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九.雛、落下する。

 外で、何か話をしていた大ばば様と神紅(シンク)だったが、ひとまずは何かの点で合意をしたらしい。 大ばば様は気の進まない様子ではあったが、神紅を家に置くことを認めてくれた。

 その夜神紅は、雛と一緒に寝るつもりでもあったのか、布団に潜り込んでこようとしたが、大ばば様につまみ出されていた。 「雛よ…、一緒に寝てくれるという約束は嘘だったのかい?」と神紅は不満たらたらであったが、雛は蛇さんの神紅だったら一緒に寝てもいいと言ったのだ。

 そこを間違えないで欲しい。


「雛、どこへ行く?」

 囲炉裏の傍で、竹で籠を編んでいる大ばば様は、雛がごそごそと準備をしているのを見て、不思議に思ったらしい。

「山にイチゴノキの実を採りに行ってくる」

 雛は、籠を持って大ばば様に告げた。

「ああ、では、お供が必要だねぇ。 私がついていこう」

 囲炉裏の傍にいた神紅が腰を浮かせるので、雛は首を横に振る。


「え、いいよ。 神紅は寒いの苦手でしょ。 蛇さんも熊ももう、冬眠してるから危ないことなんてないよ」

 そうすれば、大ばば様が神紅を見た後、眉間に皺を寄せた顔を雛に向ける。

「雛。 蛇は寒さに弱い。 だが、蛇の姿のときならまだしも、今のこいつが寒さに弱いなど、あるはずがない」

「…そうなの?」

 雛は、ゆっくりと顔を神紅へと向けた。

 神紅は、是とも否とも言わなかった。


「イチゴノキとやらは美味なのかい?」

 と心なし嬉しそうな神紅に、雛は思う。

 そういえば、ヘビイチゴという植物もあるくらいだし、蛇さんはイチゴのような実がすきなのかもしれない、と。 それは、多少の寒さを押しても、雛について行きたがるはずだ。


「イチゴノキの実ね」

 神紅の言葉を雛は訂正しながら、もくもくと竹の籠を編んでいる大ばば様を見た。

 雛を預けて二人きりで出かけさせるくらいには、大ばば様も神紅のことを信用してくれているようである。



○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●



 そうして山の中に入っていった雛と神紅だったが、早々にイチゴノキを見つけた。

 当たり前だ。 もうずっと、毎年同じ場所でイチゴノキの実を収穫しているのだ。 いかに雛といえど、貴重な食料源を収穫できる場所を覚えていないわけがない。

 そして、神紅は味見だと食べたこの実の味を大変お気に召したらしかった。 「他にもどこかにこの美味なる実があるかもしれぬねぇ」と言って、イチゴノキを探しに出かけてしまった。


 中には、毒キノコのような毒の実もあるかもしれないが、神紅は(あやかし)だし、食べたところで死なないだろう。

 とりあえず今は、神紅のことは放っておいて、イチゴノキの実を採ることに集中しよう。 そう、雛が実に手を伸ばして掴んだときだ。


「みーつけた」


 雛の背後から、突然そんな声が聞こえて、思わず雛はイチゴノキの実を掴んだ手を止めた。

 男の人の声だった、それは確かだ。 そして、神紅の声でもない、それも確かなこと。


 そろり、と実から手を離して、雛は思い切って振り返ってみた。

 そこにいたのは、赤みがかった褐色の髪に、石榴石の瞳の青年だった。 どちらかといえば、垂れ気味の目をしている。 神紅の外見と比べると、少し年上に見える。 それから、神紅がたおやかで艶やかな美人だとすれば、目の前の青年は野性味溢れる男性的な魅力の持ち主だと言えるだろう。


 だが、問題は、そのひとの着ている衣装だ。 派手でじゃらじゃらした装飾品は趣味の一言で片付くが、肩から手の先にかけて、脚は膝から下がほぼ剥き出しだ。

 冬に、その格好は、ありえない。


「…誰…?」

 警戒して、後退(あとずさ)りながら雛が問うと、そのひとは目を丸くした。

「ああ、あんた、俺が見えるのか。 山の神気に当てられてんな」

 今度は、雛が目を丸くする番だった。

 このひとの言うことが真実なら、そして、雛の解釈違いでなければ、このひとが見えることが、普通でないということになる。


「…見えない、ものなの?」

 恐る恐る、雛が問うが、返事はない。

 かわりに、その石榴石の瞳がじぃぃと雛を凝視していて、非常に居心地が悪い。 雛が気づいていないだけで、雛はそんなに特殊な存在だったのだろうか。

 そんな疑念に雛が捕らわれていると、唐突に青年が声を上げる。

「あんた、可愛いな! ちっさくてぴょこぴょこしてて、ひよこみたいだ! 名前の通りだな!」


 ひよこみたい、とは心外だが、その言葉が、雛の違和感を強くする。

「どうして、わたしの名前…?」

 だが、青年は雛の問いには答えずに、快活に笑う。

「ちょうどいい。 どうせあんたは死ぬんだし、冥府で俺の九番目の嫁にしてやろう」

 雛は、びしり、と固まる。


 目の前の青年は、一体何を言っているのだろう。 何がちょうどいいのかもわからないし、どうして雛が死ぬのかもわからない。 ついでにもう一つ、冥府でこの青年の妻にならなければならないのかもわからない。 そう、何から何までわからない。

 混乱する雛に、一歩ずつゆっくりと近づきながら、青年は雛に向かって手を伸ばす。

「さぁ、口を開け、生ける死者よ。 特別に俺自ら、その魂を運んでやろう」


 生ける、死者。


 本当に、訳がわからない。 生きていたら、死者とは言わないのではないだろうか。

 謎の言葉を吐いた青年が伸ばす手が、ゆっくりと自分に近づいてくる。 近づいて、そして、触れそうになった、そのときだ。


 ばしゃあっ、と大量の水が降ってきて、目の前の青年を直撃した。 ばかりでなく、雛にも水が跳ねて冷たい。 濡れ鼠になった青年も、何が起きたのか把握できていないのだろう。 ぱちぱちと目を瞬かせているし、雛に向かって伸ばされていた手は、反射的に引かれたようだった。


「雛よ、命を取られるところだったという自覚はあるかい? それとも、口説かれているとしか思わなかったのか」

 濡れ鼠になった青年の向こうに見えたのは、神紅の姿。

 それも、なぜか、すこぶる機嫌が悪い。 どうしてわかるのか、と問われれば直感でしかないが。


「…貴様、水神の縁の者か?」

 低く、空気を震わすような怒気を纏った声に、ぞわっと悪寒が背筋を駆けた。

 その声を発したのは、目の前の、神紅ではない青年だ。


 では、【水神縁の者】と言われた、【貴様】とは?

 お(やしろ)の蛇神様は、水神様とも呼ばれている。 すなわち、【水神縁の者】は【蛇神縁の者】と言い換えられる。

 雛の目は、自然と神紅へと向いた。


 神紅は、(あやかし)ではなく、蛇神様に縁のある存在だった?


 雛の目は、口ほどに物を言っていたと思うのだが、神紅は――気づかないふりをして、だろう――赤みがかった褐色の髪の青年を見ている。

「閻魔ともあろう者が、あれしきの水で呆けるなど、質が落ちたものだねぇ。 ああ、いや、閻魔は焔魔だから、とも言えるのか」

 謡うように紡がれる言葉に、ぴくっと青年が反応したのがわかる。


「…貴様、何者だ」

 誰何(すいか)する声は、先程よりも低く、険が立っている。 聞いただけで、雛にも苛立ちが伝わってくるくらいなのだ。

「名乗るほどの者ではないが、この雛の守護神よ」

 神紅が返したふざけた答えが答えになるとも思えないのだが、【閻魔】と呼ばれた青年は何かに答えを見出したらしかった。


「【守護霊】ではなく【守護神】と名乗るか。 …水神に解雇でもされた遣いか?」

「口は災いの元という言葉は知らぬのかい? めでたいことだねぇ」

 神紅が目を三日月の形に細めて、紅い唇を歪めて笑う。


 その、一瞬の隙に、青年は雛の方へと跳び退(すさ)る。 雛のすぐ近くに青年が着地したと同時に、青年が雛の腕を掴み、足下にはぽっかりと大きな穴が開いた。


「雛!」

「神紅っ…」

 掴まれていない方の手を、神紅へと伸ばしたが、雛の指先は宙を掻くだけで、真っ暗な闇に呑まれる。

 呑まれて、落下する。

 落下する感覚の中で雛は、あのいつでも悠然とした神紅でも、あんな叫び声を上げるのか、と思った。



○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●+○+●



 雛と閻魔が消えた場所に膝をついた神紅は、焼け焦げたように黒くなっている地面に触れた。

 もう、道は閉ざされてしまったが、閻魔と雛の居場所は割れている。


 焼け焦げた地面をざらりと指で撫でたあと、神紅はその黒くなった砂を手に握りしめる。

「…閻魔ともあろう者が、随分と小賢しい真似をするものよ。 この私に喧嘩を売るとは」


 神紅は顔を上げて、前を見据えた。

 その紅の目は、瞳孔が細くなり、爛々と輝いている。


「よい、面白い。 その喧嘩、買ってやることにしよう」

 弧を描いた神紅の紅い唇からは、白い牙が覗いていた。



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