二.雛、謎の存在を検証する。
目の前の存在を分析し、その正体について考えていた雛だが、はっとする。
そうだ、雛はお布団の中で寝ていたのではないか。
「ゆ…夢…? あ、ああ、そっか、夢かぁ」
ぬくぬくなお布団の誘惑に負けて、どうやら雛はまだ寝ているらしい。
だって、どうしてこんな美人さんが、雛の家にいるのかわからない。
とりあえず目を閉じて、この夢から覚めるように頑張ってみよう。
これは夢だから、なんとしても起きなければ。
眉間に皺を寄せて、むむむ、と頑張る雛の近くで、驚くほどの艶を纏った音が揺れた。
「どうして夢だと思うんだい?」
「っひゃぁ、つめたっ…」
ぴとり、と首に冷たい何かが触れて、雛は小さく跳ねる。
反射で目を開くも、眼前には艶やかな美貌が迫っていて、硬直するしかない。
「そう、寒いのだよ。 だから、私を暖めてくれるだろう? 私はそなたのものだし、そなたには私をそなたのものにした責任があるとは思わぬかい?」
女性のように艶やかで美しいのに、緩く合わせた袂から覗く胸が真っ平なので、この存在はきっと青年なのだろうと雛は判断する。
けれど、その艶な美貌の青年が、どうして起き掛けの雛の家にいて、どうしてこんなふうに雛の頬を包み込んでいるのかわからない。
更に言うのであれば、どうして私のものとかそなたのものとか言っているのかもわからない。
もうひとつ付け加えるのなら、寒いのはきっと、その浴衣かと思うくらいの軽装のせいでもあると思う。
応じない雛に少々焦れたのか、青年は言葉を続けた。
「昨夜、そなたは私に、名をくれたじゃないか?」
昨夜、雛は、誰に名を与えたか?
雛の頭の中に、ぽんっと浮かんだのは、真っ白な鱗に覆われた細長い体がとっても素敵で、紅の真ん丸なお目目がとっても可愛い、蛇さん。
雛は、囲炉裏の近くに置いておいたはずの籠に視線を走らせる。
籠はころんと転がっており、その中身が空になっているのがわかった。
雛は、信じられない気持ちのままで、視線を目の前の青年に移す。
雛の視線の動きには気づいているだろうに、青年は無言のままだ。
むしろ、何となくだが、雛の反応を楽しんでいる風にも見える。
まさか。 そんなことはありえない。 ありえないはずだけれども。
雛は、一度ごくり、と口の中に溜まった唾液を飲み込んだ。
そして、もう一呼吸置いて、問う。
「…神紅?」
昨夜、雛が拾った蛇に付けた名前。
それを雛が口にすれば、目の前で表情を載せずにいた美貌が、綻ぶ。
「見た目ほど愚鈍というわけではなさそうで安心したよ」
毒を吐かれていることはわかったが、青年――神紅の表情があまりに嬉しそうだったものだから、馬鹿にされているという意識にはならなかった。
いや、正確には、そんなことを口にする余裕がなかっただけなのかもしれない。
だって、あの可愛くて可愛くて可愛い蛇さんが、どうして艶やかな美貌の青年に変わるというのか。
全く可愛くないではないか!
喜ぶ青年が、雛の頬から手を放した瞬間に、雛は再度雛の巣に逃げ込む。
つまりは、ぬくぬくのお布団を被って現実から逃避することにしたのである。
「っ…やっぱり、絶対、これは夢!!! 可愛い可愛い蛇さんはどこ!!?」
けれど、雛の現実逃避は長くは続かなかった。
「ほら、そなたの可愛い可愛い蛇さんは私だよ」
そう、楽しそうに言葉を紡ぐ青年に、またもや巣を奪われてしまったのである。
雛が愕然とし、ふるふるしていると、自分は神紅だと主張する青年は荷物か何かのようにひょいと雛を抱き上げる。
「そんなに震えて…寒いのかい?」
咄嗟のことに反応できなかった雛も悪いのだが、青年はそれを【寒さのあまり動けない】と理解したらしかった。
抱き上げた雛と布団を抱えて囲炉裏の傍まで寄ると、布団を落として雛を抱えたままで器用に胡坐をかいて座る。 そして、雛を抱きかかえたままで布団にくるまった。
「これなら私も寒くない。 そなたは温いねぇ」
青年の言葉に、雛は訳がわからなくなった。
いや、元から訳はわかっていないが、さらにわからなくなった。
暖をとる目的だとすれば、青年のしていることは間違いではないのだが、雛を抱きかかえている青年はまるで温くない。
衣類を通してもひんやりが伝わったし、雛の体温ばかりが奪われていくような気がする。
つまりは、青年は暖をとれているかもしれないが、雛は全く暖をとれていない、ということだ。
なので、雛は一生懸命青年の胸を突っぱねようと、腕の中でもがく。
「やだやだやだ、全然可愛くない。 神紅が神紅なら、早く蛇さんの神紅に戻って。 でないとわたし、もう一回寝る。 蛇さんが蛇さんに戻って、この夢が終わるまで寝る」
そうすれば、青年は目を丸くし、次いで華やかに、艶やかに笑んだ。
「かわゆいねぇ、雛。 その程度の抵抗が抵抗になると? 優しくてかわゆい。 丸呑みしたいくらいだ」
切れ長の綺麗な紅の瞳が、雛を凝視したままで細められる。
丸呑みという不穏な言葉を聞いた雛はなぜか、怖いと思うより先に腑に落ちてしまった。
ただ、それだけの言葉なのに、目の前の青年は、本当に雛の名付けた【神紅】なのか、と。
蛇さんが食物――獲物を丸呑みにすることは知っている。
ぴたりと抵抗を止めた雛を、神紅は興味深げに見ている。
けれど、雛はそれどころではない。
「あなたが、神紅だとして。 わたしを丸呑みにするためについてきたの?」
今の雛はもうすでに、神紅に拘束されて逃げることが叶わない状態だ。
大ばば様に、人間を騙す悪い生き物――妖もたくさんいるという話は聞いてきた。 だから、むやみに家に何者かを招き入れてはいけないよ、と。
大ばば様は、家の扉が一種の結界の役割を果たしていると言ったのだ。
だけど、蛇さんに悪い蛇さんがいるということは、大ばば様は言わなかったのである。
雛は、悪い蛇さんを拾ってしまったのだろうか?
雛を抱きかかえている神紅は、不思議そうな、少し困ったような顔をして、首を揺らす。
どうして、ひとつひとつの所作までも妙に艶めかしく見えるのだろう。
「なぜ歪んだ顔をしているんだい?」
表情と同じく、不思議そうでいて、少し困ったような声音だった。
歪んだ顔、とはひどい言い草だと思うが、そう見えているのなら仕方ないだろう。
というか、目の前の艶な美貌の青年からすれば、ほとんどの人間の顔が【歪んでいる】となるのだろうことはなんとなくわかる。
「わ、わたしを、丸呑みしたい、って言った」
雛は、必死の思いで絞り出したというのに、ふっと神紅は笑う。
思わず、雛はその表情に見惚れた。
艶で豪奢な笑みではなく、春の陽だまりのような笑みだった。
「愚かでかわゆいな、雛。 丸呑みしたい、と丸呑みする、は同義でなかろうに」
どうやら、【馬鹿な子ほど可愛い】と言われているらしい。
そう言った神紅は、また目を細める。
「そなたが私をそなたの神紅と認識した上で、逃げない。 今はそれだけで良しとしようじゃあないか」
ここでひとつ、訂正させていただきたい。
逃げない、のではなく、逃げられない、のである。
抱きかかえられた上に布団にくるまれてしまっているのだから。
とりあえず、神紅に雛を丸呑みするつもりはない、ということは理解した。
では、この状況は、一体何だ。
一生懸命考える雛の鼻を、みそ汁のような臭いがついた。
ハッとして囲炉裏を見れば、火が点されており、置かれた鍋が温められている。
あの中には、雛の昨日の晩御飯だった、大根と白菜のたっぷり入った麦と粟のお粥が入っている。 人参と春菊も入れて、一応彩りも気にしたのだ。
焦げ付いてしまっては大変だ、と雛は慌てて神紅の腕の中でもがいた。
「ようやく大人しくなったと思ったのに、急に興奮してどうしたんだい?」
「お粥! 焦げたら大変。 お鍋かき混ぜるから放して」
神紅は素直に雛を解放してくれたので、雛は木蓋を取る。
木蓋を取った瞬間、お粥の表面から湯気が立ち上ったが、まだぐつぐつと煮立ってはいない。
お粥をお玉でかき混ぜると、焦げ付いている感じもなくてほっとする。
そこで、雛はあることに気づいた。
「火、つけてくれたの? ありがとう」
「私にとっては造作もないことよ。 私は雛の、下僕なのだから」
ひとり、布団にくるまった神紅の言葉に、雛は首を傾げる。
げぼく、と言ったのか? 下僕、と?
「鶴の恩返しみたいなもの?」
助けられた鶴が恩返しに来る、というような話があった気がする。
拾われた蛇さんが恩返しの為に人間になった、ということなのだろうか。
「恩返しではないねぇ。 私はそなたに拉致されて、無理矢理に名を授けられて、下僕にさせられたのだから」
神紅はさりげなくだが、【拉致】【無理矢理】【させられた】の箇所を強調した。
三拍子揃えられてしまえば、雛とて気づかずにはいられない。
「…それは、わたしが悪いっていうこと?」
「悪いとは言わぬが、この状況を招いたのは雛よ。 名をつけることが、所有の権利を主張する行為だとは思い至らぬのかい?」
どうやら、神紅は自業自得と言いたかったらしい。
「…神紅は、蛇さんなの? 人間なの?」
雛が知りたいのは、そこだ。
そうすれば、神紅はまた、考えるような顔になる。
「…どちらも、私としか言いようがないけれどねぇ。 分類で言うのなら、【妖】に近いんだろうかねぇ」
妖、という言葉に、雛は鍋をかき混ぜる手を止めた。
「…妖、なの?」
雛の目に、恐れと怯えを見たのだろうか。
神紅は雛を安心させるように笑んだ。
「私は雛を怖がらせたり、傷つけたりはしない善い妖だから、怯えるでないよ。 でないと、かわゆすぎて丸呑みしたくなる」
善い妖は、丸呑みにしたいとか言わないはずだ。
そう、雛は思った。