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仲人管理職  作者: 野原いっぱい
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十五年前の出来事

     十五年前の出来事


大藪次郎は妻とともに朝早くから結婚式の出席準備に余念がなかった。

彼にとっては年に何度か訪れる恒例の行事といっても差し支えない。特筆すべきはいずれの場合も仲人としての立場で参列することにある。

しかしながら、お見合いの斡旋機関に携わっているのでなければ、社会的地位が高いわけでもない。むしろ大手産業機械メーカーに勤める定年間近で課長止まりの平凡なサラリーマンであった。仕事だけとってみれば、可もなく不可もない評価でとりたてて注目されるような存在ではないが、彼はある方面に関して、周りも認める優れた才能の持ち主であった。


男女の縁を取り持ち、仲介者として二人の面倒を見ながら話をとりまとめる能力。


今日までに彼が世話をして誕生したカップルは、社内外合わせ二十組以上になる。

内容は様々で、男女間の交際の橋渡し役を務めたり、お見合いを勧めたりして結婚にこぎ着けたケース。もちろん頼まれ仲人もある。そして初婚もあれば再婚もあり年齢も二十代から四十代と幅が広い。

その温和な顔立ちと、人当たりのよい気さくな性格は、誰からも相談を持ちかけられ易かったし、彼自身も気軽に応じた。

また、ある意味ではその特異な才能によって、上司からも一目置かれる存在となっている。


ようやくモーニングを着用し終えた大藪が居間に現れた。既に着付けを終えた妻、八千代の黒留袖姿に思わず目が釘付けになった。


「馬子にも衣裳とはよく言ったものだな」


「まあ、失礼ね、お父さんたら、結婚式のたびに着ているでしょう」


「すまん、すまん、あまりに普段と変わってしまったものだから」


いささか失言であったが、今日の大藪はなにやら楽しげである。彼にとって久し振りに大役を務めることになり、上機嫌であった。前夜は本番を想定していつものように挨拶のおさらいを繰り返した。今回も媒酌人として出席者の脚光を浴びるはずだし、年配者として信望を集め、更に箔が付け加わるだろうとほくそ笑む。

けれども社内での人望厚い大藪も意のままにならない相手があった。それは彼の三人の子供達である。


一番上の長女は数年前に自分でさっさと結婚相手を見つけて一緒になり、翌年には子供も生まれ家庭生活は順調に思われた。

ところが何か口実を設けては頻繁に帰って来るのである。育児疲れ、亭主が出張で留守、夫婦喧嘩、二人で旅行の間の子供の世話等々。最初は孫の顔が見られるので歓迎したが、あまりにも度重なるため最近は煩わしく感じることのほうが多い。長女もなにかと不満があるようで、愚痴をこぼすが、夫婦仲は悪くはなく亭主が迎えに来ると、慌しく自宅に戻っていく。長女にとっては束の間の息抜きといったところか。大藪としては眉をひそめることもあるが、まだ帰ってくるだけでも良としなくてはなるまい。


その下の長男は大学卒業後、自宅を出て民間企業に就職したのだが、数ヶ月で退社し転職した。

その後、まだ社会人になって数年足らずの間に転々と職を変えなかなか定職が決まらない状況にあった。理由は、仕事の内容が肌に合わないとか、自分の専門知識をもっと相応しい会社で生かしたいとか、要するに入社して本人の希望する仕事と異なると、我慢できないことが原因のようだ。

世の中の誰もが満足して働いているわけではないと、大藪から懇々と意見されると、だから大半が成果も出せず人生を過ごしてしまうと反論する。もう今までのような終身雇用の時代ではなく、価値観も昔と全く違っているとの見解。結局大喧嘩のあげく双方とも口を聞かなくなってしまった。

その後、母親とは連絡を取り合っているようだが、父親の大藪とは会うのを避けており、音信不通状態にあった。

 

そして一番下の次女はかなり年が離れた高校二年生である。ようやく眠そうな目をして起きて来た。彼女は外出の準備を終えた両親が目に入った。そしてしばらく不思議そうに首を傾げ凝視した上で二人に向かって言った。


「ワオー、二人ともカッコいい! お互い惚れ直したんとちゃう」


「こ、こら、変な言い方をして、大人をからかうんじゃない」


と大藪がたしなめると、


「せっかく素敵だと思って誉めてあげたのになあ」


と言いつつ、悪びれもせず洗面所に顔を洗いに行った。


「全く、何て奴だ、言葉遣いがまるでなっとらん」


大藪が溜息をつくと、妻の八千代が口を挟む。


「あの軽口はお父さんに似たんでしょうよ」


これには大藪も返す言葉もなかった。憮然とした表情で、


「もう時間だ。さあ行くぞ。出発、出発」


と急き立てる。八千代は大きな声で次女に呼びかけた。


「真知、お母さん達は出掛けるわよ。食事はキッチンに置いてあるわ。温めて食べなさい。それと外出する時は戸締りを頼むわね」


大藪家はいつものように賑やかな朝の風景であった。




***



挿絵(By みてみん)


「新郎は大変温厚な真面目人間で、一旦物事に取り組むと最後まで諦めず成し遂げる強い責任感があり、職場でも周りからの信頼も厚く、重要な仕事を任されております」


仲人である大藪の差し障りのない誉め言葉が続く。日曜日の駅前ホテルの一室は小泉亮太と樋口夏江の結婚披露宴の真っ最中であった。


「新婦の夏江さんは非常に有能でテキパキと正確に仕事をこなし、誰からも頼りにされており、しかも気配りの細かい教養豊かな女性です」


二人は同じ会社に勤めており、宴会場の出席者の大半が職場の上司や同僚であった。しかしながら、祝宴にありがちな華やかな光景はなく、どちらかと言えば地味で落ち着いた雰囲気に包まれている。それは招待客の顔ぶれが年配者の多いこともあるが、二人の年齢が新郎40歳、新婦37歳と晩婚であったことも影響していた。かといって結婚経験者という訳ではなくどちらも初婚であった。


「お二人とも人生経験が豊富で、お互い持ちつ持たれつの理想的な家庭を築いていかれると確信しております」


「行く手にどのような困難が立ちはだかろうと、力を合わせ乗り越えて行かれることでしょう」


適齢期をとうに過ぎ、お互い中年同士といって差し支えないカップルであるため、スピーチの表現が無難なところに落ち着くのはやむをえないことであった。

ただどのような言葉で祝福されようと、二人にとっては不安に満ちた船出であることは間違いなかった。

そう、同じ会社に勤めていながら、ほんの6ヶ月前まではお互い面識がなかったのである。製造業種の大工場で従業員が2千名近くいて、新郎が生産部門であるのに対して新婦は管理部門でお互いの接点は皆無であった。

二人とも勤続年数が十五年以上でほとんど同じ敷地内の勤務でありながら、見かけたことがある程度で、話し掛けたことも挨拶したことすら無かったのである。

むしろ周囲の者も本人同士でさえも、二人の性格からいってこのまま独身を通すのではないかと予測していた。

小泉亮太は仕事には熱心にコツコツ取り組む努力家タイプであったが、控え目な性格で、付き合いや各種親睦、交流会への参加も消極的であった。従って女性と個人的に会話する機会もほとんどなかったのである。

一方の樋口夏江は仕事を完璧にこなすベテラン事務員で、上司や同僚も難しい処理や不明な点があると彼女を頼りにする貴重な存在なのだが、逆に外見の冷たい印象もあって、特に男性社員にとっては機嫌を損ねたり、反発されると厄介な近寄りがたい女性であった。


その二人が急転直下一緒になったのは理由があった。昨年4月の人事異動でこの二人に直属の上司がそれぞれ新たに着任したが、お互い親友同士の世話好きで、彼等の目に婚期を逃がした部下が目に留まったのである。いずれともなく相談が持ちかけられ、二人を添わせるべく工作が始まった。

当初は双方とも取りつく島もない態度で、本音を明かすことに難色を示す。また今さら結婚相手を積極的に捜す意思などなかったし、いずれも独身生活に不自由はしていなかった。

けれども根気よく繰り返された面談の中で、必ずしも夫婦生活に対する拒絶反応の持ち主ではないと見なされた。全くの独身主義者ではなく今までに異性と交際する機会がなかったのである。

早速二人に対して、それぞれの人物紹介をし、適当な場を設け対面するよう説得する。もちろん相手が社内の人間で回りの目もあり最初は尻込みしたが、一計を案じて異職場間の交流という名目で積極的に勧められたのである。いわゆるお見合いといってよかったが、格式ばったことは一切省略、間に人を立てずに時間と場所を決めて彼等だけで会う機会が設けられた。

出来るだけ気楽な普段着での出会いとの提案であったが、会ってみると、やはりお互い意識してぎこちない会話に終始した。結局再会の約束もせずそのまま別れたが、翌日それぞれの上司が確認したところ、お互いに相手を可も無く不可も無い印象を持ったとの返事であった。二人とも今さら相手の容貌を気にかけたり、理想を追求する年でもないとの自覚があった。初対面でお互い拒否しなかっただけでも良といっていい。


新郎の上司は手間のかかる組み合わせだと苦笑しながらも脈があると判断、次の歓談の場が手配された。そして何度か付き合いを繰り返した感想は、もっとも食事程度の短時間の交際であったが、その上での相手の印象は、真面目な人であり、しっかりした女性であった。

頃合いをみて小泉亮太に結婚の意志を確認すると、


「私の方は結構です。よろしくお願いします」


との返事。同様に樋口夏江の意向を確かめたが、


「小泉さんがよければ私に異存はありません。お任せします」


との回答があり、喜ばしい結果となった。仲介人の立場からすると、あまりにすんなりと婚約にこぎ着け、かえって拍子抜けするきらいがなくもなかった。

その後は順調に話がまとまり、家族への紹介、結納の取り交わしを経て、年齢からいっても早いに越した事がないとの意見があり、出会いから6ヶ月の短期間の挙式となった。媒酌の労は夏江の上司の大藪が取ることとなったが、さすがに式場選びや日程については二人で相談し決定した。


「待てば海路の日和ありの諺にありますような、ようやくめぐり合われた理想のカップル、より固い絆で結ばれた幸せな夫婦になられると断言できます」


幾分失礼な言い回しと思わないでもないが、二人の年齢からすると仕方が無いという気分であった。

もともとあまり派手な挙式、披露宴にしたくなかった。むしろ出来れば両家族だけのささやかな式にしたかった。けれども二人の上司の骨折りに報いるため、ある程度の規模で催さざるを得ない。

それぞれの職場の同僚や親しい知人も二人の突然の結婚の報に驚いたが、そのいずれもが相手の人となりに関心を抱いた。どのような性格の人と気が合ったのか。いやむしろもう後が無いので年のつり合った相手で妥協したのかも。皆がそのように噂しているのではと二人は憶測した。

結局どちらも長期間の勤続だけに、必然的に職場関係の招待が多くなった。

二人とも幸せの実感には程遠い心境であった。今さら形だけの祝福に感激する歳でもない。

むしろ、


『夏江女史もとうとう年貢の納め時か』


『間違いなく小泉君は尻に敷かれるだろうな』


とのからかいの声があちこちで囁かれているようで気が重かったし、衆目の好奇な目にさらされ恥かしい思いを禁じえなかった。


更に二人にとって心配な問題があった。何度か付き合った末に決心し結婚の運びとなったが、お互いに遠慮しがちで、いまだに一生添い遂げられる自信がなかった。式の後、新婚旅行から戻り次第新郎の住まいに同居するが、相性が合うかはなはだ心許ない思いである。

それだけに式や披露宴が早く終わる事を切望した。

そういうわけで、当日宴会場の主役として脚光を浴びることになった二人は、緊張の連続で平静を保つのに精一杯の努力が必要であった。もちろん二人とも多くの人々の注目を集めるのは、生まれて初めての経験である。そのような中で、年甲斐も無く新郎新婦の席に座る気恥かしさと、将来に対する漠然とした不安が頭を駆け巡る。

スピーチと会食が続き、披露宴もようやく終盤に差し掛かかった。その時突然部屋が揺れだした。招待客から、


「あ、地震だわ・・」


との声が上がった。しかしながら室内の人々は皆冷静である。その後続く横揺れの具合で、規模は小さいと判断、慌てて立ち上がる者は誰一人いなかった。

けれども新婦はその瞬間蒼白になった。恐怖心で彼女の体が硬直する。

ただその変化に気がついた者は誰もいない。

その時彼女の記憶ははるか昔にさかのぼっていた。




*

十五年前の22歳の時、樋口夏江には婚約間近の彼氏がいた。名前は尾畑実といい彼女より三つ年上の25歳であった。

彼女は短大卒業後、今の会社に入社したがしばらくして将来役立つと思い、退社後デザインスクールに通った。そこで尾畑と知り合った。彼は地方出で大手電機メーカーに就職しており、単身一人暮らしであった。商品企画の担当でグラフィックデザインの描写手法や感覚を養う必要があり、入校していたが、同じ教室で学ぶ夏江と意気投合し休日に映画鑑賞や食事にと誘い合った。お互い相手に好意を持ち、デートを積み重ねる。フィーリングや趣味も合い休日はいつも一緒に過ごし、次の約束の日を待ち遠しく思うようになる。

そして、日が経つに従って、夏江は尾畑との結婚を意識するようになった。二人とも上に兄や姉がおり、家から離れて一緒になっても問題はなく、気楽な立場にある。正式な申し込みはなかったものの、尾畑から実家の両親への紹介を打診され、ほとんど婚約者と同然の扱いで、夏江もなんら異存はなかった。その話のあった夜は胸が高鳴り尾畑との新婚生活を夢見た。


ところが次の日の早朝、大きな地震があった。


初めて経験する激しい揺れに、夏江も飛び起きたが、幸いにも彼女の自宅周辺は被害がなかった。ただ、交通機関がストップし、勤務先の工場は休みとなった。阪神地区を襲い大きな災害をもたらした震災である。一方の尾畑の方は、彼自身と住居には大事はなかったが、近辺に壊れた家屋が目に付くとの連絡があった。彼の勤め先も被害を受け、しばらくは公私にわたって復旧作業に協力するとのこと。

残念ながら彼との次の約束も延期になった。テレビや新聞等の報道で被災地は目を覆わんばかりの惨状にあったが、尾畑がボランティア活動していることに、夏江も誇らしく感じるのだった。彼女もその一員に加わりたかったが、まだ危険な箇所もあり止められていた。


そして、数週間が経ち交通機関も徐々に復旧し、現地もある程度落ち着きを取り戻していた。夏江も地震の前日以来尾畑とはご無沙汰しており、再会する日を心待ちにしていた。

直接会って色々な話を語り合いたい。その時彼のご両親への訪問の日程も決めよう。

今度の休日に彼の自宅を突然訪れ、驚かせてやろう。彼の好きな食べ物を持参すれば喜んでくれるだろう。そのように思い立つと、一日千秋の思いでその日を待った。

やがて買い物も済ませ準備万端、日曜日を迎えた。

夏江はエチケットやモラルを重んじる性格であり、前触れ無く会いに行くのは慎みのないことに思えたが、尾畑を恋慕う気持ちの方が勝った。

もちろん初めてではあったが、聞いていた住所をもとに、電車を乗り継ぎ最寄りの駅で降りる。地図を頼りに歩いて行くと、壁や屋根の損壊した建物が目に入った。いずれもブルーシート等がかけられ応急的に補修している。

そして、迷うことなく彼の入居しているマンションに辿り着いた。地震の影響はほとんど見られない。エレベーターに乗り行き先の階のボタンを押す。化粧や服装に乱れがないか確かめながら。ドアが開き廊下を進み、難なく彼の部屋の前に立った。久し振りの対面に喜びを隠せず胸が高鳴る。彼女を見て驚く顔を思い描きながら呼び鈴を押す。


が、返事の声は尾畑のものではなかった。耳にしたのはまぎれも無く女性の声であった。夏江は一瞬部屋を間違えたのではと慌てた。けれども表札は尾畑実と記載されている。

扉が開き女性の顔が覗く。


「はい、どちら様でしょうか?」


「あの、こちらは尾畑実さんのお宅でしょうか」


「ええ、実さんは今出掛けていますが、何か」


「ああ、いえ、いいんです・・失礼しました」


夏江は辛うじて答え、その場を離れた。頭が混乱しており茫然自失であったが、見た目には女性は彼女より歳が若く思われた。

確か尾畑には妹はいなかったはずだし、もちろん一人住まいと聞いている。たまたま訪ねて来た知り合いにしては、普段着を着用しており、髪の毛も自然のままで、扉の隙間から男性用に混じって何足かの女性用の靴と傘が目に入った。

また尾畑の名前を「さん」付けで呼んでいて、親しそうな印象が窺える。従って、どうみても同居人のように思える。

今さら尾畑の帰宅を待つ気はしなかった。放心状態のまま、手土産も手渡さず引き返した。

いったいどういうことだろう。あの女性と尾畑との関係は何なのか。特別な事情があるのだろうか。

家に着くまで繰り返し思い悩んだ。

帰ってからも部屋にこもり何も手につかなかった。

そして夕方頃に尾畑から電話が入った。彼女から聞いた外見の印象から夏江だと直感したようだ。彼はまさか夏江が訪ねてくるとは思わず驚いていた。


そして女性が部屋にいることに関して、弁明を始めた。


「彼女は僕と同郷の知り合いの女性で、被災地で援助活動をしていた時に偶然出会ったんだ。彼女が入居しているアパートが損壊し住めなくなって困っていたんだが、同じ出身地同士の顔見知りで放って置けなくて、それで新たに住む場所が見付かるまで、僕の部屋に移って暮らすことにしたんだ。今捜しているんだが、適当なところが見付かったら出て行ってもらうよ。彼女とは誓って何ともないよ」


幾分歯切れの悪い説明で、地震が起きた三日後に彼女と同居し始め、既に今日まで1ヶ月近くになる。その間、荷物等を運んだり、復興支援機関に出向いたりしていたと言う。夏江に説明していなかったことを謝っていたが、彼女は大変なショックを抱いた。

今日までの彼との電話でのやり取りは一体何だったんだろうと。いくら知人に対する親切な行為だとしても、長期間年下の女性と同じ部屋で寝泊りし、何もない関係と言われても納得出来なかった。ボランティアとは方便だったのでは。しかも婚約者同然の自分に対し、何度もしている電話での会話の中で話題にすら出なかったことに憤りを感じた。彼女に隠し事をしていたとしか言いようがないではないか。

夏江は性格的に嘘をつかれたり、騙されたりすることを嫌悪した。尾畑に関して他にも知らないことがあるのでは。いわゆる疑心暗鬼に陥り、そう思うと彼とはとても付き合っていけなかった。ましてや結婚などは論外である。それまでが幸せの絶頂だっただけに反動は大きく、心に痛手を負い、食事も喉を通らなくなるほど落ち込んでしまった。

その後何度か尾畑から電話があったが、彼女は二度と出なかった。デザインスクールも辞めてしまい彼との関係は終止符を打った。家族の者もうすうす事情を察し、夏江の様子を心配して、出来るだけ刺激しないようにしている。三日ほど会社を休んだが、幸いにも職場の同僚で尾畑との経緯を知っている者はおらず、仕事には支障はなかった。


けれどもその体験は彼女のその後の人生に尾を引いた。男性からのプライベートな誘いや若手中心の親睦的な会合も断った。もう二度とあのような惨めな思いを繰り返したくなかった。ひたすら仕事や専門知識の習得に意識を集中した。

その結果かえって彼女の仕事における実務能力は向上する。男性社員顔負けの専門知識を身につけるまでに至った。

年を重ねるに従い、職場内でも一目置かれる存在となる。その間男性社員から関心を示されたこともあったが、見向きもしなかった。三十を越えると、立派なベテラン社員としての扱いとなった。男性社員は異動で顔ぶれが変わるのに対して、彼女は全く現職のままであった。それだけに周囲の者は職務に長けた彼女に一目おいていた。彼女自身も実務に関しては誰にも負けないとの誇りがある。

が、一方ではもはや男性との交際の機会もなく、当然縁談も難しくなっていく。三十五を越え、もうすっかりかつての失意を味わった体験の記憶も薄くなっている。また、このまま独身で年を重ねる事に何ら悔いはなかったし、生活にも困る事はなかった。


そのような折に小泉との話が上司からあったのである。最初はもちろんその気はさらさらなく断ろうと思った。けれども彼女の父親と言ってもいい位の年配の上司は、さすがに老練で熱心に口説いてきた。


『長い人生思い切って自分を見直すことも大事だよ。お見合いとは考えず、新たな自分を発見するチャンスだと思えばいいじゃないか』


『なかなか真面目な男なんだ。とにかく会ってみてから断ってもいいさ。彼も先刻承知の対面で、仮に話が流れても尾を引くことはないよ』


との説得に心が動いた。

結局、表向きは他職場の社員との意見交換という名目にして、気楽に二人だけで社外で会食することで承知した。ただ、当工場では腕に技術を持った男性は事務の女性社員を軽視する傾向にある。夏江は持ち前の芯の強さで、もしも相手が高飛車な態度で臨んできたときは、逆に鼻をへし折ってやろうと決心した。


そして当日、紹介の相手と事前にお膳立てされたレストランで対面した。お互い見掛けたこともありスムースに名乗り合うことが出来た。普段着でリラックスした面談をとの提案であったが、さすがに小泉は紺のスーツを着用してきている。面と向かって相手を見ると、歳よりも若く見え、顔立ちや全体の印象は素朴で控え目な感じがした。

そして、それからの展開は彼女にとっては予想外なものであった。小泉の話は決して流暢とはいえず、むしろ口下手であった。けれども懸命にしかも詳細な自己紹介を始めた。出身地、経歴、家族のこと、仕事の内容、趣味等々。しかも自らを飾ることなく正直に伝えようとしている様子がありありとうかがえた。これには彼女も当初の目論見とは異なり、礼儀正しく受け答えをせざるを得なかった。

そうしたことも含め小泉の印象は思ったほど悪くなかったのである。


結局、何度か会ってから判断してもいいだろうとの気持ちで、交際を重ね6ヶ月という短期間での挙式に至ったのである。

確かに相手が誠実で謙虚なところに良い印象をもったが、時間が経つに従って、一人の生活よりパートナーがいることで、張り合いのある面があることに気がついた。更に年齢からいって、こういう機会は二度とないだろうと思った。

そして、結婚を打診された時、この人に懸けてみようと承諾の返事をしたのである。あとはトントン拍子に予定が組まれていく。お互い早いほうがいいとの結論で、あっという間に式、披露宴の当日となった。

しかしながら、時折会うのと、一緒に生活するのでは事情は異なる。性格も趣味も違い、会話も決して打ち解けたものとはいえず、相性が合うのか不安が残る。


そういう中での披露宴の進行も終盤に差し掛かり、緊張と疲労が積み重なった最中での地震であった。その瞬間、夏江は震災の時に味わった忌まわしい体験を思い出してしまった。

幸せな心境が一転し、惨めな境遇に突き落とされた悪夢。また再びあのような屈辱を味わうのか。もう二度と情けない気持ちを経験したくない。頭の中を陰鬱な思いが駆け巡る。一瞬にして彼女の思考が麻痺しパニック状態に陥ってしまった。


その時、彼女の左手を触れるものがあった。さらに手のひらを強く握り締めてきた。

それは彼女の横に座る小泉亮太の右手であった。




*

夕暮れの空に航空機の尾灯が軌跡を描く。海の彼方ハワイを目指す夜行便。

その機内に新婚カップルの小泉亮太と夏江の姿があった。二人は披露宴が終わると挨拶もそこそこに慌しく空港に急いだ。かなりの強行スケジュールであったが、むしろお互いそれを望んだ。若者の結婚に見られる派手な見送りや写真撮影を断り、ましてや二次会などは願い下げであった。会場に出席した人々から一刻も早く開放されるような計画を組んだ。

案の定二人とも一日を通しての気疲れで搭乗するや座席にもたれかかり、思い切り体を伸ばした。ようやく待ち望んだくつろぎの一時といってよかった。そしてお互いが披露宴の感想を口にする。親族や招待客について説明する一方で、スピーチの内容や心に残る言葉等を素直な気持ちで語り合った。しばらくして地震の際のひとコマについて触れたのは夏江である。


「あの時、びっくりしたわ。亮太さんが手を握ってくれて」


「いやあ、ご免ご免。あの揺れに気が動転してしまって、つい手を伸ばしてしまったんだ。情けないな、子供みたいで」


「いえ、いいのよ。むしろ嬉しかった。あれで私は気持ちが落ち着いたの」


それは事実であった。小泉の思いがけない行為は、夏江の心の動揺を鎮めた。まるで彼女の心理状況を見透かしたような思いやりを感じた。テーブルクロスに隠れ彼女以外誰も気がつかなかったが、その後、徐々に落ち着きを取り戻すことが出来たのだ。


けれども言葉とは裏腹に、小泉亮太の行動には理由があった。それは彼の青春期に遡る。




*

彼が25歳の時、隣の職場に気になる女性職員が働いていた。

名前は立花真紀。彼女は目がぱっちりした笑うとえくぼが凹む可愛い22歳になる女性で、さわやかで明るい性格のため誰からも好かれていた。

もちろん寡黙でおとなしい亮太は面と向かって話などできず、高嶺の花でしかなかった。おまけに周囲には彼女に積極的にアプローチする若者が何人かおり、気楽に話ししたり冗談を言っている場面を何度か目撃した。

容姿、話術、ユーモアセンスのいずれも自信のない亮太にとっては、青年部主催のイベント等で若者同志が集う機会があっても、積極的に親交を深めることは苦手で、側で見ているだけであった。いつも羨ましく思い、口惜しくもあった。


ところが思いがけないことがきっかけとなり、彼の望みが叶えられ実現することになる。

ある日の早朝に亮太がいつものように仕事の関連で別部門に向かっていると、出勤してきた立花真紀とすれ違った。その際、彼女から亮太に、さわやかな声が掛かった。


「小泉さん、お早うございます。いつも朝早くから大変ですね」


突然の一言に亮太は面食らってしまい、咄嗟に挨拶を返せなかった。

けれどもその日一日は上機嫌であった。彼の名前を覚えてくれており、しかも出社の時間帯や日課を知っていることに大変な喜びを感じた。即ち、彼女の関心が多少とも自分に向いているのだと解釈した。


翌日から彼の方から簡単な挨拶を率先してするようにした。それに対し彼女は常に気持ちよく挨拶を返してくる。そして、日が過ぎ亮太はもう少し彼女の本心を確かめてみようと思うようになった。彼は考え抜いたあげく、若者に人気のミュージシャンAが近々開催するコンサートのチケット二枚を購入した。駄目でもともと、いやむしろ警戒されるかもしれない為、彼女にさりげなく二枚とも進呈しようと決心した。それでも彼にとっては異例且つ勇気のいることで、声を掛けるチャンスをうかがった。

そしてある日、帰社時間に合わせ場内歩行路で、彼女を呼び止めることが出来た。


「立花さん、帰り際でご免な。実はAのコンサートのチケット二枚、人からもらったんだけど、俺あんまり関心なくって。もし誰かと行く気があれば二枚とも貰ってくれないかな」


「うあー、嬉しいわあ。私Aの大ファンなんです。ぜひ行ってみたい!」


「それは良かった。じゃあ今度持って来るよ」


「ありがとう。でも小泉さんは行かないんですか。ぜひ一緒に行きましょうよ。以前にも聴いたことがあるんだけど楽しいですよ」


亮太にとっては想像していた以上の嬉しい展開となった。その後は待ち合わせ場所と時間を決めたが、ほとんど夢のような気分であった。


そして当日、亮太にとっては生まれて最も感激した最高の一日となる。

コンサートの曲目も熱気もどうでもよかった。彼女と一緒に居られるだけで無上の喜びを味わった。

さらに洋風レストランで食事を共にし、海岸沿いを散策した。

亮太は朴訥ながらも自分のことに関して懸命に喋った。

それに対して彼女は熱心に耳を傾けてくれ、とりとめのない話にも嫌な顔一つせずに、相槌を打ち強い関心を示した。気を良くしてめったに人には語ったことのない事柄まで彼女に伝えた。

そしてあっという間に時間が過ぎ、帰宅する時刻となった。少々名残惜しく感じたが、再度会う約束まで得て亮太は充分満足だった。

又、工場でも毎日顔を合わせることが出来、これからの毎日が充実したものになると期待した。従って彼女の詳しい住所や電話番号を今回は聞かなかった。別れ際に気にしていることを尋ねてみた。


「立花さんだったら、カッコよくて魅力のある男性に誘われても不思議でないように思えるけど」


彼女は質問の意味を理解し躊躇わず答えた。


「そんなことないわ。それよりも私誠実で真面目な人といるとすごく安心するの。決して見た目や言葉でお付き合いする相手を決めないわ」


と。その言葉は明らかに亮太のことを意識しており、喜びに心が弾んだ。


彼女と別れ一人暮らしの住まいに帰ってからも、幸せな気分に浸っていた。彼の性格を熟知し交際に応じてくれたことに、感無量な気分であった。その夜は感激の余韻が残りなかなか寝付けなかったが、明日職場での再会を楽しみにしながら床についた。


翌朝激しい揺れで目が覚めた。かなり大きな地震であったが、すぐに収まり近辺は被害もなく、出社準備を始めた。

亮太の胸には前日の満足感が続いており、一刻も早く出勤し彼女の顔を見たかった。いつものように最寄の駅に来て電車を待つ。けれども一向に到着せず、駅のアナウンスでその日は当分動きそうも無いことを知る。

やむなく自宅に戻り会社に電話したが、出ていたのは近くに住む社員だけで、工場のあちこちに被害が見られ休業せざるを得ないとのこと。その時点では、彼女も出られないのではと思いながら、休む事になった。幾分拍子抜けしたが、少しでも早く電車が開通することを願った。


テレビでは被災地の惨状が映し出されていた。多数の家屋の損壊や死傷者が出ているようだ。ただこの時点では自分に関わるとは思ってもいなかった。立花真紀と会社で出会って話し合ってみたい。彼女の住まいの周辺がどのような状況か聞いてみたい。その為にも、工場での早期の再会を望んだ。

そして、三日後に電車が正常運転となり、出社することが出来た。職場の一部で壁の破損や資材の散乱があり、修復作業をする必要があった。

その傍ら真紀の様子を見に行ったが、まだ来てないようだった。路線によっては当分動かない所もあるようだ。お預けを食った気分であったが、会社でいつでも会えると思い、相手の電話番号を聞いていなかったことを後悔した。


そして次の日も彼女の姿が見えなかった。亮太は決心し、何とか連絡を取ろうと思い、彼女の職場に向かった。

そしてその時初めて彼女を襲った悲劇を知った。


「立花さん、可哀そうに自宅が倒壊して下敷きになったそうよ。もうあの笑顔を見られないと思うと涙が止まらないわ」


「まだこれからというのに気の毒としか言いようが無い。まさか彼女がこんな目にあうとはいまだに信じられないよ」


亮太は放心状態に陥った。

最初は一瞬冗談としか思えなかった。けれども事実だと知った後は急いでその場を離れた。涙を人に見られるのが嫌だった。職場では我慢したが、帰ってからはとめどなく涙が頬をつたった。もう二度とあの明るい表情で彼に声を掛けることはないのだ。亮太のことを最も理解し誰よりも親しくしてくれた女性。その彼女がこのような目にあうとは想像すらしなかった。この地震で多くの犠牲者が出たが、彼女がその一人であろうとは夢にも思わなかった自分が情けない。

その夜は彼女との楽しいひと時を思い返しながら泣き明かした。

翌日、彼女を追悼する方法を考えた。けれども彼女との関係を周囲の誰もが知らなかった。いやむしろ人に知られずコンサートに行ったのだった。今さら弔問のため名乗り出ることに意味はない。結局彼なりに冥福を祈る事にした。


次の休日に、彼女と一緒に歩いた最初で最後のコースを辿ることにした。そして潮風が吹く海岸で彼女を追想しながら花を手向けた。

次の日から彼は元の無口で控え目な青年に戻った。いや以前より増して同世代との交流に関心を示さなくなった。それほど立花真紀の不慮の事故が彼の心に影を落とした。亮太にとって、彼女からは優しい情愛を授かったものの、逆に何も返すことが出来なかった。その自責の念が彼の脳裏に付きまとい、殻に閉じこもるようになってしまった。不運なことには彼の苦悩を、いやその存在すら、身近の誰もが知らなかったし、アドバイスされることもなかったのである。


そして年月を重ね、いつの間にか中年の独身貴族の仲間入りをしていた。もうすっかり地震の悲しい記憶は薄れていた。いや亡くなった彼女の名前すら失念してしまった。周囲の目から見て、彼は変わらず黙々と無難に仕事をこなす真面目人間であった。

その間、何度か郷里の父母の奨めでお見合いをしたが、いずれもうまく行かなかった。けれども当の本人もさほど未練はなかった。一人でいることに困らなかったし、周りの者も容認していた。


そんな折、彼の新しい上司が赴任してきた。彼は亮太との会話で根っからの独身主義者ではないと見抜いた。きっかけさえ整えば身を固める事に抵抗感はないと感じ取った。そして仲の良い工場管理部門の責任者を通じて、樋口夏江を知った。

小泉亮太は彼女を上司から紹介された当初は、あまり気乗りがしなかった。

ただ、彼女が三つ違いで十七年前に入社以来勤めていることに関心を示した。突然十五年前の出来事が彼の頭に蘇る。

そう、名前は立花真紀だった。もしかしたら彼女の事を知っているのではないか。樋口夏江とは出社時間が異なるため接触はないが、見掛けたことはあった。長期間、同じ工場で働いていながらほとんど知らないことを不思議に思った。

そして上司に彼女との出会う機会を委ねた。

上司の働きかけが功を奏し、亮太は樋口夏江と指定のレストランで会った。微かに記憶している立花真紀とは似たところがなく表情から気の強そうな印象が窺えた。けれども当時の記憶を思い返しながら、ゆっくりと言葉を噛み締めるように自分の身上、経歴を説明していった。それに対し夏江は、口数が少なかったが関心を示してくれた。事前に耳にしていたような気難しい面はなく、むしろ立花真紀とタイプは全然異なるが、自分という人間を善くも悪くも理解してくれる相手ではないかと期待を抱いた。


幸いなことに彼女から承諾の返事があり、交際を継続することになった。亮太は彼女の教養レベルからすると、話し相手として物足りないのではないかと危惧しながら臨んだが、いつでも真剣に耳を傾けてくれる。何度か会っている内に、外見の冷たい印象の傍ら、繊細で不安な面があることに気がついた。彼女が交際に懸念を抱き思案している様子を、女性らしい弱い部分もあると解釈し、むしろ逆に好意を抱いた。

最終的に結婚に踏み切ることにしたが、彼女が同意してくれたことに胸をなでおろした。ただ、お互い親密な間柄とはいえず、二人の間にはまぎれもない距離感が存在した。


そして、その状態が埋まらないまま、結婚式当日となった。

結局、立花真紀のことは触れずじまいであったが、思わぬ事態が記憶を呼び戻した。披露宴の最中に起こった地震で、十五年前の悲しい出来事がまざまざと蘇った。

彼女との幸せなひと時が一変し、痛ましくやり切れない思いを味わったあの瞬間。


『彼女は倒れた建物の下敷きになったそうよ』


『可哀そうに、何であんないい娘がこんな目に遭わなくてならないの』



茫然と立ち竦み、思考が麻痺してしまったあの日。そして何日も泣き明かした体験。

彼女のために何もすることが出来なかった無力な自分が不甲斐なく、あまりにも情けなく感じたのだった。そして今、彼の目に夏江と真紀がオーバーラップしていた。もう二度とあの思いを繰り返したくない。今度は自分が彼女を守る。この手で。

彼の右手が夏江の左手を探し当てた。そしてしっかりと握り締めた。




       *


航空機の窓から都会の照明が遠ざかって行く。隣り合う二人は、以前と比べ打ち解けた心境を自覚していた。亮太は少しはにかみながら言った。


「僕、地震も嫌だけど、飛行機の揺れもおっかないよ」


「それは私だって同じよ」


今度は、夏江が手を伸ばした。それをしっかり亮太が握り締める。お互い照れ臭そうに微笑んだ。その姿は、年を重ねているが新婚カップルそのものと言っていい。亮太は言った。


「ハワイ観光は旅行会社に任せっぱなしなんだけど、それとは別に行ってみたい所があるんだ」


「ふーん、どこなのそれは」


「ハワイ島にある農園なんだけど、コーヒー畑やパイナップルが一面にあって、他にも珍しい花や木が咲いているそうだ。そこから見える海は絶景らしいよ」


「まあ素敵、フリーの時間にぜひ行ってみましょうよ。じゃあ私もリクエストしようかな」


「なんだい、時間はたっぷりあるから構わないよ」


「以前雑誌で見たんだけどロコモコと言って、美味しいハンバーグ料理を食べさせてくれる店があるのよ。一度機会があれば堪能してみたいと思ってたの」


「大賛成。実は僕もハンバーグには目がないんだ。ぜひ寄ってみようよ」


「それと、もう一つお願いがあるんだけどな、旅行とは関係ないことなの、いいかしら」


「何かな、ちっとも遠慮しなくていいよ」


「実は帰ってきたら、絵画教室に行ってみたいの。仕事帰りの無理のない時間帯で。かなり以前のことになるけど、デザインスクールに通っていた時期があって、途中で挫折しちゃったの。もう一度デッサンからやり直して再チャレンジしたいんだけど」


「それはすごいね。ぜひトライすればいいよ。応援する」


「もしよければ亮太さんも一緒に行ってみない?」


「いやあ、僕にはそちらの方面はあまり才能に恵まれていなくて」


「大丈夫、初心者もけっこう習いに行ってるそうよ。なんだったら私が教えてあげるわ」


二人の会話は親しみを込めたもので、気持ちが弾んでいた。そしてこの時夏江は決意を固めていた。


『私はこれからの人生を、この人と一緒に作っていくわ』


一方、亮太は心に誓う。


『僕は何が起ころうとも彼女を守ってみせる』


もはや二人の頭から十五年前の悲しい記憶は消え去っていた。




       ***


大藪家では披露宴を終えた夫婦が、居間でくつろいでいた。次女は二人が持ち帰った引き出物の品定めに忙しい。


「今日の二人、見るからにかなり緊張していたよ。うまくやっていけるかな」


大藪が新郎新婦の様子を思い出しながら、妻に声を掛けた。


「大丈夫ですよ。二人とも分別のある大人ですもの。お互い相手を気遣いながらいい家庭を築いていかれますよ」


「そうだな。案ずるより産むが易しか。案外、人もうらやむ理想的な夫婦になるかもしれないな」


大藪の自慢は仲人をした二十数組のカップルが、いずれもうまくいっており、今までに破局したケースがないことである。毎年届く年賀状や暑中見舞いから推察すると、ほとんどが家族も増え、幸せそうであった。

次女の真知がお土産の和菓子を頬張りながら言った。


「わらしも大きくなっれ、彼氏が見つからかったら、おとうしゃんに紹介してもらおっかな」


「ちゃんと食べ終わってからしゃべりなさい。そうだな、もちろん探してきてあげるが、真知の場合には、淑女になれとは言わないが、もう少し女らしくしなければいけないな」


「じゃあ、合格、私これでも学校では皆から真知姫、真知姫って呼ばれているもん」


大藪はそれはむしろからかわれているのではないかと思ったが、辛うじてその言葉を飲み込んだ。その時玄関のチャイムが鳴った。


「私、見てくる」


真知が廊下を走っていく。大藪はまだまだ子供には苦労するなと溜息を吐いた。

そのうち玄関から、


「秀ちゃん、秀ちゃん、よく来たわね」


と呼ぶ声が聞こえて来た。どうやら長女親子が帰ってきたようだった。秀太は長女の子で大藪夫妻の孫になる。あまりに何度も顔を見せるため、もはや珍しくなく今回はどのような事情があって帰ってきたのか気になった。

孫を抱っこした真知が二人のいる居間に入って来た。もはや慣れっこになっており、長女の様子を聞こうともせず、愛らしい孫の顔を見て夫婦は顔をほころばせた。真知は盛んにあやして笑わせている。

孫が夫婦を見ながら片言であるが声を発した。


「ばっちゃ、ばっちゃ、じじ、じじ」


二人を指差しながら繰り返す。


「誰だ、変な呼び方を教えたのは」


と大藪が注意すると、真知は彼と視線を合わさないようにしながら孫のご機嫌取りに熱中しだした。


「真知やっぱりお前か、全く」


その時、長女が部屋に足を踏み入れた。いつもと様子が違って顔が強張っている。今にも泣き出しそうな雰囲気である。彼女はいきなり言った。


「私あの人と別れるわ。もうあの家には帰らない。二度と帰らないから」


部屋の全ての視線が彼女に集中した。
























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