プロローグ2
「え、ごめん、無理。」
明彦の言葉に、しかし美湖は即座に返答した。温度のない、いつもの美湖からは考えられないほどに、冷たい言葉だった。
「っく、どうしてだ?理由を教えてくれないか?」
明彦は、自分の振られた理由を知りたくて、美湖の言葉を待った。
「いや、だって、山田君、矢岬さんの彼氏じゃん。友達の彼氏に告白されて、いいですよ、っていう女の子いると思う?」
美湖は、至極当然、とでもいうように言う。美湖にとっては、明彦は、秋穂の彼氏であり、仲のいい男子生徒、という認識でしかなかったのだ。
「あいつとは別れたんだよ。俺は、お前が好きなんだ。だから...」
それでも、明彦は言葉をつづける。しかし、美湖の態度は変わらず、
「あのね、別れたから付き合ってくれ、なんて虫が良すぎない?僕が、君のことを好きならともかく、山田君のことは友達以上には見れないし、悪いけど、あきらめてくれない?」
美湖は、明彦の横を通り過ぎ、帰ろうとした。しかし、
「あきらめられるか!!」
明彦は、さらに美湖の肩をつかもうと手を伸ばしてきた。
「っ?やめて!!」
しかし、美湖はその手を払いのけ、体を入れ替えるようにして、明彦の体勢を崩した。その勢いを殺しきれず、明彦は地面に倒れてしまう。
「ごめんね。でも、僕...」
「なんでなんだ?どうしてダメなんだ?」
「...山田君は経験ある?大好きだった父親が、ある日突然、お母さんに暴力を振り始めたんだよ。毎日、毎日、毎日。僕は父親の、あの男の狂ったような笑い声と、痛みに耐えるようなお母さんの悲鳴を聞いてた。僕には何もできなかった。しかも、お母さんが気を失って反応しなくなったら、今度は僕が標的になった。あいつにとって、お母さんも僕も、ただの『おもちゃ』だったんだよ。つらかった。苦しかった。そんな生活がずっと続くんだよ?そんな僕が、どうして男の人を好きになれると思う?」
美湖の過去、それは、父親からのDVだった。彼女は、生まれてしばらくは幸せだった。父親は優しく、母親は穏やかで、いつも家には笑顔があった。しかし、その平穏は突然崩れ去った。父親の勤めていた会社が業績を悪化させた。そのため、リストラを余儀なくされ、美湖の父親はそのリストラの対象になってしまった。次の職を探すにも、業績を悪化させた理由が、世論の反感を買うような不祥事のせいだったため、どこの会社も、前の会社の名前を聞いた途端、不採用とした。それから、家庭は崩壊した。父親は、毎日のように酒をあおり、酒がなくなれば、イライラを解消するように、母親を、美湖を暴力の対象とした。近隣の住人が不審に思い、警察に通報してくれていなければ、今でもDVは続いていただろう。
明彦は、美湖の過去を聞いて、開いた口が閉じなくなった。
「世の中の男の人が、全員そうだとは思ってないよ。頭では理解してるよ。でも、気持ちがついてこないんだ。また、あの地獄に戻りたくない。だから、男性が信じれないんだ。だから、ごめん。山田君のことは、友達としての信用はできるけど、その気持ちにはこたえられない。」
そこまで言って、美湖は明彦を置いて、神社を後にした。
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美湖は、神社から一直線に自宅に帰った。いつもならば、家事を片付けて母親の帰りを待つのだが、今日はそのまま自室に引きこもってしまった。
「はぁ...」
思い出されるのは、先ほどの明彦からの告白。そして、父親からの受けていた悪夢の日々。
「無理だよ...。僕には、まだ...。」
そのまま、美湖は眠りについてしまった。
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その部屋では、一人の男が狂ったような笑みを浮かべていた。手には酒瓶、それをラッパ飲みのように煽りながら、開いた片手と、両足で、足元に倒れている女性に対して苛烈に暴力をふるっていく。
「ははは!オラオラオラ!」
「うぐっ、えぐっ、があっ。」
女性は、攻撃を加えられるたび、痛みに耐えるような、くぐもった悲鳴を上げる。しかし、その悲鳴を聞いて、男はさらに暴行を加える。
「いや...もうやめて…。」
しかし、体が動かず、ただ見ているしかできない。
「俺がこんなになったのは。お前たちのせいでもあるんだ。わかってるのか?ああ!?」
男が拳を振り降ろす。その一撃で、女性は気を失ってしまった。
「っち。反応しないんじゃ、おもしろくもねぇ。まぁいい。おもちゃはもう一つあるしな。」
男は、動かなくなった女性を蹴り転がすと、下ひた笑みを浮かべて、部屋の隅で震えている少女に近づいていく。
「いやだ、こないで...」
(どうして、動かないの?この男に、この男から、お母さんを守るために、強くなったのに...。)
少女は、男が近づいてくるのを、ただただ見ているしかできなかった。
「さぁ、お前も、いい声で鳴いてくれよ!」
男が、少女に向かって拳を振り上げる。
そこで、少女の意識は途絶えたのだった。
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「...湖。美湖、大丈夫?」
誰かにゆらされて、美湖は意識を取り戻した。目の前には、心配そうに顔を覗き込む母親、美紅の顔があった。
「お、母さん。」
「そうよ。どうしたの?うなされてたようだけど。」
美紅に言われて、自分の見ていた夢を思い出した美湖は、目に涙を浮かべて、美紅に抱き着いた。
「夢で、あいつが、お母さんを、殴って。私も、殴られそうになって、うぐっ、うわぁぁぁぁ...!」
感情があふれ出るままに、美紅に抱き着いたまま、美湖はしばらく泣き続けた。美紅は、美湖が泣き止むまで背中をさすって慰め続けた。
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美湖の父親、従 湖和―したがい うみかず―は、ごく普通の男だった。性格は温和で、人当りもよく、会社でも、大きな仕事を与えられるくらい人望もある。家でも、内弁慶というわけでもなく、思春期の美湖も反抗期らしい反抗期もなく成長するくらいだったのだ。が、1つの事件が彼を、そして従家を崩壊させた。
湖和が勤めていた会社の持つファミリーレストランで、アルバイトが冷蔵庫や、調理台の上に乗ている写真が、SNSで広がったのだ。さらに同時期に、同会社の持つ衣服店の従業員が、女性客を試着室で強姦した。この事件が発端となり、会社は各事業から次々と撤退、社員をリストラしていった。
湖和も、リストラ直後は、再就職のために、様々な会社の試験を受けた。が、自身の履歴を言うと、どの会社も不採用となった。最初は、湖和も会社の採用試験を受け続けたのだが、まったく同じ理由で、どの会社も不採用通知を送ってきたので、だんだんと、酒に逃げるようになった。そして、美湖と美紅にとっての悪夢が始まっていく。
湖和は採用試験の不採用通知が届くと、ビール瓶をあおるように飲み、亡くなると美湖や美紅に買いに行かせた。そして、また酒を飲む。そして、アルコールが回ってくると、手当たり次第に物を壊していった。テレビ、家具、電話、何もかもを壊していく。美湖と美紅は、湖和が暴れ終わるまで、別の部屋でおびえていた。しかし、ついに壊すものがなくなってしまう。すると今度は、美湖と美紅に標的を変えた。毎日のように、美紅に殴るけるの暴行を加え、悲鳴を上げる姿を見て狂ったように笑う湖和。そして、そんな光景を見せられる美湖。そして、美紅が気を失い反応しなくなったら、今度は美湖に暴行を加える。時には、性的暴行を加えた時もあった。二人を家から出れなくし、酒は通販を使って取り寄せていた。そんな生活が1年以上続いた。姿を見なくなった近隣の住人が不審に思い、近くまで見に来た時のこと。家の中から、悲鳴と笑い声、何かのぶつかるような音が聞こえてきて、警察に通報した。これにより、美湖と美紅は悪夢のような日々から解放された。
湖和は無期懲役の刑を言い渡され、今も刑務所に収監されている。しかし、美湖たちの悪夢は終わらなかった。長い間続いた暴行は、二人の心に深く消えない傷を植え付けた。二人は、時折、当時の光景を夢で見てうなされるようになった。時に片方だけ、時には両方が夢を見てはうなされ、そのたびに、二人で慰めあってきた。美湖が小学校の時の話である。
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「...あの夢のせいで、全然眠れなかった。絶対、山田君のせいだ。今日会ったら文句言ってやる。」
美湖は、学校への道を歩きながら、ぶつぶつ言っている。その目元には、少しクマができていた。しかし、いつもの交差点に来ても、秋穂と明彦は現れなかった。仕方なく、美湖は一人で学校に向かう。いつも通りに、職員室で鍵を受け取り、教室の花の水を入れ替える。そうしているうちに、クラスメイト達も次々と登校してきた。その中に、秋穂の姿もあった。秋穂は、美湖に近づくと一言、
「従さん。今日の昼休み、西棟の空き教室に来て。」
と伝えて、自分の席に戻った。
(ん~、やっぱり昨日のことかな。そりゃ、僕にも一言いいたいだろうし、仕方ないよね。)
と、この時、美湖は楽観的に考えていた。
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午前の授業が終わり、昼休みとなった。クラスメイト達は、仲のいいものたちで集まり、弁当を開いて昼食をとり始める。しかし、美湖は、秋穂に呼び出されており、西棟にある空き教室に向かった。
西棟は、主に、実技科目の教室が集中しており、この時間には、ほとんどだれもいないのだ。
「矢岬さん、来たよ。」
美湖は空き教室に入る。すると、窓枠にもたれかかった、トートバッグを持った秋穂がいた。
「ごめんね。従さん。呼び出したりして。ちなみに、私に呼び出された理由はわかるかしら?」
「うん。大体は見当がついてるよ。山田君の件でしょ?」
美湖がそう答えた瞬間、秋穂の感情が爆発した。
「そうよ!どうしてあなたなの?私がどれだけ、あの人に尽くしてきたと思ってるの?それを、どうして、よりによってあなたなのよ!!」
秋穂の口からは、いつもの彼女とは思えないくらいの、罵詈雑言が飛び出した。しかし、美湖はそれを、全て受け止めた。
「そうよ。私は彼をずっと愛していた。でも彼は、そんな私を捨てた。そんな彼は彼じゃない。だから、」
しかし、途中から、秋穂の雰囲気が変わった。ただの感情爆発ではなく、何か、禍々しいものに。
「だから、殺したわ。そして、あなたも殺す。」
そして、秋穂は美湖に対して、鋭くとがった殺意を向けた。美湖に近づきながら、トートバッグの中から包丁を取り出し、トートバッグを投げ捨て美湖との間合いを詰め包丁を突き出す。
友達だと思っていた相手から、明確な殺意を向けられた美湖は、動揺してしまい、判断が遅れた。そのすきに、秋穂は美湖の脇腹を刺した。美湖の脇腹からは、血が噴き出し、彼女の脳に、激痛の信号を送り続けている。
「ど、うして、こんな、こと...」
「どうして?、当然じゃない。私の明彦を奪おうとしたんだから。でも、安心して。彼の死体は私の部屋で、しっかり保管してあげる。彼はもう、だれにも触れさせない。私だけの物よ。」
秋穂は、狂ったように笑いながら、教室を後にした。その制服に、美湖の返り血を付けたまま。
「そっか。僕のせいで山田君、殺されちゃったんだ。」
秋穂が去った後、美湖の脇腹からは、絶えず血が流れており、美湖の周囲を赤く染めている。美湖は意識が遠くなり始めていた。
「友達だと、思ってたんだけどな。」
美湖はそうつぶやくと、ゆっくりと目を閉じた。もう、目を開いているのも億劫なほど体力がなくなっていた。
「...ごめんね。お母さん...」
美湖の最期の言葉は、静寂な教室の空気に溶けていった。




