人の子らはみな踊る
「ミヤコの婆ちゃんが死んだ」
二限目の放課が始まって席に来るなり、タカシ君はそう言った。ミヤコはタカシ君の幼馴染で、タカシ君は私の恋人だ。高一の秋から付き合い、直に一年になる。
「そりゃ、生きてれば死ぬでしょ」
机に頬杖を突きながら不機嫌そうに、焼き菓子に歯を入れるようにサックリと応じる。断じてオバさんが煎餅に歯を入れるようにザックリと、ではない。するとタカシ君はギョッとし、何処かに最適な言葉が落ちてないかと慌てたようになった。
「いや、それはまぁ、そうなんだけど」
「で、それと私に何の関係があるの?」
これでも高一の秋まで随分長いこと、優等生の仮面を被って生きてきた。その仮面を目の前の彼が原因で捨てて以来、学校では素の自分を晒し、結構図々しく生きている。
私が扉を破壊した掃除用ロッカーの噂と相まって、同級生からは以前とは別の意味を伴った敬称として「さん」付けで呼ばれていたりするが。
「その、ミヤコの婆ちゃんの葬式があったのが日曜でして」
「へ~~二年になってクラスが分かれちゃったし、知らなかったわ」
私は手持無沙汰に髪を一房摘み、目の前に持ってきて眺め始める。
「それで今日は木曜な訳でしょ? アイツ、ずっと家に引き籠ってるみたいで」
「それはそれは、いい御身分ね」
ここ数日、ミヤコ関連でタカシ君がワタワタしているのは知っていた。人の好い彼はよく人に頼られ、親切にしている。それが計算によるものに違いないと疑い始めたのが、思えば彼に興味を持つ切掛けとなった。
私と同じ仮面優等生だと思ったのだ。
しかし、調べてみて愕然とした。恐ろしいことに彼は天然だった。どれだけ探りをいれても粗が見つからない。そもそも本人に全く邪気というものがない。
その事実を発見した時、私は足をわななかせたものだ。信じられなかった。嘘でしょと問い詰めたかった。
『まったく、あいつらお笑いだぜ。ちょっと親切にしてやれば簡単に人を信用しやがってさ。なぁ、お前もそう思うだろ、サチエ?』
そんな風にして、彼の仮面を暴いた私を沼地で光る刃物のような邪悪な笑みで迎えて欲しかった。なのに、なのに――
『え? え~~っと、人に親切にするのに、理由っているの?』
なのにタカシ君はポカンとした顔で、容姿端麗頭脳明晰、裏表のない素敵な学級委員長のサチエさんに向け、そんなことを言ったのだ。
探りという名のストーキングの最中、誰も見ていないのに慣れたように空き缶を拾っていた場面を目撃した時には目眩を催した。不意に彼の前に猫が現れる。
蹴れ! 頼むから蹴ってくれ。日頃の欝憤を込めて助走して蹴れ! あぁ、ダメ、手招きしてゴロニャンさせてしまった。彼の前にお婆さんが現れる。
蹴れ! 蹴ってくれ。唾を吐きかけるのでも構わない。日頃の鬱憤を込め助走し――あぁ、そんな、止めて!? お婆さんに親切にしないで!?
そんなことがあって以来、気付くと学校内外で彼を違う目で見つめるようになっていた。意味が分からない彼。ふと目が合う。平凡な容姿から繰り出される笑顔に動悸を催す。顔が火照り、トイレに逃げ込んだ。
何だ、何が起こっているんだ。この胸の高鳴りは何? 心不全? 心疾患? それとも……。
「いや、ミヤコの家、両親がバリバリ仕事をする人でさ。海外出張も多くて家に殆どいないんだけど」
天使の輪が浮かぶ自慢のストレートヘアーを弄りながら、そんなことをつらつらと思い出す。一方、タカシ君はミヤコの現状を説明するのに忙しい。
「それじゃミヤコが可愛そうだってことで、丁度田舎で一人になっちゃったオジさんの母親が来て、一緒に暮らし始めたんだ。それでミヤコは半端ないお婆ちゃん娘になっちゃってさ。外でこそ意地張ってるけど、家に帰るとべったりで、かなり甘えてて」
いい加減、私は顔を上げた。
「はあ、だからそれと私に何の関係があるの?」
用件をさっさと言ってくれるかしら、用件を? と言葉を続けると、タカシ君は言葉に詰まったようになる。というか実際に詰まった。
「まぁ、その、だから。つまりはですね」
「えぇ、その、だから。つまりは?」
何度か観念を頭上で旋回させたような後、困り笑顔になってタカシ君は言う。
「前から約束してたのに悪いんだけど、今日の放課後、ミヤコの家に一緒に様子を見に行ってもらうことは可能でしたでしょうか……。というお話なんですが」
沈黙と、沈黙と、沈黙と。
タカシ君が微苦笑したまま固まり、二人の間に教室の喧騒が届けられる。スッと立ち上がると彼はビクッとした。可愛い声を作り「おい、タカシ君よぉ」と呼びかける。瞬時に背筋を正した彼の目を覗きこもうとすると、サッと逸らされた。
「私がどれだけ頑張って今日の放課後の為に時間を作ったか、分かる?」
使い慣れた優等生の仮面でにこやかに尋ねれば、「は、はい! それは勿論!」と、タカシ君は気をつけの姿勢になって応じた。うんうんと私は頷く。
「塾に委員会に、バイトに勉強に宿題にうっっざい親戚のオバさんの面倒に夕飯の支度にダイエットにカロリー制限にお小遣いの遣り繰りの末に、木曜限定の“デラックスアルファにしてオメガパフェ”を食べにいこうとしていたこと、分かるよね?」
タカシ君はぶんぶんと、勢いよく首肯を示す。
「それが当日になって、“幼馴染のことが心配なのぉ、一緒に様子を見に来てくれな~い?”と、連れ立ってお手洗いに立つ女子高生のようなことをのたまっていると」
そういう訳だね、タカシ君?
私がにこにこ顔で念を押すと、彼は慌て始める。
「いや、そんな口調で言っては」
「黙れ」
「え、えぇぇえ? サ、サチエさん?」
「黙れ」
「あの、えっとですね、僕はその」
「黙れ」
「そうです、すいません」
「うんうん。そうよね~~」
項垂れたようになるタカシ君に対し、合わせた両手を少し斜めにし、「わ~男の子って頼れるぅ」みたいな仕種と口調で述べた後、私は素に戻って舌打ちをする。
「チッ」
「ちょ!? サチエさ~~ん。舌打ち、舌打ち出てるよ?」
「チッ!」
「いや、あの、えっと、お、女の子! サチエさんは、女の子!」
内実を語れば、そんな予感は彼が席に来た時からあった。そして不機嫌は何ら生産的でないことぐらい承知している。その証拠に、“まぁここでタカシ君に借り作っておくのも悪くないか”と、冷静な思考を働かせ続けていたのも事実だ。
昔からそうだ。切り替えの早さに自信がある。あった。うん、ある筈だ。そうであると信じたい。
それからカラオケを奢って貰うのと引き換えに提案を呑むことにした。ちなみに私の十八番は、少し古い某魔女映画のオープニングだ。巧拙関係なく、あの歌を感情たっぷりにシャウトすることに、私は大きな生甲斐を覚えている。
「まったく、仕方ないわね」
私が予定帳を開いて今後の計画を修正していると、タカシ君が安堵の息を吐く。
「いや~、助かったよ。僕の母親とかミヤコの担任に頼まれてたんだけど、どうしても一人じゃ心配というか、サチエさんが一緒だと頼りになるっていうか」
不意討ち気味になされた発言と笑顔にドキリとする。お、おう、タカシ君も少しは分かって来たじゃないか。最近になって気付いたが私は彼の無邪気に弱いらしい。
そんなこんなで今日の放課後は、恋人の幼馴染の家に行くことになった。
* * *
「ここがミヤコん家」
「……豪邸ね」
放課後、タカシ君の自転車に乗せてもらいミヤコの家を訪れた。幼馴染だからといって漫画的に隣接している訳でもなく、タカシ君の家から少し離れた位置にミヤコの家はあった。敷地面積がかなり広い、門を構えた瀟洒な自宅だ。
「燃やしてやろうかしら」
「サチエさん、あの、冗談でも止めて」
もうやだぁ、嘘に決まってるじゃない。本気にしちゃ、や~~だぞ☆ といった塩梅と調子できゃぴるんすると、タカシ君は「あ、あははは」と乾いて笑った。
はっはっは。
「こ~らぁ? なに引き笑いしてるのぉ? ぷんぷん」
「ちょ、脇腹!? 笑顔で脇腹ドスドスするのやめて、痛いし怖いから」
脇腹への執拗な攻撃を止めたところで門のインターホンを彼が押す。上品そうなオバさんの返事がきた。お手伝いさんがいるという話だからその人だろう。
「あの、僕、タカシです。いつもお世話になっている」
「あら? タカシ様? 少々お待ちくださいませ。只今開けますので」
するとセキュリティが解除され、正門脇の扉が開いた。邸宅に驚きながら玄関へと向かう。タカシ君が高価そうな扉の柄を掴んで引けば、その先ではエプロンを着けた優しそうなお手伝いさんが待っていた。絵に描いたようなお金持ちの家だ。
「あの、お給料はどれくらいなんですか?」
「はい?」
という私の質問を「いやいやいやいや」と途中で遮り、ここに来た趣旨をタカシ君が説明する。お手伝いさんは一瞬驚いたようになったが、わざわざ有難う御座いますと頭を深く下げた。それからリビングに通されて茶を振る舞われ、話を聞く。
聞けばタカシ君の言葉通り、ミヤコはお婆さんの葬式以降部屋に引き籠り続けているらしい。そして心痛のあまり食事も喉に通らない……ということだけはないらしく、引き籠ってはいるが届けている食事は全て平らげているという話だった。
ただ夜はお手伝いさんも帰るらしく、おまけにミヤコの両親は抜けられない仕事を海外に残している為に日本におらず、ミヤコは豪邸で一人になるという。
「それじゃちょっと、様子を見てきますんで」
「本当に、わざわざ有難う御座います」
「いえ、お気になさらず。それじゃサチエさん、行こうか」
高価な茶葉を堪能した後はタカシ君に先導され、部屋に向かうことになった。家族の距離感そのままといった広い家だ。ミヤコの自室は二階の端にあるという。
「あのお手伝いさん、知り合って長いの?」
「えっと、ミヤコの婆ちゃんが体調を崩しがちになってからだから、一年かな」
「ふ~~ん」
適当に相槌を打って進みながら、ミヤコの家庭状況を色々と察する。生きてればまぁ色々あるわよねと、少ない経験で分かったような結論を下した。
「お~~い、ミヤコォ! 顔見にきたぞぉ、あと、プリント預かってきたぁ」
そうこうしている内に部屋の前に到着した。私に向けるのとは少し異なる、気安い調子のタカシ君の声が掛けられるも――――――
無音。
「お~~い、ミヤコォ!」
無音。
「お~~い! ミィヤクォォォ!」
無音。
「出てこねぇ」
「まぁ、引き籠ってる訳だしね」
試しに扉に手を掛けても施錠されて開かず、その場で電話をしてもミヤコの携帯の電源は葬式以降切られ続けた儘で、私たちは立ち往生することとなった。
「さ~~て、どうすっかな」
腕を組み、思案の横顔を晒すタカシ君の肩にポンと手を置く。
「タカシ君」
「え? サチエさ――」
一瞬、彼が何か期待するような視線を寄越すも、
「それじゃ、頑張って」
「あ、う、うん」
彼に全権を託し、私はそこらの調度品の値段を調べる運動に勤しむことにした。さっきからウズウズしていたのだ。壁には洒落た絵画が吊り下げられ、飾り棚には高価そうな物が置かれている。携帯片手に豪邸の廊下で扉が開かれるのを待つ。
「うっわ、この置時計、オークションで結構な値段で取引されてる」
「ミヤコォォ! 出て来いってば。ちょ、話ししようぜ」
「はぁ? なんでこんな訳の分からない物が三万円もするの?」
「ミィィヤコォォ! 一人で抱えんなぁ! 僕たちがいるぞぉ!」
「タカシ君。ここら辺の一つ持ち帰ってもいい? 廊下の飾り棚、宝の山よ」
「お~い、ミヤコォ! 頼むから……って、えぇ? サチエさん? それは……」
悪戦苦闘を十数分。結局、幼馴染のタカシ君でもミヤコ本人へと至る扉は突破できないらしい。あれだけベッタリだったのに、ミヤコも随分とドライになったものだ。いや、違うか。タカシ君にだからこそ、変に意固地になっているんだろう。
「どうするの?」
事の成り行きを見守る第三者的な感じで尋ねると、ミヤコの想いに気付いているのかいないのか本当に不明なタカシ君は「え?」と反応を示した。それから何かを考え込むような様子になった後、“僕だけはアイツを分かってる”的に、片頬を窪ませ、照れたように笑って言う。
「付き合って貰ったのに、本当にごめん。でも、もう少し粘ってみるよ。間違いなく、僕たちがここにいることには気付いている筈なんだ。今はじっと気配を伺ってるんだと思う。昔からミヤコはそういうところがあってさ。その、なんて言うのかな。アイツはただ、素直になれないだけっていうか、自分のことを上手く――」
「あぁん?」
が、学園モノの主人公のような彼の物言いに、思わず遠慮のない声が私の喉から出てしまった。ドンと一歩を踏み出せば、タカシ君は目を瞠って後ずさる。
タカシ君よ、これだから男は嫌なんだ。素直になれないって君、何を言ってるんだい? いくら親切な君であれ、ミヤコがあんなに可愛いくなくてもそれは言えるのかい? 不細工でも? 太ってても? そしたら大して構わないだろ! ん?
「そこら辺、どうなのかなぁ? んん? んんんん?」
「ちょ、親指!? 笑顔で額をグリグリすんのやめて下さい。痛くて怖いから」
かつては男子生徒から “天使の微笑み”と表立って言われ、今では陰で“凶器じみた笑顔”と囁かれる自慢の笑顔で迫る。凶器じみている笑顔……嫌いじゃない。
まぁそれはともかく、これ以上ここでこうしていても埒が明かないのは分かった。親指を彼の額から離し、扉に向き直る。
「まったく、しょうがないわね」
最初からこうなるであろうことは、何となく予想がついていた。仕方ない、ならばここは私が代わろう。予定はさっさと消化するに限る。
「え? サチエさ――」
気遣わし気な視線を向けてくるタカシ君を放っておき、扉の前に向かう。空気中に舞う塵芥、その全てを吸いこまんと大きく息をし、
「お、ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおいぃいぃいいいいい! ミィイィィィイイヤコォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
即、実行に移った。運動で鍛え上げた肺活量を活かし、声を張り上げる。轟く大音声にタカシ君が驚きに肩を上げ、目を見開いている。
「てめ、こらぁあああああああああああああああああああああああああああああ! あまえてんじゃ、ねぇぇぞぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
それから続けて言った。一人カラオケで鍛えた自慢の声帯を響かせ。絶賛引き籠もり中の、憎たらしいチビッ子に向け。
古来から、大和に住まう民の心に訴え続けてきた、言葉を。
「おぉおおおおまえの、ばぁぁああちゃん!! でぇぇぇぇえええ、べそぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
と、最後まで言い終わらない内に扉の向こう側でガタガタと音がし、扉が勢いよく開かれた。身長148センチのハーフなチビッ子、ミヤコ様のご登場だった。
「おばぁちゃん、でべそじゃないもん!!」
お~お~、このお子様が。ようやく出てきたかと腕を組み、鷹揚な姿勢で対する。慣れ親しんだ構図。親の仇を見るような目で睨むミヤコに、私は言葉を返す。
「うるさい。私が“でべそ”と言ったら“でべそ”だ」
「でべそじゃない! それにうるさいのはお前だ!」
「黙れ、このダボハゼが。ダボダボダボダボしやがって」
「なっ、ダボハゼじゃない!? ダボダボもしてない!」
「というか、ダボハゼの意味分かってるの? この腐れカボチャ、割るぞコラ」
「いじめっこ! 何なのよ! 何しにきたのよ!」
対面すれば大体喧嘩になる私とミヤコ。その双方をタカシ君が視界の端でオロオロと見ている。三人は高校一年で同じクラスとなり、知り合った。その可愛らしい容姿もあって、入学式の頃から母親がイギリス人だというミヤコは目立っていた。
『なに人のことじろじろと見てるの。キモイ』
が――その容姿容貌とは異なり、中身は全く可愛くなかった。声を掛けられても人に懐こうとしない。その唯一の例外がタカシ君で、ミヤコは幼馴染だという彼からくっついて離れず、オマケに動物的直感で私の仮面を見抜いてきた。タカシ君の調査をしていた頃に話し掛けると、『お前、何か嫌い』といきなり言って来たのだ。
『あっ、ごめんなさい。私、何か嫌われるようなことしちゃったかな。でも出来たら仲良く――』
『そこでどうして笑う。こいつ、気持ち悪い』
はなから同級生のことは対等に見ていない。優等生であることだけが重要で、何をどう言われようと結構だ。しかし、何事にも例外はある。その整っているがやたらと憎たらしく感じる顔と悪態を前にし、いつしか寛容であること私は放棄した。
『タカシ、そいつとあんまり喋っちゃダメ。それより私と図書館に行こう。何かそいつオバさん臭いし、一緒にいるとタカシまでオジさん臭くなっちゃう』
『ちょ、ミヤコ!? 何てこと言うんだ! ご、ごめんね、サチエさん』
『あはは、全然気にしてないよ。中学校の友達から“オカン”な~んて呼ばれちゃってたこともあるし。それより図書館に行くんでしょ? いってらっしゃい』
そう、全然気にしてない♪ フフ、フフフフ。フフフフフ。フハ、フハハハハ。フハァァアッッハァァッ! フハッハア! アハ。オーケー、イジメテヤル。
そしてある日を境とし、私はこっそりミヤコに嫌がらせを始めた。ミヤコがゴキブリの玩具を鞄に見つけてヒィィイイ! となったり、ゴキブリの玩具を机の中に発見しギャァァア! となったり、ノートの間や体操服からゴキブリの玩具が出てきてフガァァァア!? とかなって叫ぶ様子を一人、ほくそ笑んで見ていた。
だが、夏休みを過ぎた辺りからそうやって遊んでいられなくなった。
ミヤコが自由奔放で人の言うことを聞かないことと合わせ、同級生ばかりか上級性にもモテ始めたことで事態が変わった。そこそこの進学校の癖にアイシャドーばっちりの中途半端な不良である山田花子の一味が、ミヤコをイジメ始めたのだ。
中学でもそういうことはあった。その時は器用に立ち回り、私は見て見ないフリをした。イジメには必ず中心となる人物がいる。人を観察することは趣味でもあった。こっそりとその人間の弱みを握り、間接的に脅迫してイジメを止めさせた。
あまり下らないことを、クラス内でされるのが嫌だったのだ。
だからミヤコへのイジメも大体似たような手段で止めさせた。と思ったのだが爪があまく、暗躍していることが山田花子にばれ、吊るし上げを食らってしまった。そのこと自体は別に何ともない。ミヤコから私にイジメの対象が移っただけの話だ。
ただミヤコはそこで余計にもそのことに気付き、心苦しく思ったらしい。タカシ君に助けを求めてしまった。私は優等生であり担任や学年主任とも仲が良かった。別にイジメなど怖くない。それなのに、二人は止めようと色々考えたようで……。
「……なんか、あんたの能天気な顔見てたら、いろんなこと思い出しちゃった」
思わず呟くと、現実世界のミヤコが「能天気じゃない!」とチビッ子然として反論してきた。イジメテヤル。両頬を摘んでむに~っと広げるべくザリガニの如く襲いかかろうとするも、タカシ君がおずおずといった調子で割って入って来る。
「あ、あの、サチエさん? えっと、ですね」
「あ……そうだった。ミヤコ、あんたが引き籠ってて心配してる人がいるの」
さぁ話したら、と視線を向けるとタカシ君は頷いた。それからタカシ君のごくごく平凡な説得が始まる。その平凡さを決して私は馬鹿にしている訳ではない。むしろ好ましく思っている。平凡さでしか守れない物が、確かにあるからだ。
前途洋洋に平平凡凡。あれでそれで、つまりはこれで。タカシ君はその説得の最中、ミヤコが学校に来ないことで心配している人が何人もいること(大抵はロリコンども)を告げた後、ミヤコのお婆ちゃんを話に登場させた。
「だからな、ミヤコ。婆ちゃんが原因でミヤコが引き籠ってると、ミヤコの婆ちゃんも……ば、婆ちゃんも……、くっ、天国で、安心できないだろ? 僕だって、好きだったんだよ、ミヤコの婆ちゃん。辛いのは、お前だけじゃないんだ」
だが話に情が乗り過ぎたようで、タカシ君は途中で感極まってしまった。まぁ、タカシ君がそんな調子だからこそ、
「……っ、う……お、おば、おばあちゃ、あぁあああぁ! おばあぁあちゃぁあぁぁちゃぁぁあああああああん!」
ミヤコは泣く。当然に、泣く。
「ミヤコ、だからさ、明日は僕と一緒に」
「いやだぁぁああ! お婆ちゃんといるぅぅうううぅぅう!」
そして開けられた時と同じ唐突さで、バタンと扉が閉められる。あまりにも突然のことに、「へ……」と話の行き場を失ったタカシ君が私を見た。
「……あれ? あれ?」
「まぁ、とてもいい話だったと思うけど」
けど、沈み切った人間の心は複雑で、扱うのが難しい。
簡単に明日は目指せない。未来よりも過去を重く扱ってしまう。それはよく分かる。しかし今の説得で、私の彼氏が平凡であるが故に最高に格好いいことが分かった。幼馴染とはいえ、他人に対し、こうまで必死になれること……。
「ぼ、僕、もう一回説得して」
「シュークリーム」
だからこそ彼の人柄に敬意を表し、私は提案を持ち出した。
「はい?」
「駅前の“シェ井上”で、シュークリーム買ってきて」
タカシ君は意味が分からないと目を瞬かせるも、私は自分でも木訥に聞こえる調子で、腕を組み直し、言葉を繋いだ。
「女同士、二人でしか出来ない話もあるから。タカシ君が帰ってくる頃には多分、大丈夫になると思う。だからまぁ、ここはシュークリームで勘弁してあげる」
* * *
そうして、お手伝いさんの分も含め四人分のシュークリームをタカシ君が買いに向かっている最中――私はミヤコの部屋に入った。鍵はもう掛っていなかった。
カーテンが閉められた広い部屋に、沈鬱が埃と共に沈み込んでいた。床にはお菓子の袋や洗濯物、お婆ちゃんとの思い出の品であろう物が沢山散らばっていた。
写真立てに入れられた写真もある。ふと目にした一枚からでも、あぁ、上品そうでいいお婆ちゃんだなと分かる写真だった。
恐らくミヤコが撮ったものだろう。先ほど通されたリビングのソファーに腰掛け、ミヤコの祖母は愛しさと優しさを滲ませた顔でファインダーに微笑んでいた。カメラを手にしたミヤコの、楽しい嬉しい気配が伝わってくるようでもあった。
そのミヤコは今、ベッドで布団を被って丸くなっている。不貞腐れた小学生みたいだ。
「ミヤコ」
「勝手に入ってくるな」
あれから少し時間が経ち、気持ちも少しは落ち着いたのか、声を掛ければ気丈に応えてくる。なされた言葉の内容に構わず、私は足を進めた。
『お前、何か嫌い』
初めてまともに会話を交わした際、ミヤコは簡単に私を見抜いた。どうしてこんなチミっ子にと、当時は腹立たしくも思った。私の仮面は完璧な筈だった。
でも……本当は、心の何処かではそんな人間が現れることを、望んでいたのかもしれない。自分を見抜いて欲しくない人間なんて、一人もいない。
「嘘つき、自分から鍵をかけなかった癖に」
「わ、忘れただけ!」
だからという訳でもないが、今日は私がミヤコを見抜いてやる。
「入ってくるな」とは言うが「出ていけ」とは言わないミヤコを見つめながら、ベッドまで進んだ。スプリングの上、丸まっているミヤコの近くに腰かける。
「タカシ君は、いないわよ」
「…………」
だから安心しなさいと続けようかと思ったが、ミヤコは聡い子だ、意味を悟ったような息遣いを布団の中で溢し、キュッと身を固くした。ボフッと、掛け布団越しにミヤコを叩く。二度、三度。「ヤメロ」と言われ、素直に応じてやる。
光を遮った薄暗い部屋の中、思うようにならない人生を抱えた人間が二人いる。どうしようもなく、生きて動いてさつさつと意欲する人間たち。顔を上げても、光があるとは限らない。静寂について神様と語るよう、私は一人、言葉を紡ぐ。
「人は、死ぬ」
「……っ」
ミヤコの心痛に構わず、私は自分自身に言い聞かせるように続けた。どうしようもなく、生きて動いていつかは死ぬ、人間たちのことについて。
「生きている限り、人は、必ず死ぬの」
するとミヤコは、緊張に耐えかねるように布団を被ったまま叫んだ。
「分かったようなこと、言うなぁ! 何も、何も知らない癖に!」
その言葉に、遠くを見つめるような目を作る。分かったようなこと、か。
確かにそうだ。ミヤコの家族のことを私はよく知らない。死についてもそうだ。過去にも未来にも、昨日にも明日にも、私以上の経験をした、する人なんて沢山いる。新聞、テレビ、それに乗らない事件も沢山。ありふれた事故。
はい、次のニュース。
「私の両親、私が小学四年生の頃に死んだわ」
ピクッと、近くで丸まっているものが動く。水面に雫を垂らし、それによって生じた波紋を観察するよう、私は息を凝らして反応を待つ。「え?」と言いながらミヤコが布団から顔を出した。別に何でもないことのように、前を向いて私は続ける。
「高速道路で車の運転中、トラックの事故に巻き込まれて死んだの。妹も一緒。私だけが生き残った。だから今、私は親戚の家に厄介になってるの」
かつて白く凍りついた脳裏に、滲むように記憶の残滓が蘇る。パパと呼んだこと、ママと呼んだこと。妹の名を大きな声で叫んだこと。大好きなひとたち。
息を殺し、ミヤコは驚愕に目を見開いて、動きを止めていた。別に私はミヤコと不幸比べをしようとしている訳でも、ましてや学校に来いとか、タカシ君に心配をかけるなと説教をするつもりもない。ただ……。
「人は、必ず死ぬ。生きて動いていたものが、動かなくなる。油断ならないわ。今日大丈夫だったのに、明日は違う。一時間前は大丈夫だったのに、一時間後は違う」
喪失は、人が避けて通ることの出来ない場所であると、そう言いたかったのだ。
心身喪失から復帰するのに、私は一年近く掛った。だから同級生とは年齢が違う。私の方が一つ、上だ。それは担任や一部の先生しか知らない。タカシ君にも話していない。そんな自分の過去を覗かれるのが嫌で、私は優等生の仮面を被って生きた。
学校の中の役割として、優等生というのは楽だった。転校生としてもそうだ。何の問題もない、親切で優しいサチエさん。いつも笑って誰にでも親切にする。しかし、やはり無理があったのだ。本当の私はこんなにも、ひどく屈折している。
「お婆さんのこと、残念だったわね。自慢のお婆ちゃんだったんでしょ?」
自分の話をそこで一端引き上げ、ミヤコの祖母に話を戻す。「あっ」と声がした後、急くように、今吐き出さないといけないとでもいうように、ミヤコが応じる。
「そう! や……優しくて、なんでも知ってて! 料理が上手で、優しくて!」
「うん」
目を合わせる。大きいが故に可憐な二つの動物のようにも見える瞳が、硝子玉のごとく光った。思い出を編む美しい糸を手繰るよう、必死にミヤコは続ける。
「じ、自慢の、自慢の、おばあちゃん……だった! お婆ちゃんのお陰で、私は、一人じゃなくて。お婆ちゃんが、優しくて! すごく、すごく、優しくて! 何でも許してくれて。笑ってて。いつも! それで、それで、そ、それで……」
言葉に詰まり、静かに綺麗に、コップから水が零れるように、抱え切れない物がミヤコの目からじわりと浮き上がり、滴った。その熱さを思う。同時に彼女の震えた声と様子は、その真摯な想いと合わさり、私の胸に特別な調子を伴って響いた。
だが私は感傷を受けてはいけない。あくまで第三者として、聞くことに徹しなければならない。話すことが出来る、吐露することが出来る、感情を表すことが出来る。それは私が、簡単には出来なかったことだ。だから今日も病室は白く冷たい。
「そう……それだけ思ってもらって、幸せ者ね、お婆ちゃんは」
今より無力で、もっとどうしようもなかった過去の自分。その自分を眺めながら尋ねると、ミヤコは口を噤み、俯いた。何かを考えるような間が挟まれる。
体が静かな時ほど、心は震えている。
「ミヤコも、そう思うでしょ?」
口を開いて尋ねながら、そっと目を向ける。他人の心を楽器のように操ることは、あまり好きじゃない。だけど必要な時もある。そう思えるくらいには、少なくとも皆より、一年は大人なのだ。じわりとまた、ミヤコは涙をその目に浮かばせた。
「お婆ちゃん……幸せ、だったのかな」
「どうして、そう思うの?」
恐怖そのものを見るように、ミヤコは悲痛に歪んだ顔を上げる。
「わ、わたし……思って、なかったの。お婆ちゃんが、そんな、直ぐに、死んじゃうなんて。それで、いつも、甘えてて。学校のこととか、心配、させてて」
「うん」
「わ、わたし、お婆ちゃんに。だって、お婆ちゃん、いつも優しくて。私が、我儘言っても、が、学校で、い、いい、苛められてる時も。わたし、隠して、だけど、きっと、分かっちゃってて。それで、心配、させて。それが、じゅ、寿命を、み、短くさせちゃったんじゃ、ないかって。わ、わたし、何も、何も、お婆ちゃんに」
彼女の孤独は、私とは違う種類のものだ。だけど、行きつく先は同じだ。皆、不安なんだ。もう二度と言葉を交わせない人にしてしまったことを、悔いたりする。どうしてと、嘆いたりする。固く凝った少しの静寂が、部屋を包んだ。
「ねぇ、ミヤコ」
その静寂の中、過去の風景を手繰り寄せるような声で、静かに私は言う。
「聞いて。事故に巻き込まれる一時間前、私は車で妹と喧嘩をした。思えば本当に些細なことよ。パーキングエリアで私が買った、変なご当地キャラのお土産を、妹が欲しいと言ったの。でも妹は他に買って貰ってたし、私はあげないって言った」
ぐずぐずと鼻を啜っていたミヤコの意識が、ゆっくりとこちらを向く。
「じゃ、じゃあ、サチエと、妹は」
「うん、喧嘩したまま別れた。どうして……どうしてあげなかったんだろうね。別にあげたって、よかった。ただ、なんだか、意地になっちゃって」
だからって訳じゃないけど。そう、私は言葉を繋げる。
「ミヤコの言ってること、少しは、分かる。でもね……みくびんな。死んだお婆ちゃんのこと、みくびんな。立派な、優しい優しいお婆ちゃんだったんでしょ? そのお婆ちゃんが“幸せだったのかな?”ですって。幸せに、決まってるじゃない」
ミヤコが涙に濡れた、変な声を上げる。「どうして」と。私は鼻から息を抜くと、少し呆れたようにも、羨ましいような調子にも聞こえる声で、応える。
「私とタカシ君が知ってるように。ミヤコが強くて優しい娘だって、ちゃんと分かってたからに決まってるじゃない。大丈夫、お婆ちゃんには伝わってる。そんなあんたにそれだけ思って貰えて、幸せじゃない訳、ないじゃない」
そこでミヤコの目が再び、大きく開かれた。二人の脳裏に浮かぶ情景。碧眼を覗けば、その曇りのない鏡に、過去が映し出されたかのような錯覚を私は抱いた。
* * *
苛めの対象が私に移って約一か月。女子が当番となった放課後の教室掃除の際、私は掃除用ロッカーに閉じ込められた。掃き掃除を終えてチリトリを取り出そうとしたところで背中を強く押される。突っ込むような形で私は長方形の箱に入った。
突然のことに前後関係を忘れ呆然となっていると、背後でガチャンと鍵の閉まる音がした。笑い声がクスクスと耳に貼りつく。どんな経路でか、山田花子の一味が掃除用ロッカーの鍵を入手していたのだ。山田花子が勝ち誇ったように言う。
『ねぇ、あんた。苛められても涼しい顔してるって、どうなのよ? それって結局、私たちを対等に見てないってことでしょ? いっつも見下してたんだよね?』
彼女にしては中々に鋭かった。見下してはいないが、“同じ”には見ていない。ただそのことをどうこう言うよりも、家の料理当番が懸念だった。早く帰って支度しないと、オバさんにまた嫌味を言われる。『さて、どうしたもんか』と腕を組んで考え、いっちょ情けない声でも上げ、泣いたフリでもしようかと思っていると、
『やめて!』
と、風船が割れるように突然、誰かの声がした。
迷いから強く押し出された声。幼く甘ったるい声が決意に震え、その場の空気を一変させる。ロッカーの中にいても、その場の注目がその声の主に集まっていることが感じられた。向けられた意識の渦の中、再びその人間が言葉を発する。
『そんなことするくらいなら。もう一度……わ、わたしを、苛めればいい!』
何が起きたのか、またしても分からなくなる。それは確かにミヤコの声だった。私は驚きながら、事態の行方をロッカーの中、暗闇の中に見守る。
『私の、せいだから。だから苛めなら私にすればいい。サチエは関係な――』
室内履きが床を悠然と叩き、直後、キャッと女生徒の声が聞こえた。ミヤコでも、私をロッカーに閉じ込めた山田花子の一味でもない。別の、傍観していたクラスメイトの女子の声だ。
背伸びをしてどうにかロッカー上部に刻まれた通気穴から外を眺めると、その場にいた人間が殆ど動きを止めていた。濡れた雑巾を、ミヤコがぶつけられていた。
『あ、ごめん。こういうのが希望じゃなかった?』
バケツの前に移動していた山田花子が、濡れた右手を疎ましく払う。悪びれもせずに言う小悪党に、私は久方ぶりの“怒り”を覚えた。
だがロッカーから脱出することは容易ではなく、熱を伴ったもどかしさに頭が痛み、不自由な状況を疎ましく思うことしか出来ない。ミヤコはギュッと拳を握って泣くまいと強がっているも、『うっ』と、今にも涙しそうな声を漏らしている。
焦りにも似た、飢えた思いが胸に広がる。二枚、三枚とミヤコが濡れた雑巾をぶつけられ、ただ山田花子だけが笑い続けた。笑い続けた。笑い続けた。笑い――
『ごめん、苛めの件なんだけど、僕も負担させてもらっていいかな?』
しかし、その場の状況はそれから再び変化することになる。私が不自由な状況の中で苛立ちを溜めていると、扉が開く音がして、その場に別の声が上がった。
それは思いもよらぬ声、タカシ君の声だった。放課後の教室に突然男子が現れ、女子だけの閉鎖的な空間を見られたことに、場が動揺を湛える。そして、現れたのはタカシ君だけではなかった。事態は少しずつ、思わぬ方向に転がり始めた。
『んじゃ俺も。三人でよろしく』
『いい加減、鬱陶しいんだよね。俺も苛めてくれて構わんわ』
『オレ、この戦いが終わったらサチエさんに告白するんだ』
『あ~あ、やっちった。それ、お前死ぬことになるからな』
タカシ君の後に続いて男子生徒が続々と現れては、揃って同じようなことを言い始める。聞き覚えのある声。見知っている、見覚えのある人たち。それは全て、タカシ君がワタワタしながらも親切にしていた、クラスメイトの男の子達だった。
極めつけは、何故かタカシ君と仲が良い、帰宅部の癖に意味不明な筋肉量を誇り女子からは気味悪がれている――あ~ごめん私も生理的に無理だけどその時になって実はいい人なんだなぁと分かって、でもごめん、本当無理――な、ナカヤマ君の登場だった。
『我々の業界では、イジメはむしろご褒美です』
白い歯を溢して親指を立てたナカヤマ君の発言が切っ掛けとなり、男子生徒は弾けたように笑った。『どの業界だよ』とか『ドM過ぎるだろ』とか、男子が放課によくしている、軽口にも似た会話がなされる。私は女子の動きに目をやった。
何人かの女生徒は顔を見合わせ、気まずそうにしていた。苛めに加担こそしていないが、見て見ぬフリをしていた女子たちがある人物に視線を集める。小悪党の配下が動揺を露にし、主に声をかけようとした。その間際、ある決定的な音がする。
男子の喧騒を、ビシャリと、濡れた音が中断した。
『オイ、お前……なに調子のってんだよ?』
山田花子が自暴自棄にも似た調子で。笑うことに失敗したような声で、言う。この場における男子の中心である、タカシ君に向けて。何かを投げつけた後に。
――その瞬間、私の中の何かが、ブツリと音を立てて切れた。
あ~あ、やっちまったなぁ、と思った。恐ろしい程に冷静な思考の中、あ~あ、やってしまったなぁと。あらら、やってしまいましたかぁと。
――それはね、うん、よくない。よくないなぁ。
タカシ君の顔には、山田花子が放った濡れた雑巾が貼り付ついていた。雑巾を取り払い、困ったようにタカシ君が笑う。場は一瞬にして凍てつきに支配された。
だが、それも一瞬のことだ。その氷結を、獰猛な動物が箱の中で暴れているような、原始的な音が壊しにかかる。ガンガン、ガンガン、ガンガンと。
『なんだ』
『え、なにこの音』
その奇妙な音が、徐々に大きくなる。皆が不審がりつつも、ある一点を注視し始めているのを察する。それでもその音は一向に止むことがない。
ガツンガツン、ガツンガツン。
荒々しく凶暴に。不気味な音が放課後の教室に響く。そうして一際物々しい音がしたと思った直後――バコンと扉が外れ、床に落ちる騒々しくも乾いた音がした。
『ふ~~、ようやく出られたぁ』
額と膝から血を流しながら、私は埃と雑巾臭い棺桶から一歩を踏み出す。顔は当然のように笑顔だ。すまいる、すまいるきーぷ。
腕を引けない狭い空間の中、幾つか自由に動かせるものがあった。膝と頭だ。血ぐらい出てもいいかと開き直り、先ずは膝で扉を激しく打ち続け、痛くなったらヘッドバッドに変え、そうやって交互に内部から打撃を与え、扉の留め具を軋ませた。
ある種凄絶な、額から血を流しながらも笑顔でいるという異常な光景を前に、その場にいた人間は誰もが声を失っていた。私は笑みを深める。ハンカチで血を拭う。
『やっま~~ださ~~ん。あ~~そび~~ましょ~~』
そのまま笑顔を崩さず言うと、私は山田に向かってこれまた笑顔を崩さず走り出した。肉薄完了。瞠目した山田の左襟と右袖、勢いを出来るだけ削がずに双方を掴む。それから獣じみた咆哮を発し、山田という体を使って斜めに逆上がりをした。
『は? ちょっ!? え?』
山田の後方に上がった右足を曲げ、首を刈り取るように巻き込む。あとは重力を味方につけ、片腕を取った状態で床に倒す。背中から落ちた山田が、非常に悪役らしい間の抜けた『ぐへぇ!』という声を吐き出した。怖いくらいに上手く決まった。
『え? な、なに、え? お前、なにして』
『つっかまえた~』
旧ソビエトの総合格闘技――サンボの「飛び付き腕ひしぎ十字固め」というヤツだ。ストレスに弱い乙女な私にとって、格闘技は見るのもヤルのも重要なストレス解消要素の一つとなっていた。一か月に一度は近くのフィットネスクラブでグラブを叩いている。運動神経には自信があり、コーチからも筋が良いと言われていた。
『さ~~~て、とぉ!』
『あ、があああ!? ちょ!? ああああああ!?』
そのようにして突然地面に倒された山田を混乱のただ中に置いたまま、しっかりと取っている腕で十字固めを仕掛ける。実にいい声を上げた。以降、裏表のない素敵な学級委員のサチエさんによる、関節技の総合デパートがセールを開始した。
『ちょ、あんた、なにし、ぎ、ぎぶ、ぎぶぎぶぎぶ』
『そんなことしりません♪ 次はこれよ。ふふ、一度やってみたかったの、よ!』
『ぎゃぁあああ! だ、だしけ、あ、ああああ、ちょ、だんし、あ、ああぁぁ!?』
『あらあら、もう。せっかちさん。お楽しみは……これからでしょう、が!』
『い、いやぁあああああああああああああああああああああああああ』
このお菓子にいつか挑戦したいな! と乙女が思うような心地で関節技を色々と試してみたいと思っていた私は、念願叶ったと「飛び付き腕ひしぎ十字固め」をはじめとする、様々な技の練習に励んだ。それが抜群にどれも上手くいった。
それから慌てた男子生徒たちによって山田から引き剝されてしまうも、喘ぐように呼吸して体力を消耗させている山田に向け、『取り敢えず今日のことは全部ボイスレコーダーで記録してるから』と、笑顔で言った。『あんま調子こくなよ』と。
これ以上怒らせると山田さんのお母さんが働いているスーパーにアルバイトで入ってパート仲間を扇動し、お母さんを苛めて泣かせちゃうぞと、可愛く言った。
『ねっ、だからこれからは、仲良くしてね』
そのようにして私は、長年被っていた優等生の仮面を殴り捨ててしまった。
そしてその噂が変な風に広がり、実際に教室のロッカーの扉は壊れているわ、私は額を怪我しているわ、山田花子はビクビクしているわで色々と敬遠され、クラスメイトから声を掛けられなくなった。目が合うと逸らされ、ひそひそ囁かれる。
誰も私を覗かない。尊敬も畏怖も、人からフィルター挟まれるという意味では変わりがない。私は自分のそのポジションを、結構のびのびと享受することにした。
『あっ! サ、サチエさん! おはよう』
『あ……サチエだ』
そうした中、以前と変わらず声を掛けてくる人間が二人いた。タカシ君とミヤコだ。完全にこの恋は終わったと思ったのに、タカシ君が私に告白してきたのは、それから数日後のことだった。私はミヤコとしょっちゅう喧嘩するようになった。
『あ~ら、ヤマダさんおはよう』
『え、あ、お、おはよう、ござい、ます』
『お母さん、げんきぃ?』
『えぇ!? あ、う、は、はい』
クラスのグループから外れてしまった山田花子とも、偶に話すようになった。ナカヤマ君とすれ違えば、『よ!』と挨拶もした。筋肉は怯えていた。
* * *
泣き疲れたミヤコを寝かしつけていると、ガチャリと扉が開く音がした。目を向けるとタカシ君がこちらを伺っていた。手にはケーキボックスが握られている。
「あれ? ミヤコは……」
「泣き疲れて眠ったみたい。本当、子供ね」
苦笑するように告げると「え?」とタカシ君が訝しみながら歩を進め、私たちの状況を確認した。驚いたような感嘆を零すも、柔らかい面ざしとなる。「そっか」と言った。「お手数をおかけしました」とも。私は無言でミヤコに目をやる。
心は体の主人だ。だが心は体以上に頼りなく、不安定だ。だからこそしっかりと静かに、安らかにさせておく必要がある。悩みを吐き出し、思いっきり泣けたミヤコならもう大丈夫だろう。ポンポンと、頭を軽く叩いてやる。
「しかし、そうしているとサチエさん、お母さんみたいに――」
「あ~ら、それは私が老け顔で生活感あるオバさんみたいだと受け取っても」
「そんなこと言ってないってば!?」
冗談よと笑って見せた後、いつかタカシ君にも話さなければならないなと考えた。ミヤコに話したように。それこそニュース的にはありふれている、特に大して面白くもない、私の話を……。
強張っていた精神がほぐれ、あれからミヤコは泣き疲れて眠る程に、声を放って泣いた。お婆ちゃんのことを思い、別れに泣いた。最愛の人の名を叫び。
『わたしは、だけど、何も、何も持ってない』
ただ泣いている途中、ミヤコは零すようにそう言った。私の膝に顔を埋め、それが不安で仕方ないと、お婆ちゃんがいなくなって、それでもやっていけるのかと。
どうして、そんな風に思うのだろう。ミヤコの髪を撫でながら考えた。ミヤコは沢山のものを持っている。でも、それを言うことはしなかった。その代わり――
『だったら、取りに行けばいいだけの話じゃない』
『そんな簡単に、言うな。サチエとは違うんだ』
『なに言ってるの。私だって上手くいかないことばかりよ。手に入らないものばかり。欲しい物も沢山ある。でもそれは私だけじゃない、皆そんなものよ。ただ……』
『ただ、なに?』と、ミヤコが顔を伏せたまま、涙しながら聞く。その滑らかな髪に織り込むように、私は少しだけ力を込めて言う。
『私たちも、あと何年かで大人になる。そうしたら、少しは欲しい物が自分の力で手に入れられるようになる。楽しみよね。何だって、出来る可能性がある。過去だって、きっと、違う意味に変えられる。前を向いて、生きている限りはね』
それは珍しく出た、私の本音だ。この世界では、一度起こってしまったことは元には戻らない。私の両親も妹も、ミヤコのお婆ちゃんも、死んだからには生き返らない。事実はどうやっても変えられない。あったことはあり続ける。
だが、その解釈を変えることなら出来る。
――小さな頃は、目に見えない神様がちゃんといて……。
私の魂は、温かい光の中で笑っていた幼い自分の姿を追い求める。私は何気なく回りにあった大切なものを失ったからこそ、何気ない平凡なものを求めている。
身に降りかかった不幸を、単なる不幸で終わらせない。その意味を、生きて、動いて、せつせつと意欲し、変えてみせる。
泣きたくなるような平凡な家族を作って、泣きたくなるような平凡の中で生きるのだ。幸せだって、感じてやる。私はそこで、過去の意味を、変える。
『本当に、何だって、出来るのかな』
涙に濡れた面を上げ、ミヤコが縋るように尋ねる。私は笑ってみせた。
『あんた次第よ、ミヤコ。あんたは家族のこととか含めて、自分が恵まれてないなんてチラッとでも思ったことがあるかもしれない。でも、実はすっごく恵まれてるんだから。少なくとも、大学進学とかでお金の心配をする必要はないんでしょ』
そこでミヤコは、ぐすりと鼻を鳴らした。正直言えば、私はきっと、ミヤコが羨ましかったのだと思う。彼女の自由さや、目にした豊かさに、嫉妬していたのかもしれない。そればかりか、未来にまで……。でも、だからこそ、思う。
『何だって、してやりなさいよ。あんた、ポテンシャルは高いんだから。それこそ偉大になって、あんたを育てたお婆ちゃんの像が建てられるくらいになりなさい。ほ~ら、生きる意味なんて簡単に見つけられる。あんたはお婆ちゃんを偉大にする為にも、頑張って生きるの。それってすごくお婆ちゃん孝行なことじゃない?』
――そうは思わない、ミヤコ?
瞬間、カーテンに閉ざされた部屋の中で、真っ白に燃え立つような光を感じた。
あぁ、また泣くだろうなと思ったら、思った通りにミヤコは体を震わせ、息を溜めた後に盛大に泣いた。お婆ちゃんへの愛は絶え間なくミヤコの中で燃え続け、その想いの熱さに、ミヤコは声を枯らす程に、世界に向けて愛を叫んだ。
「ま、これで大丈夫でしょ。個人的に借りに思ってた分もあるし、すっきりした」
一連の出来事を思い返しながら軽く述べると、タカシ君が笑う。
「そういうとこ、サチエさんは素直じゃないよね」
「あ?」
と、私が嫌いな単語がまた出たところで鋭い目を向ければ、彼はやっぱり臆したようになる。しかし、彼はこんな私の何所がいいのか。分からないことは多い。
「い、いや。本当はミヤコのこと好きなのに。素直になれないでいるから」
「タカシ君、あなたは本当、歩く“どっかで聞いたことのある台詞大全集”ね。小説とか漫画を探すと、腐るほどに出てきそうな台詞だわ」
意地悪く言えば、「え、えぇ~」、と驚きつつも引きつつも、困惑しているような顔をタカシ君が見せる。軽く吹き出すように笑い、それを私は愛しく眺める。
「ま、だからこそ、好きなんだけどね。タカシ君のことが」
「あっ、え? は、はい! 恐縮です」
その実直な返答に、たまらずまた笑みを溢してしまう。
「何よ、それ。しっかし、この子の面倒を見てやっぱり思ったわ。子供を持つのは本当、大変なことだなって。結婚しても子供は持たない方がいいかもね。家族ってこれから日本では凄く贅沢品になると思うし。お金も手間もかかるから、なんなら夫婦二人、タカシ君と二人でのんびり生きるのも」
とか言っていたのが、思えば今から十年前だ。タカシ君は照れたように「そ、そんな。け、結婚の話なんて未だ早いんじゃ」とか言っていたような気がしたが、大学生になってお互いに就職が決まって暫くすると、私たちは結婚した。そして――
「ママァ」
「はいはい、どうしたの? タカエ?」
今では私は、一児の母親だ。自分自身驚くと共に、いや、やはり私は求めていたのだと、変に納得してしまう面もある。普通の家族が、私は欲しかったのだ。
国立の大学に奨学金で入学した私は、早朝から新聞配達をするという古典的なことをしつつも様々なバイトをし、卒業後は県の職員となった。タカシ君は私大に進学し、今では地元の市役所で働いている。他に就きたい職があっただろうに、「サチエと穏やかな家庭を営みたいんだ」と、彼なりに私の夢を応援してくれた結果だ。
二人の間にはそれなりに色んなことがあった。
私の過去のことや、タカシ君の浮気のこと。一度は別れそうになったこともある。しかし、その間を取り持ってくれたのがミヤコだった。お婆ちゃんの死後、学校に再び通い始めるようになってからミヤコは変わった。目的を持った目をしていた。
『とりあえず、サチエを目標にすることにした』
『はぁ? 私を? なかなか面白いこと言うじゃない』
ミヤコの傲岸不遜っぷりは、山田花子の苛めの件以降削がれていた。だが人見知りは変わらず、高二で私達とクラスが分かれると、ちらと教室を覗いた際などミヤコは大体一人だった。近づいて来るのはロリコンか変態か、チャラ男ばかり。
その人見知りは直ぐには変わらなかったが、それでも学校に毎日通い、モリモリと勉強をし始めた。タカシ君よりも私に懐き始め、『べ、別にサチエに会いに来てるんじゃない』とか言いながらも、何かあると直ぐに私の元に来るようになった。
次第に学年順位でも私に迫る勢いとなり、驚いたことに身長も伸びて、一年もすると完全な別人になった。
『あ、サチエー!』
『なんというか本当、あんた、お婆ちゃんに成長止められてたんじゃない?』
『なっ、お婆ちゃんのことを悪く言うな!』
今ではハイヒールと長い髪が似合う、ビジネスウーマンだ。あそこからよくここまで変わったものだと呆れてしまう。元から英語は堪能だったがそれに磨きがかかり、熱意ある勤勉のもと、私よりも良い国立大学に進み交換留学までしやがった。
大学卒業後には両親と同じ総合商社で働き始め、世界中を飛び回っている。一年そこらでパスポートの空欄がなくなり、二冊目が必要になる職業だ。移動時間で仕事をし、休日は自分の勉強に費やす。一年前にはMBAを取得したとかいう話だ。
ハイスペックな親の遺伝子を引き継いでいる人間はこれだから困る。高校生の頃は私の方が優秀だったと思うのに、今では完全に差が開いた。今のミヤコの姿を見たら彼女のお婆ちゃんも喜んだことだろう。それはきっと、ミヤコも感じている筈だ。高校時代は予想しなかったが、私たちは頻繁に連絡を取り合う友達となった。
そうやってミヤコは非凡になり、私は平凡になった。それがお互いが求めた生き方で、それでいいのだと思う。ただそのミヤコとは、ここ数カ月連絡が取れていない。どうしたのだろうか。まぁきっと、忙しく働いているんだろう。
「それじゃ、お義母さんとお義父さん、わたしたちはこれで失礼しますね。ほら、タカエもご挨拶して」
よく晴れた日曜の午後、私はタカシ君の実家に遊びに来ていた。これからタカシ君の運転する車でスーパーに寄り、夕食の食材を調達する。二人ともお酒は飲まない。パクパク食べて、寝て起きて、仕事してという当たり前のことを繰り返す。
好きな歌は、最近歌っていない。歌うことより聞くことの方が多くなった。布団で眠る、最愛の娘をそっと眺めながら。小さな頃は、目に見えない神様がちゃんといて…………。
と、玄関先でタカシ君のご両親に見送られ去ろうとしていると、急ブレーキの音が背後に響いた。驚いて振り返れば、深い色合いの外車が急停車中だ。一目で高級車と分かるフォルムをしている。この界隈でこんな車を乗り回すのなんて……。
「よかった、間に合った! サチエ、タカシ、タカエちゃん! 今、ウチにすっごいモノが届いたの! 早く乗って!」
紺色の高級車から顔を出したのは、最近ちょっと会ってないミヤコだった。
「ミヤコ!? あんた、いつの間に日本に戻ってたの? っていうか何でここに?」
「あ~~もう、そんな細かいことはいいから。とにかく急いで。前から頼んでたものが出来上がったみたいだから、急いで戻ってきたの。早く早く!」
訳が分からないまま、私はタカシ君と顔を見合わせる。取り敢えずタカエを抱え直し、後部座席に乗り込んだ。高級車ならではの革の香りに包まれる。
「ミヤコ、本当にあんたはいつも突然ね。それで、すっごいモノって」
「それは見てのお楽しみ。あ、よかったら真ん中のベビーシート使ってね。タカエちゃんの為に着けたの。よし、OK。それじゃ、いくわよぉ!」
上手いこと車をその場でUターンさせ、ミヤコが車を走らせる。まったく、あんたはいつも説明がないんだからと嘆息している間に目的地に到着してしまう。タカシ君はミヤコのすることと笑い、娘はきゃっきゃっきゃっきゃと声を上げていた。
「さ、入って入ってぇ。ヨシコさ~~ん、三人を連れてきたよ~!」
車の目的地はミヤコの家だった。門前で待っていた、すっかり打ち解けたお手伝いのヨシコさんにミヤコは挨拶し、私達を先導して庭に招く。そこには――
「は?」
「お、おい。ミヤコ、これって」
私が素っ頓狂な声を上げ、タカシ君が半笑いの表情で尋ねる。するとミヤコはそれの前に立ち、世界はまるで彼女の為にあると言った表情で、笑って答えた。
「決まってるじゃない。私のお婆ちゃんの像よ!」
そこにはクラーク博士よろしく、大志を抱けとばかりに手を慄然と伸ばした、少しふくよかな、だが品のあるミヤコのお婆ちゃんの像が立っていた。大企業の玄関に設置しても恥ずかしくない立派な像だ。思わず唖然としているとミヤコが続ける。
「私、今度会社の仲間と独立して自分の会社を作ることにしたの。百年と続く大企業にする予定よ。ノーベル賞とかそっち方面で私は偉大になれなかったけど、会社の創業者として偉大になってみせるつもり。そんな私を育ててくれたお婆ちゃんは、それこそ銅像にする価値があるの。サチエ、どう? すごいでしょ?」
どうと問われるも、私の中に応じる術はなかった。ただ――
「どうって。あ、あんた、本当、何を……くっ、ふ、ふはっ」
私の口元は、先ほどから痙攣したかのようにぴくぴくしていた。その中で、心が強い感情に染まりたがっていることに気付く。気付くと同時に、それは自然と腹の底から膨れ上がっていた。そして、私の顔は笑みを作り、
「あ、あは、あはははは! あはははははははは!」
知らず、声を出して笑っていた。
私は家族を失って以来、お腹を抱えて笑った経験がない。でもその時、自信満々に言うミヤコを前に、私は確かに、お腹を抱えて笑ったのだ。
「あは、あははははははははは!」
「ちょ、サチエ。なに笑ってるのよ? あなたが言ったことでしょ?」
記憶力はいい方だ。確かに、確かに十年近く前に私は言った。
『何でもしてやりなさい。それこそあんたを育てたお婆ちゃんの像が建てられるくらい、偉大になってみせなさい』
と。
そうやって、前を向いて生きろと。強くなれ、力をつけろと。過去の意味だって変えて見せろと。しかし、しかし……それで、偉大になる予定だからと言って、自宅の庭に祖母の像を建てる人間が、どこの世界にいる。あ、ここに、いた。
笑い過ぎて、涙が、出てきた。
「あ、あは、あは。あ、あはははははははは!」
「まったく、そんなに笑うことないじゃない。ねぇ、タカシ? タカエちゃん?」
自身が空白になったかのような、何もないからこそ全てがあるような感覚に打たれながら、考える。人の世には本当に、色々なことがある。悲しみもあれば、苦しみもある。妬みも、そして、喜びも。眩しいような喜びも、確かにあるのだ。
ミヤコに呼びかけられ、腕の中のタカエが反応して手を伸ばした。まるで、偉大なミヤコのお婆ちゃんの像に、自ら手を触れるように。
「ほ~ら、タカエちゃんにはお婆ちゃんの偉大さが分かるみたいね。ね~タカエちゃん? ミヤコお姉さんですよ~~って、ぐっ!? タ、タカエちゃん?」
かと思えば不用意に近づいたミヤコの顔に、私そっくりの、負けん気の強い顔をしたタカエが拳をくれた。笑い過ぎ、涙が出て歪んだ視界の中で再び考える。
『ミヤコの婆ちゃんが死んだ』
タカシ君がそう言ってミヤコの家に訪れた日から、どれだけの月日が流れ去っただろう。十年、約十年だ。その中で変わったこともあれば、変わらないこともある。十年二十年三十年先のカレンダーを、私はネットで眺めることがある。このカレンダーの中には、いつか、私が死ぬ日も刻まれているのだ。四十年五十年六十年。
私は事故以来、自らを規定した。平凡であることを望んだ。でも娘よ、お前は好きに生きろ。どうせ生きて死ぬだけだ。好きに生きればいい。戻る場所ならちゃんとある。帰る場所ならちゃんとある。好きなように、望んだように、生きてくれ。
ミヤコのように、非凡を目指すのも構わない。そうだ、それこそミヤコ以上になれるポテンシャルだって君にはあるんだ。何たって私の娘だ。
――小さな頃は、目に見えない神様がちゃんといて……。
私なら大丈夫だ。簡単にはくたばらない。君が小さい内は、神様のように何だって叶えてやる。眠っている間に魔法だって唱えてやる。だから、だから、
「ちょ、タカエちゃん。髪、髪の毛ひっぱらないで。いた、痛いって、」
そうだ、娘よ。いけ、ミヤコに負けるな。私の大好きな歌にあるように、薄闇に支配された部屋も、カーテンを開ければ光が溢れるんだ。
へこたれても、またカーテンを開ければいい。人生の苦悩も追いやれ。そうやって生きろ。パパもママもお前の直ぐ傍にいる。死ぬまで、死なない。だから、
望んだ未来を、その手で思いっきり、掴み取ってやれ。