別れ
暗い海を跳ね飛ぶ船影が巨大な飛び魚のように海を滑っていく。波と同調するように身体が跳ねる度、後ろに乗せた彼女が遅れてかぶさってきて操縦がし辛い。
暗中模索とはこのことだろうか。いかに方位磁針があるとはいえ提灯アンコウのぼんぼりのようなか弱きヘッドライトで大海に放り出されてしまえば、果たして何処をどう、どれくらい走っているのか涼斗にはわからなかった。
数歩先の未来しか読めない暗闇のなかで五感が徐々に研ぎ澄まされていく。
どれほど走り続けたか、不意に目映いライトで照らされ彼はハッとしてアクセルを緩めた。
残念ながら夜釣りの漁船ではなかった。それを取り締まるための仰々しい装備を備える巡視船、船体中央に刻まれるのは濃紺の横文字。
「Japan Coast Guard……海上保安庁みたいだな」
巡視船は右手に構えている。その先にブルーライトで着飾った灯台が見えていた。
「みたいだな……じゃないでしょ! 見つかったのよ、どうするの涼斗!」
フルルは珍しく慌てた様子で涼斗の肩を揺すぶった。
「さんづけするのやめたのか?」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょ!」
首を回して海保の動きを注視していたフルルは停船命令にあたるL旗掲揚を見て涼斗の肩をタップした。
「ねえ、なんか旗掲げたんだけど! ヤバイんじゃないの?」
「降参してんじゃねえのか?」
「白じゃないわよバカ!」
真っ暗闇の海に拡声器から格式ばった台詞が轟く。
「本船は日本国海上保安庁の巡視船である。直ちに停船しなさい、直ちに停船せよ。さもなければ実力規制を行う。繰り返す――」
「だってさ、どうするの?」
耳にフルルの息がかかり、アクセルにかかる手がわずかに浮いた。
「くすぐったいからやめろってば! どうするもこうするもないだろ。ゴールは目の前だ。しっかり捕まっとけ!」
涼斗は明かりを消してスロットル目一杯まで回した。船体が大きく仰け反るように持ち上がる。
マイクで拡声された濁声は英語になり、中国語になり、韓国語になり、また日本語になった。発光信号と音響信号と発煙筒で再三停止を呼びかけられながら夜目を信じて破砕する波の上をロデオのように跳ね進む。振り落とされまいと彼は機体に、彼女は彼に必死にしがみつきながら、陸と信じた巨大な黒い塊を目指す。
目の前の波が風切り音とともに破砕した。ドドドドドドドと七連続した作動音が前方に背後にバラ撒かれている。
「ちょっとちょっと! 撃ってきてるってば!」
「嘘だろ! たかがジェットスキーだぞ? どこ見たら不審船に見えるんだよ。遊んでいるんだよ。バカンスなんだよおおおお!!!」
信じられないと言った調子で叫ぶが、悲しくも排気の音に混じるのは二十ミリ多連装機銃が発する銃声だった。
威嚇だ。当ててくるワケがないと祈りながら涼斗は意を決してライトをつけ、ラストスパートをかける。ぐんぐん浜辺に近づいていき、アッと思った瞬間には砂浜に船ごと突っ込んでいた。
ザブォゴゴゴゴゴゥッッと滑走するジェットスキーは驚くほど砂の上を走り回り、護岸に激突する寸でのところで停止した。
「お……おおおお……あっぶねえ!」
震えながら背後を見ると、フルルは物凄い力で抱きついていて、顔を背中に押しつけていた。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫なワケないでしょバカ! 死ぬかと思ったじゃない!」
涙を浮かべるフルルの肩越しに巡視艇が見えた。涼斗はフルルを引き剥がすと叫んだ。
「走るぞ!」
ジェットスキーから飛び降り、フルルの手を取り、砂浜に足を取られながらも一心に駆けた。ペットボトルや木片を蹴散らしてランニングコースまで駆け上がり、息を整えながら振り返ると、ジェットスキーは既に拿捕されていた。見越して盗難届を出しておいた網傘の準備には恐れ入る。
すぐ近くの道路には等間隔に並ぶ道路照明のしたで車が走っているのが見える。
明かりに誘われるように砂混じりのアスファルトを走る。一足進む度にスニーカーからがっぽんがっぽんと便所のラバーカップのような音がした。息は既に上がっていたが止まることはできない。
「ちょっと待って、もう限界」
途中でへたり込んだフルルの手を強引に引いた。
「ダメだ。ここじゃまだ危ないぞ!」
「もう歩けないわよバカ! 足を捻っちゃったの!」
「仕方ねえヤツだな、ほら来いよ!」
「な……なにするの」
愚図る赤子を背に乗せて、涼斗は半ばやけくそで歩を進めた。はじめこそグチグチと言っていた彼女もやがて静かに彼の背に揺られた。
ヒトも疎らな海岸沿いの国道を通り抜け、爛々と目に痛いガソリンスタンドの光を避け、住宅地の隙間に入り込み、小さな公園へとやって来た。
フルルはようやくといった様子で涼斗の背から降りると、ベンチに腰かけ足を組んだ。
「ここまで来れば大丈夫そうね」
肌という肌から汗を吹き出しながら、涼斗は息も絶え絶えに言った。
「いいご身分だな。本当にさ」
その場にへたり込み、しばらく公園を見ていた。郷愁にも似た感情が込み上げてきた。
「どうしたの? 誰かいた?」
「いや……昔、よく行っていた公園があってさ。そこに少し似ているんだ」
イカはいなかったが、粗方の遊具は揃っている。おかしな話だと思った。あの頃といまの状況はどう考えてみたってクロスしない。
寄り添うように立つ電柱に近づいて見れば、現在地の海抜が示してあり、その下に藤沢市と書いてある。
「海抜五・五メートル。藤沢って……どこだ?」
「恐らく神奈川県。湘南海岸あたりね……ということは、さっき見えた灯台は江ノ島かしら。方向音痴も甚だしいわねえ」
フルルは呆れたような顔をした。
「無事に逃げ切れただけで御の字だろ。途中から方位磁針見る暇なかったし」
「この時間じゃ電車移動はもう無理ね。タクシーを捕まえるのも難しそうだし、今日はここで一泊することにします。異議なーし」
ひとりで勝手に決を採ってしまった。納得いかない様子の涼斗を放って、彼女はパタパタと服を引っ張って口を曲げた。
「うーん、それにしてもべたべたしていてキモチワルイわね」
「まあ……着替えなんて持ってくる暇なかったし……買うにしてもこんな時間じゃ空いているとこなんて――」
フルルはスウェットを拍子抜けするほどあっさり脱いで、下着姿になった。
「お、おい! こんなとこでなにしてんだよ!」
「そこに水道があるから水で洗って乾かすのよ」
「いや、そうじゃなくてさ」
「わたし生まれてから一度も風邪引いたことないから」
「違う、その格好だよ」
「ああ、盛っているのね。馬鹿みたい、水着と何が違うの?」
「盛ってねえよ! お前ってもしかして二重人格か?」
「は?」
「いや、前はその……叫んでいたじゃないか」
「ああ、あなたが私の下着を盗んだときの話?」
「あ……う……そ、そうだよ!」
曖昧に返事した。
「あれは……その……書いてあったから」
「何に?」
「本に……恥ずかしがると、男子に好かれるって」
「だから悲鳴あげたの?」
「ええ、そうよ」
思わず噴き出してしまった。マニュアル人間も甚だしいと単なる変人だ。
「アハハ……そっちの方がよっぽど恥ずかしいじゃねえか」
「何がおかしいの?」
「いや……別に――」
凄まれても目線のやり場に困る。成る程、異性として意識されていないためかと納得するが、それはそれでどうなのかと涼斗は思い悩んだ。
「とりあえずあなたに新しい下着を買ってきてもらうわ、いいわね! ついでに食糧と水、疲れたから甘い物!」
「俺が? ひとりで?」
「こんな姿のわたしに買い物しろっていうの?」
腰に手を据えて、フルルは堂々と言い放った。
成る程反論する余地はなかったが別に偉そうにする必要はないだろうと、ヒトに物を頼む態度はお前の愛読書には載っていなかったのかと、涼斗は言ってやりたかったが、彼は溢れる言葉を飲み込み、コンビニ店員の奇異の眼差しを浴びつつ女性物の下着と食料品を購入して帰った。
汗だくになり不快な気持ちで公園まで戻る。涼斗はフルルに何か言ってやろうと思ったが、その何かが思いつかなかった。
下着姿の彼女はベンチに腰かけながら「おかえり」と言った。
ビニール袋から取り出す商品のすべてに対し、フルルは素晴らしい喜びを見せた。
「な、懐かしい!」「これ! これ好きだった!」「わたしにそれちょうだい!」
油っ濃いスナックフードや、見慣れた菓子や、単なる棒アイスがシティ暮らしが長い彼女には滅多に手に入らぬ舶来品のように思えた。
久し振りに楽しい食事を終えて、涼斗はベンチに横になった。フルルは隣で腰かけたまま目を瞑っている。
それにしても堂々としたものだと思った。彼はどうにも落ち着かずそわそわと辺りを見回す。
善良な市民の通報があれば露出魔として検挙される可能性もある。
「その時はその時よ」とフルルに言われ、それもそうだなと自分を納得させた。
ベンチで寝るのははじめての経験だった。寝心地は悪かったが贅沢も言っていられない。
睡魔に潰されるようにして微睡んでいると、夏草の香りを押し込めた雨垂れがぽちょりと彼の腕に落ちた。ギョッとして見上げるが雨は降っていない。ベンチに備え付けた屋根にネットが敷かれ、そこに絡 み付けられた樹木が寄越したものだった。
忘れ去られた傘がこうえんのゴミは持ち帰りましょうと書かれた看板に立て掛けられていたので、涼斗はそれを持って、彼女の上に差してみたがすぐに放り投げて捨ててしまった。
ベンチに再び寝転がると、強く瞼を閉じた。
いったい俺たちはどんな関係なのだろう。友達でも恋人でもない。ただ他人と呼ぶには知りすぎているし、知り合いというほど関係は疎かでない。
自分がどうありたいのか決まっていないからこんなことになる。これでは囚われていたほうがマシだと彼は思った。
フルルのかぼそい声が届いた。
「眠れないの?」
「もう寝るよ」
「怒らない?」
「は?」
「こんなこと本当は言うつもりなんてなかったし、言う義務もないし、わたしが不利になるばかりなんだけど……怒らない?」
「だからなにが?」
「あるところにね、大きな勘違いしているヒトがいたっていう……仮定の話をしたいの」
涼斗は黙って耳を傾けた。彼女はぽつぽつと思い返すように話し始めた。
「あるところに毎日お父さんに怒られている女の子がいたの。その女の子は怒られれば怒られるほどよく泣いたわ。何故怒るのかと、訊ねたらさらに怒られたから、女の子は喋るのが下手になったの。会話のやりかたがわからなくなったのよ。そうして泣いた数だけ……お父さんは喜んだ。そしてその喜びの数だけ女の子は醜い感情を覚えたわ」
涼斗はゆっくり唾を飲み込んだ。彼女がいまどんな顔をしているのか、彼にはわかる気がした。
「どうしてお父さんに怒られるのか女の子にはわからなかった。永遠にも思えるような辛い時間が、さらにずっと続くように思われた。でもね、ある日……今日みたいな蒸し暑い夏の日の晩だったわ。地下にある隠し部屋で……そこがいつもの場所だった。女の子は……そのときはじめてお父さんに勝ったのよ。お父さんは二度と女の子を虐めなくなったし、ご飯も食べられないし、お風呂にも入れない、外に出られない、歩けない、生きられない――」
フルルは何事かをぼそぼそと呟いていたがそれを聞き取ることは出来なかった。
「……それから検査がはじまって、誰もが勘違いしたことなんだけれどね。その女の子はね、ヒドイ目に遭ったときに防衛反応としてドライヴする訳じゃないの。あらゆる感情を誰とでも共有することが出来るのよ。でもね、あんまり世界が酷すぎて……女の子に冷たく当たるから……笑いたいのに泣けてきちゃうの。弱いヒトは皆病んじゃうの……だからね、勘違いをしているの」
フルルは真剣に悩んでいるようだった。それは話し方を悩むというよりか、もっと別のことに心を砕いているように見えた。
「やがて大人たちのなかでも変わり者と呼ばれたひとりの女性が、女の子を自分のお城に連れて行ってくれたの。女の子は大変感謝したわ……これでようやく安らげる……でもね、時間があると余計なことも考えることが出来るようになるし、自分を知ることも出来るようになるわ。女の子は思ったの……どうして――」
「こんなことになった?」
彼女は黙り込んでしまった。涼斗は続けた。
「お前の身体にある傷は――」
「お前の?」
「いや、その女の子の」
「それは変わり者に連れて来られたもう一人の……男の子が勘違いをしたの。そう仕向けたのは女の子だけれど、あの傷は女の子に元々あったものなの」
「変わり者がやったんじゃないのか」
「あれはね、男の子と引き離すためのデタラメだったの。やったのは他のヒト――」
「そいつが……父親か」
「そう、悪いヒトよ」
「あの……録音されていた音声は?」
「女の子の自作自演よ。ああして置いておけばいつか聞いてくれるだろうという期待を込めて」
「大した女の子だな」
「おそらく必死だったのよ。でもね、男の子はもう少し考えるべきだったわ。だってそうでしょう。単に男の子をシティへ閉じ込めたいという理由だけなら、わざわざ男の子の了承や、信頼を得ようとする必要なんかないもの。弾いて、捻って、押しつけて従わせればいいんだわ。過去の傷つけられた女の子のように……でもね、だから安心して欲しいの」
フルルの声の調子が明るくなった。そう努めているだけなのかもしれないが。
「男の子にとっての味方は白衣を着た女のヒトだから。すべてが終わったら……菓子折でも持って謝りに行けばきっと許してくれるわ」
「男の子を……騙したってワケか」
「女の子ははね、ずっと待っていたの。職業倫理が欠けるヒトが来るまで……部屋にやって来る兵隊を病院に叩き込みながら」
「きな臭くなってきたな」
「そうね、そう思うわ。長い間……包丁が痩せ尖るまで研ぎながら……機会を窺っていたのよ。そしたら王子様には見えないけれど待ち焦がれた男の子が来たの。彼は女の子を連れ出すにはうってつけだったわ。だってそうでしょう、同じ境遇なんだものきっと成功するわ。めでたしめでたし。これが……女の子がお城を抜け出すためにせっせと書いたストーリーよ」
「その先はどうなっているんだ?」
「男の子は……お城に戻って幸せに暮らすわ。女の子はどうするかしら――」
フルルは静かな声で訊ねた。
「怒った?」
「いや……仮定の話だろ?」
「ありがとう……ここまで来られたのはあなたのお陰よ。すべてが終わったら……またジェットスキーに乗せてね。わたし……あなたのこと少しだけ――」
その先はいくら待ち詫びても訪れなかった。夢から覚めたように起き上がったが、フルルはぐっすりと寝ていた。
その露わな肢体を見た涼斗は眠れなくなってしまい、寝ては起きて彼女を見、寝てはまた……と、朝方までそれを繰り返した。
翌朝、目を覚ますとフルルの姿はなかった。辺りを探してから元の場所に戻ってみると、公園の砂地に何やら字が書いてあるのを見つける。
『ごめんなさい』
誰に言うともなく、涼斗は呟いた。
「まるでフラれたみたいじゃねえか」




