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フルルのららら  作者: ちゃぴい
2/18

F・R・Rとの出会い

 翌朝見送りに家を出た母がうなだれているのを見て、涼斗はおおげさに笑った。


 「なに暗い顔してんだよ。すぐに帰って来るから心配すんなって!」


 「涼斗……こんなことになって……わたしもなにがなんだか――」


 松原は母の前に立つと、なだめるようにいった。


 「息子さんはわたしが責任持ってお預かりします。心配しないでください」


 永久子が深く深く頭を下げた。


 松原は「必ず」といい添えると涼斗の手を引いた。


 家を出てBMWの後部座席に乗り込もうとするがドアが開かない。


 どういうことかと運転席を見ると、サングラスをかけた男が前方を指した。


 突き当たりのT字路になっているところに護送車のような体格のよい車が待っている。


 「ここ道幅狭いから入れなくて、おかしな車だけど気にしないでね」


 「いまの俺にぴったりだ」


 両開きの扉から松原とともに乗り込むと、運転手によって外から鍵をかけられた。

 

 窓がないため日も差さない。


 天井に二本並んだ白色灯の朧気な光は浴びているだけで病気になりそうだった。


 松原は気遣うように涼斗の手を握った。


 「他にさよならを告げたいヒトがいるかしら? 時間に余裕はあるし、寄っていくけど」


 「いいや……いいよ。もう済んだ」


 涼斗は松原の手を振り払った。


 「あんたは俺と一緒にいて平気なのか」


 「どういう意味かしら?」


 涼斗は自嘲気味に笑った。


 「遺伝子ってのが変異しているかもしれないぜ。いまに肩からもうひとつ顔が生えてくるかも」


 「もちろん、策は打ってあるわ。勘違いしてもらいたくないんだけど、わたしはあなたのお仲間だからね」


 松原はウィンクしてみせた。

 

 窓の外に流れる町並みは途切れ寂び返る田畑となり、やがて草木萌え出づ春の山となる。


 山を越えて一時間もすれば青い海が眼前に広がり、活気のある港では水揚げされた銀色の魚が身をしならせている。


 そんな風景を横目にしながら貸し切った観光用のジェットフォイルに乗り込んだ。


 八十木市から車で二時間、さらにそこから船で三時間をかけて行き着いた先は伊豆諸島北から八番目神津島の隣にあるコンクリートで固められた裾礁なき無粋な島だった。


 ありえねえといくら愚痴れど現実は変わらなかった。


 ついさっきまで高校進学見込みの少年が、一枚の紙切れの結果でテロ容疑者に早変わりしたのだ。


 『この世にあり得ないことなどはない』とベルリンの壁崩壊に際してエドゥアルド・シュワルナゼはいったが、世界史の授業の内容と同じくらい刺激的なことが彼の身に起きていた。


 降り立った涼斗に松原は手を差し伸べたが、彼はその手を握らなかった。


 「ここが遺伝子疾患を抱えたヒトを秘密裏に保護している東京都管轄の国立遺伝子研究所がある神鳴島、ひっくるめてゲノムシティと呼ばれているわ」


 「アイランドじゃねえのか?」


 「ええ、島でなく街よ。見た目じゃなくて意気込みね」


 「どうでもいいや」


 涼斗は嘆息して、消しゴムのように小さくなっていく船を眺めた。


 あれは俗世との繋がりだった。思い残しが波を砕いて彼方に消える。


 「やっぱり名残惜しいわよね。でもあなたの努力次第では――」


 松原の言葉を遮って、彼はずっと引っかかっていたことを口にした。


 「志治のアルツハイマーってどうにかならないのか?」


 「彼のケースは老年性だからね。テスト結果を受けて治療もはじまるだろうし、簡単にとはいかないけれど大丈夫でしょう。費用はウチで持つから任せといて」


 「別にあんなヤツどうでもいいんだけどさ。母さんは問題ないのか?」


 「心配しないで。お母さんの職場復帰もあなたがここへ来た時点で完了する手筈になっているわ。すべてあなたが迅速に決断してくれたからこそ叶ったのよ。元を絶たないままに足をいくら切っても仕方ないからね」


 「でもよ……二百まで生きるって――」


 「不安がるのも無理ないわね。あなたのお母さんはミスミで働いているとは言っても遺伝子は専門じゃないから。ここにこんな大大大成功例がいるっていうのにね」


 松原はぷよぷよとした頬を指差してニッコリ微笑んだ。


 「若いっていいでしょ」


 「可愛いと思ってやってんのか?」


 「……うっさいわね」


 彼女は眼鏡にフッと尖った息をかけてから掛け直した。


 「そういうの先にいってくれよな。母さんの顔見ただろ、いまにも死にそうだったじゃねえか」


 「アンチエイジングはともかく、職場復帰の取り決めを交換条件のようにしてあなたがゲノムシティへ来るとなったら、あなたの可愛い可愛い純心に禍根を残すかもしれないでしょ?」


 「そんなもん気にするかよ」


 顔を背けた涼斗に松原は眼鏡が突き刺さるくらい顔を近づけた。


 「そう、キミが気にする必要なんかない。いままでを振り返る必要も省みる必要もない。なにせアルツハイマーを治すよりか、四十代後半の再就職先を探すよりか大変なことが……キミと、このゲノムシティでは常に起きているのだから」


 港の傍で駐車していた四駆に乗り込み、島の内部へと切り込んでいく。


 道中いくつか古びた建物や旅館、中身をくり抜いたようにスッカラカンのコンビニの跡地が見えた。


 行き交うヒトはなく経年劣化した廃墟がぽつぽつと点在している。


 「なあ、ここって住んでいるヒトいないのか?」


 「昔はいたのよ。九年前かなあ。その頃は観光でどうにか食いつないでいるような島だったの」


 あれはその名残かと涼斗は思った。


 鬱蒼とした森を抜け、小高い山の裾野に入る。ヒトの足で踏みならしたような斜面を四駆は上っていく。


 激しく揺れる車内でも松原は平然とした顔で運転していた。


 やがて切り開かれた場所に巨大な建物が姿を現した。


 外観は無骨な作りになっていて高いコンクリート塀に囲まれた工場……いや、清潔な刑務所と言った方が近いかもしれない。


 先鋭的なイメージを勝手に抱いていた涼斗は驚いた。


 監視所にとりつけられたゲートをくぐり、弧を描く車路に停まった。


 彼は壁のように立ちはだかる研究施設を眺めて顔をしかめる。


 「どっからどう見ても街ってよりか監獄って感じだな」


 「いまは研究所ラボしかないけど、そのうちまたヒトが集まってくれば街になるわ。新しい遺伝子情報を発信していく場所になるようにって願いを込めてわたしが名づけたの」


 「ここが街になるのか?」


 「ええ、学校も少し離れたところで建設しているわよ。涼斗君には高校飛ばして大検受けてもらうから」


 松原は大きく伸びをしながらさりげなくいったが、涼斗にとってみれば三年は覚悟しとけといわれているようなものだ。


 「昔はそんなこと考えもしなかったんだけどね。研究に必要のないモノは必要ない、無垢こそヒトの心を穿つ。それがわたしのポリシーだったのよ。でも、それだけじゃダメだとわかったの。ヒトには一見無駄にも思えるような外装趣味エクステリアも必要なのね」


 彼女はそういえばと付け加えた。


 「あの観光用に貸し出しているジェットフォイルだって剥き出しの素っ裸にしようってはじめ言ったんだけど、残念ながら船底塗料には摩擦低減効果があってね。燃料費が――」


 涼斗は興味なさ気に相づちを打った。


 「はいはいそうですか」


 「兎にも角にも光栄に思うがいいわ。世界最高峰の場所で生活することができるのだから!」


 びしぃと指差されて、涼斗は腐った牛乳を誤飲したような苦りきった顔をした。


 「無理矢理連れてきてそりゃねえだろ」


 「人生切り替えが大事よ。前へ進むことが正義なの」


 松原は意気揚々と壁をそのまま突き抜けるように歩いて行く。


 よくよく見れば立ちはだかる壁は小さな口を開けていて、その先に続く細長い通路をくぐってみるとまた壁のようにラボが聳え立っている。


 「あれ……このいまくぐった建物は何だよ?」


 「そこはセキュリティレベル1、主に雑務や広報担当よ。このラボはボックスインボックスの形になっているの。本来の意味とは少し違うんだけどね。マトリョーシカみたいに進むごとにセキュリティレベルが上がっていくのよ。共有されるのは情報だけ、物理的接触は殆どないわ」


 二つ、三つ、四つと過ぎていくうち、気づいたことがある。


 二階の窓から、休憩所のベンチから、シティの職員は談笑していても通りすがりでも落としたボールペンを拾うときでも誰もが執着を宿した目つきでこちらをじぃっと見ている。


 ところかまわず設置してあるカメラさえ首をこちらへ傾けていた。


 落ち着かない心地で植え込みのある中庭……といってもどこを本当の中庭とするのかはわからない中庭を抜けたところで圧迫感のある壁はなくなり、代わりにぐるりとセキュリティレベル4の建物に取り囲まれた。


 涼斗は食虫植物にいつのまにか取り込まれたハエの気分だった。


 中央には四階建てマンションと同等クラスの研究所がある。


 「ようやく着いたわね、君に生活してもらうのがセキュリティレベル5の実験エリアを含むココよ。わたくし松原汐美が直々に管理するラボなの。様々な制約があるんだけど、それは追々説明するから」


 外観もさることながら内観も強烈に冷えた印象を与える剥き出しのコンクリート造りだった。


 エントランスには回転式の入場ゲートがある。


 早速押し込んで入ろうとすると、耳をつんざくようなアラートが鳴り響いた。


 パトランプが赤く点滅している。


 「待った。そこは共通セキュリティだからね、まずはこっちでタグと所持品検査をするのが先だよ少年」


 エントランスの隣に設置された監視所から声をかけられた。


 短髪の自衛隊あがりのような屈強な体躯をした男が涼斗を見て微笑んだ。


 「松原さん、彼がそうですか?」


 「ええ、申請しておいたタグを渡してあげて」


 もうひとりの腹の突き出た男がアルミニウム製のカードケースを運んできて、涼斗の前で開けて見せた。


 「ほら、取れよ」


 いわれるがまま手に取ったカードには何処で入手したのか涼斗の顔写真が貼られている。


 上部の横に伸びた透かしにモノグラムが入っていて、レベル1から4、青、緑、黄、赤とバーが色変わりに伸びて区分けされている。


 しかし、彼のそれは突き抜けてレベル表示はなくなり色も黒くなっていた。


 自衛隊然とした男が涼斗のカードを指差した。


 「それが入室可能区域を示しているんだ」


 彼が見せてくれたカードはレベル4……赤色までバーが伸びている。


 「でも、俺のその……可能区域ってやつ飛び越えているんですけど」


 松原が涼斗の肩を叩いた。


 「気にしないでよろしい。既存のシステムを強引に流用しているからそうなっているだけなの。ここではBSLバイオセキュリティレベル1から4……つまり一般的なレベルでの研究も行われているんだけど、何と言ってもここにはセキュリティレベル5の実験エリアと居住区があるからね。日本で稼働しているのは現在ここだけ、だから色々間に合ってないのよ」


 自衛隊が涼斗のカードを指で示した。


 「四階は松原所長と助手の網傘君を除いたら君しか自由に行き来出来ないんだよ」

 松原が口を尖らせた。


 「あいつが助手だなんてよしてよ、外部から来たただのお目付役なんだから。ガチョウが金の卵産むかやきもきしているんだわ」


 もうひとりの太鼓腹が苛々した様子でいった。


 「財布と携帯、それ以外の情報端末も持っていたら出せ。セーフティボックスに入れるからよ」


 その様子が本島に置いてきた旧友を思い起こさせた。


 「イヤだっつったら?」


 松原が諭すように涼斗の肩に手を置いた。


 「ちゃんと後で返すわ。どちらにしろここで通信機器は使えないし、お金も必要ないからね」


 涼斗は立ちはだかる三人の無言の圧力に負けてしぶしぶ財布と携帯を差し出した。


 「よし、これで入場可能よ。一応ここはセキュリティレベル5となっているけれど安心してね。いまのところ汎発流行パンデミックの兆しはないから。情報流出した場合には国家レベルの被害を被るのでそう呼称しているの」


 太鼓腹が鼻を鳴らして顔をそむけた。


 「ハッ、こいつが来たらどうなるかわからねえがな」


 「八戸部君! そんな言い方はしないで。涼斗君にはまだその可能性があるというだけよ」


 松原は気まずそうな顔で涼斗にいった。


 「レベル5の入場にはタグのついたカード認証に加えて静脈認証、アイリス認証があるわ。これも後で設定するからね。それでは――」


 彼女は「まずは互いに自己紹介」と手を交差させて後ずさった。


 自衛隊が爽やかに手を差し出した。


 「よろしく、ぼくは須永……それと――」


 むすっとして口を曲げた太鼓腹が目を逸らした。


 「この偏屈なのが八戸部だ。ほら、挨拶しろって」


 「なんで俺がこんな奴に挨拶しなきゃいけねえんだよ……ちょっと外の空気吸ってくるわ」


 舌打ちを残して出て行ってしまった。松原と須永は互いに諦めのような目配せをして八戸部を見送った。


 「やれやれ、相変わらずガキだねまったく」


 須永が申し訳なさそうにいった。


 「ごめんな。あいつ嫉妬しているんだよ」


 「嫉妬?」涼斗は首を傾げた。


 「ここにいる人は予算の都合だとか大人の事情だとかで研究を続けられなくなった人が松原所長に拾われて働いているんだよ。だから若くしてここにやってきた君のことが面白くないんだろうね……どんな立場であれ最先端の研究施設を自由に歩き回れるワケだから」


 「そんなもんか」


 「そんなもんさ。大人なんてのは無駄に知識蓄えた子供みたいなものだからね」


 須永はそっと視線を松原に飛ばしたが、彼女はそれに気づかなかった。


 「あんたはどんな研究をしていたんだ?」


 「ぼくがやっていたのはゲノム設計だ。巷で流行の『デザイン』とはまた違うよ。ヒトに感染しやすくしたH5N1鳥インフルエンザにバングラディシュ1975の製造とね。どれも国ひとつ滅ぼせるくらいの破壊力はあったなあ」


 返答に困る涼斗を見透かしたように、須永は朗らかに笑い飛ばした。


 「もちろん実現出来たらの話だよ。国防省とWHOのストップがかけられて凍結されちゃったんだ。言葉尻だけ捕らえて人類益を考えられない愚か者のせいでね。再開の目処は立っていない」


 須永の言葉の端々には隠しきれない悔しさが滲んでいた。


 「あの、質問なんだけど。そんな危険なウィルスを作り出して、自分で自分の首を絞めるようなことしてどうするん……すか?」


 「いいかい、そもそも鳥インフルエンザひとつにしたって、どうして鳥からヒトに移ったのか、どうしてそれが全世界に爆発的に広まったのかを知らなければ隔離しても、絶滅してもまた違った形で現れる新型ウィルスに襲われることになるだろう。賢いヒトは同じ轍を二度は踏まないよね。だからそれを予めシミュレートする必要があるんだ。起こり得る可能性を模索し、偶然を必然に変えていく作業がね」


 須永は真剣な表情で涼斗の肩を掴んだ。


 「それは遺伝子にも当てはまる。君の遺伝子発現能力、通称ゲノムドライヴは……良きにしろ悪きにしろ新たな可能性なんだ」


 「ゲノムドライヴ?」


 「所長が名づけた遺伝子変異を起こさせる流行性遺伝子疾患の呼称さ。ヒトのなかで眠る遺伝子を発現ドライヴさせる力のことだよ。そしてそれができるヒトのことをドライバと呼んでいる」


 「ドライバ……ねえ」涼斗は口中で繰り返した。


 松原がさりげなく話の後を引き継ぐ。


 「わたしたちは脳の電気信号によって命令され、活動していると思われている。ロマンチックに言えば心、霊的に言えば魂、宗教的に言えば神の思し召しとなるわ。でもね、わたしはこう考えるの。すべてはヒトという器を遺伝子が操っている……運転ドライヴしているんだとね。生命のプールから湧き出たわたしたちが……身体のなかだけでなく、外界での競争をはじめただけのこと」


 「その目的は? なんで競争なんてする必要があんだよ?」


 「いい質問ね。かつては子孫を残すため……だったのかもしれない。でも、少子化、非婚化、晩婚化で人間の理性と景気と懐事情がそれに勝ることがわかったわ。でも……それはもしかしたら新しい進化なのかもしれないと思うの。これから新たな争いがはじまる……そんな予感がしていてね。遺伝子を操る遺伝子……それを持つあなたが現れたことでそれは確信に変わったわ」


 松原は両手をいっぱいに広げた。


 「わたしはそんな新しいヒトたちのためにここを第二の故郷にしたいの」


 涼斗は故郷となるらしき場を見回したが、無機質なコンクリート壁のどこにも郷愁を覚える部分は見当たらなかった。


 「さっ、それでは早速レベル5実験室に向かうわよ」


 空港にあるような金属探知機に二度引っかかってから、ようやく施設への入場を許された。


 松原はちょうど監視所の裏側にあたる西端の部屋へ涼斗を案内した。


 「ここがわたしの研究室兼管理室よ。といっても主にやっているのはエナジードリンクの飲み比べぐらいだけどね」


 テーブルの上には言葉通り堆く積まれたファイルの山と、エナジードリンクを積み上げてできた不健康な塔があった。


 松原はそれらが目に入っていないかのように、やけに古い型のマックの前に腰を下ろした。


 それには薄型のディスプレイが花を咲かすように五つついている。


 釣り鐘を寝かせたようなディスプレイの前に置かれた鉄ブロックを並べたようなキーボードをガチガチと叩くと、どうやら中身だけは新型らしくサクサク動く。


 原点回帰の一環だろうか。


 単なるアンティークマニアにしか見えない。


 「普通なら静脈認証とカードリーダーのタグ認証だけで済ますんだけど、四階に入るにはアイリス認証もいるわ。あなたのパターンを登録するから、ここを覗き込んでね」


 カメラレンズを見つめると、一秒経つか経たないかで認証記録は完了した。


 松原はさっさと席を立ち、「ついてきて」と部屋を出た。


 続こうとドアノブに手をかけたところで積まれたファイルがどさどさと落ちた。


 拾い上げてデスクに積み直していると、一枚の写真がはらりと落ちた。


 見れば大きな真っ黒いネズミのようでもあり、犬のようでもあり、小さなクマ……のようにも見えた。A4タテの分厚いパイプ式ファイルを取り上げて見ると、背見出しにDFTDと書かれている。なかにはそれが可愛らしく首を傾げてこちらを見たり、欠伸をしたり、吠えたりしている写真が並ぶ。


 女性らしい趣味で動物の写真を集めているのだろうかとさりげなくページを繰り、戦慄した。

 

 動物の顔は徐々に膨れあがっていき、最初は目や口の部分だけだったがページの先へ進めば進むほど醜くなり終いには血管の走る内臓が顔にくっついているような酷い有様で、わずかの原型すら留めていなかった。


 顔面腫瘍に占拠されたその顔は愛くるしい面影を少しも残していない。


 「なにしてるの? 早くして」


 松原が立ち竦んだままの涼斗の隣に来て、写真を覗き込んだ。


 「あら、どうしてこんなところにこんなものがあるのかしら」


 彼女は首を傾げてそれを取り上げた。


 「DFTD……デビル顔面腫瘍性疾患に罹患したタスマニアデビルね。BSL4で研究されている感染する癌よ」


 涼斗は最後の写真を見てしばし言葉を失った。


 顔は綺麗なままだったが口が腫瘍でこじ開けられている。


 喉奥から口内までびっしりと赤黒い肉が膨れあがり、最早絶命寸前だった。いたたまれなくなりファイルを元に戻した。


 エントランス前まで戻ってくると、プラスチックプレートに描かれた内覧図を指差しながら松原が説明をはじめた。


 「まずは一階ね。主に管理エリアになっているわ。事務局に上席科学者のプライベートルーム……まあ五つのうち三つは空き部屋なんだけどね。涼斗君の部屋も用意しておいたわ。食事を摂る時はカフェで好きな物を注文してね。ここのコック、口は悪いけど腕はいいから」


 松原は悪戯っぽく笑った。


 「あとは娯楽施設もあるから暇なとき覗いてみてね。地下は年に一度専門業者が探検する送電設備と排水処理施設、二階は技術者の墓場の機械室、殆ど使われていないけれどセキュリティ対策室やコンピュータ制御室があるわ。三階が私たち研究者の時間を盗む研究エリア、四階があなたの主戦場となる実験エリアになっているわ。このレベル5実験室で主に稼働しているのは一階と四階だけ。地下と二階は定期点検のときくらいね。三階も長いこと埃被っているわ。いずれ職員が戻ってくれればできることも色々とあるんだけどね。いまは臨床試験が主だから」


 「職員は他にいないのか?」


 「あとひとりだけいるわ。人手が足りない理由はすぐにわかるでしょう」


 松原は説明を済ますと廊下の突き当たりを左に曲がった。巨大なハコのエレベーターに乗り込み、三階へ上がる。


 研究エリア中央に陣取る円筒形の機械が非常にゆっくりとした速度で螺旋状に下から上へ向かい回転している。


 「これこそがわたしたちの中心ジーンシティのリーディングアクターよ。わたしたちが現在取り組んでいるフォルトゥナのプロトタイプ。生体シミュレーションの行き着いた答えよ。名前の通りヒトの運命を決めるものなの。ゲノムテストは得られた結果のほんの一握りでしかないわ」


 涼斗は柵から下を覗き込み、上を見上げた。


 一階から四階までを貫いているそれは途方もない大きさの演算装置だった。


 「すっげえな、どこまで続いてんだこれ。一階にはこんなもんなかったけど」


 「いやあ、それがね。研究所が出来てからフォルトゥナが生まれたんじゃなくて逆なの。フォルトゥナが生まれてからそれを囲むように研究所を作ったのよ。だからちょっと設計がおかしな感じになっちゃってね」


 松原は誇らしげにそれを眺めた。


 「現在のゲノムテストではまだ補えないことが沢山あるの。例えば病気の発症確率とかね。ヒトは持って生まれた遺伝子だけですべては決まらないの。すべての生命は環境によって遺伝子を変化させる。傷つけたり、修復したり、愛したり、愛されたり、そのすべての可能性を考慮し、人生を決めるのがこの機械なの。莫大なパターンの中からひとつの真実……ヒトの運命を弾き出すもの」


 「運命を?」


 「ヒトのモデル系として利用される生物遺伝子とヒト遺伝子の機能の比較、進化や発生、生物特有の現象についての解析、環境、社会要因まで含めた疾患率を弾き出す、その人物がどんな病気をし、何歳まで生きるかを算定する。これが稼働すれば効率のよい社会が出来るわ。仕事も、恋愛も、ヒトは決定された未来に従うだけでいい、誰も苦しまずに済むの」


 「苦しまずに……かあ」


 「考えてもみて。争いや、差別、貧困が管理され、最もよい状態を保つことが出来るのよ。非婚化や少子化にも歯止めがかかるし、富の分配も最適に行われる。誰もが不平を持つことがなくなるわ」


 「賛成出来ねえな。つまらない世の中になりそうだ」


 「若いうちに夢を持つのは悪いことじゃないけれどね。あなたにもいずれこのプロジェクトには参加してもらうわ。そのときは血液の提供ヨロシクね」


 「俺注射って苦手なんだよな。自分の血を見るのってあまりいい気しないぜ」


 「あらそう? ならもっと良い方法があるんだけど」


 「ならそれにしてくれよ」


 「そう、じゃああなたの精液をちょうだい」


 「は? な……ななななに言ってんだこの色ボケ!」


 松原は眼鏡の奥で目を細め、身体をぴたりと涼斗に寄せた。


 いつか嗅いだ香水のいい香りがする。


 「フフ……補助が必要かしらね?」


 「ほ……ホジョ?」


 慌てふためく涼斗を見て、松原はホホホと高らかに笑った。


 「最近の若いのにも初心な奴がいるのね。興味深いわぁ」


 「なんだと!」


 松原は冗談よといってさっさとエレベーターに乗り込み、ボタンを押して涼斗を待った。


 四階に到着し、認証を受けて鋼鉄製のドアを抜けると、先程のテンションとは打って変わって彼女の顔から笑顔は消えていた。


 「さっきもいったけどここは万年人手不足でね、申し訳ないんだけどキミにはシティで最もセキュリティレベルの高いBSL5の実験棟を管理してもらいます」


 「管理?」


 「ここにいる検体の管理よ」


 「聞いてないぞ!」


 松原は反論を聞いているのかいないのか、すたすたと先へ歩き出した。


 四階には中央のフォルトゥナを取り囲むように部屋がずらりと並んでいた。


 部屋のなかを覗いてみるが誰もいない。


 ステンレスフレームにビニールのカーテンがついた白いシーツに白い枕に白い部屋、病室のように地味な部屋だった。


 「おーい、こっちよこっち」


 松原は廊下の奥、最奥の部屋で待ちかねている。


 「ヒトをこんなとこまで連れて来てよくわからない仕事をさせようってのは都合がよくないか?」


 「刑法二二五条に規定される営利目的略取ってのはね、拐取行為によって財産上の利益を得ることを動機とすることをいうのよ。安心して、あなたの労働は個人ではなく国の財産となるのだから。皇国に準ずる奉仕行為は無償の愛よ、至極の愉悦よ」


 「国ならいいのか、人権何処に捨ててきた」


 松原は「つきましては」と話を流した。


 「入室の際、各認証はすべて二度目で強制失効するから気をつけるようにしてください。ええ、はい。須永と八戸部が飛んで来るからね」


 「どうせあいつらここまで入って来られないんだろ」


 「緊急時には彼らの権限は許容値限界まで拡大するの。そういった場合は彼らも本気で『お仕事』するから、洒落じゃ済まないわよ」


 松原はたまに真剣な表情をするが、常に茶化したような態度なので大した効果を発揮しない。


 八戸部とかいう太鼓腹はともかく、自衛隊向きの須永が来たら厄介かもしれないと涼斗は思った。


 須永にコブラツイストをかけられ、エイエイと元気よく発声練習させられている図が脳裏に浮かんだ。


 「管理って……具体的になにをやらせるつもりだよ」


 「彼女とのやりとりを記録するだけでいいわ。期待しているわよ」


 「彼女?」


 涼斗はすぐに合点がいった。


 なるほど研究者という人種は気に入った物や動物を擬人化する癖があると聞いたことがある。あまり趣味がいいとは言えないが。


 部屋の脇に掲げられたステンレスプレートにはマジックでF・R・Rと書かれた紙が入っている。


 「あなたにしてもらう仕事は毎日この部屋で最低二時間は彼女と一緒に過ごすこと、朝昼晩と扉脇から食事を差し入れること、ついでにシーツや枕カバーの変更、掃除に洗濯もお願いね」


 「俺にいきものがかりやれってのか」


 松原は首を傾げた。


 「うーん。平たくいえばそうなるけど――」


 「どじょうしか飼ったことない俺にやらせるなんて酷だぜ。そんであとは何させるんだ」


 「それだけよ」


 「それだけ? それが仕事だって?」


 高校二年にして畜産でなく、職業いきものがかりになる十七の男子は日本にどれほどいるのだろうか。


 いや、いない。


 現実にいまこうしてここにいるのだからいたのだという論拠の提示は小学生のときに卒業するべきだ。


 「いや、待てよ。ペットショップのアルバイトというセンならあるいは――」


 「なにぶちぶちいってんの。さあ、気合い入れていくわよ。おそらく世に星の数ほどある仕事のなかでも非常に困難な部類であることは間違いないわ。ここね、マジックミラーになっているんだけど」


 松原が扉のちょうど目の高さにある窪みを指で押すと、パコッと開いた。


 「マジックミラーよ。あっちからは見えないわ」


 「別に見えたっていいだろ。変なとこで気を使ってんなあ」


 「いいから、ファーストインプレッションはとっても大事よ。あなた彼女の容姿についてどう思うか正直に答えなさい」


 「容姿?」


 涼斗は首を傾げると、覗き窓に顔を近づけた。


 檻でわななくか弱いメスは、果たしてマウスかモンキーか。


 正解はどちらもいなかった。


 代わりにビスチェドレスを着た美しい少女がいる。


 頭には紫の薔薇がついた黒のハット、首には巨峰を巻いたようなネックレス。


 パープルグラデーションになっているスカート縦フリルは裾から胸元にかけて濃くなり、グリッタースカラの黒が肩を出した胸元まで締め上げるようなアクセントになっている。


 色味のない白い病室の中で異彩を放つ少女はベッドに備え付けられた簡易テーブルの上で熱心に本を読んでいた。


 「……君……涼斗君!」


 すぐ傍で松原が喚いている。


 涼斗は一瞬、我を忘れていた。


 「なんだありゃ。猿は、ネズミは?」


 「彼女がシティのお姫様。恥ずかしがってないで彼女を素直に、主観的に、どう思うか、どう感じるか答えなさい」


 涼斗は息を呑んで、再び少女に目を戻す。


 長く艶やかな髪をすとんと胸元まで落とし、薄く主張の弱そうな唇は知的な印象を与える。瞳は吸い込まれそうなほど大きく、本を捲るたびに動く細い指は白く、可憐だ。


 物憂げな表情で本を閉じた少女が顔をあげたとき、涼斗はぱっと覗き窓から顔を離した。


 心臓が高鳴っていた。


 松原は真剣な表情で重ねて尋ねた。


 「どうなの? タイプなの?」


 「ええと……まあ、結構……可愛い方じゃないかな」


 彼女はがっくりと脱力して額に手を当てた。


 「結構ってあなたねえ、それが問題なのよ。変な気起こさなければいいけど」


 「変な気って、こんなところに閉じ込めてあいつの家族はなんていってんだよ? いくら同意を取りつけたからって猿やネズミじゃないんだぞ」


 「あの子はその家族にここに連れて来られたの……それも仕方ないことかもしれないけどね。彼女の周囲が重度の病に悩まされるようになってね。原因が彼女だと判明したから」


 「なんだよそれ。そんなもんあいつのせいかわからないじゃねえか」


 「周囲への影響を考えてのことだと思うわ。あの子もあなたと同じく遺伝子の組み合わせや発現のオンオフでなく遺伝子自体を変異させ、それによって他者を変異させてしまうゲノムドライバよ。あなたの数倍強い力を持っている故に領域の同定はすぐに済んだの。原因遺伝子の名前はFRR……それはあの子が自称する名前から取られたんだけどね」


 「FRRねえ」


 「詳しいことはよくわからないんだけど、彼女がそれを生かしていままで散々悪いことをしてきているのは間違いないわ。直接手を下していないだけでどれほどのヒトを地獄に叩き落としてきたか」


 「証拠もないのに」


 「彼女の家族、親族、通っていた保育園、交通機関、宅配、御用聞きにいたるまで、とにかく彼女と関わったとされるすべての人間が生きる希望を失くしたのよ。状況証拠しかないけれど、拘束される理由はあるわ」


 「俺と同じくか」


 「悪いけどここでその話を蒸し返すつもりはないわ。集中して」


 松原はまるで特殊部隊の突入のように壁にぴたりと背をつけると、ゆっくりと深呼吸をした。


 「いいわね、これから突入するけど。彼女とのコミュニケーションは厳禁だからね。絶対に会話しちゃ駄目。成る丈目も合わせちゃ駄目。視線もコミュニケーションの一種だからね。話を聞き流すのはいまのところオッケーだから安心して」


 松原は飛び込むように入室すると涼斗の自己紹介を至極簡潔に、まるで幽霊にするかのように壁に向かってした。


 FRRははじめきょとんとしていたが、すぐに大きく目を見開くとまるでずっと待ち望んでいた恋人にするように嬉しそうに微笑んだ。


 「六鳥涼斗さん……はじめまして! 初めてだなあ。外からここへ職員じゃないヒトがやって来るなんて!」


 冷たく透き通るような声だが、物言いは活発な少女はベッドから降りてハットを脱ぐと、両手で裾をつまみあげて恭しくお辞儀をした。


 思わず返事しそうになるところを堪え、苦み走った大人の顔を作る。少女はしばらく待っていたがやがて悲しげにため息をついた。


 「やっぱり挨拶してくれないんですね」


 切なげなその顔をちらりと見るだけで涼斗の心は痛んだ。


 「あの、よう――」


 「いいから黙ってなさい!」


 松原は必死の表情だ。FRRと呼ばれた少女は対照的にのほほんと喋った。


 「それじゃわたしも自己紹介をしますね。わたしの名前はFRR」


 「FRRって呼びにくいなあ。フルルでいいだろ」


 「ちょっと!」


 涼斗は天井に向かって笑いを堪えるようにいった。


 「おいおい俺は天井に向かって喋ってんだぜ? 独り言も駄目なのかよ」


 「まだ発現条件はわかっていないことが多いんだから! 大人しくしてなさい」


 「FRR……ふるる……フルルね」


 自分の名前を繰り返す彼女と視線がばっちりあってしまった。


 フルルはどこかぎこちない笑顔を浮かべた。


 「うん、それでいいです。そう呼んでください。涼斗さん」


 これで会話しちゃいけないって結構キツイんじゃ涼斗は思った。


 松原の白衣を引っ張る。


 「こんな最先端医療施設で研究資料豊富、おまけに政府と製薬会社から億単位の援助を受けているうちがどうしてこれほどまでに人手不足なのかわかった?」


 「もしかして――」


 「罪悪感から無気力、無気力から引きこもり、そして自殺願望に至る黄金の法則よ。どれをとっても日本随一の優秀な人材が全員精神病院送りにされたの。それを目の当たりにした職員も次々とレベル4以下へ転属してしまったわ。ここでは内へ入れば入るほどヒトが少なくなっているのよ。けれど、そんな彼女こそ日本の、いえ世界の希望なのよ。ヒトの不幸を司る彼女にはきっと無限の可能性がある」


 松原は親指でフルルを指した。


 「彼女の当番はキミで二十五人目になるわ。最近ではなるべくヒトを介さないように保護していたんだけど――」


 「間違っていますよ松原さん。二十六人目です。わたしはちゃんと覚えていますから皆さんのこと」


 涼斗はニコニコと笑いかける彼女を注意深く観察した。その清らかな笑顔の裏に悪魔じみた心性が潜んでいるのかと思うと、ヒトを信じるということが出来なくなりそうだ。事故にしろ事件にしろ気をつけるに越したことはない。


 「なんか話しかけてきてるんですけど」


 「シッ! 静かになさい。いいわね涼斗君。絶対に惑わされないように!」


 「ひ……ヒドい! ヒトを悪者みたいに! 泣いてもしらないから!」


 突っ伏して嗚咽するフルルをそのままにして、松原は首をぐるりと回すようにしてさっさと部屋を出た。慌てて涼斗も続く。


 「どういうつもりかしら」


 「え?」


 「つい先日まであんな感じじゃなかった。塞ぎがちで、わたしたちに敵意を剥き出していたのに……言葉使いまで変わっていた。同年代が来たから気を許したのかしら」


 「こんなところにずっといりゃ頭もおかしくなるわな」


 松原は痛いところを突かれたように口を曲げると、涼斗の頭を撫でた。


 「そうかもね」


 エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。


 「どうだった? これから君の下っ端……いや、助手としての生活がはじまるワケだけど」


 「めんどくせえ」


 「人生切り替えが大事だぞ……ってこれはもういったっけ。まあ仕事といっても可愛い女子と好きなだけ一緒にいられると考えればバラ色じゃないかしら。手も口も出したらダメだけど」


 それのどこがバラ色なのだろうかと涼斗はげんなりした。


一階の奥には研究者たちの私室が並んでいる。涼斗はそのうちの真ん中に位置する部屋をあてがわれた。


 「ここって他にもヒトが住んでいるのか?」


 「ああ、キミの隣の部屋にひとりいる。一応わたしの助手ということになってはいるが数年前からNIH……アメリカ国立衛生研究所に行っているからいないんだ。キミに紹介することは避けたいな……かなりの変わり者だからさ」


 「あんたも負けてないけどな」


 「悲しいわあ」といいながら松原は涼斗からIDカードを奪うとカードリーダーに通した。


 「ここはタグ認証だけで通るから。必要な物があればいってね、可能な限り経費で落とすから」


 「必要な物っていっても――」


 涼斗は部屋に入ってみて驚いた。備えつけの風呂とトイレを除けば、彼の自室がそっくり再現されている。


 「パソコンもあるじゃねえか」


 「ええ、でも残念ながらネットは繋がっていないからできることは限られているわよ」


 「やっぱりか」


 落胆した涼斗は天井の隅に設置されたフィルターに目をつけた。


 「あれは?」


 「ああ、HEPAフィルターね。設計士さんがここもレベル4の実験室として設計したから……その名残よ。この施設では大方の部屋に空気感染防止目的で業務用の空気清浄機が設置してあるの。でも個人で好き勝手に使うにはちょっと大袈裟よね」


 「それ以外はぜんぶ一緒なんだな。すごいこだわりようだ」


 涼斗は壁紙の色と質感をたしかめるようにさわった。


 「喜んでくれた? 環境が劇的に変わると遺伝子にも負荷がかかるからね。そこは心を砕かせていただきました」


 「そうかい……ありがとう」


 「ええーっ!」


 「なんだよ」


 「あなたヒトに感謝ってできたの?」


 「できないヤツなんているのか」


 「うん、わたしは大の苦手。それでは初日業務はこれでおわり。これといって生活態度に対する規則はありませんのであしからず。食事をとるならカフェテリア、遊びたいならアミューズメント施設へ。どちらも時間が決まっているから机の上にある規則要綱を読んで気をつけて利用してね。わたしはまだ仕事のこっているから。それじゃ」


 「おい、ちょっとまて。大事なことをまだ聞いていないぞ」


 「なにかしら?」


 「あんたは対策とかいっていたけどよ、俺といっしょにいて平気なのか? 監視室にいた二人もそうだ。誰かといっしょに生活していると困るから俺はこんなところへ連れてこられたんじゃねえのか?」


 「モルモットみたいに閉じこめられて、実験動物にでもされると思ったの?」


 「考えてみたなかで一番最悪のケースだけどな」


 「わたしたちのことはなにも心配しなくていいわ。むしろ遺伝子の変異を望んでいるの。わたしたちは負けてもいい」


 松原は顔を曇らせたかと思えば、すぐになんちゃってえとおどけて見せた。


 「負けるってなんだよ」


 「闘いよ」


 松原は不意に白衣を翻すと、涼斗の鼻先をかすめるかかすめないかの間合いで回し蹴りを放った。


 「あっぶねえ、なにすんだよ」


 「陳腐でしょ、これがヒトの闘いよ。遺伝子の闘いは領域の闘い。どちらが干渉し、浸食し、増殖して子孫に伝えるかの闘いなの。あなたにも恐らく発現するためのなんらかのパターンがあるはず。四十木市で確認したXXXXはあなたとFRRの二件だけ。遺伝子変異はこれまでに五十五件。そのうちあなたが関わりあいになりそうにないヒトが十三件ほど確認されたわ」


 「それって――」


 松原は首をふった。


 「わからないわ。いろいろ考えてみたんだけれどね。その法則をつかむか、もしくはキミ自身がコントロール出来るようになるまではわたしにつきあってもらうわよ。ちなみに――」


 松原は意味深な笑みを浮かべた。


 「彼女はコミュニケーション……会話をすることによって他者を浸食するタイプだから。これは実験データから得られた推測だけど、FRRは主に対象とのコミュニケーションによってヒトに対し想像以上の負荷をかけることができるのよ。海馬の神経細胞を殺し、十七番染色体上にあるセロトニントランスポーター遺伝子をちょん切って短くしてしまう。5ーHTTLPRって言うんだけどね。脳内化学物質であるヒトの気分や食欲、睡眠に多大な影響を与えるセロトニンを運ぶタンパク質の量を減らして重度の鬱病にしてしまうの。彼女が自分で申告した通り、すでに二十五人の研究員が犠牲になったわ。だから決してコミュニケーションを取ってはダメ」


 涼斗は鼻で笑った。


 「矛盾してら自分がなにいってんのかわかって――」


 「それでも!」


 松原は彼の手をとった。


 「それでもあなたには彼女のそばにいてもらいたいの。あなたの持つ遺伝子発現能力……ゲノムドライブなら彼女……FRRは生まれ変われるかもしれない。そうなればきっと人類の役に立つ、素晴らしい力になるはずよ。いまのままじゃ彼女は……一生ここから出られないだろうから」


 松原は小さく手をふるとさっさといなくなった。


 靴を下駄箱にいれてベッドに寝転んでみるとシーツや枕カバーは同じだったが中身は別物だった。スプリングも高価な物を使っているのだろう、彼の身体を跳ね返して包み込む。


 「遺伝子の闘い……ね」


 涼斗はひとりごちると溶けるように眠った。

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