遺伝子発現(ゲノムドライブ)
要望、下記事項を強く要望する。
記、一、高度安全実験施設(レベル5)の実験停止を引き続き現状維持すること。
二、当該施設の防災対策を講じるとともに内容を公表すること。
三、今後、当該施設を移転すること。
以下、経過及び参考事項。
一、この施設は国際的な遺伝子変異や遺伝子異常の検査診断、予防、及び治療のため創設された。
二、この施設は国内で唯一最も危険度の高い(レベル5)遺伝子変異、遺伝子異常検体を取り扱う施設である。
(レベル5は感染する遺伝子とも呼ばれ、多くは感染経路特定困難なケースが多く有効な治療法、予防法がなく、一度でも感染してしまえば致命的な遺伝子汚染を受ける可能性がある)
三、この施設の建設経過及び実験開始について、地元市長として厚生労働大臣に次の事項を申し入れた。
1、施設建設について口頭説明をもって受け入れの意志とし、建設を完了させたことは到底容認出来るものではない。
2,安全性の確認及び市民の合意が得られるまで実験停止をしてもらう。
日付は二○○八年……九年前の十一月になっている。『実験停止を引き続き現状維持すること』とはいったいどういうことだろうかと涼斗は考えた。ここではいまでも実験が行われているというのに……移転し、再稼働したのだろうか。
ハッとして辺りを見回すと、パソコンのランプが緑色に点滅している。エンターキーを押すと画面が明るくなり、可愛らしい動物の絵が表示された。
見てはならぬ物を見た気がした。電源を切ろうとしたとき、見慣れぬアイコンに目が止まる。それにはハートマークに交差させるように鎖がかけられていた。
クリックしてみると所内すべての部屋の様子がリアルタイムで表示された。
「見つけた」
監視カメラはパソコンで管理されていた。松原はカウンターに腰かけて隣の網傘と何やら話をしている。
涼斗は喉を鳴らすと、右端に出ている音量ボタンをクリックして引き上げた。
「……そうね。確かに彼の能力には謎が多いわ。彼は元々ある遺伝子発現……オンオフを切り替えるスイッチを持っているはず」
「実際には有り得るはずのない様々な効果をヒトにもたらすことが出来る。染色体数やゲノム全体の長さ、塩基配列、保有遺伝子数……検査してみても一見ヒトと違ったところは見られない。ゲノムテストにひっかかったことこそが奇跡と呼べるのかもしれないわね」
「しかし、ここに来て数ヶ月経てど兆候は見られない。けれど八十木市で発現は確実に起こっている。こりゃフォルトゥナに任せるしかないねえ。ところであんたはいつまで嘘を吐き続けるつもりだ?」
「嘘ってなにを言っているの?」
鮮明な映像に映る松原の顔は明らかに動揺していた。
「まあ今回は見逃そう。それよか楽しいことがはじまるからさ。それにしても……遅いねえ涼斗君」
網傘は突然カメラを……いや、こちらを確かに見た。松原がおかしいわねと言って腕時計を確認したところで、涼斗はデスクに置かれたペットボトルに入ったお茶を画面が揺らぐまでかけ続けた。
駆け足で自室に戻り、プレイヤーポッドを起動しスーパーレッドメロンディスカスを握りつぶした。
「三枚のお札ってか」
ドアは紙くずを挟んでわずかに開けたままにしておいた。準備を終えると外に出て、松原のカードをへし折り自室に投げ捨ててドアを閉め、オートロックがかかったことを確認した。
これですべての準備は整った。あとは少しの勇気で踏み出せばいいだけ、後戻りは出来ない。
監視室のドアを叩くとニヤニヤした顔の八戸部が出て来た。
「おう、何だ。お前も混じるか?」
須永がチェスの盤面を見つめてうむむと唸っていた。
「そんな場合じゃないんですよ。松原さんが大変なんです」
二人の顔色がすぐに変わった。
「どういうことだ」
「フルルの様子がおかしくて……死んでやるって!」
顔を見合わせると立ち上がった。
「おい、須永!」
八戸部の問いかけに須永は黙って頷くと右端のロッカーを開けて中から銃を取りだした。それは銃身に細長い筒がついている。
「いや、おい、何だよそれ……そんなもの持ち出してどうする気だ」
涼斗が銃に手をかけると、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「殺しやしないよ、麻酔銃だからね」
「そんなもの使って……副作用はないのか」
八戸部は吐き捨てるように言った。
「三分以内に救命措置を行えば……な。ここは俺たちに任せておけ」
「なんだよ……それ。そんなもんヒトに向けていいと思ってんのか」
呆れるように口だけで笑ってみたが、掠れたように上手く声が出なかった。
「こいつで済めば御の字なんだよ涼斗君」
「聞こえねえ!」
「これは仕方のないこと――」
「聞こえねえや、もう一度俺の目を見て言いやがれ!」
涼斗は二人の前に立ち塞がった。憤りが目的を食らい尽くしていく。いまここで闘う意志を示しておかなければ後悔する気がした。
「緊急事態だ。邪魔をするな!」
須永がゆっくりと息を吐くと、警備服が破裂しそうに膨れあがった。いや、よく見れば彼の身体そのものがひとまわり大きくなっていた。
「お……お前、その身体――」
筋肉の塊となった身体をぶるりと揺すると、彼は身体を惚れ惚れするように眺めた。
「見るのははじめてかい? 『デザイン』だよ。究極の肉体美を追求したんだけど、少しやり過ぎてしまった」
須永は涼斗の身体を軽々と持ち上げて放り投げ、彼はロッカーに腰をしたたか打ちつけた。
「いってえなあ……何しやがる!」
「勘違いしないでくれよ。おままごとは終わりだ。ボクたちは官でも民でもないんだ。問題が起きたら困る。ここでやっていることは知られちゃいけないんだ。悪いことは言わないからそこで静かにしていなよ。おい、八戸部!」
須永が促すと、八戸部は沈痛な面持ちでタバコに火をつけ、静かに煙を吐いた。
その煙を涼斗が吸い込んだ途端、彼は現実のなかに夢を見た。どこかもわからぬ建物の一室で彼は絨毯の上に立っていた。整髪料で撫でつけてテカテカと光らせた金髪の白人が黒革張りの椅子に腰かけ、机の上に置かれた紙を睨みながら一定のリズムで首を振り続けている。騒がしい窓の外では広大な敷地の向こう、フェンスに阻まれた大勢の顔のない人々がプラカードを掲げて何事か叫び、数人が侵入しようとしてフェンスに跨がり、黒こげになって死んでいく。
「な……何だあれ」
振り返ると、八戸部がいつの間にか背後に立っている。
「びっくりだな。もしかしてここに来たのははじめてかお前。ってことはお前が他人をドライヴさせているっつうハナシは……おかしなことになるな。それとも特殊な方法が他にあんのか……いや、お前が嘘を吐いている可能性もあるか」
「これはなんだよ……あいつらは誰だ?」
「領域には観念や夢、記憶、強く思い描いた物が現れ、浸食する対象者に見せつけるんだと。仕方ないとはいえ、他人に記憶の残滓を見せつけるってのは……やめてもらいたいもんだよな」
次第に息がし辛くなってきた。蜘蛛の巣のように張り巡らされた神経が顔筋に浮かんで引きつりを起こす。
「が……かはっ!」
「お前が嘘を吐いていないとしたら……辛いな。この場所の意味もわからないんだろう」
八戸部はその光景を苦々しく見つめながらタバコを吸い、涼斗に煙を吐きかけた。
「所長は知らないが、俺は四十木市生まれのドライヴ保持者だ」
「き、聞いてねえぞ……畜生! 同類が同類を監禁しているのか」
「制御が出来るからだ。わかってくれよ。俺はさ、所長のおかげで自分ってヤツを取り戻すことが出来たんだ。キツイだろうが、しばらくここで大人しくしていてくれ。大丈夫……お前が思うようなことにはならねえからよ。万が一にも不祥事があっちゃならないからな。俺たちは数少ない仲間なんだから……あと少しなんだ。あと少しで契約が切れるから、そうしたら俺たちはすべてを所長に話すつもりだ。俺のドライヴのことも、二重契約していたことも――」
彼が言葉を切ると、そこは元通りの監視室だった。涼斗は去りゆく二人の背を見て小さく呻いた。咳が止まらない。呼吸をする度横隔膜がひきつったようになり、すぐさま吐き戻してしまう。部屋に存在するすべての酸素がなくなってしまったかのようだった。ぐらりと揺れた景色が三重にぶれて、視点が定まらない。呼吸をしようとするたび、苦しみが増していく。
意識を失いかけた頃、どちらかと言えば女性に近い機械的な音声が聞こえた。
『ドライヴ侵入を確認しました。プログラムを開始します。杯細胞過形成、基底膜肥厚、気道平滑筋の過形成、粘膜下腺の増加が見られます。再構築のキャンセル、修復を試みますか?』
幻聴だ。自分はこんなところで死ぬのか。涼斗はぼやけた思考のなかではっきりと強く願った。満足に呼吸がしたいと――。




