三.雛、危険を回避する。
雛は、すーっと目を閉じた。
…とりあえず、落ち着こう。
身に危険が差し迫ったときほど、冷静な判断が求められるのだと、大ばば様が言っていた。
そこで、雛はハッとして目を開く。
そうだ。 美味しい朝ご飯を食べれば、頭が働いて考えが冴えるかもしれない。
お鍋の中のお粥がぐつぐつと煮立ってきたので、雛は鍋敷きに鍋を移してお椀にお粥をよそう。
そこでちら、と雛が傍らの神紅を見れば、神紅も興味深げにお椀の中身を見ているのに気づいた。
「神紅も食べる?」
お腹がいっぱいになれば、雛を丸呑みすることを忘れてくれるかもしれない、と思ったので聞いた。
美味しいよ、と勧める雛を一瞥した神紅の薄い唇から、煩悶とした吐息と共に言葉が漏れる。
「雛…。 そのようなものばかり食しているから、頭にまで栄養が回らずにお頭が弱いのではないかい?」
神紅の案じるような表情に騙されそうになるが、それなりにひどいことを言われているのではないだろうか。
けれど、神紅に悪気がないこともわかる。 ということは、純粋にそして本気で、雛のことを心配しているのか…それはそれで複雑だ。
「後ろの畑で一生懸命育てた野菜は栄養満点だもん、いただきます!」
パンっと手を合わせた雛は傍らの神紅を意識の外に追いやって、黙々と食事を進める。
温かいご飯に、体がぽかぽかと温まって、ほかほかしてきた。 お粥に入れた生姜が効いているのだろう。
雛は、美味しいご飯を終えたところで、ちらりと傍らの神紅を見る。
神紅はじーっと雛の食事の様子を見ていたらしい。
雛が食事を終えたら自分は雛を食べるつもりなのではないだろうか。
しまった、朝ご飯で頭を冴えさせよう作戦は失敗だった。
神紅の食欲を煽っただけで、雛の頭の回転が良くなったわけでもない。
どうやら雛は、可愛い可愛い蛇さんだと思い込んで、得体の知れない妖を家に招き入れてしまったらしい。
この世界には、妖が存在する。 だから、雛は同じように、神様を存在すると信じられるのだ。
妖には、人を騙して傷つけたり、食べたりする悪い妖もいるらしい。
何度か、大ばば様が「悪い妖がいるから、雛は出てくるんじゃないよ」と言って家の外に出て行ったこともある。
大ばば様は、神職に就いていたことがあるのか、大抵の悪い妖は大ばば様を怖がって、この家には近づかない。
雛にも、神職の血が流れている、と大ばば様は言っていた。
毎日熱心に蛇神様に参拝する雛には、蛇神様の加護があるのかもしれないね、とも。
実際に、雛は善い妖を目にしたことは何度もある。
身近なところで言うと、木霊あたりだろうか。
木霊は、雛を仲間とでも思っているのか、山の幸を雛のところに届けてくれる。 ばかりでなく、家の裏の畑に種を蒔いていってくれたり、手入れを手伝ったりもしてくれている。
雛は現在、大ばば様と二人で、人里離れた森というか山の中で、人目を忍ぶように暮らしている。 これも、雛が幼い時分に蛇さんに噛まれて魘されたときの影響だ。
もともと、雛はその里の生まれではなく、大ばば様に連れられてきた余所者、だったらしい。
その余所者の子どもが、蛇に噛まれて生死の境を彷徨っている――…。
雛は蛇神様の怒りを買ったのだと言われて、里の唯一の医者は雛を診てくれなかった。
感染する病かもしれないと、里長に出ていくように言われて、大ばば様は魘される雛を抱えて里を出たのだ。
蛇神様の加護なのか、雛は奇跡的に持ち直し、それから一層蛇神様を敬い、崇め、奉るようになった。
そしてあの日から、ここが、雛と大ばば様の城で都だ。
ふふふ、と雛がにやけていると、むに、と頬っぺたがつままれた。
「!? い、いひゃい…」
「目の前に私がいるというのに別のことに想いを馳せるなど、雛は薄情なことよのぅ…」
にっこりと微笑んだ神紅の顔がなぜだか怖くて、雛はつままれた頬っぺたの痛みなど忘れて、震えあがった。
違う違う、そんなことはないと雛は高速で首を横に振る。
そうすれば、神紅はつまんでいた頬をぱっと放して、雛の頬を冷えた指先でなでなでと撫でる。
「そうかそうか、私のことで頭がいっぱいとは、愛い奴よ。 雛の頬は柔らかくて美味しそうだものねぇ…」
雛の怯える様に満足したらしく、神紅はうっとりと雛を見つめている。 そんなに雛の頬は美味しそうに見えているのか。 よもや、ほっぺたをちぎって食べたりはしないだろうな。
思わず硬直していた雛だったが、急にうっとりと雛の頬を撫で続ける神紅の指先の冷たさが気になった。
気になったら触らずにはおれなくて、雛は神紅の指先に触れる。
神紅が蛇で人間だから、なのだろうか。
抱きかかえられているときにも思ったが、本当に神紅は体温が低いらしい。
ほとんど無意識で、雛は神紅の冷たい手を擦る。
神紅の手は、指がすらりと長くて、すべすべでとても綺麗だ。
白魚の手、とはこういう手を言うのだろうか、と思いながら熱心に擦る。
少しでも温まってくれたらいい、と思って擦っていたのだけれど、雛はそこで、自分の手が荒れていてがさがさなことに気づく。
こんなに荒れた手で、神紅の綺麗な手を傷つけてしまっては大変だ。 擦っている今だって、もしかするとがさがさが肌に擦れて痛いと思っているかもしれない。
雛は熱心に擦っていた手を止めるも、不自然にならないようにと注意しながら、問いを口にする。
「少しは、温かくなった?」
ぱっと顔を上げて雛が神紅に放った問いに、神紅は春の雪融けのように温かく柔らかい笑みを見せる。
雪が融けて流れる水に、真っ赤な椿が浮かんでいる情景が、ふっと浮かんだ。
「…そうだねぇ、雛が私に向ける想いは温かい。 雛は本に温い。…ありがとう」
言った神紅は、その綺麗な手で、がさがさに荒れている雛の手をそっと握る。
だから、雛は慌てた。
「神紅の手が痛いよ。 私の手、がさがさだから」
引き抜こうとした手は、しっかりと神紅の手に握られていて、引き抜くことは叶わなかった。
「ふふ、愚かで優しい雛。 そなたの優しい手が私を傷つけるなど、ありえぬよ」
にこにこと雪融けのような笑みを浮かべた神紅が、なでなでと雛のがさがさの手を撫でる。
こんなに綺麗な手の男性に、がさがさの手を撫でられるのなんて、恥ずかしくて辛い。
羞恥に顔を赤くしていると、ふっと神紅が笑う気配がした。
やはり、雛の手の荒れ具合を笑ったのだろうか、と思うが、ふっと雛の上に影が落ちる。
目に何かが近づくので、思わず雛が瞼を閉じると、睫毛というか瞼に優しく柔らかい感触がする。
「雛は本にかわゆい…。 そなたが恥じる必要も泣く必要もどこにもないというに」
その柔らかい感触が何かはわからなかったけれど、ぎゅうう、と抱きしめられてぐりぐりぐりと頭に頭が擦りつけられているのはわかる。
どうやら、頭から丸呑みにされる危険からは回避できたらしい。
ぐりぐりぐりをしているのが神紅だと思うと全く萌えないが、蛇さんだと思うと、可愛くてにまにまが止まらない。
あの可愛い蛇さんが雛にぎゅうと巻き付いてぐりぐりぐりと白くて可愛い頭を擦りつけていると思うだけで幸せだ。
そこで雛はハッと閃いた。
「神紅がわたしのものなら、わたしがお願いしたらあの可愛い蛇さんの姿になってくれるの?」
そして、蛇さんの姿で同じことをしてほしい!
期待にきらきらと顔を輝かせて、雛は艶でしかない神紅の顔を見上げたのだが、神紅は目を細めて笑むばかり。 その笑みが腹に一物抱えている者が浮かべるもののように見えるのは雛が疑心暗鬼になっているからだろうか。
「雛が望むのならそれも一興ではあるけれど、あの姿はそなたの好みであるだけで、何の役にも立たぬからねぇ」
「わたしの役に立ってるよ!?」
心外だ! と雛は声を上げた。
あの鱗のきめ細やかさとかにょろにょろな曲線美とか、丸くてくりっとした綺麗な瞳も全てが雛の癒しで潤いだというのに、何を言うのか!
にこにこと笑んだ神紅は、今度は宥めるように雛の頭を枕にするようにこてんと頬を寄せた。
「そうかそうか。 でもねぇ、雛。 蛇の私はそなたのために火を熾すこともできなければ、そなたを守ることもできぬのだよ。 私はそんな役立たずの私を容認はできぬのでねぇ」
「守る?」
何気なく、神紅が語った言葉が気になって、雛は頭を後方にぐっと反らして神紅の頭から逃げた。 もちろん、体は拘束されたままではあるが。
雛が問い返した言葉に、神紅も軽く目を見張って、驚いたような表情をしていた。
まるで、そのとき初めてそのことに気づいたとでも言うように、驚きをわずかだが引きずったままの表情で、神紅は二・三度頷いた。
「…ああ、そうだねぇ。 うん、きっとそうなのだねぇ。 私はきっと、そなたを守るために、脱皮をしたのだろうねぇ」
「脱皮!? その皮はどこにあるの!?」
あの可愛い蛇さんの脱皮した皮なんて、そんなの欲しいに決まっている!
場所を教えたが最後、駆け出していきそうな雛に気づいたのだろうか。
神紅はまた、何か意味ありげでありながら艶な微笑を刷くのだ。
「私が私になるために置いてきたものだから、探しに行っても無駄よ、雛」
雛に、自分が脱皮した皮を持たれるのが嫌なら嫌とはっきり言えばいいのに、と機嫌を損ねる雛なのであった。
蛇さんの脱皮した皮なんて手にした日には、一日に三度拝める自信はある。