ジルとルークと婚約破棄(前編)
ふと、ジルが婚約破棄イベントに巻き込まれたらどうなるか……。
と思って書いてみました。
即座に無謀と気が付きましたけれど。
お昼時。およそ七分入りの学園内五つ星レストラン『プロビデンスの瞳』に、朗々とした男子生徒の糾弾の声が轟きました。
「グロリア、今日限りをもって君との婚約を破棄させてもらう! 僕は真の愛に目覚めたんだ、ロックワイヤー男爵令嬢のリアナ嬢こそ、僕を支える心のオアシス。運命の相手。僕の婚約者に相応しい女性だ!」
「「「「「ぶほっ!」」」」」
ここリビティウム皇立学園はシレント央国内にあって一種の治外法権。都市内都市国家であり、その広大な敷地内には幾つもの飲食施設があります。
小は出店のような購買部から、一番多いのは軽食メインのカフェテリア。あるいは庶民向けのビストロ。そして、貴族王族でも十分に満足できるレストランなど様々です。
そんな飲食店の中でも最も格式と権威のあるのが『プロビデンスの瞳』になります。
もともと古シレント王国の時代から四百年以上続いた由緒ある老舗名店のオーナーを拝み倒し、従業員ごと食品部門専門塔四階にある展望台付き最上階へと移設したもので、ここを利用できるのは基本的に学園の関係者限定で、なおかつ准教授か教導師以上。また、学生の場合は伯爵以上の身分でなおかつ一見客はお断り。事前に要予約と徹底しています。
私もルークやリーゼロッテ様のお誘いで、何度か利用したことはありましたけれど、塵ひとつ落ちていない店内、専門の楽団による演奏、選び抜かれた素材を使っての完璧な伝統料理、それでいてお客様を緊張させない……単に料理だけではなく、幸福な時間を提供する極上のお店と言えるでしょう。
とはいえ、フルコースはカロリーが半端ないので(レストランでフルコース以外を注文する貴族はいません。一品料理というのは非常食扱いです)、私は自ら率先して利用することはないのですが、
「午後は特に出席予定の講義もないであろう? ならたまには皆で軽く食事をせぬか。実はそのつもりで予約をしておいたのじゃ」
というリーゼロッテ様のお誘いで、この日、私たちは顔見知り同士で示し合わせて会食となりました。
面子はいつものルークとダニエル、ヴィオラ、リーゼロッテ様です(各自の随員に関しては、別のフロアで待機となります)。
そのようなわけで、昨今の央都の流行や他国の情勢、講義のレポートについてなどを話題にしながら、始終和やかに食事を楽しんでいた私たち。
それは私たち以外も同じで、場を弁えた慎み深い歓談の声と、それを邪魔しない緩やかな楽団の演奏によってゆったりとした時間が流れていました――そんな店内の厳かな雰囲気が、「婚約破棄」という剣呑な一言で、一瞬にしてどこかへ吹き飛んだのです。
私たち(私、ルーク、ヴィオラ、リーゼロッテ様、ダニエルの五人)も、不意打ちともいえるこの叫びに、食べていたコース料理を危うく喉につかえそうになってしまいました。
すかさず傍に待機していた給仕がナプキンを全員に手渡してくれます。
「ありがとうございます……」
お礼を言いながらチップを渡します(一瞬、虚を衝かれた顔をした給仕の方ですが、すぐににっこりと笑みを浮かべて私へ折り目正しい一礼をします)。
当然、この傍若無人な叫びは静かな店内の隅々まで響き渡り、一瞬で私語が途絶え、その騒ぎの中心へと一斉に奇異と不快な視線が集中しました。
「えーと、もしかして何かの余興でしょうか……?」
「いや、さすがに店の品格を下げるようなこんな余興はしないでしょうね」
思わずそう呟いた私の疑問にヴィオラが苦笑しながら答えるのと同時に、苦味走ったナイスミドル(頭部が涼しいのがセクシーです)である支配人さんが、即座に私たちの席へとやってきて「お騒がせして申し訳ございません」と謝辞をしてくれました。
他のテーブルでもマネージャーや店員が謝り倒し、専用楽団は即興で演奏の演目を変えて、穏やかなものから朗々とした重厚な曲にして騒ぎを鎮めています。
ここらへんはさすがはシレントでも最高峰のレストランだけのことはあります。従業員の教育が行き届いてますわね。ルタンドゥテも見習わなければ。
感心しながら無言のままナプキンで口元をぬぐった私たちは、騒ぎの起きた中央付近にあるテーブル席へと視線を巡らせます。
ちなみに利用者の身分に応じて出入り口から遠くなるのがセオリーですので(お手洗いの前は別ですが)、元凶の位置関係から考えるに、まあまあ中堅の身分の方ということになるでしょう。
「もう一度言う。グロリア、君との婚約はいまこの場をもって白紙とさせてもらう!」
「――なっ……!?」
さて、折りしもそこでは、三人の男女が立ち上がって愁嘆場を演じていました。
ひとりは傲然と胸を張って、『言ってやった』感満載のドヤ顔をした、そこそこ整った顔立ちの金髪碧眼の男子生徒。
それと正面で相対する位置でわななく、ブルネットの髪をソバージュにした女子にしては長身でスタイルのいい女子生徒。
そして、男子生徒の陰に庇われる位置にいる、クリクリの瞳に小動物っぽい動作が特徴的な深緑色の髪の女子生徒。
あら? 心なしかブルネットの女子生徒は以前にお会いしたことがあるような気がしますわ。
「むっ、あそこで青い顔をしておるのはグロリアか? それにしても婚約破棄とは穏やかではないのぉ」
苦虫を噛み潰したような顔をしているリーゼロッテ様の視線と言葉で、ブルネットの髪の御令嬢について思い出しました。
確か女子生徒はシレント央国の侯爵家令嬢のグロリア様だったはず。
もう一年以上前になりますけれど、リーゼロッテ様主催のお茶会で、一度ご挨拶した覚えがあります。
あと、男子生徒の背後に庇われるように引っ付いてる女生徒は……。
「あの小柄で女子の制服を着ている生徒は、確か半年前に入学したユニス法国の隣国ヌービルム王国の男爵家出身のリアナ…嬢ですね」
すかさずヴィオラ深緑髪の女子生徒について説明してくれました。
「おお、あれがそうか。なにやら所構わず貴族の男子に媚を売る下級貴族の女生徒がいるという話であったが、なるほどのぉ」
ふん、と小馬鹿にしたように鼻から息を吐いてリーゼロッテ様はリアナ嬢を横目に睨みます。
「そういえば四、五ヶ月前から顔見知りの令息の周囲をうろちょろしておったな。特に挨拶もなかったので気にもしておらんかったが。――ジル、おぬしの処には挨拶があったか?」
「いえ、こうして見たのも初めてですわ」
もしかするとどこかですれ違っているのかも知れませんけれど、面と向かって言葉を交わしたことはありませんわね。
そう答えると、リーゼロッテ様が微妙に凄みを感じさせる笑みを浮かべられました。
「ほほう。軽く仮にもリビティウム皇国に所属する貴族の令嬢が、いまだに妾に挨拶もない……には、まあ下級貴族であるので、百歩譲って気後れしていると解釈しても良いが、隣国ユニスのしかも国教である聖女教団の巫女姫に一言もないとは、不心得者、慮外者扱いされても文句は言えぬのぉ」
そういうものなのかしら?
なにはともあれ私以外のこのテーブルについている面子の共通認識として、「リアナ嬢は常識知らずの尻軽」と刻まれてしまったみたいです。
「つーか、あいつは帝国の中央貴族で、去年一緒に留学してきたマルケーゼ伯爵令息のライオットじゃねえか」
「――っ!? 言われてみれば、確かにあれはライオットだね」
と、何やら怪訝な表情で残るひとり、男子生徒の顔を眺めていたダニエルが――まるで倉庫の隅に放置してあった葡萄酒の滓を飲み込んだような――渋い表情でそう吐き捨てました。
ルークも愕然とした表情で追従します。
「お知り合いですの?」
「ええ、さほど親しくはないのですが、恥ずかしながら帝国からの同期留学生で、中央貴族の嫡男です」
別にルークに責任がある問題ではないと思いますが、それでも苦渋の表情でそう答えてくれました。
「えーと、つまりこの状況って……いわゆる貴族の『婚約破棄イベント』でしょうか?」
「そのようじゃのぉ。まったく時と場所と相手を弁えぬのか、あの帝国の盆暗男は」
「大方衆目のある場所で婚約者を一方的にやり込められるとでも思って、この場を選んだのだろうね」
「「「乙女の敵 (ですわ)(じゃの)(だねえ)」」」
義憤に駆られる私、リーゼロッテ様、ヴィオラの王女(?)三人組。
他の学生や教員の皆さんも同じ認識のようで、悦にふける男子生徒には冷ややかな目を、蒼白の表情で佇む女子生徒には憐憫の目が向けられます。
誰が善玉で誰が悪玉なのか、誰の目にも明らかになった瞬間でした。
もうひとりいるオマケは眼中に入っていません。
一方、
「婚約破棄イベント……? えーと、普通、婚約破棄って両家の承諾の元粛々と行うものなじゃないの? 貴族なおさら所属する国家の法律に合わせて公文書を提出し、あと結婚ほど煩雑じゃないけど神殿の許可もいる筈だよね?」
ルークは自分の中の常識と合致しないこのイベントを前に、訳知り顔のダニエルに問いかけています。
「あー、そうなんだけど。最近、流行っているらしいだわ、若い貴族を中心にこーいう『俺は自由だ!』『親の言いなりになる結婚なんて間違っている!』『愛こそすべてだ!!』という、変な風潮が」
最近の若い連中はなに考えてるのかねえ……と、微妙に爺臭い発言をするダニエル。
「――いや、さんざん許嫁のセレスティナ嬢との結婚を嫌がっていたお前がそれを言うのかい」
ジト目で自分の事を棚に上げる親友を見据えるルーク。
「それはそれこれはこれだよ。第一俺はセレスとの結婚自体を破棄しようとは思ってないさ。ただお互いに若いうちに経験を積んでおいた方がいいと提案しただけで」
「……それって単に結婚前にもっと遊んでおきたいっていう我儘じゃないのか」
冷ややかな目で総括するルーク。
一方、店の中央で繰り広げられている愁嘆場は更に盛り上がっているようで、
「私の何が悪いというのですか!?」
「そんなこともわからないのかっ。ふん、自分の胸に聞いてみろ!」
「わかるわけがありません!」
「ええいっ、この期に及んでとぼける気か、最低だな!」
お互いにまなじりを吊り上げて怒鳴りあっています。
「バカバカしい。大陸の国家はすべて法治国家ですよ。王でさえ法に拘束されるのに、あんな感情論で婚約破棄ができるわけはないでしょう」
ルークの意見はしごく真っ当ですが、ですが世の中は偉い人が白といえば黒も白に変わることがあります。
「そうですわね。あくまでパフォーマンスだと思います。とはいえ男子生徒――ライオット某氏は帝国中央貴族の伯爵家嫡子ですので、これが口頭でもなんでも婚約破棄を申し渡した場合、シレント央国は立場的には皇国のイチ公爵家に過ぎませんので、さらにはその臣下である侯爵家の姫であるグロリア嬢には反論の余地がないという、非常に腹立たしい状況になりますわね」
個人として反論はしているみたいですが、家同士の力関係になれば帝国伯爵というブランドは絶大ですので、おそらくは黒でも白となってしまうでしょう。
ちなみに名目上のことですが、リビティウム皇国における身分的にはシレント央国の国王は公爵で、オーランシュ国王はご存知辺境伯。ユニス法国の国王は法王のままですから、実はあのテオドロス法王聖下が現体制下では一番権威があることになっていたりします。
その法王の直系血族にあたる私も、そんなわけでユニスの王女様でそれゆえに『巫女姫』となるわけで、なにげにリビティウムでも二番目に高貴な立場にして、なおかつ神聖にして犯すべからざる存在……らしいです。神殿の関係者曰く。
「しかし、こんな場所でなおかつ女に恥をかかせようというその心根が許せんのぉ。ましてシレントの姫である妾の目の前でじゃぞ。友人として王女としてなにより同じく婚約者を持つひとりの女として、これは見逃せぬぞ――よろしいかな、ルーカス殿下?」
相手が帝国の中央貴族ということで、ちらりとルークの顔を窺うリーゼロッテ様。
「ええ、どうも話を聞く限り決められた婚約者がいる立場でありながら、他のご令嬢にうつつを抜かして二股を成し、なおかつ不正規的な手段で相手を傷つけて別れようと画策する。紳士として帝国帝族としてなにより婚約者をないがしろにする態度は、同じ立場として看過できないですから。僕も最大限協力します」
ルークにしては珍しく本気で憤慨している様子。
「婚約者を蔑ろにする不誠実な輩に腹を立てておるんじゃろう。女冥利に尽きるの、ジル」
リーゼロッテ様に冷やかされて、ああ、そういえば私ってルークの婚約者ポジションだったっけ、と思い出しました。
「……なるほど。あの状況を自分に当てはめれば、実はルークがエステルと私とを二股かけて、天秤の針をエステル側に振った状態ということですわね」
ふと思いついて当事者に自分たちを投影してみました。
「「「「いやいや、ないない。そんなこと絶対にないっ!!!!!!」」」」
途端、言下に全力否定するルークを筆頭にした皆さん。いえ、たとえ話ですけれど……。
「あり得ない仮定をしてもしかたないでしょう、ジル嬢。ご存知の通りこの皇子様お姫様に骨の髄までぞっこんですよ。こいつが浮気とか太陽が西の空から昇ってもありえませんね」
「うむ。さすがにそのたとえ話は不謹慎じゃぞ、ジル。そもそもお主を天秤の片側に乗せた時点で、もう片側に乗せられる美姫などこの世には存在せん。まして篭絡するなど」
「えー? そんなことないと思いますわよ。そもそも女性の美しさに順位なんてないですわ」
「一般的にはそうじゃ。が、おぬしは別格じゃ。その気になれば身分や才能や人脈を使わんでも、その美貌と色香だけで大陸をひっくり返せるぞ。つーか、おぬしはもうちょっと慢心せい!」
ダニエルとリーゼロッテ様が必死にルークの弁護に回り……いつの間にか私がお叱りを受ける形になってしまいました。
いや、そこは「慢心するな」と増長しないように諌める場面ではないでしょうか? あと、その言い方だと私って見た目以外はしょーもないと言われている様な気がします。
ちなみにそんな私の隣では、「もしかして僕は試されているんでしょうか……」と、頭を抱えるルークをヴィオラが「ドンマイ」と励ましていました。
どうやらルークの浮気という例えは不謹慎なようですわね。ならば――。
「えーと、では、私がエステルに嫉妬して意地悪をする悪役令嬢になったと仮定」
「「「「だからありえない妄想はやめてください!!!!!!」」」」
これまた言い切る前に全員に話の腰を折られてしまいました。
なぜ私がお約束の設定を口に出すとことごとく駄目だしをされるのでしょう? 解せません。




