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六.雛、譲歩する。

 それから毎日、神紅(しんく)は雛の後をついて回るようになった。 「水なら私の畑」、と言っていたように、神紅は水に何らかの影響力を与えることのできる(あやかし)らしい。


 洗濯物を籠に入れて出かけようとした雛を、神紅が止めたのは神紅が帰ってきた次の日のことだった。

「雛、まさかとは思うが、それで洗濯に行こうというのかい?」

「? 今までずっとそうしてきたよ?」


 何がそんなに問題なのか、と雛が疑問に思わずにはいられないくらい、神紅は微妙な顔をしている。

「ああ、それでこそ雛か…」

 呆れたような、感心したような声で呟きながら神紅が物置の方に行ったかと思えば、(たらい)を掴んで戻ってくる。

 そして、雛が抱えた籠の中の洗濯物を、ひょいひょいと盥に移し始めた。

 突然の神紅の行動に、雛が呆然と神紅の行動を見守っていると、神紅は盥を抱えて戸口に向かって歩き出す。


「え? 神紅」

「洗濯に行くのではなかったかい?」


 神紅の背中を追いかけて川に着くと、神紅は盥を置いてすっと右手を川の方に差し出した。

 そして、弧を描くように妙に優雅な所作で手を動かす。


 すると、川の水が同じように弧を描いて、盥の中に注がれるから、雛は驚きに目を釘付けにする。 まるで、虹が架かるように美しい光景だった。

 これが、噂に聞く【水芸】というものだろうか。


 すごい、すごい、と興奮する雛の目の前で、神紅は盥の中に注がれた水の上で掌を下にし、一周回すような動きをした。

「ほら、雛。 手を入れて御覧」

 勧められるままに、どきどきしながら盥の中に手を入れた雛は、ぱっと顔を上げる。 神紅を仰ぎ見た。

「あったかい…」


「真冬の寒さの中だからの錯覚だけれどね。 真夏に流れる川の水の温度と、大差ないよ」

「そうなんだ…」

 実は神紅ってすごいらしい、と思いながら、雛が洗濯に取りかかろうとすると、神紅が雛の手を盥から引き抜く。


「私は水の者だからねぇ。 水流を起こすことだって造作ないのだよ」

 よくわからないことを言った神紅の瞳孔が、また針のように細くなる。 ふわっと神紅を中心に風が吹いた。 と思えば、雛は自分の足下から水音のようなものが聞こえたので、視線を落とす。

 そこで、あり得ない光景を目の当たりにして、雛は声を上げた。

「え、ぇぇぇえぇ!?」


 盥の中の洗濯物が、ひとりでにぐるぐると回っているのだ。 それも、並の速さではなく、ずっと見ていたら目が回りそうで、雛は顔を上げてふるふると首を振った。

 神紅の目の瞳孔は未だ細いままで、雛は見慣れない神紅をじっと見るが、神紅は気にしていないようで濡れた雛の手を手巾でそっと拭ってくれる。


「こうして私がそなたの手伝いをすれば、そなたが痛い思いをする必要もなくなるかねぇ?」

 やはり、盥の中で水と洗濯物の回転を引き起こしてくれているのは、神紅だということか。

 こんなことができるなんて、すごい、と雛は感動の視線を神紅に向ける。 神紅は雛からの熱視線に気づいたようで、微笑を浮かべながら雛に問いかけてくる。


「雛、私は【善い妖】で【守り神】だろう?」


 昨日から、神紅はことある毎に雛にこの問いかけをする。

 神紅が、【善い妖】で【守り神】なのかはわからない。

 けれど、神紅が雛の傍にいるために、神紅なりに考えて行動してくれていることはわかる。


 神紅の目的は未だ不明のままだが、神紅の【雛の傍にいたい】という気持ちが偽りでないことは、神紅曰く【愚鈍】な雛にでもわかる。

 だから、雛は微笑んだ。

「…そうだね」


 そうすれば、神紅は針のような瞳孔の瞳を丸くした。

 雛が認めるとは思わなかったのだろう。

 その反応が幾らか心外で、それならば取り消してもいい、と言おうとしたのだが、できなかった。

 神紅の表情を見てしまったからだ。


 神紅はあの、春の雪融けのように温かく柔らかい笑みを浮かべていた。


 雛が、神紅の表情に目を奪われていると、神紅の手が雛に伸びてきて雛をぎゅっとその腕の中に閉じ込める。 そして、雛の頭にぐりぐりぐりと頭を擦りつけてきた。

 これは神紅の癖なのだろうか。


 昨日からやたらぐりぐりされて、雛は自分の頭が禿げないか心配だし、神紅のさらさらの髪がばらばらと散ってしまわないかも心配だ。

「神紅、苦しいし頭痛い」

 雛が神紅の身体を突っぱねるようにしながら、そのように言えば、神紅は細く息を吐いて雛を解放してくれる。 そして、黙々と、盥の水を川に戻し、また水を川から持ってきて回転させる、を繰り返して、盥を抱えた。

 どうやらあっという間に洗濯を終えてしまったようで、神紅はまた盥を持ってくれようとしているのだ。


「え、神紅、わたし自分で持てるよ?」

 雛が慌てて盥を受け取ろうとすると、神紅は雛の頭の天辺から足のつま先までを視線で一巡して、そっと首を振った。

「そんな、童のような(なり)で何を言うのかと思えば…。 もう一回り二回り大きくなってからそういうことは言うのだよ?」

「…わかった、ありがとう」

 わかりたくないけれどわかったと言ったし、素直な気持ちでありがとうを言えなかった。


 それが神紅に伝わったとも思えないのだが、神紅は笑う。

「雛は、本にかわゆいねぇ」



○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●



「どこかに出かけるのなら、私もついて行こうかねぇ」

 神紅のおかげで、常よりも時間をかけずに洗濯を終え、洗濯物を干し終えることもできた雛は、いそいそと出かける準備を始めたのだが、そこを神紅に見つかってぎくりとする。


 神紅は、雛が手に持っている箒に目を留めたらしい。 その綺麗な紅のお目目が丸くなる。

「…出かけるのではなく、掃除でもするのかい?」

「掃除をしに出かけるの」

 雛がさらりと応えると、神紅の表情が愕然としたものに変わる。

 何がそんなに衝撃なのか、と雛が焦ると、神紅が雛の肩をがしっと掴んだ。 艶な美貌に似合わず強いその力に、雛はまた驚く。


「雛、そなた、どこでそんな小間使いのような真似をしているんだい? 駄賃が欲しいのなら、私が」

「小間使いなんてしてない。 蛇神様のお社をきれいにしに行くだけだよ」

 雛が神紅の言を否定すると、神紅の目の瞳孔が、きゅっと針のように細くなった。


 雛は、その目すらも蛇さんの目で素敵だ、と思うのだが、何となく気づいている。

 神紅の目は、口ほどに――いや、口よりも雄弁に物を言うのだと。


「蛇神に祈るのなら、私に祈るがよいよ。 雛の願いなら何でも叶えてやろう。 私は、雛だけの守護神なのだから」

 微笑んではいるが、縦長の瞳孔になったその目との対比が何となく怖い。 それに、言葉を発する神紅の口からは、蛇さんの牙が覗いてはいなかっただろうか。

 雛は、蛇さん化しつつある神紅をじっと観察する。


「神紅は蛇神様が嫌いなの?」


「すぐ傍に私という雛の【守り神】がいるにも関わらず、蛇神などに祈る必要はないとは思ってはいるよ」

 妖と神様は仲が悪いのか、はたまた同じ【蛇】である蛇神様に、神紅が勝手に対抗意識を燃やしているだけなのか…。

 ここでなぜか雛は、神紅に嫌な思いはさせたくないな、と思った。


「じゃあ、蛇神様にも祈るけど、神紅にも祈る。 これならいい?」

 雛なりの、最大限の譲歩を、口にする。

 その提案を受け、神紅の目は丸くなり、縦長の瞳孔がふっと綻んだ。


 それと共に、神紅はやはり、綻ぶように笑うのだ。 まるで、仕方ないな、とでも言うかのように。

「…なるほど、二股をかけようというのか…。 人間は二股の生き物だから仕方ないにしても、雛がそんなだらしのない人間だったとは」

「違うからね!?」

 なんだかとんでもない誤解をされている!

 雛は否定をしたが、神紅の雛を見る目は生温かい。


 神紅に、雛が二股をかけるようなだらしのない人間だと思われるのは嫌だ。

 なぜか、そう思った。

「じゃあ、わかった。 蛇神様のお社には行かない」

「雛」

 神紅の表情が明るくなり、嬉しそうに笑むが、雛は完全に納得したわけではないのだ。


「だから、神紅。 蛇さんになって」


 雛が真っ直ぐに神紅を見ながら低く言えば、神紅は目を点にした。

「蛇さんになって。 わたしは蛇神様にお祈りしたいの。 だから、人型の神紅に祈るつもりはないの。 神紅、蛇さんになって」

 雛の本気を感じたのだろう。 神紅は肩を竦めた後で、あの白い鱗に覆われた体がとっても素敵で、紅いお目目がとっても綺麗な、可愛い可愛い蛇さんになってくれた。

 雛が歓喜し、興奮し、可愛い蛇さんを堪能しつつ拝み倒したのは言うまでもないだろう。


 その日、雛は、天候の悪い日以外で初めて、蛇神様のお社へのお参りをしなかったのだ。


 


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