五.雛、誤解を解こうとする。
神紅が姿を消した後の家は、がらんと静まり返っていて、雛は何となくひとりで家にいたくなくなった。
川へ行って寒さとかじかむ手に耐えながら、洗濯を終え、洗濯物を干す。
寒さで赤くなった手は、ひび割れてじんじんひりひりと痛むし、動かすのも儘ならない。 手を擦り合わせてもあまり温かくなった気がしないので、雛はそっと自分の首に手を当てる。
「っ」
あまりの冷たさに思わず息を呑む。 気休め程度ではあるが手が温かくなった気がした。
手をにぎにぎと動かしては、首に手をくっつける。
それを繰り返しながら、蛇神様のお社に向かう。
吐く息が白いのは、いつものこと。 自分の呼吸と、衣服の擦れる音、石段を踏みしめて登る足の音が聞こえる。
お社に向かう石段を数えてはいけない、とは大ばば様の教えで、雛は今もそれを忠実に守っているから、この石段が何段あるかは知らない。
その石段を登り切った雛は、鳥居をくぐる際に軽く一礼をする。
参道の端を歩いて、手水舎へ向かった。 右手で柄杓を取って水を汲み、その水を左手にかけて清める。
川の水と同じ真冬の水だというのに、お社の手水舎の水は、骨身に沁みないから不思議だ。
それどころか、お社の水はほのかに温かいような気すらする。 左手に柄杓を持ち替えて同じようにし、再び右手に柄杓を持って左手の平で水を受け止める。 その水で口を漱いだ後で、もう一度左手を清めた。
この作法も、大ばば様が雛に教えてくれたものだ。
お社の様子は、雛が幼い頃から変わらない。 ただ、雛が幼い頃より、空気が硬質な感じがするだけだ。
雛はお社に向かって軽く一礼をし、鈴を力強く鳴らした。 二拝二拍手一拝を行う。
そのときに、雛が願うことは、いつも同じだった。
――大ばば様と、ずっと一緒にいられますように。
けれど、この日はあの、白い鱗と紅いお目目がとっても可愛い蛇さんの姿が浮かんだ。
雛が必要としなくなれば、神紅は消える。
そんな、悲しい言葉も思い出してしまった雛は、いつもとは異なる願いを浮かべた。
――神紅が、どこかで幸せに生きてくれますように。
自己満足と言われようが、構わない。
雛はすっきりとした気持ちで、鳥居の下で軽く一礼をして、石段を下り始めた。
雛は、昨日も歩いた道をひとり歩く。
そして、ふと気づいて、足を止めた。 あの枯葉の山は、昨日雛が神紅を見つけた場所ではないだろうか。
なんだか、もっとずっと前のことのような気がするが、雛が神紅を見つけたのは、まだ昨日の話だったのか。
一昨日の朝、大ばば様が町に出かけた。
それ以前にも、大ばば様が出かけて雛がひとり留守番をすることは少なくなかった。 ひとりで待つことなど、慣れているはずなのに、どうして今、誰もいない家に帰る足が、こんなに重いのだろう。
足が重くて、亀の歩みになろうとも、着実に家は近づいてくる。
足だけでなく、腕も重いし、気も重い。 それでも雛は、がたがたと音を立てながら戸を開ける。 すると――…。
「遅かったねぇ、雛」
聞こえた、詠うような声に、雛は驚いて家の中を見る。 そうすれば、囲炉裏の傍に神紅が座ってすっかりと寛いでいた。
「おかえり、雛。 そなたは帰宅の辞も言えぬのかい?」
「ただいま戻りました…」
微笑んだ神紅に言われるものだから、うっかりと返した雛はハッと我に返る。
「じゃなくて、なんで神紅がここにいるの?」
「雛、戸を閉めてこちらへ来るが良いよ。 寒いだろう?」
まるで家主のように語る神紅の言葉に、なぜだか逆らえなくて、雛は戸をがたがたと閉めて家に上がって囲炉裏の傍に寄った。
確かに、神紅が火を絶やさずにいてくれたおかげで、家の中は温かかった。 それに。
雛はちら、と傍らで寛ぐ神紅を見た。
神紅が、いる。
しかも、今朝の浴衣みたいな軽装ではなく、肌襦袢や長襦袢などを重ね着し、羽織まで身につけている。
雛が神紅を見ていることに気づいたらしく、神紅の紅い綺麗な目も、雛に向く。 そして、嬉しそうに細められた。
「うん? 私がいなくて、寂しかった顔だね?」
「寂しくなんてないよ!」
笑む神紅に、自意識過剰だ! と雛は声を上げる。
「雛は照れ屋なのだね? 隠す必要などどこにも全くなかろうに」
気がつけば、神紅にぎゅっと捕獲されて、ぐりぐりと頭に頭を擦りつけられていた。 蛇さんの神紅であれば、ぎゅっとしようがされようが、全然嫌ではないし困らない。
だが、艶な美貌の、人の姿の神紅となると、話は別だ。
雛は、渾身の力で神紅から逃れようともがき、悲鳴を上げた。
「やだ! 赤ちゃん出来ちゃう!」
途端、神紅の目が点になる。
「………やや子?」
雛の精一杯の抵抗にも、神紅はびくともしない。 さすが妖。
ひとしきり暴れ、さすがに疲れた雛が一息ついていると、神紅が艶な美貌に艶な微笑を浮かべて、雛を見下ろしていた。
「…何をどうしたらやや子が出来ると?」
実に愉しげなその様子に、馬鹿にされている気がして、雛は憤慨する。
「大ばば様が、男の人に触られたら赤ちゃんが出来るって言ってたもん!」
大ばば様が雛に嘘をつくはずがない、と主張する雛に対し、神紅は綺麗な目を細めて楽しそうに頷いている。
「…そうか、雛はやや子の作り方も知らぬのだねぇ」
納得し、感心したような神紅の様子に、雛は目をしぱしぱとさせる。
「…違うの?」
大ばば様は雛に嘘をつかないと思っていたのだが、実は違ったのだろうか、と不安が胸に満ちる。
それが、表情や声に表れていたのだろうか。 神紅の目が優しくなった。
「間違いではないが、間違いでないとも言いきれぬか。 触れねばやや子は出来ぬ。 その点でそなたの【大ばば】の言葉は間違いではないけれども」
一度言葉を切った神紅は、雛の顔を覗き込むように首を傾ける。
神紅が雛の身体に腕を回したまま、雛の腰の辺りで手を重ねているので、目と鼻の先に傾けられた神紅の顔が来た。
「どうやってやや子を成すか、知りたくはないかい?」
本当に、綺麗な顔で、綺麗なお目目だ。
吸い込まれそうな錯覚に陥りそうになる。
神紅は、雛が今までに出逢った蛇さんの中でも特別に可愛い蛇さんなので、その辺は当たり前ではあるのだが。
そう考えた雛は、あることに気がついた。
「よく考えたら神紅は人間じゃないもの。 赤ちゃん出来ないでしょう?」
神紅の正体は、可愛い可愛い蛇さんなのだ。 蛇さんと人間で赤ちゃんが出来たという話は聞かない。
赤ちゃんが出来ないのなら何も問題はない。 もう一度言うが、神紅の正体は可愛い可愛い蛇さん。 幾らでもぎゅっとするがよい。
開き直って一切の抵抗を止めた雛の耳に、くすくすと笑う声が聞こえて、雛は視線を上げる。
「相も変わらずかわゆいな、雛。 どうして異種間でやや子が成せないと考えるんだい?」
「成せるの?」
雛が目を丸くすると、神紅は艶な笑みを浮かべる。
「何事も、試してみなければ、わからないとは思わぬかい?」
神紅の言が本気か冗談かわからない。
だが、ここで否定せずに「では試してみようか」と言われるのも怖くて、雛はふるふるふるふると首がもげそうなくらいに首を横に振る。
怯える雛を前にして、どうしてその反応なのかもわからないが、神紅は微笑む。
神紅の瞳孔がきゅっと針のように細くなり、次の瞬間には花が綻ぶように膨らんだ。
「ふふ、本に雛はかわゆい…。 安心するが良いよ、雛。 私はそなたの意に反することはできぬようになっている。 雛の下僕ゆえ」
なぜ、【下僕】という言葉を、そんなに嬉しそうに語れるのかがわからない。
それ以前に、雛は神紅を下僕認定した覚えはない。 【善い妖】で【守り神】の証明はしてほしいと言ったが、それはすなわち【下僕】ではないはずだ。
そんなことを考えている雛の頭に、神紅の頭がぐりぐりと擦りつけられる。
「雛は幾つになったんだい? 私は雛の発育具合も心配なのよ。 こんな、童のような形をして」
童のような形とは、言ってくれるではないか。
雛は大ばば様から十五だと言われているが、それを神紅に言ったらまた馬鹿にされつつ心配されそうなので、黙秘を貫く。
雛が眉間に皺を寄せて口を引き結んでいるのに気づいたらしい神紅が、雛を解放する。
そして、保存食が保管してある場所の戸を開いて、その向こうに消えた。
と思ったら、手に何かを掴んで戻ってくる。 どうして食料の保存庫を知っているのか、という疑問は、神紅が手に持っているものを目にしたら吹き飛んでしまった。
「これでも食して、頭と身体に栄養を回すが良いよ」
そう、神紅が雛に差し出したのは、野兎だった。
まさかの贈り物というかお土産に、雛は息絶えて神紅に耳をむんずと掴まれている野兎と神紅を、交互に見比べてしまう。
「…狩ってきてくれたの?」
「雛のお頭の具合が心配だったからねぇ。 私は雛に貢ぎ物をする、【善い妖】だろう?」
本日の戦利品を、神紅はにこにこと自慢げに雛に示す。
まさかとは思うが、これが神紅の【善い妖】の証明なのだろうか。
こんなもので釣られる雛と思うな、と言いたいけれど、目の前にご馳走の材料をぶら下げられては抗えなかった。 何を隠そう、雛は兎が好物だ。
「ご馳走様です、ありがとう」
悔しいながらも雛がお礼を言えば、神紅は、くすくすと笑いながら、保存庫に兎を戻しにいった。
今夜はあの兎で何を作ろう、と考える雛の耳に、問う声が聞こえる。
「雛は兎が好きかい?」
「兎も好きだし、鳥も好きだよ。 大ばば様が、兎や鳥を仕留めるのが上手なの。 わたしは魚釣りが得意」
雛がきらきらと顔面を輝かせて好物の話をすると、神紅はふっと笑った。
「…雛は共食いをするんだねぇ」
なぜ、共食い? としばし考えて、思い至る。
どうやら神紅は、雛の名前と、雛の好物をからかっているらしい、と。
「………わたし、鳥じゃないんだけど」
「似たようなものだろうに」
若干機嫌を損ねながら、雛は控えめに主張したのだが、神紅は目を伏せるようにして笑みながら自らの袖口にすっと手を差し入れる。
「それから、これもそなたに土産だよ」
袖から手を抜いた神紅の手には、何かが握られているようだが、それが何だかわからない。
「なに?」
雛が不思議に思いながらも手を差し出すも、神紅はそれを渡してはくれずに、自らパカリとそれを開けた。
神紅の掌の上には、若干黄みがかった軟膏のようなものが入った黒くて丸い容器が載っていた。
神紅はその得体の知れないものを右手の指先に掬ったかと思うと、器用に蓋を閉めて雛が差し出した右手に握らせる。 雛の手には少し余るくらいの大きさのそれは、蓋には桜のような花が描かれていてとても可愛らしい。
そんなことを思っていると、神紅はそっと雛の左手を取ってそのよくわからないものを塗り込んでいく。
「手の荒れに効く薬だよ。 こうやってよく肌に刷り込むのだけれど…右手も出して御覧?」
どうやら、神紅は雛が手のがさがさを気にしていたことを覚えていてくれて、これを用意してきてくれたらしい。
その気持ちが有り難くて、雛は神紅に言われるまま、もらった薬を左手に持ち替え、右手を差し出す。 神紅は、左手にしてくれたように右手にも薬を塗り込んでくれている。
神紅が熱心に薬を塗り込んでくれているのを見ていると、段々と有り難いよりも申し訳ない気持ちが大きくなっていって、雛は神紅を見上げた。
「でも、わたしたくさん水使うし」
手ががさがさになったり、ひび割れたりする原因が、水仕事や畑仕事にあることはわかっているのだ。 だから、神紅が薬を塗ってくれて、気を遣ってくれたところで、治る見込みはどれくらいあるだろう。
雛の言葉に神紅は、なるほどと頷いて、微笑んだ。
「水が悪さをするのなら、私の畑だ。 私が雛の手を守ってやろう。 ねぇ、雛、私は雛の【守り神】でもあるだろう?」
水が神紅の畑? と雛は首を傾げたのだが、ふと思い出した。
蛇神様は水神様でもあるのだった。 ということは、妖であっても蛇さんの神紅は、幾らか水に影響力があるのかもしれない。
けれど、そこで神紅が恩着せがましく、雛の手を守ってやろう、というのはいかがなものだろう。 止めとばかりに雛の【守り神】だと主張してくるところも、あざとい。
雛にしては俊敏と思われる動きで、神紅の手からシュッと自分の手を抜き取る。 雛は神紅から距離を置いて、じとりと神紅を見た。
「…わたしを太らせて、手荒れもきれいにしたところで丸呑みにするつもりじゃないよね…?」
もしかすると、神紅にとって雛の手のざらざらがさがさは、雛にとっての喉に刺さる魚の小骨のようなものなのかもしれない。
あれが地味に痛くて嫌なものであることは、雛もよく知っている。
「人聞きが悪いねぇ、雛。 そんなつもりは全くないよ?」
「じゃあ、何が狙いなの?」
「雛が、私が【善い妖】で【守り神】であることを証明するように言ったのだろう?」
何もおかしなことはないだろう、と愉快そうに笑っている神紅だが、信用してもいいものかどうかと、雛は神紅の観察を続ける。
そうすれば、神紅がぐるりと首を巡らせて、家の中を確認したようだった。
「こうして改めて見ると、鶏小屋のようだねぇ」
何が鶏小屋だ。 気に入らないなら出ていくがよい、と雛が口を開きかけたとき、神紅の目がある一点で留まった。
「小さな鶏小屋に、似つかわしくないものがあるねぇ」
神紅の足が、開け放している隣室へと向いた。 正確には、開け放した戸から見える装置を気にしたらしかった。
「これはがらくたかい?」
雛を振り返って問う神紅に、雛は意外な思いで応じる。
「神紅は機織り機を知らないの?」
「知ってはいるけれど、用をなさないものならば、がらくたと呼んで差し支えないだろう?」
どうして、機織り機が用をなさないという話になっているのだろう。
神紅の言っていることがわからなくて、雛は反論する。
「がらくたじゃないよ。 今は糸がないから織れないけど、ついこの間まできちんと使ってたもん」
神紅にとっては雛の言葉が意外だったようで、その綺麗な紅の目が丸くなった。
「雛が使うものだったとは…。 人は見かけによらないとは、よく言ったものだねぇ」
…思うのだが、神紅はどこか雛を下に見ているというか、雛を過小評価していることが多くないだろうか。
「大ばば様が、わたしの織った反物を売りに行ってくれてるの。 わたしが織った布を売って、食料と糸を買って、注文を取り付けてきてくれるの」
そうやって、雛と大ばば様は生計を立てているのだ。
雛の説明に、神紅は得心がいったようだった。
「ああ、なるほどねぇ。 それでその、大ばばとやらは姿が見えないのだねぇ」
うんうんと頷いていた神紅だったが、何かに気づいたようでぴたりと動きを止めた。 そして、雛を見たのだが、どこか躊躇った様子で口を開く。
「そう言えば雛、私は【鶴の恩返し】という話を知っているのだけれど、そなたまさか、鶴の雛ではなかろうね?」
神妙な顔の神紅が本気だということは薄々知れたが、雛はもはや、反論するのも面倒になってしまった。
いい加減、鳥から離れてほしいものだ。




