四.雛、試練を与える。
あの可愛い蛇さんの皮を手に入れられないのは残念だが、ないものを惜しんでも仕方がない。
雛は、早々に思考を切替える。
切替えが早いことが雛の長所だと、大ばば様も言ってくれている。
「じゃあ、今度神紅が脱皮した時は、その皮をわたしにちょうだい?」
次の機会を逃してなるものかと、雛は神紅に取り縋った。
今が駄目なら次だ!
けれど、神紅といえば、雛の必死さなど柳に風のようなもので、どこか別のところを見ながら緩く首を揺らしている。
「…もう、私が脱皮することはないと思うがねぇ…」
そんな!
雛は悲しみとがっかりをこれでもかというくらいに表情に出したと思うのだが、神紅の反応は素っ気ない。
ばかりか、脱皮の話から脱線しようとしている。
「だが、雛。 そのように言うということは、期待をするけれどいいのかい?」
鮮やかな紅の綺麗な目が、試すように――あるいは、値踏みするように、だろうか――雛を映す。
居心地が悪い、と思いながらも、雛は問い返した。
「期待?」
神紅は、にこりと麗しいばかりの笑みを雛に見せる。
「私を雛の傍に置いてくれるつもりなのだと受け止めるけれど、いいのかい?」
麗しいばかりの笑みなのだが、それは雛の目には作り物のように映る。
だけではなく、笑っているのに、独特の威圧感のようなものが漂っているような気がする。
置かない、とただそれだけの言葉が出てこないので、雛は苦し紛れにこう言った。
「………蛇さんの神紅なら置いてもいいけど、悪い妖は大ばば様に退治されちゃうよ」
神紅はその目を数度瞬かせた後で、納得したように頷いた。
「なるほどねぇ。 その、大ばばとやらと勝負をして勝てば、雛は私を傍に置くということか」
「言ってない!」
どこをどうしたらそうなる!
雛が電光石火の速さで打ち消すと、神紅は困ったように肩を竦める。
「雛は難しいねぇ。 何がどうなれば私を傍に置く気になるんだい? 私は雛を守る善い妖だと言っているというに」
「守るって何から?」
生まれてこの方、そんなに危険な目に遭ったことはない。
遭ったとしても、大ばば様がいてくれるから、怖いものなしだった。
神紅は腕を組んで、ふむ、と考えるような様子になる。
「…雛の想像も及ばないような危険、だろうかねぇ」
具体的でない上に、その返答は雛を馬鹿にしてはいないだろうか。
何はともあれ、雛とて神紅が善い妖であるという確証はほしい。
確証があれば、可愛い蛇さんの神紅を家に置くのも悪いことではないはずだ。
蛇嫌いな大ばば様の説得さえできれば、雛が蛇さんに癒やされる、幸せな日々が待っている。
ということは、最優先事項は、この得体の知れない妖が、善いものなのか悪いものなのかはっきりさせることだ。 そう、雛は結論づけ、すくっと立ち上がり、声を上げた。
「じゃあ、神紅がわたしを傷つけない善い妖で守り神って証明して!」
特段、おかしなことを言ったとは思わないのだが、なぜか神紅は紅の目を瞠った。
驚きのため、だろうか。
神紅の瞳の瞳孔が、きゅっと縦長になり、それからまた膨らんで丸くなった。
い、今のは超蛇さんの目ではないか!
神紅は丸いお目目の蛇さんなのだと思い込んでいたのだが、そんな目もできるだなんて!
神紅、そんな目もできることを、どうして今まで隠していたのだ、と雛は鼻息を荒くする。
雛が内心の興奮を隠せずに、食い入るように神紅の瞳を見つめていると、神紅の瞳も雛に向いた。
神紅も、のそり、と立ち上がって、雛との距離を詰めた。
「…守り神、と言ったのかい?」
距離が近い、と言いたかったが、呆然とした様子の神紅に、雛は口を噤んだ。
どうやら、雛が口にした言葉が、神紅には引っかかっているらしい。
神紅は神紅のことを【善い妖】と言ったのだから、【守り神】という表現がおかしいということは、雛でも何となくだが、わかる。
けれど、雛が【守り神】と言ったのには、雛なりの理由があるのだ。
「守り妖って言わないでしょう?」
雛なりの理由をささやかに主張してはみたものの…何か別のことに納得したようにうんうんと頷いている神紅の耳には、届いているのかいないのか。
「ああ…これを天命と言わずに何と言う?」
神紅はうっとりとした表情になって、まるで詠うように言葉を紡ぐ。
雛は歌詠みや唄い人と会ったことはないが、神紅の声はそれらの人間にも匹敵するのではないかというくらいに、きれいだ。
「…守り神。 私は雛の、雛だけの、守り神。 ああ、とても佳い響きだねぇ」
そう語ったきり、目を伏せて神紅は動かなくなってしまう。
まさか、また冬眠状態にでもなったのだろうか。
はらはらしたものの、この隙を逃す手はないと、雛はそろりそろりと二歩三歩と後退る。 目を閉じている神紅には、きっと気付かれていないはずだ。
しばし目を伏せて、何かに浸っていた神紅だったが、急にぱかっと目を開いて雛に視線を向けるから、雛はびくりとする。
先程までの静けさは何だったのか、再度、神紅は滔々と語り始める。
「雛が私に名を与えた。 誰かに、何かに望まれることで、我らは力を手にするんだよ。 私がこの姿に戻れたのは、雛が私を求めたから」
いきなり、よくわからない話が始まった。
神紅の語る言葉は難しくて、雛の頭では前後の繋がりが読めないことも多い。
雛は、神紅の発言内容を、一生懸命に考える。
その中で、ひとつ思い至ったことを、雛はぽろりと口に出す。
「それはつまり、わたしが、神紅を必要としなくなれば、神紅が消えるっていうこと?」
ぴくり、と神紅の長い睫毛に縁取られた瞼が震えた。
かと思えば、その切れ長の綺麗な瞳がすっと細められる。
もしや、今の雛の発言は、言ってはならないことだったのだろうか、と思うも、後の祭りだ。
「ふふ、その時は祟り神になっても良いかもしれぬ」
艶なばかりの微笑み、のはずなのに、なぜかそのとき、雛は気付いてしまった。
神紅の瞳孔が針のように細くなっていたのだ。
その瞬間に、艶なばかりの微笑みが、背筋も凍らせるような微笑みに変わる。
瞬き一つの間に、先程三歩後退って取ったはずの距離も詰められていて、雛は震え上がるしかない。
その雛の頬に、ひたり、と女の人みたいに綺麗な、白くて温度のない神紅の手が触れた。
見下ろす紅の瞳は、いつも通りの神紅で、雛はそのことにのみほっとする。
「愚かしくも優しい雛よ。 諦めた方が利口だ。 そなたが私に名を授けた時点で、私とそなたには縁ができている。 自分で言うのも何だけれど、私はしつこいよ? 先に折れた方が余計な労力を遣わずに済む分、楽だ」
ほっとして聞くような内容ではない、ということを、雛は早々に悟る。
今のは、逃れる術はないから、諦めた方が身のためだ、という脅しで間違いないだろうか。
ぞぞぉっ…と背中を駆け抜けた悪寒に気づかぬふりをしたかったが、できなかった。
これを、【悪い妖】と言わずに何と言えばいいのか!
涙目になってぴるぴると震える雛の様子に満足したのか、神紅は朗らかに笑んで、ぱっと雛の頬から手を離す。
「では、私が【善い妖】で、雛の【守り神】であることを、証明しに出かけるとしようかねぇ」
なぜか上機嫌で、鼻歌でも歌いそうな軽い足取りの神紅が引き戸の向こうに消えるのを見届けて、雛はへなへなとその場に崩れ落ちた。
とりあえず、一難去ったということはわかる。
雛は手を合わせて、必死にお祈りをした。
怖い妖の神紅が、このまま戻ってきませんように。 可愛い蛇さんの神紅なら、大歓迎です、と。
そして、お祈りをしながら、ふと考える。
神紅は、雛の「それはつまり、わたしが、神紅を必要としなくなれば、神紅が消えるっていうこと?」という発言に、是とも否とも言わなかったが、あれは是ということでよかったのだろうか。
雛が必要としなくなれば、神紅は消える。
そう思えば、胸が痛くなるような気がして、雛は再度手を合わせる。
怖い妖の神紅には戻ってこなくてもいいけれど、どうか消えないでいてください、と。