第二話 かつて私には妻があった
予定の時刻が来た。石田は集合の時間ぎりぎりまで、どこかで隠れていた。寝ていたと言い張る顔が明らかに怪しい。戦術の上で必要な嘘なら平気で吐き通すであろう石田だが、下らない見栄や優しい気配りを目的に策を用いることはできない。だから日本大敗論にも絶対に同調しないし、頭に来た私が殴りかかればきっちり十倍にして返す。
「もう勘弁してくれよ、信長」
いくら問いただしても答えない。眼鏡で抑えつけてある髪を全部かき出しては、また眼鏡をかけ直す。これは思考回路への負荷が極限まで高まっているときの行動だった。
私だって、いやむしろ私こそが逃避行動を欲していた。これからは、捕虜だった頃よりもひどい暮らしが待っている気しかしない。一人で時間を待っていた間、私が何度叫びそうになったか。何度クレーンに頭を叩きつけようと思ったか。考えてみたら石田という男そのものが、私にとって精神的負荷を解き放つ存在だったのかもしれない。今になって、心からそう言える。
係員の指示によって、我々は一台のバスに押し込まれた。座席は少なかったが、私と石田は座ることができた。船に秩序をもたらした序列は、まだ生きていた。ただし見渡しても、バスは他にない。仮の入国審査らしきものを受けているであろう、別便で戻ってきた帰還兵たちが来たら、再び混乱が起こる。それに備えて乗降口の側で立っている数人を私は呼び寄せた。
「ここにいろ。俺たちがときどき代わってやるよ」
「おい信長、俺もか」
「俺が俺たちって言ったら、お前のことだ」
「ほんとに、おかしな事ばかり思いつく男だなぁ」
船でも同じことをやった。私はできるだけ多くそういう行動をとるように心がけている。もちろん、取り返しがつかなくなりそうな場面では流石に控える。泥を被る自分を、好んでいるのだ。それこそが人間だと私は考えているのだが、やはり石田には納得してもらえない。
「来たぞ。ずいぶん少ないな」
我々が驚くのも当然だった。バスに向かって歩いてきたのは二人。顔色の悪さも尋常ではない。
「やりあったんだろうな」
私には他の考えが浮かばなかった。
「納得できない。彼らの乗ってきた船は我々のとたいして変わらない大きさだった。あそこまで少ないのもまた不自然だ」
「何だっていいさ。そうだろ? 十人も二十人も来てたら、また汗まみれの旅だったんだ。いや、逃げ場がない分もっとひどい事になってた。そうはならなかった。それで充分だ」
そんな誰かの意見に、石田は納得した。二人組は衰弱しきっていた。バスに乗り込んだと同時にその場で目を閉じて眠った。
目的地は近かった。港から見えていた街並みの、入り口とでも言えるところに位置していた。だから席を替わってやるどころの話でもなかった。別便の二人はもう自力で身を起こせず、我々を出迎えた者たちに施設の中へと引きずりこまれていった。
コンクリートの壁は見るからに古い造りで、仕上げのタイルが剥げ落ちてほとんど残っていなかった。その上に無理やり塗装してある。真夏の日差しを受ける濃厚な緑色の鮮やかさが、周りの木々のそれからあからさまに浮いており、かえって薄気味悪い。脱走を防ぐ目的でありそうな金網や鉄柵なんかは特に見当たらなかった。
「おい信長よ」
石田が囁いた。彼は私よりも頭ひとつ近く大きいので、内緒話も骨が折れる。
「ここの奴らも剣を差している。これはどういう事だろう」
二年前、日本の降伏は呆れるほど速やかだった。
戦前、時の内閣が打ち出していた方針をかいつまんで言えば、同盟国の決定に徹底して盲従する、というものだった。第三次大戦をそのスタイルで上手く切り抜けた経験を踏襲し、日本は同盟の要請を全部のみ続けた。
金を出せと言われれば出し、基地を作らせろと言われれば作った。その挙句「人も貸せ」と言われた時に差し出されたのが、他でもない我々だった。
どう見ても尽くしすぎなくらい尽くしてきた同盟をある日いきなり裏切り、日本は敵だった連合国に降伏した。「人類の平和を願って」というのがその時の建前で、本州以南の資源全てと一切の武器を放棄することを条件に、という話を私は捕虜だった頃に聞いた。
日本に裏切られた国々の決断は早かった。辛うじて保たれていた均衡が破れ、ロボットばかりを戦わせていられない状況が近づいていると読んだ彼らは早々に講和を持ちかけ、戦争が終わった。勝った側が負けた側に突きつけた停戦の条件の中にも、武器の所持を禁ずる項目があったはずだ。
「国家を賭けるような事案では、剣など武器でもなんでもない。そういう理屈かな」
「あまり納得いかんな」
施設に向かって歩く我々に寄り添う職員の腰だけを、石田はじっと見ていた。
北海道の夏は思ったよりずっと暑い。だから我々の目的地である施設のホールには冷房が効いていた。それがちょっと効きすぎて困った。こんな環境が久々すぎたからかもしれないが、半裸だった私や石田も思わず上着を着込んでしまった。笛が鳴った。我々は反射的に会話を止めて直立の姿勢をとった。壁際に座らされていた、別便の二人も同様だった。
「そのまましばらくお待ちください」
一台高いところに大きな机が置いてあり、男が数人、椅子に座っている。隣の石田が、まだ緊張している。何台もの台車が走る音と旨そうな匂いが背後から近づいてきた。こみ上げてくる笑みを必死に押し殺して我々は指示通り待った。
一人ひとりの足元にゴザが敷かれ、そこに一人用のテーブルが乗り、空の器がその上に並べられた。座るよう促されたので従うと、列と列の間を台車が一台ずつ通ってゆき、そのたびに器がどんどん食事で満ちていった。兵士時代未満だが捕虜時代以上のめしが全員に一通り揃ったところで号令がかかった。私は我を忘れてむしゃぶりついた。恥ずかしい話、明日への不安など完全に消し飛んでいた。
動けないくらい満腹となるまで五日ぶりの食事を楽しんだあとの気だるい空気が、ホールを覆っている。石田も警戒を解き、眠気との戦いを始めていた。彼本来の姿を取り戻した、とも言える。
「今日は多いな。二十三人は初めてかもしれない」
壇上の男が言った。川口と名乗った彼は、我々をこれから保護してゆく組織の一人らしい。ネクタイ、スーツ、白髪に革靴。明け方まで私が憎悪していた人間のイメージを、笑ってしまうくらい体現している。
「まずは君らが無事だったことを祝い、同時に呼び戻すまでに時がかかりすぎたことを詫びる」
川口が起立して頭を下げると、同じ席にいた人間がそれに続いた。それから彼は戦時の日本を振り返り、現在の日本を語り、将来の日本への願いを説いた。
無駄な長話を聞かされているうちにどうせ寝ただろう、と思っていた石田がまだ起きていて、知らぬ間にまた緊張を高めていたから驚いた。
「石田、お前おかしいぞ。どうした」
視線や体は川口に向けたまま、私は彼に訊いた。
「俺ら、このまま斬られるかもしれん」
「バカな」
「そうだったらいいけど、たぶん俺らの横や後ろに並んでいる奴らはその気でいる」
めしがきた時点で我々と同数かそれ以下だった警備兵らしき人間が今やホールを取り囲むようにズラリと揃っているのは、私も気になっていた。
「数も、まあ、そうなんだけど。入り口のあたりをちょっと見てみろ」
壇上の話し手は既に、川口から別の男に変わっている。中身は川口のそれの、言い回しをちょっと言い換えているだけだった。後ろからでもわかるくらい熟睡する男が最前列にいるというのに、壇の上も下もまったく気にかけていない。さすがに不審に思い、私は隙を待って石田の言う通りにしてみた。
私は声を上げそうになった。港で石田に睨まれて斬りかからんとしていた、あの男が立っていた。
「あいつが何でここに」
「わからんが、あいつらの武器は本物だ。身を守る用意だけはしておいた方がいい」
石田と私はテーブルの脚を握ったまま、いつ終わるとも知れない中年たちの独演を聴いていた。
我々のような経歴を持つ人間からすれば、木の板にゴザ敷きで眠れるということは、最高級のベッドともう同じ意味になる。彼らがそれを知っているのか、予算の問題なのか、それとも単なる悪意かはわからない。とにかく我々は久しぶりの宴会と安眠を満喫した。ただし、酒にまったく手をつけなかった石田を除く。
彼はついに一睡もしないまま朝を迎え、個人の面談を受けている。剣を佩いた人間など、晩飯の頃には我々の半分以下にまで減っていたというのに、石田はどうしたわけかずっと臨戦態勢を崩さなかった。こんなところで訳もなく斬るくらいなら最初から呼ばないか港の時点で死んでいる、と言っても「納得できない」の一点張りだった。
「田中信長」
呼んだ男のあとをついていく。私の番が回ってきた。
「田中信長、入ります」
「みんなそれをやる。もう戦争は終わっているというのにな」
川口が苦笑した。
「あなたも戦争に?」
「まさか。私くらいの親父が行くとしたら、当時は将官以上だったことになる。そんなのが、今ごろこんなところにいると思うかい?」
日当たりの良い部屋だった。冷房は使っていない。窓の向こうから、蝉の声が聞こえる。
「君の個人情報がここに書いてある」
川口は机の上にある二枚の紙を指さした。
「だいぶ活躍しているな。生きているのが不思議なくらいだ。これほどだと、何の仕事が合っているか、逆に難しいぞ」
「仲間に恵まれただけです」
「それも実力さ。歳を重ねればわかる」
私はこの男のことを一度たりとも信用しなかった。はじめに感じた印象が残っていたし、私が何か言った後に返ってくる言葉が、どれもうさん臭かった。川口は私の履歴を眺めながら、ぽつぽつと質問をよこしてきた。当たり障りのない事ばかりだったので、私も正直に答えた。
「今も奥さんに会いたいかね」
いるのなら、もちろん頷いただろう。
「私は独身ですが」
「だが戸籍にあるぞ」
「経歴を見ればわかるでしょう。どこでどうやって結婚できるんです」
軍人になるための学校を出てすぐに軍に入り、正式な所属が決まったと思ったらすぐ、戦地に派遣されたのだ。
「居ると言ってて実は居なかった、は何度かあった。死んだと思って手続きしちゃってただの、それこそただの妄想だっただの。しかし居るのに居ないっていうパターンは初めてだな」
二枚の紙を何度も見返しながら、川口は溜息を一つついた。
「記憶を失っているのか?」
「だとしても、なくせる記憶が戦争のものしかない」
いくら否定しても、川口は「居る」と言って譲らない。
「じゃあ、それは誰で、どういう人なんですか」
私が逆に訊くと、川口は急に喋るのをやめた。
蝉の声だけが響く。
水差しのまわりの水滴が、ゆっくり垂れていく。
「仕方がない、そうしようか。今となっては互いにその方がいいだろう」
川口が私の資料を片付けて、入口で直立している男を呼んだ。