七.雛、白状する。
大ばば様が町に出かけてから、十日ほどが経った。
雛の見込みでは、そろそろ大ばば様が帰ってきてもいい頃合いなのだ。
だから、雛は神紅と膝をつき合わせて、注意事項を神紅に言い聞かせることにしたのである。
「いい? 神紅。 大ばば様はね、妖が嫌いなの。 大ばば様に見つかったら退治されちゃうかもしれないから、蛇さんの可愛い神紅になって」
雛は、真面目に、真面目に、そして真剣に、神紅に言い聞かせているのだが、神紅は気のない様子で空中を見ているような状況だ。
雛は神紅のことを心配しているのだから、もう少し危機感を持ってもらいたい。
「…そなたの大ばばとやらは、蛇も苦手なのではなかったかい?」
雛はぐっと唇を引き結んだ。
確かに、それはそうで、神紅の言うことは正論ではあるのだけれど。
「そうなんだけど、絶対に人型の神紅より、蛇さんの神紅のほうが可愛いから、大ばば様は気に入ってくれると思うの」
雛は両の拳を握って力説したのだが、神紅はどこか遠くを見つめている。
「…雛の主観の割合が多分に含まれている気がするけれどねぇ…」
気のない神紅の様子に、雛はない知恵を絞りに絞ってひねり出した。
「ほら、蛇さんの神紅なら、小さいから籠の中に隠れることだってできるし!」
「楽しそうな話ではないねぇ」
「蛇さんの神紅なら、一緒に寝てあげてもいいよ。 神紅、寒がりでしょう。 一緒に寝たらあったかいよ」
神紅の綺麗な紅の目が雛を映し、その口元が笑みの形になった。
○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●
「ああぁ、やっぱり蛇さんな神紅はとっても可愛いっ…!」
雛は、囲炉裏の傍で歓喜の声を上げながら、可愛い蛇さんの神紅を、膝に載せてなでなでなでなでと撫で回していた。
あれだけ渋っていた神紅だったのに、いざ蛇さんの姿になってみれば、とぐろを巻いて雛の膝の上で気持ちよさそうにしている。まんざらでもなさそうな様子だ。
その神紅が、鎌首をもたげて外へと続く戸に顔を向ける。
雛も、戸の方へと向けた。
何か、あるのだろうかと見つめていると、がたがたと重々しい音を立てて戸が揺れながら開かれた。
と同時に、人の姿が現われる。
「雛、今帰った」
豊かな黒髪を結い上げ、鋭い葉っぱのようなつり上がり気味の目を強調するように紅が引かれている。
唇にも同じように、紅が載せられている。
女性に年齢を訊くのは禁忌だと雛は教えられたので、大ばば様に歳を聞いたことはないが、二十代後半から四十代前半くらいまで、幅広い年齢に見える。
「大ばば様! お帰りなさい!」
雛は声を上げて立ち上がった。 その際、ぼとりと膝から神紅が落ちたが、神紅は妖なので痛くも痒くもないし、雛に噛みつくこともない。
これだけで、大ばば様は神紅のことを、安全な蛇さんだとわかってくれるだろう。
そう思い、雛は大ばば様に近寄ってにこにことしていたのだけれど、大ばば様はそうではなかったらしい。 背中に背負った荷物を下ろしながら、囲炉裏の傍でとぐろを巻き直している神紅を一瞥した。
その目があまりにも冷ややかで、雛はぎくりとする。
「…雛、それは何だ?」
大ばば様が、低く、雛に問うた。
ますます雛はぎくりとしたが、無理矢理に笑顔を浮かべる。
「あんまり可愛いから拾ってきちゃったの。 可愛くてお利口な蛇さんだよ」
「蛇に可愛いも利口もない。 蛇は蛇だ。 蛇のせいで死にかけたのを忘れたか? 雛」
雛はぐ、と言葉に詰まった。
しばし、値踏みをするように神紅を見下ろしていた大ばば様だったが、口を開く。
「…それ、ただの蛇ではないな」
「え」
疑問でも、確認でもなかった。
事実の、断言。
だから、雛も固まるほか何もできなかった。
その雛の目の前で、大ばば様は大仰に左手で両目の目頭を押さえる。
「…おばばは哀しいぞ…、雛。 いつからそんな隠し事をするような娘になったのか…」
大ばば様が泣いているように見えて、雛は白状した。
駄目なのだ、雛は命の恩人であり育ての親でもある、大ばば様に弱い。
もう、これは、本当に雛の刷り込みだ。
「っ…ごめんなさい、大ばば様! 蛇さんだと…っ、とっても可愛い蛇さんだと思って、一緒に暮らせたら嬉しいなって連れ帰ってきたら、蛇さんが男の人に変わって…!」
「雛、落ち着きなさい」
自分が何を話しているかもわからないままに、大ばば様に取り縋る雛の肩に、大ばば様がぽんと手を置いて微笑んでくれる。
微笑んだ大ばば様だったのだが、微笑みを消した顔を蛇さんの神紅へと向けて、冷たく言い放った。
「正体を顕せ、蛇」
神紅は、大ばば様のことを全く怖れてはいないようで、その紅のまん丸な目をきょとんとさせて、惚けたように赤くて長くて先の割れた下をちろちろと動かしている。
ああ、もう、とっても可愛い!!!
雛にもその顔を向けて欲しい! と雛が願っていると、神紅の顔が雛へと向いた。 神紅が小首を傾げるような動きをするものだから、雛がかくかくと首を上下に動かしていると、なぜか神紅が舌を引っ込めてしまう。
次の瞬間、神紅が変質する。
可愛くて可愛い蛇さんの姿から、ただの美青年の神紅へと。
なぜ、どうして、今その姿に戻ったの!?
雛が真っ青になって、音もなく口をぱくぱくとさせていると、大ばば様の冷ややかな目がすぅーっと雛へと向いた。
「雛、私のいないときに男を連れ込むなど、感心せぬ」
ああ、雛が悪いことになっている。
確かに、悪いのは雛かもしれないけれど、雛は男を連れ込んだわけではなく、可愛くて可愛い蛇さんを拾っただけだ!
「お、大ばば様っ…神紅はそういうのじゃなくてっ…」
雛が弁明をしようとすると、大ばば様の目が細められ、唇が歪められる。
「ほぉ」
低く応答した大ばば様が、本当に怖い。
雛が、これも幼い頃からの条件反射と刷り込みで震え上がっていると、くすくすと笑む音が耳に届いた。 雛が振り返ると、艶な美青年でしかない神紅が、胡座をかいて立てた片膝に、肘を置いている。 伸びた腕の先の指先の甲に顎が載せられる。
その艶な美貌は楽しげに笑っている。
「おかしなことになっているようだねぇ」
何が、おかしいというのだろう。
楽しげな光を宿した神紅の瞳は、雛には向いていない。 どこへ、と思い、その視線を辿っていけば、大ばば様がいて、雛は目を見張る。
楽しげな神紅の表情とは対照的に、大ばば様は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「お主に言われたくはない」
雛は、神紅と大ばば様の間で、顔を行きつ戻りつさせる。
神紅も大ばば様も、見つめ合ったままで互いから視線を外す気配がない。 外したら最後、噛みつかれるか喉元を裂かれるかと思っている風だ。
神紅は相変わらず余裕の表情で、大ばば様は険しい顔のまま。
息が詰まるような緊張感に、雛まで苦しくなってきた。
一瞬、大ばば様の視線が雛に流れ、大ばば様がハッとした表情になる。
そのすぐ後で大ばば様の眉間には皺が寄り、くっと顎をしゃくって扉の外を示した。
「…蛇の化身よ、表に出ろ」
○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●
黒みがかった青灰色の長い髪の美青年は目を閉じて正座をしていたが、すっと目を開いた。 切れ長の目は一重で、黒褐色の瞳をしている。
その存在は無言で、視線だけを流せば、ばたばたと騒々しい音を立てて、また別の存在が現われる。
突如現われた存在は、赤みがかった褐色の髪に、石榴石のような瞳をしている。 首にも腕にも木片や石で作った独特の装飾具をじゃらじゃらとつけており、硬くて少しごわついて見える髪は無造作に流されている。
野性味溢れる男性的な魅力を持った男は、愉しげに笑っていた。
「なぁな、お前が水神?」
「…いかにも」
黒みがかった青灰色の髪の美青年は、静かに頷いた。
それを聞けば、赤みがかった褐色の髪の男は、彼に詰め寄り、尋ねる。
「俺さ、人探してるんだけど、【雛】って十六くらいの娘知らない?」