狼さんと森の小さな魔女(後編)
おつかいを終えて、西の開拓村を出てから三十分ほど歩いたところで、不意にフィーアが足を止め、背中の毛と翼を広げ、四肢に力を込めた姿勢で呻り声を放ちはじめました。
「あら、どうしたの、フィーア? そんなところで踏ん張って。うんうんかしら?」
飼い主の責任として、私は荷物から小型のシャベルと袋を取り出して構えます。
「うおぉぉぉ~~~んっ!!(気を付けて、マスター! 大きいのが来るよ!)」
「はいはい。大きい方ですね~」
準備は万全です。
と、答えた刹那、傍らの森――【闇の森】ではなく、ただの森です――の中から、巨大な獣が雄叫びとともに飛び出してしました。
『グオオオオオオォォォォォォオオオオオオオッッ!!!!』
「うおーーーん!!」
「なっ――!?」
それ――全長四メルトほどもある赤い鬣を持った巨大熊を前に、私は思わず……。
「なーんだ、ただの森の熊さんじゃない。もしかして、これを警戒していたの、フィーア?」
「わんわわん!」
驚いて損したと思いながら、手にしたスコップと袋を荷物に戻します。
その途端、背後の雑木林の中で人がズッコケたような音が聞こえたような気がしましたけれど、多分、森の中にいた鹿でも逃げたのでしょう。
『ガオオオオッガオオオオオオオッ!!!』
「うお~~ん!!」
ちょっと背後を振り返りかけた瞬間、あっという間に目の前まで巨大熊が迫り、巨木のような前足を振り上げました。
そこへ、比較するのもおこがましいほど小さなフィーアが、小さな翼を精一杯広げて、真正面から飛び掛かります。
吹けば飛ぶような相手を面倒臭そうに前足を一振りして払いのけようとする巨大熊――。
ぷちん。
空中でフィーアと熊の前足が交差した刹那、まるでソーセージを噛み千切るような軽快な音が響き、
『――グオ……???』
「(もぐもぐ)――ぺっ!」
何事もなかったかのよう顔で地面に降り立ったフィーアは、最前までなかった大荷物――小さな口には収まりきらない、巨大熊の二の腕から先――を咥えていました。
軽くもぐもぐと咀嚼したところで、あまりお気に召さなかったのか、地面へ投げ捨てます。
『グオ~~~ッ!?! ――ピギャアアアアアアア?!?』
ここでようやく我が身に起きた事態を理解したのか、巨大熊は一瞬でもぎ取られた前足を目にして、恐慌状態に陥っています。
ただの仔犬と小娘と思って見くびったのでしょうけれど、
「……まあ、魔物でもないただの熊では、お話にならないですわね」
普通の動物と魔物では、もともとの土台が違います。ましてや大きいとはいえただの熊と、仔狼とはいえSS級の魔物である〈天狼〉では、怪獣と超獣くらい違いうでしょう。超獣が具体的に怪獣とどう違うのかよくわかりませんけど。
あるいはここで逃げるようなら追撃はしなかったのですけれど、
『グガオオォォォォォォーーーーーーーーーーッッッ!!!」
「うおおお~~~~~んんん!!!」
手負いになってヤケクソになったのか、後ろ足で立ち上げった巨大熊は、私へ向かって圧し掛かってきました。
即座に間に割って入ったフィーアが、またもや正面から飛んで巨大熊に向かって突進していき、さらには空中で縦に回転を加えます。
『――グバッ!?! グボボボ…………ガ…………』
そのまま体当たり(?)で心臓のあたりを貫通し、巨大熊のドテッパラに風穴を開けるフィーア。
まるで至近距離から対戦車ライフルの一撃を受けたようなもので、ひとたまりもありません。
轟音とともに倒れ伏す巨大熊にまたがって、勝利の雄叫び(ではなくて雌叫び)をフィーアが放ちました。
「うぉんおん!(勝った~!)」
「偉いわ、さすがは〈天狼〉だけのことはあるわね、フィーア。それにしてもいつの間にあんな必殺技を覚えたのかしら……?」
小山のような巨大熊の亡骸から下りてきて、私の足元に鼻先を付けるフィーアの背中をさすってその労をねぎらいます。
高速回転過ぎて返り血もほとんどかかっていませんけれど、それでも念のために魔術で水を作ってフィーアの全身を隅々まで洗って、
「それにしても。この熊どうしようかしら? 放置しておくわけにもいかないし、この量では食べきれないでしょうし、そもそも熊肉って癖があって美味しくないって聞きますからね」
道の真ん中を塞ぐ熊を前に嘆息します。
まあ、ひとりでどうしようもないとなれば、村の人出を借りるのが一番でしょう。
私はいまきた道を戻って、西の開拓村にこのことを相談することにしました。
「そういえばレジーナが、そろそろ寒くなるので毛皮でも欲しいって言ってたけど、これだけあれば……って、駄目ね。『こんなタワシみたいな毛に包まれろって言うのかい!?』って言われそうだわ」
触った感触はほとんど針金のような剛毛です。
「はあ~っ。これで帰るのが二~三時間は遅れそうだわ。どっちにしても怒られるわね」
憂鬱な気持ちを抱えながら、とりあえず話をする上で現物を見せた方が早いでしょうから、フィーアが喰い千切った熊の片腕――見た目、成人男性の二人くらいの重さがあるのを、魔術で軽量化した後、片手で抱え上げながら来た道を戻りました。
◆◇◆◇
「な、な、な……なんだ?! なんなんだ?! 何を見たんだ俺は!?」
ショックのあまり変身が解けたチャールズは混乱の極みにあった。
相棒のポールとともに、背後から忍び寄って、さあいまだ! と、思った矢先、突如森の中からバケモノもいたいな熊が現れ、ターゲットに襲い掛かった。
ここまではわかる。
だが、黒ローブにフードの小娘はその場に阿呆みたいにボケっと突っ立って怯えるそぶりも見せず、こりゃ駄目かと思った刹那、その飼い犬がまるで冗談のように巨大熊を倒してしまった。
そしてそのまま慌てる素振りも見せず、小娘は大の大人でも数人がかりで持ち上げるのがやっとの熊の前足を片手で抱えて、いまきた道を村へと戻っていった。
ふと、気が付いたらポールと一緒に突っ立たまま、変身も解けた半裸の状態で林の中にいて、小娘とその飼い犬の背中を見送っている(←いまここ)。
「……バケモノだ。俺たちはとんでもないバケモノを相手にしようとしていたんだ」
「ど、どっちがバケモノなんだ、ポール?」
「どっちもだ! よく見れば仔犬の方は、狼の魔物の頂点に位置する〈天狼〉だ。そんでもって、それを使役するってなれば、それに負けず劣らずのバケモノってことになる!」
「シ、シ、シリウス?! バカな――」
絶句するチャールズの前で身を震わせるポール。
「間違いない。俺たちがさっきから震えているのは寒いからじゃない。本能的に逆らえない相手を前にして、体が悲鳴を上げているんだ」
「ど、ど、ど、どーするんだ、ポール。諦めるのか? せっかくの金貨二百枚が」
チャールズの言葉に苦虫を噛み潰したような顔で黙り込むポール。
ややあってから、
「いや。方法はあるはずだ。〈天狼〉さえいなければ問題ないんだし、小娘だって油断をしていれば不意を突ける。となると――」
「と、と、となると?」
「先回りして家の中で待ち構えていればいいんだ。家の中までは〈天狼〉も連れ込まないだろうし、フードも脱いで素顔も確認できる」
「な、なるほど」
「聞いた話では、森の中でババアとふたり暮らしだそうだから、いまはババアひとりの筈。道は一本道だから間違えようはないだろう。最悪、匂いを辿ればいいんだからな、このまま先回りして、ババアを始末してから、ババアのふりをして油断させるんだ」
「お~~っ。か、完璧だな、ポール!」
相談を終えたふたりは、ふたたび狼の姿へ変身すると、村と反対方向――【闇の森】へと延びる道を、全速力で疾走しはじめた。
◆◇◆◇
三時間後――。
庵の周囲に張り巡らされていた結界を抜けるのに多少手間取ったが、変身を解くことで抜けることに成功したふたりが、庵のドアをノックしていた。
「――誰だい?」
奥から誰何してきたしわがれ声に、チャールズが声色を変えて答える。
「私よ、お師匠様。村からケーキとブドウ酒を貰ってきたから、ドアを開けてほしいわ」
この声帯模写はチャールズの十八番であり、これを使って普段は売れない芸人として活動していたのだった。
「……おや、戻ったのかい、ジル。ドアに鍵はかかっていないから、入っておいで。知っての通り、あたしゃ、体が弱っているからねえ、ベッドから起きられないんだよ」
弱弱しい返答を耳にして、チャールズとポールはしめたと顔を見合わせて、お互いに牙を剥き出しにして頷き合った。
「行クゼ、チャールズ!」
「オウ! ババアノ喉笛ヲ噛ミ切ッテヤル」
そして、即座に〈人狼〉へ変身をとげると、ドアを蹴破るようにして庵の中へ飛び込むのだった。
◆◇◆◇
結局、巨大熊の解体やら荷運びやらで、庵の戻ったのは夜半近くになってしまいました。
当然、レジーナからお小言をいただいたのですが、思いのほか上機嫌で、何やら魔物の毛皮をなめしています。
「どうされたのですか、その毛皮? 出かける前にはなかったと思うのですけれど」
何の魔物かはわかりませんが、どうやら二種類あるようで、片方は黒で片方は赤毛でした。
「ついさっき手に入れたばかりだよ。こいつらが玄関から飛び込んできてねえ、わざわざ自分から毛皮になりにきてくれるとは殊勝な心がけだね。ま、毛皮以外はいらないからひん剥いて中身はマーヤに捨てに行かせたけど」
私の方は巨大熊の解体やらなにやらで大変だったのですが、その間にレジーナは濡れ手で粟という具合に念願の毛皮を手に入れたみたいです。
世の中って不公平ですわ……。
私が世の不条理を嘆いている傍らでは、
「いまからなめせばちょうど冬に間に合いそうだからね。いや~、果報は寝て待てとは本当だねえ」
ひっひっひっひっ、と上機嫌で笑うレジーナがいました。
その横顔を眺めていているレジーナの使い魔であるマーヤが、どことなくげんなりした表情を浮かべているように見えたのは、はたして私の気のせいでしょうか?
「――ふん、こんなものかな。で、村じゃなんか変わったことがあったかい?」
作業に一区切りつけたらしいレジーナに訊かれましたけれど、周辺に出没する変質者や巨大熊の話題など、鼻で嗤われる気がしたので、
「いえ、いつも通りです」
と、答えるに留めました。
「はん。平和で結構なこった」
言葉とは裏腹に、『平和なんざ反吐が出る』という口調で言われて、私は思わず苦笑いを浮かべつつ、
「そうですわね。平和が一番ですわね」
そう応えるのでした。
「まったくだね」
「まったくですわ」
こちらの苦労も知らずにお気楽ですこと。と思いながらお互いに、示し合わせたかのように相槌を打ちます。
ふと、その瞬間、どこからか狼のもの悲しい遠吠えが聞こえてきました。




