FRRの涙
翌日午前八時、涼斗は食堂へは向かわずフルルの部屋に着くやいなや、開口一番叫んだ。
「フルル来たぞ、お前の話を聞きに来た」
彼女は驚いて背筋を伸ばして固まった。
「どうしたの、そんな声出したら怒られるよ?」
「いいさ、大したペナルティじゃない。お前が言いたいこと全部話せ。聞いてやるから」
「そう……気づいてくれたのね」
フルルは見直したとばかりに二、三度頷いた。
「でも、お前の言うことはやっぱり信じることは出来ない」
「え?」
「あのヒトの言っていることがすべて嘘だとは思えない。きっとあのヒトにはあのヒトなりの考えがあるんだと思う。いまはこうして監視され、閉じ込められているとしてもいずれ出してくれるハズだ。学校だってつくってくれるって言っていたし」
「そう……あなたが辿り着いた結論がそれなのね」
涼斗は雰囲気が変わったことに気づいた。前までの遠慮がちな笑みをたたえていた顔はいまは厳しく引き締まっている。暖かな日だまりが瞬間、凍りついたように張りつめた顔だった。
「気分を害するかもしれないけれど……いまさら勉強してナニになるの。それに、結局島を出ることは許されないのよ?」
フルルはベッドから降り立ち、ドレスの裾をふわりと揺らした。
「あなたが自分のことをどう評価しているかは知らないけれど、世間から見たらわたしたちもうヒトじゃないのよ? ヒト科亜種なの、ヒトの社会で仲良く生きられるかしら。チンパンジーとゴリラはいまどこでどうやって暮らしているのかしら?」
「俺はそんなのとはちげえよ」
「違うかしら。もともとチンパンジーと私たちに違いは殆どないの。九十八パーセント同じなんだから。染色体の数は違うけどね。異種交配を防ぐために、いえ遺伝子汚染を防ぐための装置なのよ。ヒトも私たちもそれと同じで区別される生き物なんだわ」
「俺はヒトだ。人間だからここにはいたくない。ここで猿みたくキーキー喚いて、ずっと閉じ込められたままなんて受け入ることは出来ねえよ。でもさ、俺のせいで周りの奴らが――」
その先を口にするのは憚られた。一度口にしてしまえば、完全に自分が加害者だと認めることになる。
「どうした……いいえ、どうなったの?」
「遺伝子がおかしくなったんだ。周りに迷惑をかけるからって、ここに連れて来られた」
涼斗はそうしてさえいれば悩みが消えてなくなると信じるかのように、掌で頭を強く抑えつけた。
「それ……本当のことかしら?」
それは想像だにしない発想だった。涼斗は慌てて聞き返す。
「本当ってどういうことだ」
「だから証拠はどこにあるの?」
「証拠……ならある。志治ってヤツがいるんだけど、ゲノムテスト見たらそいつのアポリポタンパクEが3型から4型になっていたんだ」
「なにを言っているの? あなたがその志治君とやらの遺伝子を書き換えた証拠はあるのか聞いているんだけど」
「だ……だって実際にあいつは――」
「はじめから4型だったっていう可能性は?」
冷水を浴びせられた気分だった。それが乾く前にと急ぐようにフルルは畳みかける。
「もしくはあなた以外の誰かが変えたという可能性は?」
「母親の遺伝子も変異しているって――」
「それも用意した情報を元にしたでっちあげかもしれないわ」
「そ、そんな――」
「万が一それが真実だとしても、それがあなたのせいであるという確たる証拠はないわよね。つまりは状況証拠っていうヤツかしら」
「そうだよ、俺以外に誰がそんなこと出来るっていうんだ」
口にしてみておかしなことに気がついた。彼は……未だに彼自身が何をしたのか知り得ない。
「あなたは言われるがままに、紙切れ一枚の結果を信じてしまっている。けれど、もっと根底から考え直してみたらどう? ゲノムテスト法……ってどうして成立したのかしら、それに意味があるのかしら?」
「前もって病気になる可能性とかがわかるんだろ」
「それは生まれたときから決まっていることでしょう? どうしていま、あなたたちが、毎年受ける必要があるの?」
「そ……それは様々な環境からの影響が――」
「十世代……」
「え?」
「あらゆる環境汚染……例えば低線量被曝をしていたとしてあなたの遺伝子が損傷を受けた場合、突然変異を起こすのは十世代もあとのことよ」
「それを調べているのか?」
「違うと思う。この国は……いえ、世界中のどこだって未来の遺伝子を持つ自分に興味なんてないもの」
「じゃあどうして?」
「それがこれまでの話だから、リアルタイムで変化しているからでしょうね。私たちの遺伝子が、様々な影響によって……そうでなかったら『デザイン』する意志を持たない子供や大人まで一律検査する意味がないもの。ゲノムドライヴがはじまったのはつい最近のことじゃないわ」
「な……なんで誰も問題にしないんだ」
「デザイン規制派もゲノムテスト規制派も共に推進派に負けたのよ五年前にね」
「それは聞いたことがある。けど――」
「問題点が指摘されたとしても、若返り、ダイエット、長寿、病気の克服……素晴らしい効果は山積みだもの。歪みは捨て置かれて、新たなヒトとして生まれていくの。刻一刻進化しているのよ、わたしたち。そのなかでもとびっきり異常なのが与えられたわたしと……あなた」
「与えられた?」
「そう、持たざる者は持つものを知らず幸福を得、持つ者は持たざることを知り絶望する。与えるか、与えられるか。渡すのか、奪われるのか。あなたが持っているXXXXが与えられたものならば……君は果たしてどちら側の人間かしら」
「お前……なにか知っているのか?」
「ここから連れ出してくれたら……いずれわかると思う。あなたにも会いたいヒトがいるでしょう。私にもね、会いたいヒトがいるの」
「それは――」
「お願い、きっと役に立つから。いくらあなたにドライヴがあるとは言っても自由に操れないんじゃ意味がないでしょ?」
「お前は自由に操れるのか?」
「条件はあるけどね」
涼斗は逡巡したのち、首を振った。
「ダメだ。お前は……ヒトを……傷つけるだろう。松原さんは……リスクを負っているヒトだ。お前のためにも……おそらく俺のためにも」
フルルは辛そうに目をぎゅっと閉じた。
「こんなこと言いたくなかったけど、涼斗君はあのヒトのことを信用しすぎていると思う」
「でも実際お前は松原に使っただろう」
「それは検査だから……気が高ぶって……わざとじゃないの」
問い返すより前に彼女は服をはだけた。その肢体に目を背けたのは単なる配慮からだけではなかった。彼女の身体にはいたる場所に、毒々しい色を持つ青あざがあった。
「FRRを発動させる条件は傷つけられて、悲鳴をあげたとき……松原先生は……発動する瞬間の血液サンプルが欲しいみたいで――」
「やっぱりそれ……あの人にやられたのか」
フルルが涙ぐんで頷いたとき、涼斗の心に揺るぎない意志と覚悟が燎原を焦がし尽くすように広がった。
ドアの開く音がした。いつのまにか、松原が必死の形相で立っている。
「涼斗君……あなたに大事な話があるわ」
「ちょうどよかった。俺もだ!」