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第三話 かつて子猫は水曜日だった

 学校帰り、よく寄った公園のそばにあった団地に加奈という少女が住んでいた。年は私よりも二つ上で、犬を遊ばせるために毎日来ていた。彼女はどういう神の悪戯か頭頂部だけ毛が薄く、いつも帽子をかぶっていた。人間と遊んでいる姿は一度も見たことがなかった。

 ある日、私は公園にて数人の仲間と誰が最もアクロバティックに蛇口の水を飲めるか、という勝負に励んでいた。長い昼間の日差しを反射させながら景気よくほとばしる水は、少年たちには宝石くらいにまばゆく映った。

 私は負けず嫌いだったから、何をやっていても最後にはだいたい勝負になる。そういう意味ではいつも通り、意地になった私がかなり挑戦的な姿勢で蛇口の前に立った。とめどなく噴き出す水に少しずつ口を近づけていたら、見物していた彼女とちょうど目が合った。

 帽子の奥から微かにのぞく瞳が、淡く光を帯びていた。それは額が丸出しの女には絶対に不可能な笑みだった。私は後頭部に一生消えない傷を負い、同時に空想上で最初の妻を娶った。二十五歳の現在、私には八人の妻がいる。むろん、現実には一人もいない。


 川口との面談から、まる一日が経っている。そこらにいる係員に何度も「もう一度面談させろ」と伝えたのに返事がまだ来ない。

 結局どういう仕事が割り振られるのか、川口のせいで聞けなかった。余計な情報で私を惑わしてもいいが、やるべきことはやってくれないと困る。面談が済んだ者はみな、自分がいつから何をやるのかをもう知っていた。

 大半は港の近くにある製鉄所の作業員か、入国管理の仕事、つまり我々が日本で最初に会った者たちの後輩になったらしい。別便から合流した二人は疲労が激しすぎるとのことで、仲良く入院することになったようだ。特殊な例で、もと海兵だった男は漁師の仕事につけられた。

 石田は憲兵のような役につくこととなった。だから経歴の近い私もそうではないか、というのが彼の予想だ。公明正大たるロボットと私が似ている、とは洒落が効いている。

「笑わせてくれるよな。俺たちを罪人だなんて言っておいて、犯罪者を取り締まれってか」

 世界はいま、罪を犯した人間で溢れている。「戦争に加わった」という咎だ。

「信長、その話は危険だ。やめよう」

「そうだったな。国は守られたんだ」

 私が生まれ育った福岡を、石田の金沢を、この島以外の全てを売って。「愚か者にはできない芸当」なんてものをやりおおすのは、決まって度外れた愚か者だ。

「便所に行くから、ついでにジュースを貰ってきてやるよ。味は何がいい?」

「俺も行く。じっとしてると、どうもダメだ」

 我々を見張っている男に面談の再開を催促して、ホールを出た。


 帰還兵がこの施設の中で動いてよい範囲は意外に広い。年の単位で囚われていた経験も大きいかもしれないが、ほとんど自由自在とさえ思える。むろん処遇を保留してある身だから建物の外には出られないし、それどころかフロアを越える事すら禁じられているものの、寝起きするホールと同じ階であればだいたいどこでどう過ごしても構わなかった。私は川口からの呼び出しを待っている身分なので自分の寝床からあまり離れないようにしていたが、元気の余っているものは卓球に没頭したり、古い新聞の山に身を沈めたりして、夏休みの終わりにも似た時を味わっていた。

「あとどれくらい、俺たちはここにいるんだろう」

 点在する見張りの目を気にしつつ石田が呟いた。

「それは教えられなかったのか」

「言ってなかった。だけど書くものは昨日だいたい書いて出したし、身体検査も俺は終わってる。仕事の話も聞いた。もう、やる事なんて無いだろ」

「俺は何もやってないから、わからんな」

 身体検査は午前中で石田から始まって、杉村という男まで終わった。普通に考えれば、今日中に田中の番が来るだろう。

「指示がないと、どうにも身を持て余す」

「さっき通った部屋のどれかに、本が山ほどあったぞ。読んでたらいい」

「それは有難い」

 係員の詰所で貰った桃の缶ジュースを半分だけ飲み、私は石田と別れてホールへ戻った。その途中で見張りの男が私を呼び止めた。

「あんたの連れ、石田だろう」

「知り合いか? 呼んできてやろう」

「向こうは俺を知らん。そして知って欲しくない」

「それを言うために、俺に話しかけてきたのか?」

「その通りだが誤解するな。細かい話は抜きだ。あいつに、この国から逃げろと伝えてくれ」

「どういう事だ?」

 見張りの男は問いに答えず、ありったけの大声で私に罵声を浴びせた。私は大袈裟に壁を蹴ってから男の前を去った。


「身長、百七十センチ」

 空想の世界で二人の息子を育てている私でも、まさか全裸で自分の背丈を叫ぶ日が来ようとは、さすがに想像していなかった。三人の男がすばやくそれを書き留める。私自身も含めたら四人だ。いま検査を受けているのは、私しかいない。

「おそろしく効率の悪いやり方だ」

「正確にやっているだけさ」

 次の項目に「体重」とある。しかし秤は遠い。

「先に聴力やってくれよ。これが機械だろ」

 目の前にあった椅子に腰を下ろしてそう言うと、三人が何かを記録した。

「おい、そこで休むな」

 休みたくもなる。見たこともないような太い注射針で血をタップリと抜かれた上に、小便も紙コップいっぱい採られた。おそらく、さっき体に取り込んだ水分の三倍は奪われているだろう。その状態で腕立て伏せや反復横飛びを「可能な限りの速さ」で「可能な限りの数」こなしたのだ。こういった指示があると、なまじ体力があるものだから、我々のような者は並の人間の倍以上のメニューをこなしてしまう。さらに私の場合はそこに負けず嫌いの性分まで加わってしまうから始末に負えない。ほとんど意地と見栄で、平然とメニューをこなした風を装っている。実際は立っているのがやっとだった。誰譲りの何なのかは知らないが、私も損ばかりしている事だけは確かである。

「そういえば、ここで記憶障害の有無を調べたりできるのか?」

「そんな事ができるわけないだろう。しゃべってばかりいないで次に進めよ」

 記録係の態度が悪いのは当然だった。はじめに服を脱いだとき、あまりに私の筋肉を褒めるものだから、つい調子に乗って握力計を壊してしまっていたのだ。ただこれは、元軍人でしかも捕虜の間ずっと労働させられていた人間を計測する気があるとはとても思えない器具を寄越した彼らに非がある。気まずさをごまかす意味で彼らと積極的に関わってきたが、どうも裏目に出ているようだ。

 誰かが扉をノックした。

「川口本部長が、終わったら部屋に来いとさ」

 私は体重計を目がけて走った。


 雨が降り始めた。

 川口は窓を閉め、冷房をつけた。どえらい肩書きにふさわしく、彼の部屋は三階建ての施設の最上部に位置し、四面ある壁のうち二面がバルコニーつきの開口部となっている。

「遅くなってすまない。君の事を調べていたんだ」

「なぜ?」

「どういう体験をしたら、妻という、己の半身とも言える存在を忘れられるのかと思ってね。いや、だからこそ忘れたフリをしているのかもしれない。私はその答えを探していたのさ」

 頬の深い皺だけで笑みを作っているが、目がまったく笑っていない。何かを引き出そうとする顔だった。

「本部長っていうのは、随分とお気楽な仕事なんですね。うらやましい限りだ。で、俺の仕事を教えて下さいよ」

 だいぶ挑発した気でいたが、川口は眉ひとつ動かさずに私を見つめている。

「貴様、本部長どのに何て失礼な」

「かまわんさ、吉田」

 川口は部屋の入口に立つ見張りに出て行くよう命じた。

 呼ぶまで来るな、という言い回しが、この面談がすぐに終わる種類のものでないことを予想させた。

「私にもかつて妻がいたんだ」

 冷蔵庫から瓶を二本取り出し、一本を開けて飲みながら、もう一本を私の目の前、応接用の机に置いた。身体検査で得た程度の渇きでは、キリル文字が整然と綴られた商品に手を出す気にはなれない。

「仕事なんて何だっていいじゃないか、下らない。飲め。俺がしたいのは、お前にしかわからない話さ」

 何度も私に向かって瓶を持ち上げ、飲むように促してくる。

「わかった。俺も飲んで、話も聞こう。だからまず仕事を教えてくれ」

 気は進まないが仕方ない。私は瓶を手に取った。川口は満足そうに頷き、机に腰掛けた。

「流れから行けば君は巡視員という仕事ををやる事になる。警察みたいなもんだな。これは事件に巻き込まれて壊れてしまうのが多いんだが、だからと言って気の弱い奴にやらせるわけにもいかないから困っていた。今回、お前を入れて四人を巡視員にする予定だ」

 石田の読みは当たっていた。

「俺が当てはまるかどうか、あんな紙切れ二枚でわかるわけがないだろ」

「わかるのさ。我々は既に、採用基準を決めてある。単純で厳正なやり方だ。捕虜の時、懲罰を少なくとも十回以上は受けた人間。これを我々は巡視員に任命している」

 笑うしかなかった。懲罰の事をなにもわかっていない。

「俺が見てきた中で一番多かったのはお前だよ、信長。不屈にも程があるその闘志。名前どおり、たいしたものだ」

 川口は机から離れ、私の瓶に自分の瓶を当てた。乾杯を意図したようだ。

「だがな信長。ちょっと多すぎるんだ」

 背筋が凍った。千鳥足で部屋を歩き回る初老の男には似つかわしくない、荒んだ低音で囁く川口。

「そしてその割に、お前は綺麗な体をしている。昨日それが気になったのもあって、お前の処遇を保留した」

 単に言いそびれたまま一日を過ごしたわけじゃない、ということだろう。これだからこの男は信用できないのだ。

「信長くんよ、今日は何曜日だと思う?」

 川口が片眉だけを上げながら聞いてきた。

「さあ。感覚がもうない」

「そうかもしれないな。長くて辛い船旅のあとに、こんな屍みたいな暮らしだ」

 自分の年齢をも間違えて覚えていた男に、答えられるわけがない。

「ただ、今日が水曜日じゃないことだけは、何となくわかるだろう。どうだ?」

 彼の言わんとすることを理解するまでに、私はもう一語を必要とした。非常に情けない話ではある。

「子猫ちゃん」

 私は川口の元へ駆け寄り、彼の座っている机を蹴倒した。

 重量のある机だったが、思い切り蹴り上げたら見事にひっくり返った。

「そんなものを調べて、どうしたいんだ」

 反射的に私の対角線へと避難していた川口は軽く酒をあおりつつ移動して、そこらに散らばった抽斗の中身を拾い始めた。護衛を兼ねているらしき見張りの吉田が部屋に飛び込んできた。

「貴様、何をしたんだ」

 腕をねじ上げられると読んだ私はすぐに窓を背負う形をとった。

「待て、吉田。話にすれ違いがあっただけだ。出ていろ」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないと思ったら呼ぶ。行け」

 机だけ起こして吉田はまた出ていった。


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