第四話 かくて私は職を得た
私が受け入れねばならない運命がどういった種類なのか、それは全体を振り返る時が来てみなければ誰にも何も言うことはできない。ただ、私に割り振られた仕事が「本部長」ほどお気楽なものでないことは確かだった。知るべき情報は手に入ったから、もう川口に用はない。むしろ、無用を通り越して有害でしかない。彼は私の過去、それも知られたくない方の過去をだいぶ詳しく調べている。消せるものなら消してやりたいところだが、この男はバルコニーが二面ついた個室と常に控えている護衛を持つ、危険な男だ。出来るだけ接点を持たないのが、長いスパンで人生を計画するうえでは適切だろう。何よりも触れられたくない部分に触れられ、衝動的に机を蹴ってしまったのはまずかった。取り繕う方法がないか、必死で考える。
雷鳴が轟いた。かなり近い。
「すまない。怒らせたりするつもりは全くなかった。したい話が全然できなくて、つい頭にきてしまったんだ」
川口は私の足元でいきなり跪いて、ほとんど叫ぶように詫びた。丁寧に染まった白髪の海からのぞく頭頂の地肌が、不意に最初の妻を思い出させる。侮辱に至る子供じみた理由も、そのくせ立場としては筋の通らない大仰な謝罪も、私には素直に受け入れがたいものだ。
しかし呑む。私はこの国でこの生を、なしうる限りの幸福でいっぱいにして全うしたい。
「お顔をあげて下さい、本部長。私こそ、あなたに謝らなければならない」
私は川口を無理やり起こし、膝の汚れを払った。
「さすがに凄い力だな」
川口は新しい酒に加えて数種類のツマミを応接机に並べた。彼は私に座るよう促したあと、対面のソファに腰を下ろした。
「ここへ来る者の多くは、辿り着いたその日こそ弱り切っているが、仕事を始める頃にはもう元気を取り戻しているし、そうなれば並の人間の何倍もの結果を出してくれる」
窓を打つ雨の音だけが響くなか、ときおり空が光っている。私が最初の水曜日を迎えたのも、こんな夜だった気がする。
「そういう男たちだからこそ、あの時代にわざわざ兵隊なんかを目指してしまったんだろうな。君もそうだろう?」
「難しいですね。この国に生きて帰ってくる程度の人間が、あなたの描いているような若者かどうかと言えば」
「あのときの日本軍二万五千人は、みんな志願者だろう。その事実だけで充分さ」
正確ではない。本当の意味で志願した、あるいはできた人間なんて一人もいない。そもそも軍は、兵器を十分に運用できる技術のある者か兵器そのもの以外に派遣兵となるか否かを問わなかった。これは現代では仕方がない。持って振り回せばどうにかなった武器しかなかった頃なら、体の大きい男や立身出世を目指しているだけの若者でも適当にかき集めておくだけで良かったが、もはやその時代が訪れることはないだろう。人類は戦争も上達した。
「私は同じ日本人として感謝している。特に、妻がありながら戦地へ向かった君に至っては、尊敬していると言い切ってもいい」
「それは、だから」
「生きて帰った云々も、まさにそうさ。嫁さんに逢いたかったんだろう。だから、収容所であれほどの目に遭っても生き抜いた。戦場へ向かったことも、戦場で華々しく散らなかったことも、君の選択には等しく価値がある。私が描く若者以上に、素晴らしい選択だ」
川口は手の平くらいあるチーズに勢いよくかぶりいた。
「君がそういう男だと知ってしまった上で巡視員をやらせるのは、非常に辛い。だが採用基準を満たしすぎるほど満たしてしまっている君を別の職につけるのは、さすがに難しいのだ。この方法を、帰還兵を受け入れる施設のある全ての支庁に提案した張本人だからな」
「さっき、処遇を保留してあると聞きましたが」
気づけば私も酒を丸ごと空けていた。差し出された二本目の瓶を手にとって、栓を抜いた。
「そうだ。登録はまだしていない。私のチェックがない情報は、国にまで届かない。本当は吉田の替わりに私の護衛を、といきたいところだが、彼が職を失うし、その前に君は懲罰が多すぎる」
「私は巡視員でも構いませんよ」
危険の多い仕事のようだが、石田と同僚なら楽しみですらある。
「君が構わなくても私が大いに困る」
「なぜです」
「最初に言ったじゃないか。私も妻を奪われたのだ」
「ですから妻などいないと」
「私には隠さなくていい。確認は取れた」
「誰から?」
「本人だ」
私には「記憶がスッポリ抜けている時期」なんてない。物心がついてから今までどういう風に暮らしてきたかを、不自然な空白なしで説明できる。もちろん、人として当然の程度には細かい出来事をを忘れているだろう。それでも特定の、それも深い関わりがある人間を一人だけ覚えていないなどというのは有り得なかった。
「その人と話をさせてくれませんか」
「無理だ。我々は罪人だよ。こちらから個人に接触することはできない」
「我々? 私はそうかもしれないが、あなたは罪など犯していないでしょう。戦争には行っていないと、自分で言っていた」
「いいや。とんでもない大罪を犯している。悦恵の教えを信じなかったという、この世で最大の罪だ」
悦恵会。救国の士たちは、自らをそう名乗っている。彼らが我々の還る地の名を残した。
「極端に言えば戦争に行ったかどうかなんて、大した罪じゃあない。あくまでも自分たちがこの国を手に入れるための、大義名分というやつさ。その建前に日本中が飲み込まれた結果がこの状態を作ったわけだが、彼らにとってはあの時点で教えを信じていたかどうか、それだけが重要なんだ。軍にいた信者は、戦争が始まる前にみんな辞めていっただろう? まあ、そういう意味では、あの頃に軍人だった者はみんな一級の犯罪者だという事になる。確実に、会員じゃなかったわけだからな」
我々の飲んでいる酒は安価で、そのぶん非常に質の低いものだった。夢幻の楽園へ飛び立てるまでにどれほどの量を要するのか、で考えれば逆に良質だとも言えるが、川口のように続けて三本も空けていい代物ではない。
「私の妻は信者だった。なんだか良くわからん名前をもらうくらい、熱心だった。私と子供たちは何度もやめさせようとしていたから、こうなった」
彼は自分の家族について少しだけ語った。戦争が始まったころ、突然、北海道へゆくと言いだした妻。悦恵会の導きだという理由で何もかもを捨て去ろうとした妻を彼自身はもう見放すつもりだった。しかし子供たちはそれを許さず、最後には一家で移住という結論に達した。
「だったら、奪われたわけではないのでは」
「そうかもしれないが、そうではないのだ。北海道が日本となった時点で定められた一本の線は、いかなる理由があっても越えられないと決まった。我々が彼らの側へむかう事は言うまでもなく不可能だし、その逆も同様に禁じられた」
ある冬の朝を思い出した。勤めを終えた金曜日の子猫と、ちょうど便所で隣同士になった日の事だ。黄金の砂が舞う風の中で育った、熱い太陽の匂いがする男だった。便器で響く小便の音さえ小気味良い、そんな男だった。
「信長。君はなぜ、生きるんだい」
彼は目を閉じ、下を向いたまま訊いてきた。
「君がそれを問うのかい?」
長い睫毛がゆっくりと開いた。
「僕は国に帰るためさ。家族や友達が待っている」
「僕だってそうさ」
我々は英語で会話している。それぞれの軍でも学んでいたし、所長が我々と会話したがって強制的に叩き込まれもした。
「キュウシュウはもうないじゃないか」
「君のところは、国そのものがなくなっただろう」
あまりに涼しい顔で言い放つものだから頭にきて、反射的に返してしまった。
「僕が不思議に思うのはそこなんだ。確かに僕の国は無くなった。家族や友達だって、もうこの世にいないかもしれない。だけど仮にそうだったとしても、僕らには天国がある。だから僕は生きられる」
彼は口を真横に大きく広げ、澄んだ黒い目を輝かせて言い切った。心の底から、そう信じているのだ。そのとき私は、彼の信じる神が引いた線の圧倒的な太さを味わった気がした。
「しかし君ら夫婦なら、その線を越えさせてくれるかもしれないんだ」
川口が寛大だった理由は何となくわかった。
「私の妻とやらが、どうしてあなたの家族の再会を手伝うんですか」
「手伝いやしないさ。そんなわけがない。私が、いや、悦恵会に切り落とされた者が望んでいるただ一つのこと。それはできあがりつつある機構という名の砦への、蟻の一穴だよ。それをやれる可能性を、君の奥さんは持っているのだ」
私は強制的に三本目の瓶を持たされ、もはや何度目か見当もつかない乾杯をおこなった。
「私の妻を名乗っている人は、一体何者なんですか」
川口は静かに笑った。
「何者でもないといえば何者でもない。考えてみたら私だって、若い頃は妻の実家の事なんか何もわからなかった」
「つまり私の義理の両親が何者かなのですか」
空がまた光った。
「戦争へ行った身内がいても立場が毫ほども揺らがない程度に、悦恵の内部で地位を持っているお方々らしい。私も信者ではないから、役職の名前を見ても具体的にどれだけ偉いかは知らんがね」
「私にどうしろと?」
「まずはここを脱走して貰おうかと思っている」
悦恵会の人間は島の中央部で生活しており、そうでない者が海岸部で暮らしている。私が首都である旭川へ潜入し、妻をさらう。その後、返還を願うであろう彼女の両親の親心を利用して現状を変えるための交渉に持って行きたい。それが川口の考えた策だった。
「無謀なうえに勝手な策だ」
失敗した場合にリスクの全てを私に負わせる以外の理由で、今ここを私が脱走する意味がまったく見当たらないし、そもそも移動手段も共犯者もなしに標的を生かしたまま誘拐せよとは無茶も甚だしい。
「帰還兵の君らが自由に行動できるとしたら、他に手はないんだ。リスクがどうこう言うが、それは私も背負うことになる。嘘を報告するんだから当然だ。見つかれば私だっておしまいさ。これが、嘘の中ではマシな部類なんだ」
「堂々と自由に動ける職はないのか?」
「そんなものがあれば有無を言わせずやらせている。しかし我々は中央部へ近づくことも許されていないし、その前に君の経歴だと、巡視員の他に与えてやれる仕事が一つもない。帰還兵の就職には、収容所からの報告書を添える義務があるから、ごまかしようがないのだ」
「今の時点でやるのは、それこそ竹槍で戦闘機の話と変わらない。もう少し情報や手段を集めるべきだ」
「その言葉は、いずれやる、と捉えてもいいんだな」
「俺がそうすべきだと思ったら、やるだろう」
川口は酒瓶を握ったまましばらく考えた。雨音はますます高くなっていた。
「浅はかだと笑っているかね。私だって必死なんだよ。君もそうかと思っていたのだが」
「そういう時こそ、機を見て動かなければ」
「わかった。今はもう何も言うまい。私は君の事を報告し、その上で君の言う機を待つことにする」
吉田が呼ばれ、私は彼とともにホールへ戻った。