脱出
目を覚ますと体調は回復していた。恐ろしいほどに汗をかいている。縋りつくようにセーフティボックスを開くと、ちょうどフルルを覗いた五人分の携帯と涼斗の財布が入ったショルダーバッグ……そして可愛らしいミニポーチが入っていた。彼はそれを掴んでバッグにねじ込んだ。
寝間着姿のフルルが向かいの廊下の影から顔を出した。
「どうしたの、大丈夫?」
確認するように呼吸をしながら涼斗は言った。
「お前の言う通りかもしれない。あいつら……俺やお前のこと動物か何かだと思ってやがるんだ。ヒトじゃねえからどうでもいいと……思っていやがるんだ」
エントランスを跨ぐと上部に取りつけられたパトランプが回転した。けれど音はない。網傘が上手くやってくれたのだろう。
涼斗はフルルの手を引いた。彼女は少し遅れてから強く握り返した。
レベル5実験室を取り巻く研究施設の明かりは殆どが消えていた。見回りらしい人物の影もない。しかし、初めのレベル5実験室の外郭まで来て、彼らが愕然とした。
やって来たとき確かに開いていた建物を隔てる壁が鋼鉄の扉で塞がれている。
「どうするの?」
「どうするったって――」
そそり立つ壁を見上げた。窓枠の桟が影のなか、光って見えた。
『可能です。ドライヴにあてられたあなたならば』
見知らぬ言葉に振り返ると、実験室の前に出来た水たまりに月が映っていた。
「どうしたの?」
フルルもつられて背後を見た。
「いや……昇ってみよう。お前、俺の背に乗れ」
「え……なに言っているの? 無理に決まっているじゃない。ここ、四階建てよ?」
いいからと、涼斗はフルルを背におぶさると二階の窓の下枠に指四本で飛びついた。
「どうなっているのあなた。『デザイン』してたの?」
「俺にもわからん。体育の評価は万年3だったよ。周りのヤツらが出来すぎてよ」
身体を擦りつけるように足をかけ、三階、四階と飛び移っていく。もはや人間業ではなかった。屋上へ来ると、まず最初に自分の掌を見た。
何の変哲もない手だった。あの運動を可能にする運動エネルギーはいったいどこから来ているのか。
「知らなかった。あなた蜘蛛の生まれ代わりだったのね」
「アメコミならヒーローなんだけどな」
フルルは顔のそばでクスクス笑った。
外郭に位置するレベル1を抜けると、島の向こうに広がる海と満天の星空を分かつ地平線のうえに雲をまぶした月が出ていた。自然が発する呼気を、目一杯吸い込んだ。生い茂る樹木の、燻ったような夏の香りがした。
スリッパを土に塗し、下枝を折り、虫囁く森を抜けると、海上、半身雲に隠れた月光が彼方にちらつく船の道を引いている。
フルルは泣いていた。変則的に伸びた枝がドレスを突き刺したからでも、二の腕を虫に刺されたからでもなかった。
「生きている心地がする」
涼斗は言葉もなかった。彼の言いたいこともそれ以外になかった。
埠頭には約束通り網傘の姿があった。胡座をかいて月を見上げている。
その姿を目を凝らし見て、フルルは訝しげに言った。
「このヒトがあなたの言っていた協力者?」
彼はそれを受けて立ち上がると優しく微笑んだ。
「ええ、その通りですよ。お嬢様」
「どこかで会ったことあるかしら?」
「いいえ、恐らくはじめてでございますよ」
網傘は続けて涼斗に声をかけた。
「約束通り船は用意したよ」
「船? そんなもん何処に――」
網傘は下を指差した。岸から顔を出すと、ジェットスキーが縄で繋がれ波間に揺られていた。
「これかよ、嘘だろ? ジェットフォイルは?」
「気にするなよ、サイズの問題さ。船長が沖縄に旅行に行っているからダメだってぬかすからさ。因みにコレ、ボクの趣味なんだ。さあ、これで本当に行くのかい涼斗君? 月が出ているとはいえ夜の海を渡るんだ。危ないとは言い切れなくもないかもしれないよ?」
「回りくどいな。わかっててそんなこと言ってんだろう。いまさら引き返せるかよ」
「そりゃそうだね。よし、じゃあいまから簡単な口答諮問をはじめるから……リラックスして素直な気持ちで答えてくれるかな?」
「断る」
チラとジェットスキーを見たが、キーはついていなかった。
「理解したね。ボクの話を聞くだけで特別にこのキーと方位磁針をあげる。方向は北東に三時間、式根島、新島、利島、その先大島と左に見ながら直進ヨーソロー。三浦半島と南房総の間を行くんだよ」
「長々と話を聞いている暇はないわ。すぐに追っ手が――」
フルルがキーを奪おうとすると、網傘が歯を剥き出して牽制した。
「ちょっと黙っててくれるかなお嬢様。これはボクと彼の問題なんだ」
静かだが、凄みのある声色にフルルは口を噤んだ。
彼女は涼斗の横へ来て、脇腹をちょいちょいと突いた。
「ねえ、どうなっているの?」
「さあな。まあ、すぐさま追ってこないところを見ると大丈夫だろ。俺の細工がハマッているのかもしれないな。演技力次第ではもうしばらく時間が稼げるだろう」
「どういうこと?」
「魚に吹き込んで来たんだよ。俺のうじうじとした絶叫悩み相談をね」
「どんな内容の?」
涼斗は取り合わずに網傘を見た。
「時間がねえから早くしようぜ」
「まあテスト……というよりかは確認だね。君がどれほど遺伝子というものを理解しているか……『彼』を認識しているかの」
話が見えない。長くなりそうな気がした。
涼斗は木々を擦りあわせてざわめく森を見た。ヒトの気配はない。
「一つ目、君はこれから松原汐見を裏切る訳だけど、その自覚はあるのかい?」
「先に裏切ったのはあっちの方じゃないか。いくつも嘘を重ねてきた。バレなければいいと思って……俺の心を踏みにじった」
「シティにいるヒトは誰もが自分の成すべきことをしているだけさ」
「ここまで来てシラを切るのか。なら言葉を変えてやる……あいつは……松原は俺たちを利用している。だから俺はフルルと一緒に逃げる」
「ふうん……では質問を続けるよ。二つ目、松原汐美は君たちのことを第一に考えていたという前提は信じられないかい?」
「同じようなことを聞くなよ。あの人は自分のことしか、研究のことしか頭にないんだ。俺たちのことなんて利用できる玩具みたいにしか思っていないんだ」
「三つ目、お洒落な服屋のお洒落な店員がオススメの服を持って来ました。けれどそれは当然売れ残りでどうしても売りつけないと在庫があまるから仕方なくキミに勧めたとしよう、そしてキミはその服を気に入った。果たしてキミは利用されているのか?」
「それは仕事だし、悪意はない……それに目的が違うじゃないか」
「四つ目、旅行先で地元の人とお友達になった。お友達は美味しい食事が採れるところや、地元の名産品を売っているところを紹介してくれた。そのお友達は実は紹介することでお店の人からバックマージンを受け取っていた。キミは料理にも土産にも満足した。果たしてキミは騙されているのか?」
「網傘君……なにが言いたいんだ?」
「すべて利害関係と捉えてしまえば世の中はつまらないし、誰も信用することが出来ない。だからヒトはそれを助け合いと呼ぶんだ。キミはヒトに与えた分だけ、またヒトから貰うことが出来る。それこそが純粋なヒトじゃないかね?」
「俺は……誰からも与えられていない」
「与えようとしていないからね」
「違う……そんなことはない。ここじゃ誰も彼も自分の理屈で動いてやがる」
「寂しいの? ホームシックの責任を取ってくださいよって? こりゃ学校なんかより、心療内科を作るべきだねヤレヤレ」
「学校なんて……そんなものどこにもないだろ!」
「よかろう。テストはいまのところ不合格だ。キミは純粋すぎるし、判断力も鈍いし、なにより頭が悪し。おそらく四十木市に帰ったところで、誰にもなにも与えられないだろうさ」
網傘は優しく微笑んだ。
「でもね、それから選択すればいいんだ。ヒトか……それとも遺伝子か。いまのところ『らしさ』はまったく見てとれないけれどね」
「ワケのわかんねえことをべらべらと……俺には帰る場所があるんだ」
「君は中途半端なんだよ。これだけ多くのヒトがアイデンティティに悩む世の中で、君にははじめから与えられた役割があったというのに、それをすべて捨てて誰もが出来る猥雑な贈り物をしたいだなんて」
「ぬるい説教にゃ付き合ってらんねえよ! もういいよな網傘君!」
「ビリヤードもダーツも相手がいなきゃつまんないからさ。君がいてくれてありがたかったよ。年は離れてるけどボクたちはそれこそ利害の及ばぬ友達ってヤツだ」
網傘は歯を見せて笑い、方位磁針とキーを涼斗に放った。
「二度聞くヤツは嫌いだ。一度で理解してくれよ。右の緑色のボタンを押してアクセルレバー引けば走る。左についてるレバーは改造ライトだからさ。それを点けて走ってくれ。ブレーキはないから急減速は不可能だ。因みにライフジャケットも忘れたし、緊急用のキルスイッチコードも忘れちゃったんだ。衝突したら夜だし確実に死ぬから気をつけてね」
死というフレーズに夜の海を見た。潮の香りが運ぶ臆病風に吹かれ、涼斗は自問するように呟いた。
「いまさら引き返せない……よなあ」
振り返るとフルルが眉を目一杯寄せて、目を細くしている。怒っている風を気取っているといった感じだった。
「これ、乗り終わったらどうすればいいんだ?」
「捨てていいよ。警察に盗難届け出しとくし、盗難保険入っているし、そろそろ買い換え時だし」
「ああ……そうかい」
飛び乗るとぐらりと船体が揺れたがどうにか体勢を保つ。山の方から激しいエンジン音がした。
「来たな。さあ、行け。あの二人はボクが何とか引き止めておくから」
「おお……そんじゃ早速――」
またがりアクセルを捻ると、勢いよく跳ね出した。唸りが波を食み砕き、身体を置き去りにしようとエンジンが暴れ狂う。
「あっぶねえ!」
想像以上に波の衝撃は強い。
「しっかり捕まってろよ! 振り落とされっぞ!」
フルルから返事はなかった。ジェットスキーのエンジン音で声が掻き消されたためだと、涼斗は再び問いかけたが返事はなかった。
彼女は固まったように岸の様子を眺めていた。
須永と八戸部の乗った車はけたたましいエンジン音を響かせてやって来て、躊躇なく網傘をはねた。
吹き飛んでいく彼の影はスローモーションのように、だが恐ろしいほどの早さで近づいてちょうどジェットスキーがはじめにつくった引き波のあたりに顔から落ちた。
涼斗は牛がマンションの五階から叩きつけられるような音を聞いたが、彼はハンドルにしがみつくことで精一杯だった。
「おうい、なにか音がしなかったか!」
耳元で大きく返す。
「いいえ。なにも……問題ないです涼斗さん」
彼女の瞳にこちらを悔しそうに見送る二つの影がはっきりと見えた。




