助手と罰ゲーム
第五章
ゲノムシティに涼斗がやってきてから一ヶ月が経った。
「食ったらさっさと片づけろ」
いつもの八戸部の台詞とともに昼食を終えると、FRRの部屋に食器を回収しに行く。
彼女も八戸部の料理には満足しているらしく残すことは滅多にない。
空の器にメモが置かれていた。
『ばくしょーひっしまちがいなし! フルルとーくしょー三時開演!!!』と書いてある。
相変わらずキャラクターの把握には難儀するが、毎度文面は違えど詰まるところ彼女がいいたいのは「わたしの話を聞いてくれ」ということである。
六鳥涼斗は本日も垂れ流されるFRRの言葉を聞き流す作業に入る。
大抵は自慢にも似た彼女の超世間話だ。
「マイセンのスイートピーより、ジノリのプルーンが好きなんです。涼斗さんはどっちが好きですか?」
どちらも好きではないというよりか、食器のブランドであることさえ知らなかった。
「軽井沢に別荘があるんですが、そこの庭に植えた聖護院大根をパトリックが掘り出してしまって。わたしがコラって怒ったら、パトリックったらびっくりしたのか興奮したのかターザンロープを口に咥えたまま滑って終点まで行っちゃったんです。すごいでしょう?」
たしかにすごいが、どれだけ広い庭なのかが気になって仕方ない。
FRRは元は良家のお嬢様だったのかもしれない。
「プールとテニスコートって、どうして夏と冬で切り替わるのでしょうか? 夏がテニスで冬がプールでもいいと思うのですが」
あれって切り替わるのかと、涼斗は首をかしげる。
ひとり暮らしの女の子の話し相手に最適なぬいぐるみと化して一ヶ月、わかったことがひとつある。
彼女の話は決して嫌味ではない、単に自分の経験を話しているに過ぎない。
シティに来るまで、FRRはどのような生活を送っていたのだろうか。
彼女の話は一般の感覚からすればどこかズレている。
雑学や教養や自慢でもなく、自分の経験としてにこやかに話すのだが、それを共有できる人間がどれほどいるのだろうか。
彼女はとにかく一生懸命喋った。
いつでもちらりと横を見れば彼女は懸命に身振り手振りを加え、自分の話に笑い、泣いて、怒って、それが独り言であると気づいて悲しんだ。
涼斗は返事をする代わりにため息を吐いた。
松原の言う通り、それは本当に辛い仕事だった。
「ごめんなさい、やはりわたしの話なんてつまらないですよね。うーんと……それでは……ええと、どんな話をすればいいのか」
はじめてのことだった。
次から次へと絶え間なく繰り出される彼女の話が、ここに来てようやく種が尽きた。
少し待っててというと、彼女は枕の裏から一冊のノートを取り出してふむふむと読み、また枕の裏に戻した。
「えっとね……涼斗さんは絵画は好きですか? エクリシーズの絵って怖いですよね。夜ひとりで部屋を出るとき、あの首の長い女の人に見られている気がして、本当に怖かったんです。あの女の人の首……毎晩少しずつ伸びていませんか? 怖いから計ったことはないんですけど」
涼斗は話半分に聞いていた。
枕の下に隠したノートが気になって仕方なかった。
そう思えばジェスチャーは禁止されていない。
彼は自分を指し、枕を指し、瞳を指す。
オレ、アレ、ミタイ。
「え……だ……ダメですよ! 絶対ダメ! 涼斗さんでもそれはダメ!」
ダメだよといわれれば見たくなるのが心情だったが、隠れて見るのは信条に反するためどうしても見たいと、涼斗は重ね重ねお辞儀や土下座などのジェスチャーをした。
「そ……そこまでいうなら……いってないけど……でも、絶対笑わないって約束してくれますか?」
三回頷いた。
ウン、オレ、リョーカイ。
軽い気持ちでぺらぺらと捲る彼の顔色がどんどん悪くなっていく。
ノートにはFRRがしゃべった会話の内容と、これからしゃべろうと考えている会話のネタが書かれていた。
つまり、それは涼斗と話をするためだけに作られた台本だった。
「わたし……ヒトと喋るのが苦手で……話も面白くないからこうやって……作戦を練っているんです」
そういって彼女が本棚の裏から引き出したのは『人に好かれる話し方』、『人に興味を惹かれる話の種』などという胡散臭いタイトルの本だった。
「わたしなりに努力してみたものの、やっぱりダメみたいです。こういうものに頼っているから涼斗さんはわたしとしゃべってくれないんですよね。あはは、おかしいでしょう」
涼斗は見なければよかったと後悔した。
あまりにも悲しすぎてちっとも笑えなかった。
「すいません。怒っていますか?」
「いや、全然。ただお前の話はさ、ちょっと浮世離れしているっていうか……でも、別につまらないわけじゃないと思うぜ。ただ共感しにくいだけで――」
ふとFRRを見れば、心底哀れむような顔をしていた。
だったら最初から話しかけるなといいたかった。
数分耳をすまして待つが、松原はやってこない。
「あれ? おっかしいな」
サボッているのだろうか。
そんなタイプにはとても見えなかったが。
FRRはこの世の春が来たとでも言わんばかりに「やった」とガッツポーズした。
「今日は相手をしてくれますか?」
「ああ……まあ大丈夫みたいだしな」
彼女は腕組みをして天井を見上げたり、自分の膝上を見つめたりした。
「ええと……ええと……なにから話せばいいのか。ちょっと混乱していて、ごめんなさい。うまく整理ができません」
「それじゃあ俺からの質問なんだけど。どうしていつもドレス着てんの?」
重苦しい沈黙が流れた。
聞こえぬはずの無音という音を聞いた。
「これは……わたしがここへ連れて来られる時に家から持ち出した物なんです。外には出られないけれど、華やかな舞台にはもう立てないけれど……せめてこうして――」
みるみるうちに表情が曇っていく。
もう少しで雨が降りそうな雲行きだ。
「お……おーけーおーけー。ハハハ、そっか。いや、物凄く似合っているなあと思ってよ」
「ほ……本当ですか! 嬉しい……いままで誰もそんなこといってくれなかった。涼斗さんは優しいんですね!」
FRRは両手を組み、飛び上がるほど喜んだ。
そりゃコミュニケーション禁止されているんだから当然だろうと、彼は死んでもいえないし、いわない。
「では、これ……いつも渡そうと思って渡しそびれていたんです。ご迷惑じゃなければ聞いてみてください」
フルルがポケットから取り出したのは最新型のポッドプレーヤーだった。
それは涼斗が喉から手が出るほど欲しかったモデルだった。
長さ百三ミリ、幅数ミリのフレームを残して後はすべて3D液晶画面になっている。
長方形が作り出す世界のなかで疑似透過させた三次元の映像が浮かび上がる代物だ。
「前に頼んで好きな曲を入れて貰ったんです。録画と通信機能は使えないようにしてあるんですが――」
FRRが画面をトントン叩くと美麗な魚が数匹ぴちぴちと躍り跳ねた。
彼女は何もない空間を泳ぎ回っているかのように見える魚のなかから深みのある赤い色をした魚を捕まえた。
『ハロー、ハロー。こんにちはFRRです。聞こえますか涼斗さん?』
エコーがかかったような彼女の声が聞こえた。
「録音再生機能は残してあるのか」
フルルは嬉しそうにはしゃいだ。
「そうなんです。それで……もしよかったらでいいんですけど、これに涼斗さんの声を吹き込んでわたしに聞かせてくれませんか?」
「え……ああ、まあ、いいけど」
「ホントですか? 約束ですよ!」
彼女の笑顔を見ると、心なしかこちらまで幸せな気持ちになる。
「これで会話をお互いに録音してやりとりすれば大丈夫ですよね。音楽を聴くようにしてイヤホンをして、トイレとかお風呂で録音しましょう」
「ああ、これ風呂で録音したのか。声が反響しているもんな」
「涼斗さんも隠れて録音しなきゃダメですよ」
「どうして?」
「きっと……監視されていると思うから」
「えっ?」と聞き返すと、FRRは曖昧な笑みを浮かべた。
「ごめんなさい……いまのは忘れてください。面倒だったらわたしの話は聞かなくてもいいので。その代わり、お願いですから涼斗さんの声をわたしに聞かせてください。そうしたら夜ひとりで寝ていても寂しくないですから」
涼斗は泳ぎ回る魚を繁々と眺めた。
「この金魚に向かって喋ればいいのか?」
「あ……あはは、面白いことをいいますね。それは金魚じゃなくてスーパーレッドメロンディスカスですよ。この子には再生機能を充てていますから、録音にはブルースコーピオンディスカスをタッチしてください。赤が再生、青が録音ですよ」
FRRは鱗、ヒレ、体表とで濃淡の違う青みを帯びた魚を指した。
その瞳だけは先程の魚のように真っ赤に燃えている。
「変わった名前だな」
「涼斗さんはどんな品種が好きですか?」
「俺は出目金かな」
ガラッと扉が開いた。
松原がカルテに目を落としながらぶつぶつと呟いている。
「検査結果が出たわよ……って、あら涼斗君いたの?」
「え……ええ、まあ暇なんで」
涼斗が胸を撫で下ろして傍らを見ればFRRは珍しく眉根を寄せ、厳しい顔つきをしていた。
「松原さん、なにか新しい兆候は見られましたか?」
松原はため息を吐いて否定した。
「フォルトゥナが出した答えは前回と同じ。つまり……涼斗君があなたと交流してから一ヶ月、特に変化はなかったみたいね」
FRRは押し黙って聞きながら、涼斗をちらちらと見る。
松原が申し訳なさそうにいった。
「ごめんなさい涼斗君。この子と大事な話があるから」
「あ、ああ。わかったよ」
涼斗は退出認証を終えて部屋を出た。
松原がすぐに部屋から出て来る。
「いい忘れてた涼斗君! 監視室に行ってみなさい!」
「なんで?」
「お家に電話! かけてもいいよ!」
「どうして急に?」
「そろそろホームシックにかかったかなって!」
松原はウィンクしてみせた。
「あんま長電話すんなよ」と八戸部に受話器を持たされた。
涼斗は監視室にある回転ダイヤル式の黒電話をジーコ、ジーコと回した。
懐かしい声色がした。紛れもない母の声だった。
「母さんか、俺だよ涼斗」
「ああ、涼斗。よかった。なんの連絡もないから心配していたのよ」
「ここってそういうのうるさくてさ」
「ちゃんとご飯は食べているの?」
「ああ、メシは美味いんだ」
「風邪引かないように気をつけなさいよ」
「ああ、わかってるよ」
「松原さんのいうことちゃんと聞くのよ」
「聞いてるよ、少しは」
おかしいなあと思わず笑みをこぼした。
まるで旅行先から電話しているような気分だった。
「あのさ――」
「なあに?」
涼斗はずっと聞こうと思っていた言葉を胸にしまい込んだ。
あのときもし……逃げるといったら……母さんはすべてを捨てて一緒に逃げてくれただろうか。
いや、一緒に行かなかったとしても……俺を応援してくれただろうか。
「どうしたの?」
「いや……そういえばさあ――」
まったく関係のない話題にシフトした。
最近あったニュースのことや、この前読んだ本のこと。
「それじゃあ、また――」
「……いつでも電話してきなさいよ。待ってるから」
涼斗は電話を切ってから返事をした。
ずいぶん長電話をしてしまったが、八戸部は未だ戻ってこない。
監視室から出てみると所在なさげにぶらぶらしていた。
戻って再び受話器を取る。
長々とコールした後、訝るような声がした。
「あの、どちら様ですか?」
「遥花か? 俺だよ俺」
「涼ちゃん? 涼ちゃんなの? どうしたのいったい、非通知だけど」
「あ、ああ。電話借りているんだ」
「国際電話なの?」
「お、おう」
涼斗は自らでっちあげた嘘を忘れていた。
彼はいまニュージーランドにいるはずだった。
「そっちには慣れたの?」
「ま、まあな……多少はな。メヘメヘうるせえ羊の群れをバリカン持って追いかけてんだ」
すべて想像上の出来事である。
「毎日?」
「そう、毎日」
留学してんじゃねえのかと、涼斗はいった傍から自分の額を叩く。
「そう……大変だね」
「ああ、大変なんだマジで。毎日毎日牧場と学校の往復だよ」
「ふーん、なんか涼ちゃん様子おかしくない? まさか好きな子でもできたとか」
「そんなんいるワケないだろ!」
何故だかFRRの顔が浮かび、返事が上擦る。
「俺のことはいいんだよ。最近そっちはどうだ?」
「えっとねえ――」
取り留めもない話をするだけで、聞くだけで救われるような気がした。
深夜、ベッドに寝転んでいると……ゴスッ、ゴスッ、ゴスッと壁を殴るような音が聞こえてきた。
夢現で置き時計を見ると夜十二時を回っている。どうやら二時間ほど寝ていたようだ。
ドアを開け、音の鳴る方へ近づいてみれば音源は松原の私室だった。
ノックしてみるが返事はない。鍵はかかっていなかった。
「あのう……夜なんでちょっと静かに――」
その光景を見て、涼斗は驚きに目を見張った。
松原が規則的なリズムで壁に頭を打ちつけていた。
髪を振り乱し凄まじい形相をしている。
すぐそばに落ちている眼鏡はぐにゃりと変形していた。
「ちょ……ちょっと! なにしてんだやめろ!」
壁から引き離すと、彼女のかいた汗でぐっしょりと手が濡れた。
松原はまるで激しい肉体労働を終えた後のように全身で息をしている。
「お……おい、大丈夫か。どうしたんだよ」
「やっぱりあの子なにかおかしい……あの子は……わたし? わたしは……あの子なの?」
涼斗が伸ばした手を松原は手刀で落とした。
「触るな!!!」
松原は机や棚に積まれた資料や書籍をまるで汚れをこそぎ落とすように床にぶちまけ金切り声をあげた。
「もうヤダ! もうおしまいよ!」
「ちょっと待てってば! 意味わかんねえよ!」
涼斗が肩を揺さぶると、今度は胸のなかで泣きはじめた。
「ああ……ちょっと……ちょっと待ってや……めて。お願いだか……らいまのわたしになんにもいわないで!」
松原は身を震わし俯いて歯をカチカチ鳴らしている。
はじめは何が起こったのかわからなかった。
狼狽し、どう話しかければいいのか呆然と立ち尽くした。
涼斗にとってはそれがはじめて実感する『症状』だった。
「これが……FRRなのか」
あいつがやったのか。
身を翻して出て行こうとする涼斗の手を松原が取った。
「ダメ! 大丈夫……私は……大丈夫だから」
松原は机の引き出しを両手で開けると、チタン製のピルケースから緑と青紫のカプセルを口のなかにざりざりと放り込み、ペットボトルの水をがぶがぶ飲んで流し込んだ。
「ふう、ふう、ふう」
三度大きく息を吐くと、一度大きく息を吸い込み。そしてまた吐き出した。
「ごめんなさい。心配かけちゃったかしら」
そこには普段通りの松原がいた。
割れたレンズを拾い集めてゴミ箱に捨て、知恵の輪のようになったフレームを無理矢理矯正してかけると、さあ要件を聞こうかと椅子をくるくると回転させた。
「それがFRRの症状なのか?」
「守秘義務により答えられませーん」
「その薬なんだよ?」
「個人情報なので答えられませーん」
「フルルと何の話をしていたんだ?」
「ガールズトークに男が入って来ちゃダーメ」
「そうか、じゃあこれだけ答えてくれよ。俺の部屋にも監視カメラついてんのか?」
この質問に松原は黙り込んでしまった。
「見つけたの?」
「ああ……たまたまね」
涼斗は一瞬悩んだ後に嘘を吐いた。
FRRの配慮するような笑顔が脳裏を過ぎったからだ。
「そう、バレちゃったか。情報漏洩を防ぐっていう名目でね……一応契約書にも書いてあるんだけど」
「他の部屋にもついているのか?」
「いいえ、新しく入ってきたヒトの部屋だけ。はじめのうちはね」
「そうか、じゃあ空いている部屋使わせてもらっていいか?」
「許可しましょう」
出て行こうとする涼斗に松原が声をかけた。
「ねえ、変な目的でつけてた訳じゃないのよ?」
「わかってるよ、そんなことより深夜にあまり大きな声だすと監視室の二人が心配するぞ」
「それはないわ……前はしょっちゅうだったもの。それより、ずっと監視していた私を責めないの?」
「そんな余裕はなさそうだ」
無理して笑って自室に戻ると、FRRから渡されたポッドプレイヤーを起動してブルースコーピオンディスカスをタッチした。
涼斗は少し悩んだ後、魚にそっと呟いた。
「ごめんな。やっぱやめとくわ」
さらに一ヶ月が経った。相変わらずこの施設はお昼頃だというのにヒトの気配がない、というよりもこの研究所は生気がない。
「畜生――」
帰りてえと続けたらすべてが嫌になってしまいそうでいえなかった。
電話はあれから未だ許可されていない。
盗聴の危険があるかららしいが、涼斗は自分の会話にヒトが欲しがる内容があるとは思えなかった。
遥花はいまごろどうしているだろうか。
新しいクラスで、新しい友達を作り、新しい授業を受け、新しい、新しい、新しい――。
ガチャン。
物が割れるような音がした。
立ち止まり見上げれば娯楽室、開けてなかを覗いてみるとビリヤード台の中央に細い酒瓶を△に並べている男がいた。
黒のポロシャツにグレーのグレンチェックのパンツ、焦げ茶色の革靴を履いた大学生のような出で立ちの男の表情は真剣そのもので、何度も角度を確認して並べ直し……キューで玉を突いてその△にぶつけた。
ドミノのように倒れる空の小さな酒瓶を見て、男はファックと叫んで指を鳴らした。
「くっそくっそー! 二本残しか!」
その様を黙って眺めている涼斗に気づくと、男は身体を強張らせた。
「なんだお前か。まったく何を考えているんだか、納得のいくように説明してもらうぞ」
しばらく見つめあったまま固まっていたが、すぐに男はニヤケ面を浮かべた。
「……ごめんよ、人違いだったみたいだ。なんだよ君。いるなら声かけてくれよな……っていうかどちら様? 見たことない顔だけど」
涼斗は訝しく思いながら名乗った。
「ふーん。成る程ね。ボクの名前は網傘京一だ。さっき日本に帰ってきたばかりでね。ここでの肩書きは助手……つってもお姫様のおかげで組織体制がへんてこになっちゃったからあまり役職や階級に意味はないんだけど……んまあ、とにかくやらせてもらっているのさ」
そういえばそんな人物がいたなあと、涼斗が記憶の本棚から引っ張り出していると、網傘がにやけながらいった。
「なあキミ、暇だから相手しろよ。ビリヤードとダーツどっちが得意だ?」
「別にどっちでもいいけど」
「そうか、じゃあせっかくだし両方やろっか。でも……ただやるんじゃつまらないよな。どうせなら賭けないか?」
「賭けか……まあいいよ。何を賭けるんだ」
「負けた方がここに二人しかいない女性どちらかの下着を盗んで来るんだ」
「は?」
「キミもこんなとこに閉じ込められてずいぶん溜まっているだろう? ちょっとくらい息抜きしなくちゃもたないぜ?」
「あんた頭大丈夫か? 警察いないからってなにしたっていいワケじゃねえんだぞ」
「当たり前なこというね」
「それが普通だろ」
網傘は後頭部を掻きながらんーんと顔を振った。
「普通だったら最悪の方がいい、最悪だったら最高の方がいい。ボクは興奮性伝達物質をより多く放出させるためなら何だってするよ。ヒトは死を意識してはじめて、生を実感することが出来るのさ。つまり常にスリルを求めていく。それによりテステトロン濃度……つまり男性ホルモンがじょばじょば出て、ワイルドになった結果女の子にモテモテ……うん、いいことしかないよ」
「いや……だったら勝手にあんたがひとりでやればいいじゃないか」
「ストレプトマイシンでも打ってんのかい。ボクは憧れを持っているといったんだよ? ボク自体はそんなものに頼らずともジェットコースター乗ったり、B級ホラー映画見るだけで大満足さ。ボクは安全な位置にいて満足しているヒトに『それ』をやらせるのが好きなのさ」
「すとれぷと?」
「耳腐ってんのかってこと。やる前から負けることを考えているような敗者は聞き返すな、素直に傅けよ」
「だって……そんなことしたらよ」
網傘は鼻で笑った。
「逃げるのか、やっぱりね。君ってここぞというとき勝負出来ないガキのツラしてるよね。やるべきことから逃げ続ける人生ってどんな感じ?」
涼斗は黙ってキューを手に取り、コリコリと入念にチョークをつけた。
「俺はここへ来てからというもの暇と退屈が友達でさ。自慢じゃないけど毎日ダーツとキューを触っているんだ。それでもやるってのか?」
「問題なーし。ルールはナインボールとカウントアップでいいかい?」
「そんな初心者ルールでやるのか」
「この二つなら初心者でも勝ち目があるからね」
「抜かせ」
「じゃあ、まずはこれからにしないか? こっちの方が得意でね」
網傘が胸元から取り出したのは派手な羽がついたマイダーツだった。
「あ、ああ。いいとも」と答えておきながら網傘の表情を見て、涼斗はいまさらながらしまったなと思った。
その顔は意地悪く歪んでいた。
勝ち負けなど見ていない、自分ができないことをヒトにやらせて楽しもうという悪魔の笑みだった。
ゲームはその笑みを一切崩すことなく進行した。
「イエーーーーーーーィ! ローーーーゥトゥーーーーーーーンンッッ!」
八ラウンド二十四本連続で正鵠に叩き込まれ、
「フルャッホーーーゥッッ!! ブレイクエーーーーーーーーーーーーースッッ!!!」
ビリヤードに至っては順番すら回ってこなかった。ブレイクショットで九番がポケットに叩き込まれてしまった。
九番ボールを器用に二の腕から肩、そして逆の二の腕へ這わせながら、網傘はさも愉快という風に笑った。
「ンナァーーーーーーッッハッハッハァ! ボクの完ッ全ッ勝利だねえ」
「マジかよ……こんなことってあんのか」
「ラックの組み方だよ君。真ん中の九番と周りの玉の間に少し隙間を作るのがコツさ」
「ずりぃぞ! 反則だ」
「なにをいってんのって。知らないキミが間抜けなの! よーし、それじゃあ罰ゲームの時間だな。因みに下着の上下は不問だ。手段は問わない、拙速に事を運べよ」
「ちょ……ちょっと待ってくれ」
網傘はまるで取り合わない。
「そうだな。俺の見立てでは取り易いのは姫ちゃんだな。入浴時の洗濯かごかクローゼットに置いてある箪笥でも漁れば一発だろう。松原女史なら変態だから頼み込めば余裕だろうし、難易度的にはどっちも大したことないね」
「だ、ダメだ。どうしてもできっこない!」
「別にできないならやらなくてもいいよ。ボクがもっとエグいことをやるから。その代わりアリバイ、物証、すべて揃えて確実に君のせいにするけどね」
「そんなこと出来るもんか!」
「残念ながらボクに出来ないことはないんだ。一日待つから、報告楽しみにしているよ」
網傘はそれだけいうとさっさといなくなってしまった。
涼斗はカウンターに腰を落ち着けて深いため息を吐いた。
「マジでどうしよう」
交換音声を断ってからというものFRRも口を閉ざしがちになり、自然と彼女の部屋に滞在する時間も短くなっていた。
涼斗はやむを得ず松原の私室を訪ねた。
「どうした。問題でもあったか?」
松原はこちらを見ず、パソコンの画面を見つめたまま尋ねた。
「え……ええっと、クリーニングボックスの回収を」
「私は自分でやるよ。君はFRRの世話を頼む」
涼斗はあれには鍵がついていることを知っていた。
シティにやって来る業者が一括で洗濯するため回収は出来ても中身は取れない。
「あのう……下着を――」
「下着? 足りないものは紙に書いて須永か八戸部に渡してくれ」
「え……ええ。そうですね」
いくら悩んでみても頼み込むという選択肢はなかった。
「あ……そうそう。網傘が帰って来たけどあいつの相手はしなくていいからな。構ってもロクなことないから」
もう少し早く知りたかったと涼斗は心の裡で嘆いた。
しかし、おかげで閃いたことがある。
監視所へ向かうと須永は腕立て、八戸部は漫画雑誌を読みながら笑い転げていた。
「あ、あの――」
「ヒーッヒーッ……なんだよ、てめえか。何の用だ」
八戸部はくるくると忙しく容貌を変化させた。
憎めない男だと涼斗は思った。
「いや、松原さんから頼まれたんだけど」
「なにを?」
「下着が欲しいって」
「は? 俺が所長の下着を買うのか?」
涼斗は至極真面目に頷いたが、いわれて見れば成る程おかしい。
「それならFRRの下着を」
「それなら?」
「いや、なんでもない」
須永がタオルで汗を拭きながら言った。
「待ちなよ涼斗君」
彼は涼斗を人差し指で招くと自身のロッカーを開け、メッセンジャーバッグから一枚のディスクを取り出した。
「オーケー、ここには俺のすべてが詰まっているんだ。内容は見てのお楽しみ。所長には内緒だぜ」
部屋に帰って見てみれば、それは洋物の無修正だった。
午後九時過ぎ、夕食を運んでから本日六回目の訪問時にやっとその時に巡り会えた。
覗き窓からなかの様子を窺っていると折良くフルルが立ち上がり浴室へ向かった。
「チャンスはいましかないね」
背中から声が昇ってきて、驚き振り向くと網傘がしゃがみこんでいた。
「この下着泥棒が終わったらお前彼女に告白するんだろ? さあ行け!」
「なんだそりゃ、絶対上手くいかねえだろ。ちょっと様子を見よう。すぐに風呂から出て来るかもしれないし――」
「ためらいは機を逃すぞ。大丈夫だ。統計によれば女性は九割以上が二十分以上入浴に時間をかける。現在浴室に入ってから三分経った。残り十七分でケリをつければ何の問題もない」
「残りの一割だったらどうすんだよ」
網傘は腕時計を見ながら焦れたようにいった。
「四分経った。残り十六分」
「行けばいいんだろ。わかってるよ」
半ば強引に納得させると滑り込むように入室した。
室内では静かに水の砕ける音だけがしている。独特の緊張感が漂っているのは状況にどっぷりつかっている証拠だ。
浴室前のクリーニングボックスは脱いだばかりのドレスのボリュームで山のように嵩張っていた。
手洗いという訳にはいかないので恐らく業者にもいってあるのだろう。
手を突っ込んでみて引き出すとどうやら下の方にそれらしき柔らかな感触がある。フリル付きのピンクのショーツだった。
改めて理解する状況に頭が痛くなってきた。
黙ってそれをジーパンにねじ込む。
ベッドの上ではポッドプレイヤーが起動していた。
赤が再生……青が録音。
そしていまは赤い方の魚が明滅している。
これは新しい音声データファイルが録音され、未だ再生されていないことを示している。
やめておいた方がいい、早く離れた方がいい。
先程からもうひとりの自分が再三警告をしている。
涼斗は背後を気にしながらそっとその美しい緋色の背びれに触れた。
「――ッッ。どうして……やめて――」
言い争う女性の声がした。
続いてガチャンと物が割れる音、ゴツゴツと鈍器を引きずるような音がした。
再生は途切れ、涼斗は部屋を見回した。
一見おかしなところはなかった……が、ゴミ箱を見ると割れた花瓶と活けられていたスイートピーが捨てられていた。
涼斗があれこれと浮かべた思案は途中で遮られた。
「キ……キャーーーーーーーーッッ!」
FRRがタオル姿で立っていた。
涼斗は後頭部に火が点いたような心地がした。
「い、いや違うんだ。誤解だ。たまたま入浴しているときに来ちゃっただけで――」
彼女は憤懣やるかたなしと言った様子で涼斗のジーパンを指した。
「じゃあそれ……なに?」
「やっべ」
下着がポケットからわずかに顔を出していた。
「この変態! 最低! 屑!」
「え?」
涼斗はその物言いと仮面をひっぺ返したようなFRRの形相に驚いた。
「い……いや、あの、その、うふふ……ふふふふ……ふっ……ふっ――」
それは笑い声というよりか、呼吸を整えているようだった。
「だ……大丈夫か、お前?」
「え……ええ、大丈夫よ。私は大丈夫私は大丈夫私は」
ドアが開き、松原が飛び込んで来た。
彼女は状況を目にして言葉を失った。
タオル一枚の女性と男が二人きり。これは非常にマズいことになった。
「ち……違うんだよ。誤解……じゃないけど」
「大丈夫、涼斗君!」
松原は必死の形相で爪が食い込むほど力強く涼斗の両肩を掴んで揺すぶった。
「え……俺? いや、俺は問題ないけど」
松原はFRRを注意深く見つめてからいった。
「これはいったいどういうこと? 説明しなさい!」
FRRが泣きそうな声を出した。
「涼斗さんが……わたしの下着を――」
「俺だってこんなもん別に欲しい訳じゃ」
ヒトには越えてはならない線がある。
FRRはその滑らかな眉間に険しい皺を刻んだ。
「こんな……もん? 盗み出しておいて?」
「いや、そういう意味でいったんじゃない」
「と、と、とにかく困ったことになったわね。これは遵守事項の重大な毀損よ! モラル崩壊を食い止めるためにも涼斗君専用の独居房を作るべきね。いえ、懲罰房の方がいいかしら。それでダメなら鞭打ち百回。そうね、それがいいわ!」
松原は一目でわかるほど狼狽し、人差し指を天井に向けるとメチャクチャなことをいいだした。
「そ、そんな! ちょっと待ってくださいよ!」
「キツくいってくだしゃ……ふっ……ふぇっくしゅっ」
くしゅんとクシャミをするとタオルがはだけてしまった。
意外とスゲエと涼斗は目を皿のようにし、松原は「あら綺麗」と素朴な感想を漏らした。
フルルが耳をつんざくような大声を出した。
「早く出て行け!!!」