咲き乱れ、秋の気配を身近に感じるようになった。
瞳にとって秋の訪れは大好きな時節ではあったが、もう一つ晴れやかな気分にならなかった。加納は万事に心配りが巧みで、ある意味では能弁ではあったが、それが逆に瞳には堅苦しく感じられた。
大人の付き合いの感想を心に抱いていると、加納が言った。
「向こうに喫茶店のような建物が見えますか。どうです会沢さん、お茶でも飲んでいきませんか?」
「ええ、いいですわ。私も少し喉が渇いてきたところなので」
と彼女も賛成した。瞳の頬にさわやかな浜風がそそいだ。
浜公園の芝生に子供連れの親子、カップルがちらほら見え、彼女も今日は余計なことを考えずのんびり過ごそうと心に決めた。
*
「どうです。なかなか感じのいいお店でしょう。店内から海が見えるんですよ。以前お友達と来た時、一時間位ダベっちゃって、それで覚えているんです。中も装飾が大変素敵で見飽きる事がなくて、もう一度必ず来ようって。こんな事言うと金子さん、子供じみているって感じるでしょうね」
「いや、そんな事ないですよ」
金子は範子と連れ立って店の中に入った。
正面の天井には中世教会風のステンドグラスがキラキラ輝いていた。周囲の壁にはルネサンス、バロック絵画が飾られ、ゴージャスなヨーロッパ感覚がひしひしと伝わってきて、紳士、淑女が集う場として相応しい雰囲気があった。
窓ガラス越しに海の広さが眺望でき、各テーブルには若いカップルの数も多い。範子は窓際の方が見晴らしが良いと、空いている円形テーブルを捜した。
ちょうど奥の方に頃合いの席が見つかり、
「良かったわ、一番いい席が空いていて。金子さん、運がいいわね」
と彼女が先導した。金子はその後に従ったが、席の近くまで来て斜め向かいのカップルが目に入った。思わず、
「あ!」
と声を出しそうになったが、かろうじて押さえた。真近な位置に金子の知り合いの女性を認めた。
彼女の方も彼の姿を見て、驚きの表情を浮かべた。
金子は連れの男性が居るのを即座に確認し、会釈のみに止めた。
「どうかしましたの金子さん」
金子は素早く頭を回転させる。彼女に声を掛けない方がこの場合はよいだろう。範子も彼女とは面識無さそうで、お互い紹介し合わなければならない負担を考えると、この際黙視する方が無難と判断した。
「後ろのガラス細工の見事さに圧倒されてね」
咄嗟に言い訳を捜しだし質問に答える。
「金子さんもそう思います。私もここは厳かな雰囲気が味わえるし、美しい景色が望めて最高だと思うわ」
その後も範子は盛んに店内の装飾や光景の素晴らしさを絶賛した。
彼女の話に金子はその都度相槌を打ってはいたが、彼の向かいに位置する女性に時折視線が移った。
彼女も相手の男性が話している最中に、金子が気になると見え、顔が左右に揺れ動く。たまに視線が絡み合うことがあるが、お互い恥かしげな表情を作り意識し合った。
金子は秘密の約束事を守っているような気分だった。彼自身何故か彼女が気になり、相手の男性に興味を覚えたが、二人の関係をお互いのパートナーに悟られぬよう心配りする事が当然であると思えた。
先に席を立ったのは、その女性のカップルであった。同伴者の立ち際の言葉が耳に入った。
「会沢さん。それでは場所を変えてお食事に行きましょうか」
それほど親しい間柄ではなさそうに感じた。会沢瞳は金子と席を擦れ違い際にもう一度視線を重ね、軽く会釈し男性の後に従った。
彼女は普段と異なり髪の毛を後ろで束ね薄く化粧し、黒のブラウススーツ姿で清楚で魅力的に映った。
一瞬金子は会沢瞳がこの店のムードにぴったりの女性だと感じた。
彼も範子が気がつかない程度に返礼した。
その後も範子はお喋りしていたが、ほとんど上の空であった。
*
近年の管理、事務部門の仕事の簡素化、効率化の方向は著しく進歩している。複合機、ネットワーク装置、電子黒板、ハンディコンピュータに至るまで最先端技術がズラリ並べられ、人々にとってはそれらの機器がなくては仕事が一歩も前に進まない存在にまでなってきている。
最近のオフィスに勤めようとする社員にとっては、それらの機器の取り扱いをまず第一に覚える事から教育課程がスタートする。ある程度使いこなせて初めて、次の段階に移れるのである。
職場によっては社員の仕事に対する評価が、IT関連機器の操作に優れているか否かの能力が基準となる場合がある。
その才能は必ずしも学校教育での成績の良し悪しとイコールではない。学業優秀であった新入社員がコンピュータの修得に悪戦苦闘している例はよく見受けられる。
会沢瞳は工場事務所のパートの中ではテキパキ仕事をこなすとの定評があり、職場内でも周囲の年配の社員や同僚から重宝にされている。
彼女は生来どうやら器用なほうで、OA機器の操作については呑み込みも早く、今ではワープロも短時間で打てるようになっていた。そのため同職場の社員から頼られることが多い。
「会沢さん、悪いけどこのデータ、インプットしてくれないかしら」
「すまんが大至急資料送付先のリストを打ち出してくれないかね」
そのような割り込みの依頼があっても、彼女は嫌な顔をせず引き受けるため、回りからの評判は良い。特に課長の大藪はことの他、瞳を頼りにしており、
「会沢君、いつも申し訳ないな。この文章ワープロで打ってもらいたいんだが」
としょっちゅう管轄外の仕事を彼女に押し付ける。
ところが今日の瞳は朝から仕事のミスが目立った。
「会沢さん、このプリント間違っているわよ」
「瞳君、案内状打ってもらって悪いんだけど、ここの所語彙が間違っているんだが」
彼女はその都度、
「あ、すみません。もう一度やり直します」
と頭を下げ修正作業に取り掛かる。
「会沢君にしては珍しいね。何かあったのかね」
彼女はうっかりミスであることを強調したが、いつもは確実に仕事をすることで評判の瞳にとっては稀なことであった。
事実、今日は朝から仕事に集中していなかった。その理由も判っていた。前の日曜日に会ったお見合いの相手の加納からの申し出について、躊躇いの気持ちが仕事の妨げになっていた。
「会沢さん、今度ご都合の良い休み日で結構なんですが、私の家にいらっしゃいませんか。娘さん、百合ちゃんでしたね。ぜひご一緒に来て頂ければ私の家族を紹介しますよ」
彼女もいずれは加納から誘いのあることは覚悟していたし、又当然のことだと思っていた。二人とも、子供の父親であり母親であるため、自分達だけの問題ではないことは百も承知である。
けれども、いざ申し出を受けてみると、もう少し考える時間がほしいと思う一方で、もちろん先方の自宅への訪問が結論を出したことにはならないが、もしこだわりの気持ちが強いようなら今が断る時ではないか、と彼女の頭の中を様々な思いが駆け巡るのである。
「ママ、幸せになってね。百合も応援するから」
と娘の言葉が思い浮かぶ。
「何回か会ってみてどうしても気に添わないようなら、そう言ってもらって結構だよ。だから気楽にお付き合いすればいいさ」
大藪のアドバイスが錯綜する。
そうだ。なにもそう難しく考えることはないんだわ。最近のお見合いはお互いが割り切って臨んでいるし、私も気楽に考えれば済むことなんだわ。一回くらいお宅にお邪魔してもいいじゃない。それから決めればいいんだわ。
何度も何度も自分に言い聞かせた。何もくよくよ悩むことはない。そうね勇二さん、と亡夫の顔が頭に浮かんだ。
「君さえいれば僕はいつでも平気だよ」
と勇二は言ってくれた。
でも彼女にとっても全く同様であった。私の方こそ伝えるべき言葉なのに、彼女の記憶を手繰っても、勇二に言ったことを思い出せない。私は勇二さんに甘えてばかりで、自分の気持ちをはっきり伝えずにいたのでは。
もはや伝えるべき相手もいない。そう思うと彼女は急に涙ぐんでしまった。
「会沢さん」
遠くの方で自分の名前がこだました。
「会沢さん、どうしたの」
今度は間違いなく同僚の女性が呼びかけているのが聞こえた。
「終業時間がきたわよ。私先に失礼するわ。会沢さんもお終いにしたら」
「あら、ご免なさい、ぼんやりしちゃって。私も帰るわ。お疲れ様」
着替えをして工場から外に出た。彼女は最近また涙もろくなっているのを感じた。
銀杏の葉が路面に散り落ちていた。気が弱くなっている原因を憂愁の秋のせいだと思うようにした。
「会沢さん、お帰りですか」
体格の良い男性が足早に追い付いて声を掛けた。
「あら、金子さん、今日もトレーニング。あ、そうそう、この前はご免なさいね。ご挨拶しなくって」
お互いのデートで声を掛けなかったことを思い出して言った。
「いや、私の方こそ失礼しました」
「でも、いい感じの女性ね。金子さんに相応しい方ね。私知ってるわ。会社の偉い方と事務所にいらっしゃったことがあるわ。確か秘書をされている方ね。金子さんも隅に置けないわね」
「いえ、彼女から誘われましてね。本当はもう一つ気が進まなかったんですが」
金子は少し慌て気味に言い訳をした。瞳はそう聞いて面白そうに言う。
「本当、彼女は明るくて素敵な女性よ。気に入ったんじゃなくて」
「会沢さんもそう思われます。でも私の理想は少し違うんです」
停留所に丁度到着したバスに二人は揃って乗り込んだ。
「じゃあ、金子さんはどういったタイプの女性が好みなの?」
「うーん、そう言われると困るな。でもやっぱり会っていて疲れない女性がいいと思いますよ」
瞳は金子の言葉を、自分の今の心境に当てはめて聞いていた。
「そうだ、一度相談に乗ってもらえませんか。会沢さんなら話が合いそうだし」
「あら、いやだ、でも私なんかでお役に立てれば光栄だわ」
瞳はつられて答えていた。
「ところで会沢さん。この前のお相手は、あ、すみません。余計な事を尋ねてしまって」
瞳は金子の悪気のない率直な性格に好感をもった。
隠すつもりはなかった。
「お・み・あ・い、でもこれは内緒よ」
「ああ、やっぱりね。お二人の様子で分かりましたよ。それで首尾は?」
一呼吸置いて瞳が答えた。
「金子さんと同じよ。ところで今のバス停じゃなかった」
「あ!、しまった。いいですよ。次のバス停で歩いて引き返しますから」
金子の唖然とした表情を見て瞳は笑い転げた。
*
金子あきよしは次の日曜日、久し振りに郷里の先輩である大藪の自宅を訪れていた。
今の会社に入社して以来、同じ出身地で話が合い特別に可愛がってくれて家に何度も呼んでくれた。彼も故郷が遠くで親兄弟とはめったに会えないため、大藪の家族ぐるみの歓待に心から感謝している。
「そうか、彼女はそんなにお洒落か。でも品が良いという感じで、決して派手ということではないだろ」
「そうよ金子さん。女性は気に入った男性の前では、服装には特に気を遣うものなのよ。私の時もそうでしたわね、お父さん」
と大藪の妻は言った。大藪はやや首を傾げながら応じた。
「まあ、そういうことにしておこうか」
「あら、なんとなく無理してるみたいね。失礼だと思わない金子さん」
三人は共に笑った。
金子は先日デートした川藤範子の印象を大藪夫妻に語った。けれども彼女の外見的な見た目の感想のみに止めた。彼女の気質や彼との相性に対する意見は差し控えた。
実は先日本社出張時に範子を見掛けお茶を飲みに誘った。演劇に誘ってくれたお礼もあった。
逆に範子は自分の我儘に付き合ってくれたことに感謝した。彼女は相変わらず明るく振舞い多弁だったが、金子は次第に無口になっていく自分を感じた。
彼女も途中で反応の鈍さを気にしたようだ。
「私ひとりでお喋りし過ぎたみたい。ご免なさい、金子さん気を悪くなさいました?」
「そんなことないですよ。そんな風に見えたとしたら僕が謝ります」
金子は少し動揺した。
「金子さんて優しいんですね。でもそういうところが私達女性には魅力なんですよ。ところで金子さん、意地悪な質問していいですか」
「なんですか?」
「本当は金子さん、好きな女性がいるんではないですか?」
思ってもみなかった質問に当惑した。
「いえ目下のところいないんですよ」
「それは私も含めてですね。私決して金子さんを困らせるつもりはないんです。演劇に私と同行して下さっただけでも正直嬉しかったわ。今でももちろん金子さんのファンですよ」
範子の問いかけに金子は必死に頭を働かせた。何かうまい言い回しが出来ないか熟慮したが思いつかず、結局諦めて答えていた。
「すみません」
「あら何も金子さんが謝らなくてもいいんですよ。私、金子さんとお話しているだけで楽しいんです。これからもたまに誘って下さいね」
範子の表情は少しも変わらず明るかった。しかし、その後で彼女が幾分ばつが悪そうに話した内容は、少々驚きであった。
「実は私金子さんに隠していた事があるんです。私の方こそお詫びしなければならないわ。私、今親から勧められている縁談があるんです。近々結納が取り交わされる予定なんです」
以上の経緯は大藪夫妻には話さないことにした。
その日、大藪は上機嫌で夜遅くまで酒の相手に付き合うことになった。
大藪がほろ酔い気分で喋った言葉が頭の片隅に焼き付いている。
「いいか金子君、女性は感性が男性より鋭い。女性と付き合う場合はその点充分注意したほうがいいぞ」
*
「やはり決心は変わらんかね会沢君」
「ええ、色々考えてみたんですが、私にはもったいないお話で、又、お医者さんのご家族の方も含めて家庭を切り回す自身がなくて」
次の日、総務課長の大藪と会沢瞳は休憩時間に面談室のテーブルを挟んで話し合っていた。
瞳は一週間考え、悩んだ。自分自身の気持ち、娘の百合の将来のこと、相手の加納の家族のこと等、彼女の思考の全てを費やして肯定と否定を繰り返した
。そして出た結論はやはり自分の意思を尊重し、今回の話を断ることにした。結局、裕福で教養ある相手の加納をはじめその家族との生活を、気が重く感じる以上結果は判っていたように思われた。
「なかなか良さそうな人物だと思ったんだがな。でも会沢君がそう言うなら私も無理強いはしないよ。先方にはうまく取り成しておくよ」
「勝手言ってすみません。宜しくお願いします」
「いやいや誤らなくてもいいんだよ。確かに子供が一度に三人に増えるとなるとためらうのは当然だよ。私の方こそ配慮が足りなくて申し訳ない。これに凝りずにまた紹介させてくれんかね。会沢君ならいくらでも話はあるから」
大藪は笑みを浮かべながら言った。
「そう言ってもらってほっとします。有難うございます」
「私はむしろ会沢君に仕事をしてもらって大いに助かっているんで、いつまでもいて欲しいんだが、仕事と子育ての両立はきついんじゃないかな。まあ、今回は初めてのこともあるし、決して焦る事はないが、どのような相手がいいか遠慮せず聞かせてくれんかね」
彼女は大藪の思いやりのこもった言葉に深く頷いたが、答えに窮してしまった。瞳の心に現れる理想像は勇二の思い出しかなかった。
もちろん今の年齢で、しかも子の親である立場で恋愛感情を追い求めるのは不自然であることは承知していた。でもいまだに意識の一部に面影として浮かぶのは、亡き夫への追憶の気持ちが強いからであろう。
「いやいや言わなくてもある程度分かっているよ。出来るだけ気楽にお付き合いできる相手を選ぶつもりだよ」
瞳は今回の話を断ることに自分自身後ろめたく感じていた。特定の気の合った相手へのこだわりは、我儘でしかなかった。反面自分に正直でいたいと思う気持ちを大事にしたかった。
一方で娘の百合も薄々母親のお見合いを理解しているようだった。加納との約束で外出の際、百合を勇二の両親に預けていくが、二人から差し支えない範囲である程度聞かされていて、瞳が帰ると、
「お母さん、幸せにならなくちゃね」
と笑う。
瞳もつられて微笑んだが、娘の気遣いを知り、このままではいけないと感じるのも事実であった。
*
秋も深まり木枯らしの吹く季節となって、街路を行き交う人々もコート姿が目立つ。
夕暮れの駅前通りも、帰宅途中のサラリーマンが寒気に身を震わせながら、暖を求めて賑わう。脇目も振らず真っ直ぐに自宅に戻る者。少し体を休めようと寄り道する者等、様々である。
帰りがけに一杯といった場合、必ずしもアルコール目当てばかりではない。それぞれ趣向を凝らした飲食店も多く、ペアで或いは気の合った仲間同士で店内に吸い込まれていく。
例えばここクラシック音楽をバックに奏でて耳に心地よく聞かせる店も、今日は多くの客で溢れていた。
明るい笑い声の絶えない若い女性ばかりのテーブル、男性サラリーマンのグループ、会社帰りで合流した男女カップルがモーツアルトの曲を聞きながら語り合っている。
待ち合わせの客も多い。
店の隅に置かれたグランドピアノ近くのテーブルで、女性が一人、先程から入り口を気にしながら座っている。待っている相手は少し遅れている様子で、盛んに時計を覗いていた。
ようやく現れたらしくその女性は表に向かって手を上げ合図した。
がっしりした体格の男性は、申し訳なさそうに、そしてやや照れ気味に女性のテーブルに近づいてきた。
「どうもすみません。待ちました?」
「いえ、私も少し前に着いたところ。金子さんこそ大丈夫なの、こんなに早くて」
と会沢瞳はいつも帰りの遅い金子に尋ねた。
「いやあ、最近は暇なもので。でも本当に申し訳ない。僕の方から呼んでおきながら遅れてしまって」
「あら、いいのよ。でもお電話で誘われた時は正直びっくりしたわ。この前の相談の持ちかけ話は、冗談だと思っていたのに。何か飲み物は?」
「コーヒーでいいです」
ウェイトレスに頼んだ後二人はしばらく仕事の話を交した。折をみて金子が切り出す。
「結局この前の彼女とのデートはあれっきりになってしまいましたよ」
「まあ、それはまたどうして」
瞳は以前二人を見掛けた日曜日から、まだ日が経ってないこともあり驚いた。
金子は彼女に現在縁談があり、話しが進んでいること。金子を誘った事は決して悪気はなく、彼女の思い出にしたかったと告白してくれた経緯を説明した。
瞳は黙って聞いていた。金子はやや自嘲気味に付け加えた。
「やはり僕みたいなタイプに本気になって付き合ってくれるような女性ではなかったようですね」
「そうかしら」
と瞳は真顔で言った。金子はたじろぎながら説明を待った。
「そうかしら、恐らく彼女は金子さんが真剣に付き合おうって言っていたら、その縁談の話は持ち出さなかったのかもしれないわ。ご両親に反対されても断ったんじゃあないかしら。多分金子さんの素振りで脈がないと諦め、躊躇っていた彼女も決心したんじゃあ」
瞳は思い出すように続けた。
「あら、ご免なさい、一人で勝手に推測してしまって」
「いえ、そんなことは・・」
「でも、私も同じような心の迷いがあったから、何となく彼女の気持ちがわかるの」
「と、言うと?」
「私も結局お見合いの話断っちゃった。奇妙ね。こんな年しても色々あれやこれや考えてしまうわ」
瞳は少し寂しげに話した。
しばらく二人の間に沈黙が流れる。
「今日、私は変ね。やっぱり私なんかじゃ金子さんの相談に乗るなんて無理よ。ところで金子さんほんとうは好きな人がいるんじゃないの」
金子は少し間を置いて答えた。
「いいえ、でも気になっている女性はいます」
「あら、やはりそうなの思った通りだわ」
瞳は合点がいったような表情で相槌を打った。
「実は僕は学生時代に長く付き合っていた女性がいました。お互い幼馴染で気の置けない友達のような状態が続いていたんですが、二十歳を過ぎて結婚を意識した途端、会話が不自然になってしまって相性が合わない事がわかったんです。彼女の現代的な流行を求めるセンスが僕の無骨な性格に溶け合わなかったんでしょう。それで今回も最初から気乗りしなかったんです。恐らくこのまま付き合いを続けても彼女の趣味、性格からいずれ同じ結果になったように思います」
「金子さんがそう思うんだったら、そうかもしれないわね」
瞳は金子の正直な告白を聞き、遠い昔の懐かしい景色を感じた。
「それじゃあ僕にはどういったタイプの女性が合うのかって人に聞かれると、具体的には答えようがないんです。ただ漠然と話していて疲れない、僕と気のあった女性としか・・」
「私も何となく判るような気がするわ。その通りだわ」
瞳はお見合いの相手の加納のことが念頭にあった。金子は続けた。
「それで僕には分かったんです。お互いのことを抵抗なく話せる相手。会話していて疲れない、そして僕のことを理解してくれそうな女性。先程気になっていると言ったのはそういう意味なんです」
「あら、それじゃあ身近にいらっしゃるのね」
「ええ、今、僕の目の前に」
金子はゆっくりと顔を幾分赤らめて答えた。
瞳は一瞬聞き間違いだと思った。
「え、誰って言われたの?」
「会沢さんです」
今度ははっきりと瞳を見詰めて言った。
「あらいやだ金子さん冗談でしょう。私なんかであるはずはないわ」
と瞳は可笑しげに打ち消した。
「いえ本当です。僕は真剣です。今日相談をと言ったのは会沢さんにお付き合いをお願いすることでした。もちろん会沢さんが嫌ならば僕は諦めます。でも決して冗談ではありません。僕は本気です」
金子は一気に言った。
瞳は彼の告白を聞き、何度も頭の中で反芻した。彼女の顔から微笑が消え、金子の目を直視した。真面目な申し出であることを確信して彼女はしばらく考え込んだ。
以前に彼女は感じていた。金子が亡き夫の勇二と似た部分があることを。自分が秘かに金子に好意を持っていることを。
実際、加納の申し出を断ったのは、
「会っていて疲れないタイプがいい」
が一つの理由であった。けれども自分の境遇を考えると贅沢で虫のいい望みでもあった。
金子は瞳の返事を待っていた。瞳は躊躇いながら尋ねた。
「金子さん、ご存知ないの。私来年でもう二十九よ。若い女性はいくらでもいるのに皆が可笑しいって言うわよ」
「僕が決めたんです。気にされることはないですよ」
「私には娘がいるのよ。世間体も悪いわよ」
「会沢さんと一緒だったら平気です」
「会社の仕事や出世にも影響あるかもしれないわ」
瞳は次第に顔が青ざめてきた。
「ちっとも構いませんよそんなこと」
「でもご両親が・・」
瞳はもうそれ以上言葉が続かなかった。
よもや同じ質問、答えが時を経て繰り返されようとは思ってもみなかった。
もはや金子のその後の答えは分かっていた。
「必ず説得する自信はあります。ですからお付き合いして欲しいんです。ぜひ」
金子の声はもう彼女には聞こえていなかった。
瞳は俯き意識は過去に遡っていた。そして思い出が奔流のように溢れ出すのを必死に噛み締める。何事かを彼女は何度も何度も自分に言い聞かせ囁いていた。
金子が心配そうに問いかけるまで、彼女は心の思いに没頭していた。
「会沢さん、どうかしましたか?」
その声に気がつき、潤んだ瞼を持ち上げ、そして掠れた声で、
「はい」
と答えていた。
***
大藪は自宅に戻るなり妻の八千代に愚痴をこぼした。
「まいったまいった。今日本社総務の渡辺君から電話があってな。この前金子君に紹介したばかりの本社秘書の川藤君が結婚するので退社するんだって。さかんに謝っていたけど、寝耳に水でびっくりしてしまったよ」
「あら、それじゃあ金子さんとの話しはどうなるの」
「もちろん、今回期待した彼女との組み合わせは消滅してしまったよ。彼には悪いことをしてしまったな。どう説明すればいいものやら」
「この前いらっしゃった時のお話では、いいカップルだと思ったのに、残念ですわね」
「うん、うまく行かない事もあるな。つい最近もパートの会沢君が見合いの話を断ってきて、当てが外れたばかりだしな」
「それじゃあ、うまくいかなかった者どうし一緒にすればいいじゃない」
側でテレビを見ていた次女の真知が口を挟む。
大藪はすぐさま否定した。
「そら無理だな。彼女の方が金子君より年上だし、それに子供もいるんだよ」
「でも案外うまくいくかもよ。以前にお母さんが言ってた。お父さんとの結婚はハプニングだったって」
「これ、真知、余計な事を言うもんじゃありません」
母親の八千代は色をなして叱りつける。
大藪は苦笑せざるを得なかった。
そのとき、来客のチャイムが鳴った。
「私、見てくる」
と真知が部屋を出て行った。
その後すぐに八千代が苦情を言った。
「あなた。あの子の前でああいう話をするのは止めて頂けません」
その声を耳にしながら、大藪は真知が指摘した可能性を想像してみる。
「そういえばあの二人親しそうに話していたことがあったな」
すぐに真知が困惑した表情で戻って来た。
「来たのは、お兄ちゃんだったわ」
長男の鉄平は勤め先を頻繁に変えることを父親から注意され、お互い派手な口論の末、家には寄り付かなくなっていたのだ。
大藪は八千代の喜ぶ顔を気に掛けながら言った。
「久し振りだな。自分の家だから遠慮せずに上がってくるように言いなさい」
「それと女の人も一緒よ。どうも様子が変なの」
今度は夫婦で顔を見合わせた。
首をひねった後、訝しげな顔付きで大藪が立ち上がる。そして玄関に向かう。
後に八千代と真知が続く。
廊下に出て表の方を見ると、大柄な息子の姿が目に入った。
彼も気付き幾分決まり悪そうに言った。
「お父さん、お母さん、すみません、すっかりご無沙汰してしまって」
その隣には髪の毛が乱れ、衣服のあちこちが破れた少女が泣きじゃくっていた。