第一話 かつて日本は北海道だった
ジャンルはいちおうファンタジーが近いかなと思います。
ただ、別なものにしようとしていたアイディアも取り込むことにしたので、実際は何とすべきか考え中です。
文が長めで改行も少ないので読みにくいかもしれませんが、結末はだいたい考えてあるので少なくとも尻切れにはなりません。良かったらよろしくお願い致します。
喜ぶべきか悲しむべきか、偉大なるアインシュタインによる未来への警鐘を込めた予言は、哀れなくらい綺麗に外れた。
三度目の世界大戦に核は用いられなかったし、今回のそれで活躍したのは石と棍棒ではなくロボットたちだった。いま私の隣で大いびきをかいている男も、そのうちの一人だったと言える。彼とは長い付き合いとなった。実際の戦場では一度も顔を合わせたことがなかったが、だからこそ紛れもなく、かけがえのない「戦友」の一人だった。
四人部屋に二十一人、丸まる五日間の船旅。こんな馬鹿げた話をまもなく無事に終えられる事もそうだし、そもそもこの船に乗れたのも、私の連れが彼だったからに他ならない。ねじ込むように繰り返される到着のアナウンスと船室の内外で湧き上がる歓声をものともせずに眠りこけている男に、まず私は胸の中で礼を述べた。
「起きろ、もうすぐ着く」
だらけきっていた筋肉が一気に収縮し、同時に目を極限見開いて船室の全てを把握しようとするさまは、まさに「兵器」としか言いようがない。二年ほど共に暮らしてきた私でなければ、彼を揺すった右腕がこの時点で既に切断されていても不思議ではなかった。事実、出航した翌日にして背後から彼の肩を叩き、前歯を三本失った男もいる。すし詰めにも程があるこの旅の間、若輩の私が充分に手足を伸ばしていられたのは、全くもって彼のおかげだった。どれ程の屍を生み出したのち踏み越えてきたかわからないブーツを、私はその脚ごと突き返した。
「ついに帰ってきたな」
何ごともなかったかのように懐から取り出した手拭いで顔の脂を落とし、男が爽やかに笑った。周りの男たちも彼に倣って、各々の身づくろいに取りかかった。そのうち誰からともなく服を脱ぎ始め、手近な人間同士で背中を拭き合うことになった。囚われの身から、二年ぶりの日本。できるだけ綺麗な体で帰りたい気持ちは、私とて同じだ。外に出ていた者たちも仲間に加わり、喜びと不安の入り混じった清らかなひと時が過ぎ、やがて船は静かに前進をやめた。
暗く長い通路を渡り終えると、制服を着た数人の男が待っていた。全員、いかにも国の最前線を守っていそうな背格好で、一種の陣形ともとれる配置で立っている。手のかざし方を見れば愛犬家かどうかががおおむね想像できるように、軍刀を差した佇まいだけで彼らが人間を斬ったことがあるとわかった。我々は横一列に並ばされた。一人ずつ写真を撮られ、名前や年齢、前歴などを順番に話す。私の番が来て答えたら、わが相棒が笑った。
「田中、お前いい名前してたんだな」
親は子の名前に願いを込める。私は信長という。願いは一目瞭然のようで、だけどいまいちつかみどころがない。自慢の名だが、あまりにも壮大すぎるし、印象的すぎる。田中と石田で通じ合えていた時代は終わった。これまでに会った全ての人と同じように、彼も私を苗字で呼ぶことは二度とないだろう。
「おい、隣。誰が喋ってもいいと言った」
私に名を訊いていた係員が叫んだ。ずれてもいない眼鏡を直し、石田は首の向きだけを変えた。
「喋るなという指示はどこからも受けていない」
係の男たち全ての注意が、私と石田を中心とした半径一メートルくらいの円に集まっているのが肌でわかる。誰かが「やめろ」とつぶやいた。叫んだ係員は腰の刀を掴んでいる。石田は身長が高いし涼しげな顔つきで、そのうえ眼鏡に似た何かをつけているから気づきにくいかもしれない。しかし近づいて目が合えば、この男が頭ごなしに物を言っていい種なのかどうかを知ることができるだろう。
「それなら今から指示を出すぞ。あんまり騒ぐな」
後方にいた、まとめ役らしき男が言った。石田は頷いたあと、天井に目をやった。
検査らしきものはすぐに終わった。我々は身元が確かだから、どれが誰なのかを確認できればそれで良かった。二十四歳だと思っていた私がいつの間にか二十五歳になっていたことも、石田が貫禄の割に低い階級だったことも、全く問題にならなかった。彼に睨まれただけで刀を抜きかけた男は知らぬ間に姿を消していた。
四時間ほどの待ち時間ができた。別な航路の帰国者と合流して、それから手続きのために市役所へ向かう段取りだという。それほどの時間はあっても、ここには飯を食わせてくれるところもないし休むところもない。一人の男が適当な地べたで横になったら、係の男が物凄い速さで叩き起こしていた。五日もの間飲まず食わずで船に揺られ続けていた人間に対してあまりにも無情な仕打ちとはいえ、考えてみれば当然の処置ではある。他の面々と同じように、私は石田を誘って建物の外に出た。
朝日を浴びて鋼材の赤を眩しく輝かすクレーンと、色彩からすると無茶苦茶だが寸法からすれば整然と積んであるコンテナ群の向こう、遠くに見える街並みのいじらしさ。その奥にある、山の緑の鮮やかさ。見たことなんてあるわけないのに見覚えのある景色が呼び込む、初めて来たのになぜか懐かしいという心地よい矛盾。頭の中で描いていた敗戦国の無惨さなど、どこにも見当たらない。
「そんな気はしてたけど、俺たちが乗ってきたのは貨物船だったんだな」
石田と私の見るものは、同じようで違っていた。
「そういうくくりをしていられる時代じゃないって事だろう。船内放送もあったし、出迎えの手際も良かった。俺たちのために出せる船は、今の日本にはあれしかないんだよ」
「なるほど。納得した」
それでも、国から迎えが来たのだ。
「政治家っていうのはやっぱり偉いもんなんだな」
「いきなり何を言い出す? 昨日までの決意はどうしたんだよ」
石田が呆れかえるのも無理はない。つい数時間まで、私はもしも生きて帰れたならこの国を焼き尽くす、と息巻いていたのだ。私のような形で戦争を迎え、終えた者なら当たり前の事だ。だからこそ、その憎悪がひっくり返ったときに立ち上ってきた気持ちもまた強烈だった。
太陽、波の音、風に雲。べつに日本固有のものでもないこれら全てに愛おしみをおぼえ、木や草や花だけでなく金属やコンクリートや作業員の親父にまでいちいち飛びついてキスしたくなるような、訳のわからない気分だった。
「やめたよ。国を守るっていう言葉の、本当の意味が今わかった」
この時は心からそう思った。
強引に私を揺さぶる者がいる。私は腹の上で組んでいた腕の力をさりげなく抜いて、石田ばりの手刀を放った。ただ相手がその石田だったので、なんの問題にもならなかった。「さっきまで寝ていた」という理由だけで彼に見張りをさせて休んでいた私に文句ひとつ言わず、石田は私の横に座った。さすがの彼も日陰のコンテナの意外な冷え具合までは予測しきれなかったようだ。腰に巻いた上着をあわてて背中に敷き、むき出しの肌をかばった。
「俺、だいぶ寝てた?」
「いや、そうでもないんじゃないかな。時間はまだある」
「じゃあ何で起こした。集合時間になったら、って言ったのに」
「信長が寝てて暇だったから、さっきそこらで働く人間と喋ってきたんだ。それで聞いた話をお前に教えようと思って起こした」
一気に目が覚めた。波とエンジンの音が止み、全身の血の気がひいてゆく。石田が指示を超えたのだ。
「聞かせてくれ」
「俺たちも、ここかここら辺で働くことになるらしい」
「決まってるのか」
指先から少しずつ熱が戻ってきた。そのくらいの事なら構わない。どうやって食っていくかを考えずに済んだと思えば、むしろありがたくさえある。
「決まってるどころか、俺たちはそのために返されたみたいだ。俺が話した男も戦争がえりだった」
見るからに不審な我々みたいな人間と雑談しながらでも許される職場なら、兵士だった頃よりもはるかに良い環境だと言える。捕虜だった頃に比べれば、それはもう極楽にも等しい。
つまり落とし穴が待っている、と見るべきだ。私の人生がそうだとは言わないが、この世はだいたいそのようにできている。私はさらなる情報を石田に求めた。
「いつもの考えすぎだと思う。アメリカとやった時ほどには負けてないだろ」
彼は自分と作業員との会話を見事に再現したあとでそう結んだ。
とことんまで戦う事に、人類は懲りた。第二次大戦と第三次のそれとを戦争の期間や死傷者で比べて、誰かが言っていた。どこまでを「人間」と呼ぶかによるものの、とりあえず今回の大戦は、その視点を補強する結果となったと見ることができる。だから石田のように今回の敗戦を捉えている者があってもおかしくはない。私の知る限りではむしろ主流を占めている。日本は銃弾の一発さえ撃たれずに終戦を迎えているので、戦地に派遣された者を除けば死者どころか怪我人さえいない。
「俺はそうは思えない」
「どっちに対して?」
「両方だ。考えすぎだとは思わないし、アメリカとやった時ほど負けてないとも思わない」
「うしろの半分は、とりあえずおいておこう。またケンカになるだろ」
石田が逃げるように私の側から去っていった。私とて彼と争うつもりなんてない。友達と呼べる人間はもう他に誰もいないし、何度やっても痛い目を見るのは私だけだった。それでも彼が措こうとした事柄こそが、どうあっても血の通った人間として、石田に譲れないただ一つのものだった。この国の民として、と表した方が正しい。
津軽海峡より南を全部奪われた。もはや日本と呼べるのは、北の果ての、この島の他には何もない。かつて北海道と呼んでいたそれが、「日本」の二字の意味である。