第五話 少年
正午を示すサイレンが鳴った。複雑な符割りでうねりながら進行するそれは、悦恵の世を祝福する組曲の一部とされている。そうと知らなければ、勤労意欲がどこからともなく沸き上がってくる、爽やかな夏の日差しにぴったりな非常にめでたい節ではある。
昼飯を済ませた私は網戸を開けて庭へ出た。私に割り振られたのは、戦前は公営住宅と呼ばれていた、平屋建ての小さな家だった。正確な築年数は知りようがないけれど、常識では信じられないくら古いことだけは見るからに明らかだ。この町は建物が余っている。その中にはもっと新しい家もあるし、もっと綺麗な家だってあるし、もっと大きな家だってある。しかし巡視員の詰所までの距離や治安上の問題から、我々はこの地区で、この手の住宅に住まねばならないと決められていた。私はこのあばら家に、とても満足している。石田の家も隣だし、なんといっても庭がある。言うまでもなく手入れなどされておらず、敷地の境界を表す柵は錆びていて、草や花は目茶苦茶に伸びきっている。それが良かった。新たなる暮らしの始まりの地として、また私の安らぎを得る住処として、これ以上なく相応しい荒れ具合に感じられた。風にそよぐ名も知らぬ草を見つめながら私は庭の中央まで歩み出て、念入りに歯を磨き続けた。
石田が柵の向こうにいた。彼にはこういったものを愛でる感覚が皆無だとわかっている。その代わりの対象として、彼の庭の中央にはバイクが鎮座している。かつて彼自身が四肢に仕込んでいたエンジンを積んだら粉々になってしまいそうなほど旧型のそれを、石田は丹念に手入れしていた。似たような型のものを私も支給されているが、私はどうも仕事の道具以上の思いは抱けそうにない。
「信長、水を分けてくれないか」
「お前が生きるのに必要な分ならいいぞ」
「安心しろ。その分は避けてある」
バイクをかすめるように飛ばした小石を正確に私の庭へ跳ね返し、石田は笑った。
携帯電話が鳴っていた。石田も同様らしく、家の中へ戻っていった。
「田中です」
「岡崎だ。すぐに詰所まで来てくれ」
「了解」
またしても、唯一の趣味である歯磨きを中断させられた。ウガイを雑に済ませて制服を着込む。危険が多い仕事のため、真夏でも防具の詰まった長袖を身につけなければいけない。装備は兵士だった頃よりもまだ重く、そのくせ強度は低いという情けない代物だが、背に腹は替えられない。
巡視員の詰所にはいつも、最低でも五人以上は残っていなければならない。一週間ほど前、私と石田が務め始めて最初に学んだ事だった。これは特にそういった命令があっての決まりなどではなく、巡視員たちが自主的にそうしている。緊急時に駆けつけられる人間を確保しておくのが、その目的のようだ。とはいえ全く人手が足りておらず、詰所がどうしても五人を確保できないことがよくあるようで、勤務時間でなくてもこのような呼び出しがある。私は腰に剣をはめてヘルメットをかぶった。気の抜けたエンジン音が鳴った。石田は用意が早かった。
私と石田と入れ替わるように、詰所から男が二人出て行った。郊外の農場で暴動が起きたらしい。人の働く場所には必ず火器を持ったロボットが配置されているものの、彼らは判断力に欠けるため、有事の時は人間が呼び出される。
「もしかしたら俺も、前の体のままだったら農場を守る側だったのかな」
石田が手首を回して言った。
「おそらく、もっと大きなものを守っていたんじゃないかな」
農場を管理しているロボットは、神から授かったものを何一つ持たない。まさに「純血」と呼ぶべきロボットたちだ。ヒトの体をベースに造られた石田は、それらと明らかに別な種類のものだった。
その中でも四肢のすべてを機械に変えたのは、日本軍では石田を含めても十人に満たない。彼のようなロボット兵のほとんどが体の一部に装備を埋め込まれていた程度で、腕一本が機械であるだけでも充分に珍しいものだった。両腕で八つ、両腕に十、合計して十八基ものエンジンが放つ膨大なエネルギーは、常人にはとても耐えられるものではなかったのだろう。当時の階級がなんだったにせよ、そういった意味では彼もエリートだったと言っていい。実際、捕虜となった際に付け替えられた人間用の手足でも、肉体的な面で石田を凌ぐ者は皆無である。彼に与えられたのは欠損を補う以上の何者でもない、安価な日常生活用のものだった。アスリート用の筋肉量と神経回路を組み込んであるわけでなければ、軍事行動のための機巧が施されているわけでもないのに、抵抗する石田を止められる兵士は収容所に一人も存在しなかった。
「前の体に戻りたいか」
近ごろ熱心に磨いているあの小さなバイクの何倍もの速度で移動可能で、燃料さえ続けば単身で戦場を丸ごと破壊し尽くせる、我々から見れば神か悪魔かといったあの肉体。そう考えないほうがおかしい。
「確かに戻りたい時はあるが、これで良かったと思うことも多い」
「そういうものか」
「こんな時は特にそうさ」
石田は眼鏡を直して笑った。指が顔面と同じくらいあった頃はどうやっていたのか訊こうと考えて、やめた。
しばらく絶えていた無線の通信が再び始まった。私と石田の先輩にあたる三人も、昼寝をやめて奥の休憩室から出てきた。
「現場は地獄絵図だな」
その割に無線のやりとりが淡々として聞こえるのは、もはや彼らの感覚が麻痺しているからだろう。暴動を起こした者たちはみな、ロボットによって殺害されたかそれに近い重傷を負わされてしまい、農場は鎮圧された。現地へ集められた先輩のうちの一人も大怪我を負ったようだ。
「自力での帰還は不可能。よって彼を農場の病院へ連れていく。また、人員の補充を要請する」
我々と入れ違った男のどちらかが怪我人の仕事を引き継ぐという事だ。詰所に戻れるのが一名だけだということは、私か石田はこのまま勤務を始めなければいけなくなったという事も意味する。
「すまんが信長、俺に帰らせてくれないだろうか」
石田は鞄から袋を一つ出した。掌くらいの、白いビニール製だった。縛ってある口を広げたら、甘い匂いがふわりと立ち昇った。まだ熱が残る小さなパンがいくつか入っていた。
「みんなにと思って焼いてきた。信長にはこれを二つやろう」
「お前が作ったのか」
「昨日、工場でくれたタネを焼いただけさ。俺の家には、ちゃんと使えるオーブンがあるんだ」
「ほう、これはすごい」
最初に手渡された野口が声をあげて喜んだ。彼はこの詰所の主のような存在で、滅多なことでは出動する事がないと聞いている。しかしそれ以前に、彼は両脚をうしなっているので詰所から外へ出るという行為自体が不可能なのだ。早期の帰還兵ゆえに巡視員のノウハウを多く身につけている彼を、この国はここへ住まわせた。正確には川口がそうさせた、と私は考えている。
悦恵会の人間でないだけでなく先の大戦に従軍し、終戦後に捕虜となってみれば独房にばかり叩き込まれている、簡単に言えば最低の人間。それが我々である。
そんな人間に新たな人造の脚が与えられるはずもなく、それ故にこの安全なる詰所から自力で出られない野口は、天が死をくれるまで巡視員でいなければならない。まだ単独での巡回勤務を許されていない私と石田が、職場の人間の中でもっとも多く接するのが、新兵教育係に似た立場を担っている彼だった。
「それじゃ、その二個目は野口さんにやってくれ。俺はここに来る前に飯を食ってしまった」
「いいのか?」
「どうぞ」
「今朝だって俺にリンゴをくれたぞ」
「あれは石田と俺がが腹いっぱい食って、余ったやつですよ」
「じゃあ遠慮なく貰うぞ?」
満面の笑みを浮かべて形だけ訊き返してくる野口に私は頷いた。
プライバシーのかけらも無い暮らしを本人がどう捉えているのか私にはわからないが、我々巡視員に与えられるつまらない余禄を幸福そうに全身で愉しんでくれる存在がある、というのは我々にとっても多少の救いと呼んでも良い気がする。最低ランクである巡視員の配給品だけでは到底なし得ない野口の見事な肥満ぶりが、何よりも雄弁にそれを物語る。
「信長、野口さんにやるのはわかったが、仕事の方はどうなるんだ」
「うるさい男だな。もとは俺の二個目なんだろ。さっさと帰れよ」
納得のいった石田は速やかに詰所を出て行った。バイクをいじりたいか、家の中に残っていた家電製品を修理したいか、そのどちらかに違いなかった。何事かを成し遂げる男が皆そうであるように、彼もやると思ったらやらずにはおれない性分なのだろう。面倒な質だとも思うが、前述したとおり、そんな石田だからこそ、十八ものエンジンを身に宿すことができ、そうでなかったからこそ私は身体の隅から隅まで血が通っているのだ。
「信長、交代まで休もうぜ」
先輩の言葉にしたがって私は休憩室へ向かった。
受け持ちの地区の巡回を終えた者も混じって談笑していた我々に、一つの連絡、というよりも命令が下りた。
「一人の少年が人質をとって立てこもっている。数名で現場へ急行せよ」
場所を示す数字の羅列を聞いて顔を青ざめさせたのは野口だった。
「そこには何があるんですか」
「この地区でもっとも重要な施設がある」
この場合だと現地へ向かうのは、私を含めた詰所待機組となる。巡回を終えて帰ってきた者だけで詰所に必要な人数を確保できるからだ。新米は単独行動を許されていないが、これは集団で向かうのだから問題ない。私にとって最初の緊急出動はこうして決まった。二本の剣を腰に差し、胸のポケットに通信用の機械を入れた。数々の地獄をくぐり抜けてきたはずの私が、指先を震わせながら。
私のバイクの性能は、同僚の中でもズバ抜けて低かった。機能していない信号機を恐れて交差点ちかくでいちいち徐行していた点を抜かしても、不自然なほど私の到着は遅かった。郊外まで出てバイクを降りて徒歩となった際にだいぶ遅れを取り戻しはしたものの、無線機で罵声が止むことはなかった。
集合地点とされていたのは、かつては冬場にスキー客で賑わっていただろう、山の麓のホテルだった。まわりにも三階建てから七階建ての建物が林立している。どれもまったく手入れされていないので、躯体の力強さと外観の汚さとが相俟って凄まじいばかりに「死」を連想させてくる。
「田中、着きました」
胸元に向かって囁いた。軍で採用していた無線機よりもだいぶ質の悪いマイクを使っている。当たり前といえば当たり前の話だ。あたりが静かだから、自分の声が妙に大きく聞こえた。
「こっちに来るんだ」
「了解」
ホテルの入り口がある庇の下に、先を行った五人が固まって座っていた。人質を取った少年が立てこもっている旅館は、この建物の裏にある。
移動中に聞いた作戦はひどく単純だった。少年の要求は意味が不明で、人質も何かを犠牲にするほどの人間ではない。我々の目的は、彼らを近くにある「重要な施設」に干渉させないこと。つまり気づかれないように旅館を包囲して、どんな形でもいいから少年が移動できない状態にせよ、という事らしい。突き詰めたら殺害まで策のうちとなるのではないか、と私が問うたら、「その通りだ」と答えたのは野口だった。私の接してきた彼からは想像がつかない、冷たい声だった。
「大丈夫だ。そんな事にはならないよ」
隣の男が言った。
「俺らが上手くやる。見つからなければいいんだ」
この扉が開けば、ホテルそのものを突っ切って旅館に侵入できる。しかし戦後に閉鎖されてしまったため、扉は開かない。そこで我々は外壁に沿って移動し、旅館を目指すことになった。周辺の草木は当然ながら全く手入れされておらず、伸びきった雑草が腰の高さくらいある。匍匐前進ならば我々の得意技と言っていい。それで給料をいただいていたのだ。
地面は植物に覆われているから、日の光をほとんど受けておらず、程よく冷えている。我々と同様に列をなして進む蟻をぼんやり眺めながら我々は這った。ブランクのある我々の足取りは重いが、対象が火器を持っていないことは明らかなので問題ない。だけでなく、おそらく我々がぶら下げている二本の剣よりも殺傷力の高いものは日本に存在しないだろう。だからこれを手にした我々が先頭に立って、国をひっくり返す事だってできる。そのはずなのに記念すべき初仕事が、小僧に見つからぬよう地を這ってゆくという惨めきわまりないものである事にいまいち納得できない。
こんなとき私は「妻」を思い出す。実際には見たことも会ったこともないので、ただ描いていると言った方が正しい。彼女がいつか私を迎えに来るのではないか、そうして私も悦恵の幹部か何かになって、かしずく信者どもを見下ろしながら安泰に生を全うするのではないか。そういった妄想を、物語仕立てで進めるのだ。
「いったん止まろう」
誰かが言った。体を起こして見上げたら、旅館の看板が読み取れるほど近づいていた。ガラス窓の向こうに人がいるかまではわからない。
「そういえば、その少年はどうやって外と連絡を?」
悦恵の人間でない者に、携帯電話などは渡らない。だから我々は、今どき無線機なぞで会話している。
「おそらく、人質が無線機を持っていたのだろう」
そんな答えだと思った。
「我々の会話が聞こえていたりしませんかね」
「周波数を合わせられれば、聞けるだろうな。だけどそれをできていたら、この状況になるまで旅館に篭ってはいないだろう」
「そこなんですよね。あの中に人がいるようには、全く思えない」
私の疑問に野口が答えた。
「その可能性は無い。今も少年は別口との交渉中だ。ガキのくせに生意気な事ばかり言ってやがる。さっさと捕まえてしまおうぜ」
二年ぶりの銃声を聞いたのはその直後だった。