十.雛、攫われる。
穴が開いた。
真っ暗な闇に呑まれて、落下した。
確かにそう思ったのに、気づいたらきらびやかな御殿のようなところにいて、雛は呆気にとられている。
赤や金色が全体に多くて、目がちかちかする。 豪華絢爛とはまさしく、このようなところを言うのだろう。
目の前の、上品とは言い難い、【閻魔】という青年は、お殿様か何かだったのだろうか。
分厚くてふっくらとした紫の座布団に正座をし、借りてきた猫状態の雛は、おそるおそる高座に胡座をかいた閻魔を見る。
「あの、わたしが、生ける死者とはどういうこと?」
閻魔が、雛のことを指した言葉が、ずっと胸にわだかまっていて、そのままにできなくて、雛は尋ねた。
生ける、死者。
それは、あまり気持ちのいい言葉ではない。
そうすれば、閻魔は右手の小指を右の耳の穴に入れてぐりぐりと掻き回すようにして、息を吐いた。
「ああ、それな。 …実は俺、最近先代から代替わりしたばかりなんだけど…、先代は穏健派ってか、甘かったんだよ」
「甘い?」
雛は、閻魔の言葉を繰り返し、首を傾げる。
それよりも、今、閻魔は【先代】と言ったのか。
【先代】も閻魔?
閻魔、とは、まさか。
「地獄の、閻魔大王様…?」
今までした、どの質問よりも緊張しながら、雛は尋ねた。
「まあ、そうも呼ばれてるな」
閻魔は、雛の緊張など気にしていないのか感じ取れないのか、あっけらかんとしている。
「情状酌量が度を超えてたってか。 雛、あんたのことにしてもそうだ。 あんたは本来、蛇に噛まれたあのときに、死ぬはずで、死ぬべきだった人間だ」
冷や水を、浴びせられたような、衝撃。
蛇に、噛まれた、あのとき。 それは、うっすらとだが、雛の記憶にも残っている。
蛇に噛まれて、生死の境を彷徨った、あのときのことを言われているのだろう。
あのときに、死ぬはずで、死ぬべきだった?
「…でも、わたし、生きてる」
「死ぬはずで、死ぬべきだったあんたが、生かされてる。 それは、本来、あってはならないことだ。 だから俺が今しているのは、先代の尻拭いなんだよ。 損な役回りだぜ」
閻魔の言葉を借りるのであれば、雛は先代の閻魔の情状酌量で生かされた、とそういうことなのだろうか。
では、この閻魔が、今、していることとは?
「尻拭い、って…?」
「あんたを冥府に連れてきたことだよ。 あんたは本来、常世にいるべき人間じゃない」
雛は、目を見張る。
ようやく、状況を理解した。 雛が連れて来られたここは、冥府。
確認するのが、怖い。 けれど。 聞かないわけにはいかなかった。
「…わたし、死んだの?」
「正確には、まだだな。 予想外の相手がいたから、あんたの身体ごと引きずりこんだ。 本来なら、魂だけを切り離して身体を常世に置いて来なきゃならない」
予想外の相手、は、神紅のことだろう。
そして、雛はまだ、死んではいないという。
「今のあんたは、常世で生きていたときのままの状態だ。 常世に何も置いてきていない状態は死とは言わない。【神隠し】という言葉は知っているだろ?」
ああ、なるほど。 雛は常世では、死んだのではなく、失踪したという認識で見られるのか。
そう考えていると、先程まで離れた場所にいた閻魔大王が目の前にいて、雛は目を見開いた。
「まあそういうわけで、俺の仕事は完了してないんだ。 魂だけの形になって初めて、あんたは冥府の住人になる」
快活に笑った閻魔が、片手でがっと雛の頭を掴んだ。
笑顔の閻魔と、閻魔の放った台詞で、腑に落ちてしまった。
今、雛が生きている――…閻魔に言わせれば、魂が身体に入っている状態が、閻魔にとっては異常なのである。 雛は死んでいるはずで、死んでいるべき人間。 魂と身体が分離している状態が、閻魔から見れば正常なこと。
そして、もう一つ。 閻魔にとって、分離した魂を迎え入れることは【仕事】なのだ。
分離して、迎え入れるはずの魂を、迎え入れられなかった、逃してしまったことは、閻魔にとっては目を瞑ることができないこと。
閻魔は真面目で、頑固な性質なのだろう。 加えて、仕事熱心だ。
閻魔は、閻魔の立場から見れば、間違えたことは何一つしていない。
だから、きっと、これは雛が受け容れなければならないこと、なのだ。
けれど、でも。
「さあ、口を開け、雛。 俺自ら、あんたの魂は引きずり出してやる」
頭を掴んだのとは逆の手が、雛の頬を掴むようにして、口を開かせる。
雛は、いやいやと首を振り、もがき、閻魔から逃れようとした。
頭では、理解できる。 閻魔がしていることは、間違いではない。
けれど、雛は、まだ、生きていたいのだ。 大ばば様と、一緒にいたい。
それから、あの、可愛い蛇さんと。 神紅と、ずっと、一緒にいたい。
まだ、死にたくない。
雛には、常世に残した未練が、多すぎる。
もがきながら、逃れようとしながら、雛は叫んだ。 否、呼んだ。
「助けて、神紅!」
「ようやくだねぇ」
声が、降ってきた。
瞬間、閻魔は雛から飛び退いたのだが、その閻魔を大きな水の奔流というか、渦が襲った。
「か、はっ」
閻魔の身体を押し流すようにして攫い、壁に叩きつける。 室内は、一瞬にして水浸しになり、叩きつけられた壁には、閻魔を中心にして蜘蛛の巣のように亀裂が走った。
すごい音がしたし、御殿全体が揺れるような、振動が伝わった。
とてつもない力が働いたのはわかった。 だって、閻魔の身体が壁にめりこんでいて倒れないし、その口の端からはつつっ…と鮮血の筋が流れているから。
その様子を、これ以上見せないように、だろうか。 雛の目の前に、薄花桜の着物の背中が現われる。
「あぁ、済まぬねぇ。 久々で力の加減を間違えたようだ」
謡うように流れる声は、些かも済まないとは思っていなさそうだし、その声には笑みすら含まれている。
助かったこと、そのひとが現われてくれたことにほっとしながらも、ぞっとしつつ、雛は、呼んだ。
「…しん、く」
蜘蛛の巣に捕らわれたような格好になっている閻魔は、ぐっと顔を上げて、睨みつけるようにして神紅を見た。
「貴様っ…どうしてここにっ…」
「童、少々冗談が過ぎるねぇ。 私はお優しくはできておらぬよ?」
苛立ちが、感じられない。
相も変わらず、謡うように流麗と流れる声。 なのに、いや、だからだろうか、雛は身の毛がよだつような感覚に襲われる。
神紅がとてつもなく怖い。
どうしよう、と雛が思っていたときだ。
「雪華、そこまでにしておくれ」
男性のようで女性のようでもある、柔らかな声。 けれど、無視できないような不可思議な引力を感じる声が聞こえて、雛はふっと振り返る。
振り返って、雛は呆然とした。 あんぐりと口を開いたまま、時が止まったかのような錯覚すら、覚える。
雛の第一印象は、【乙姫様のようだ】だった。
大ばば様が聞かせてくれた物語の中、竜宮城にいるという、乙姫様とはきっと、このような感じなのだろうと思った。
裾を引きずる、幾重にも重なった美しく華やかな衣装に、複雑に結い上げられた黒髪。 華やかで…そう、花の精でもありそうな、ふんわりとした印象のひと。
「残念ながら、その名にはもう拘束力はないのでねぇ。 貴方が私に何を言っても無駄というものよ」
応じたのは、神紅だった。
ということは、今、【セツカ】とこの御方に呼ばれたのは、神紅なのだろうか。 その疑問は、口に出せなかった。
神紅は振り返りもせず、閻魔から視線を逸らずにいたからだ。
雛がはらはらとしていると、乙姫様は滑るように畳の上を進み、雛の横を通り過ぎ、神紅の横も通り過ぎて、壁にめり込んだまま苦しむ閻魔に近づいた。
かと思えば、閻魔の赤みがかった褐色の髪をむんずと掴んで、めり込んだ壁からぐっと引っ張り出して床に放り投げた。
ぱらぱら…と壁が剥がれ落ちる音を聞きながら、雛はぎょっとしてしまった。
この花の精のようなふんわりとした印象の乙姫様は、外見に反して力が強いらしい。
床に放り出された閻魔は、潰れた蛙のようになって動かない。
その閻魔を、冷ややかに見下ろして、乙姫様は冷ややかに告げた。
「焔霞、おいたが過ぎる。 雪華と雛に謝りなさい」
放り出されたままぴくりともしなかった閻魔だったが、乙姫様の呼びかけに応じて、ぐっと顔を上げた。
焔霞、というのが、閻魔の本当の名前なのだろうか。
ということは、雪華、というのが、神紅の本当の名前?
ああ、でも、ついさっき、神紅は「その名にもう拘束力はない」と言っていた。 訳がわからない。
そして、閻魔の本当の名前を知り、【焔霞】と呼びつけにできるこの乙姫様は、どういった存在なのか。
「けれど、大君っ…」
食いしばった歯の間から、閻魔はその乙姫様を【大君】と呼んだ。
けれど、雛にとってはどちらかと言えばやはり、大君というよりも乙姫様という感じだ。
雛は閻魔にも閻魔の事情があり、閻魔の立場からすれば閻魔のしていることには正当性があると思っていた。 けれど、乙姫様の立場から見ると、そうではないということか。
だって、この方はついさっき、「雪華と雛に謝りなさい」と、そう言った。
「雛の黄泉返りに関しては、雪華の名と神籍の剥奪で片が付いている。 混ぜ返すな」
「大君」
ぴしゃり、と鋭い声を発したのは、神紅だった。
いつもの神紅らしからぬ、相手の言葉を遮るような圧力を感じるような声だった。
乙姫様の言う、【セツカ】が神紅だとすると、名と神籍の剥奪で片が付いている、とは、一体。
「…どういう、こと…?」
雛が呟くと、乙姫様の目が、雛へと向いた。 そして、気づいたように視線を神紅へと流す。
「ああ、そなた、まだ告げていなかったのか? そなたが雛の、【蛇神様】だと」
「大君」
また、神紅が鋭い声を出す。
先程よりも幾分、大きな声だった。
クッと目を見張った雛を、神紅がゆっくりと振り返る。 神紅は、ばつの悪そうな表情をしていた。
「神紅、本当に…?」
神紅が、蛇神様、だったのか。
問おうとしたのだが、軽やかに響いた笑い声が耳に届くのが先立った。 乙姫様が、愉しそうに微笑んでいる。
「ふふふっ…そなたも落ちぶれたな、もうここには戻ってくるな。 閻魔の仕置きは私が引き受けよう。 その雛の守護神なのだから、人界で安穏と暮らすが良い」
乙姫様が、衣装の長い袖を振る。 それと共に、視界が花びらのようなものに埋め尽くされる。
「っ…乙姫様っ…」
乙姫様のことを呼んだけれど、そこにはもう、乙姫様の姿も、閻魔の姿も、豪華絢爛な御殿もなく、雛と神紅がイチゴノキの実を採りに来ていた山の中。
雛の傍には、変わらずばつの悪そうな表情をした神紅がいるのみ、だった。




