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八.雛、疑いもしない。

 大ばば様。

 そう、雛に呼ばれている女――…小幸(コユキ)は、蛇の化身を伴って小屋(いえ)の外に出た。

 真冬の空気は冷たい、のに、目の前の蛇の化身の吐く息は白くない。 鼻の頭も赤くなっていない。 それだけでも、その者が人外の存在であるということは推し量れる。

 小幸がじっと蛇の化身を見つめていると、蛇の化身はつまらなそうに溜息をついた。


「…一体何の用かねぇ。 私はそなたが何者でも構わぬよ。 そなたが、私のかわゆい雛にとっての、害悪でなければ」


 ただの、(あやかし)とは思えない。

 神々しさが感じられるわけではない。 だが、だからといって、禍々(まがまが)しい感じがするわけではない。

 この男は、一体、何者なのか。


「腹の探り合いは止めようではないか」

 考えても答えが出ないので、小幸は率直に問う。

「お(ぬし)は何者だ?」


 小幸の問いにも、蛇の化身は愉しそうに笑うばかり。

「雛が私に【神紅】と名付けたので、私は雛の【守護神】となった。 それだけのことよ」

「…守護神? 笑わせるな。 (あやかし)の分際で」

 小幸は、鼻で嗤ってやる。


 (あやかし)は守護神になどなれない。

 自分が吐いた言葉は、呪詛のように低かった。 それだけは、わかった。


 けれど、目の前の美貌の妖は、嬉しそうに笑う。

「…ようやく化けの皮が剥がれたようだねぇ」


 化けの皮。

 ハッとして気を引き締めた小幸は、自分の目が猫の目のようになり、口が裂け、耳と二又の尾が生えていたことを知らない。

 蛇の化身の顔から、笑みは消える。 その、紅い瞳の瞳孔が、針のように細くなるのを、小幸は見た。


「猫又」


 蛇の化身が口にした言葉に、小幸は眉を顰める。

「…ねこまた?」


 耳慣れぬ言葉だった。

 【ねこ】は【猫】でよいのだろうか。 では、【また】は?


「猫又。 (あやかし)の別だねぇ。 天狗や河童と同じように、といえばわかりやすいだろうかねぇ」

 謡うように朗々とと蛇の化身が紡いだ言葉は、小幸には衝撃だった。

 【猫又】。

 それが、小幸を分類する言葉だったのか。 そんな風に考えていた小幸の耳に、些かも笑みを含まない、蛇の化身――ああ、【神紅】と名乗っただろうか――の声が届く。

 蛇の(あやかし)の名に、【神】の字をつけるとは、雛らしいといえば雛らしい。


「雛の【大ばば】とやらの魂を喰らったのかい? …猫又、なぜ、雛の傍にいるのか?」

 神紅と名のついた蛇の妖は、観察するような目を、小幸に向けている。


 その目を見て、気づいた。

 ああ、この蛇の妖が本当に気にしているのは、雛の身の安全か。 【猫又】という妖に分類される自分(コユキ)が、雛にとっての害悪ではないのか、と。


「…それを知って、お主はどうする?」

 問いながらも、小幸も本当は、わかっている。

 安心したいのだ。 相手がどのような存在かを知って、雛の傍に置いても大丈夫な存在なのかどうか、安心したい。


 神社は神域だ。 山は、霊域。

 そう遠くない、昔の話だ。 自らの死期を悟って、人里で飼われていた小幸は山に入った。

 自分は、【猫】という生き物だった。 それは、確かなことだ。


 死期を、悟った。

 けれど、いつになっても、自分という存在は、なくならなかった。


 ある日、山の中を彷徨い歩いていると、ふっと懐かしい匂いがした。 その匂いを辿っていけば、女がふらふらとしていた。 思い詰めた様子で浮かんだり、沈んだりするようなおぼつかない足取りだった。


 ザアァァァァと水の落ちる音が聞こえてくる。 女が滝壺に向かっていることはわかった。

 興味を持って、女のすることを眺めていれば、女はざぶざぶと水の中に入っていく。


 もしや、滝行でもするつもりなのだろうか。 晩秋の寒さの中で滝行など、正気の沙汰ではない。

 女の命が尽きかけているのはわかった。

 もしも、あの女が死んで、(むくろ)だけが残ったら?

 そう考えると、何だか急に腹が空くような気がしてきた。 口の中が涎でいっぱいになって、小幸はジュルリと舌なめずりをする。


 久しぶりに、ご馳走にありついてもいいのではないだろうか?


 滝に打たれる女は、真っ青になってガタガタと震えながらも、手を合わせてぎゅっと目を瞑っている。

 はじめは、歯の根が合わずにガチガチと女の歯が音を立てているかと思ったが、女の歯の間から漏れるのは、謎の言葉だった。

 一体何を唱えているのか。


 思いながら、小幸も滝壺の中に飛び込む。

 水は苦手だが、冷たさは感じなかった。 何より、ご馳走が目の前にあるのだ。

 人間を食べるのは初めてだけれど、きっと美味しいのだろう。

 女にそっと近づいて、がぶりとその首に噛みついてやろう。


 そう思った時、女の濁った目が小幸に向いた。

 青紫色になった唇が、動く。


「こ、ゆ、き」


 滝の音が、耳にうるさく、その音を拾えたわけではない。

 けれど、そう発した音が聞こえるような気がした。


 刹那、唐突に、蘇る。

 どうして女を、懐かしいと思ったのかを思い出した。


――お前は、私の、幸せだから


 そう言って、小幸と自分を名付け、可愛がってくれていた、人間。

 彼女の名前は知らない。 ずっと、小幸は彼女を【主】と呼んでいたから。


 もう、会うこともないと。

 最期の姿を見せたくないと思った、大切な、主。


 その、主は、小幸のことを、覚えてくれていた。

 姿、形が変わっても、小幸を、小幸と認識してくれた。

 こんな、幸せがあっていいのだろうか。


 そう考えた小幸に、縋るような目が向けられた。

 何かを、彼女が、自分に伝えようとしている。 そのように捉えたのは、直感だった。


「…ひ、な、を」


 その音が何を意味するかはわからない。

 ただ、その音を残して、女の瞼が落ちる。 魂が、肉体から離れようとする。

 その、魂を、自分のものにしたい。


 突如沸き上がった、抗いがたい欲求。

 ずっと、一緒にいたいと思った、主だったから。


 喰らった。

 肉体ではなく、その魂を。


 動かなくなった彼女の着物の襟首を噛んで水中を引き摺るようにして、地面に上げる。 彼女の亡骸は地面を掘って埋め、石を置いた。

 ここに来る途中に、青紫色の釣り鐘型の花が咲いていたのを思い出して、来た道を戻る。

 悲しくはなかった。


 だって、大切な主は、これでずっと小幸と共にいてくれる。

 彼女は、肉体という殻を脱ぎ棄てただけだ。


 けれど、以前彼女だったものとして、弔いをしなければという感覚も働いた。

 この感覚はきっと、極めて人間に近い。 そんな自分の変化に首を傾げていれば、求めていた花を見つけた。


 膝を折って手を伸ばした小幸は、ぎょっとして目を見開く。

 自分が伸ばして、自分の目に映ったのが、人間の手だったからだ。

 まさか、と思い、手を握って開いてしてみれば、目に映る人間の手も握って開いてと動く。

 ああ、けれど、自分の変調に悩むより先に、この花を――…竜胆を摘んで、彼女の墓に供えなければ。

 そこで、小幸はまた、首を傾げる。


 どうして、自分は、この花の名前を知っているのだろう。


 不思議なことばかりで首を捻りながらも、小幸は竜胆を摘んで、彼女の墓に供えに行った。

 時間が経つにつれ、小幸は段々と、不思議な感覚に襲われる。

 自分の生きてきた今までと、別の誰かの生きてきた今までが、重なるような、感覚。

 どちらがどちらのものかわからなくなる。


 そして、ハッと大切なものを思い出した。


 蛇に噛まれて、生死の境を彷徨っている、養い子。

 あの子の為に自分は、滝に打たれて山の神に祈っていたのだ。

 あの子を噛んだ蛇を眷属(けんぞく)とする蛇神が、あの子を救ってくれるとは思えなかったから、山の神に祈らねば、と思ったのだ。


 耳を澄ませば、泣き声が聞こえる。


 ああ、あの子が泣いている。

 大ばば様が、どこにもいないと、泣いている。

 その泣き声はもう、苦しんではいないようで、元気そうで、そのことに小幸はほっとした。


 帰らなければ。

 あの子のところに。


「おおばばさまぁっ…」

「雛」

 必死に、縋りつく小さな手。 小さな体。

 ぬくもりが、生きている証。 それを、抱きしめ返す。


 この幼い存在は、自分が【おおばばさま】と信じて疑わない。


 これは、愛しいもの。

 彼女(じぶん)の、大切なもの。


「どうもせぬよ。 …ただ、私を排除しようと動く力に立ち向かうことは、罪にはならぬだろう?」

 神紅の言葉で、小幸は意識を引き戻される。

 小幸は、横目でちらりと神紅を見る。


 これは、あくまで、小幸の直感だけれども、この神紅は強い。

 だから、今の言葉を額面通りには受け取れない。


 神紅の言葉は、小幸の耳には、「雛の害悪とならず、神紅の邪魔にならないうちは、生かしておいてもいい」と、そう聞こえた。


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