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フルルのららら  作者: ちゃぴい
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日常との別れ〜八百七十万分の零〜

 バスケットゴールの網がめくれてリングにかかっていた。


 きっと誰かがふざけて下からシュートしたのだろう。


 開放された体育館の扉から底が剥がれたボロボロのランニングシューズが見えた。

 

 きっと誰かが捨てていったのだろう。


 ありふれた景色だとしても見方を変えればそれなりに感じ入ることもあるのだが、紛れ込んだ違和感についつい気がいってしまう。


 六鳥涼斗は視界の隅にちらほらと見え隠れするスーツ姿の男たちを見てげんなりした。


 大手製薬会社の視察らしいがどうもじろじろと見られているような気がしてならない。


 現にこうして様々な物に目を留め、一秒……五秒……十秒と計ってから不意に彼らを見ると、あわてて顔を逸らしたりするのだ。


 私立中学の検査に出張ってきて偉そうにこちらを見ては何事か囁き合っている彼らの目的はなんなのだろうかと数分ほど頭を悩ませてみたが、彼にわかるはずもない。


 身体検査ではないため新手の変態ではないだろうがそれにしても浮いている。


 いつもは毅然とした態度で生徒に目を光らせている教師連中もいささか戸惑っているように見えた。


 昼過ぎに授業を潰して集められた生徒は異端な彼らを訝しみながらひとり、またひとりと板状のパネルを連結させたパーテーションの向こうへ消えていく。


 並べられた五つの簡易保健室のうち、涼斗は真ん中の列に並んでいた。


 四十木よそぎ市私立七八代中学校ではこの春卒業を控え、高校進学が決定した生徒全員が全国遺伝子検査……通称ゲノムテストを受けるべく体育館に列を成していた。


 個人情報保護法案を盾にがなり立てた反対派の大学教授や、科学者、人権主義者に宗教家、文句をつけたいだけの野党の奮戦むなしく、四年前の二○一六年に国会を通過した全国遺伝子検査法案はこの春から全国の各自治体で実施されることになった。

 

 ゲノムテストを受けなければ進学も就職もままならない。

 

 こうして卒業を間近に控えた涼斗もその例に漏れず運命の宣告を待っていた。


 涼斗はすぐ目の前で先程から震えっぱなしの井貫遥花の肩を叩いた。

 

 「わかるよ。気持ちは痛いほどよくわかる。でもよ、そこまで怖がる必要あるか。中学に入学するときもやっただろ?」


 涼斗が彼女と出会ったのはそのときだった。


 入学の際に行われたゲノムテスト会場の外、桜の木のしたで怯えるような目をした彼女に声をかけたのがはじまりだった。

 

 それから三年が経ったいまもこうして変わらず彼女は震えている。


 彼は少し背の高くなった彼女の姿に時の流れを感じた。


 「そ、そうなんだけどさあ……涼ちゃん」


 遥花は怯えた目を向けた。


 「涼ちゃんが……も、もしも、もしも癌になっちゃうかもよっていわれたらどうする?」


 突然縁起の悪いことを言うヤツだ。


 「いまや癌は治るよ。こわかない」


 「癌でも治らない癌はあるよ」


 「俺は習っていないね」


 遥花は震える唇を噛みしめた。


 「じゃ、じゃあ癌じゃなくてなにか別の絶対に死ぬ死ぬ病になるってわかったらどうするの?」


 「絶対に死ぬ死ぬ病ってのがもしあるとしても……発生前にわかるんだからいくらでも対策のしようはあるだろ」


 「でも絶対に死ぬんだよ?」


 「どうしても死にたいみたいだな」


 遥花は歯をかちかちと鳴らした。


 「や、やっぱり大変なことだよコレって。全部が全部わかっちゃったらどうしよう――」


 「年寄りかよ。まだ病気を気にする年齢じゃないだろう。受けるしか選択肢はないんだから女子だろうがオカマだろうが覚悟しろよ」


 こうして軽々しく口にできるのもまったく実感がないからだなと涼斗は思った。


 十五の中学生ならまだしも長寿を願うごく一般的な人々が様々な場所で列を作るのは理解できる。


 仕切りの向こうから若い女性の声が届いた。


 「はい次、井貫……井貫遥花さーん」


 「ほら、呼ばれたぞ。行ってこいよ」


 「ね……ねえ、もしも……もしもだよ。遥花がとんでもない病気だってわかったら……涼ちゃん助けてくれる?」


 「ああ、いいよ。任せとけ」


 「わたしのこと嫌いにならない? 差別しない? 手繋いでくれる?」


 「ああ、そんなことしないし、ならないよ」


 「ほんとに? ほんとにほんと? ほんとのほんとに––––」


 「ほんとにほんと約束するよ。だからとっとと行けってば!」


 苦笑しながら肘で押し出すように突くと、遥花は恐る恐る足を踏み出した。

 

 涼斗は次に名前を呼ばれる前に区切られたカーテンの向こうに顔を出した。


 「おっ、次は君か。六鳥涼斗くん」


 女医が注射器の先端を眺めながら座っている。


 アンダーリムの眼鏡をかけ、流れるような黒髪を掻き上げた女医は毎年健康診断にやって来る年季の入ったクリーチャーとは違い、ずいぶん若く見えた。


 涼斗は右腕を差し出しながら、女医の胸元を眺めた。松原と書かれたネームプレートがついている。もう少し屈んでくれれば……と考えていると目が合った。


 「あら、あなた――」


 「はい?」


 「いえ、なかなかよろしい顔つきをしているなと思って」


 松原は優しく涼斗の二の腕をアルコール漬けのガーゼで拭いた。


 淡く漂う香水の香りに頭がくらくらする。


 「先生、お手柔らかに」


 「うーん、先生と呼ばれることはあるけど残念ながら私は医師じゃないの。研究者よ」


 「研究者……ですか」


 涼斗にとってそれは馴染みのある職種だった。


 「ん、どうかした? 女医が好みかしら」


 「いや、ウチの母もそうですから」


 「あらそう……どこに勤めているの?」


 「ミスミですけど」


 松原は含みを持たせた笑みを浮かべた。


 「それは……凄いわね」


 「別に凄かないですよ。松原さんはずいぶん若いんですね」


 「これでも結構年齢いっているのよ」


 「えっ……いくつなの?」


 「口の聞き方……っと」


 手慣れた様子でずぶとい注射を遠慮なく刺した。


 「いってぇ……って痛くない。あれ?」


 松原は眼鏡の奥で目を細めた。


 「凄いっしょ、わたしの得意技なの」


 「日頃の修練の賜ですか」


 「ええ、数千匹ものマウスでね」


 ギョッとする涼斗の注射痕にガーゼを張りテープで留めると、ポンと叩いた。


 「よし、これで大丈夫。次の方どうぞー」

 

 しばらく腕が痺れたような感覚が抜けず、血が吹き出てくるのではないかとガーゼを抑える手の力を緩めることが出来ない。


 思ったより血を抜かれたのか、それとも色香に惑わされたのか。


 トイレの鏡を覗き込んで涼斗は油でギトギトのチャーハンを食わされたような顔をした。


 校舎裏へ向かうと遥花が缶ジュースをくびくびと飲みながらしゃがみ込んで地面を見ている。


 目線を追うと一輪の花が咲き誇っていた。


 声をかけると彼女は顔をあげて、ヒト懐っこい笑顔を浮かべた。


 「お疲れ! 涼ちゃん!」


 遥花は胸元に抱いていたカルピスウォーターを差し出した。 


 「昔からコレが好きだったよね涼ちゃん」


 「サンキュー、気が効くね」


 涼斗が好きなのはソーダのほうで、彼は炭酸しか好んで飲まなかったが、好意を無下にするほど愚かではなかった。


 彼は彼女が目線を預けた花に心惹かれた。


 白い三枚の花弁にふさふさとした毛をつけた真っ白なおしべが突き立っている。


 「この花、珍しいのか?」


 「ハギノツユクサって言う放射能を観察するために改良された新種だよ。この花はね、おしべの発育中に放射線を照射されるとね、体細胞が突然変異しちゃうんだって。おしべの毛色や花びらが白からピンクに変わるんだよ」


 涼斗から見れば道端に生える名もなき花でも、園芸部の彼女は名前と由来を与えてしまう。


 「相変わらず詳しいな。でもこんなところに花なんて生えてたっけか」


 「きっとPTAの人たちが植えたんじゃないかな。こうやって子供たちが安全な学校に通っているか調べているんだと思う」


 ご苦労なこったと、スプレーアートの跡が残るコンクリート壁に背をつけた。


 「涼ちゃん。この花……何色に見える?」


 「清々しいくらいの白だな」


 「検査は大丈夫だった? 泣いたり、叫んだりしなかった?」


 「しませんでした」


 遥花はそっと白い花弁に触れた。


 「結果が怖いなあ。花がピンクだったらどうしよう」


 「あんなもので生き死に決められてたまるかってね」


 涼斗は冗談めかして笑ったが、遥花は唇を堅く結んだままだった。


 「結果が出て……なにかあったら絶対に教えてね、約束だからね」


 「わかったわかった」


 「あのさ、それで……話なんだけどさ」


 懇願するような彼女の視線を避け、空を見上げた。


 雲が忙しく動き回り、雨でも降りそうな気配だ。


 「おじさんとメシ食うって話だろ。大丈夫だよ、お義父さん。娘さんをボクにくださいって言えばいいんだろ?」

 

 涼斗は冗談まがいに笑い飛ばしたが、遥花は笑わなかった。


 「あいつにそんなこと言う必要なんてないよ、いうのはわたしのほうだしね」


 聞き返すと、遥花は寂しげに笑った。


 「いいの、そのとき話すから――」


 校舎裏に面したトイレの窓が開かれ、生活指導の教師がニュッと顔を出した瞬間、遥花は素早く明後日の方を向いた。


 「お前らなに油売っているんだ。早く教室に戻れ」


 涼斗は目尻に皺を作ってあーいと間延びした返事をした。

 すぐに教師から拳でこめかみを擦られた。


 「六鳥ィ、あんまり先生の手わずらわせんなよ」


 「痛いな先生、やるならもっと優しくしてよ」


 「優しくちゃ意味がねえだろう」


 笑いながらもう一発というところで遥花が頭を下げた。


 「あ、あの……先生すいません! わたしが悪いんです!」


 「いや……えっと――」


 思わず生活指導と顔を見合わせた。


 涼斗がかける言葉を探しているうちに、生活指導は授業でも見せないような真剣な顔をして綺麗に四十五度のお辞儀をした。


 「いえいえいえいえいえいえこちらこそ声を荒げて申し訳ありませんでした。いまのは六鳥に対して指導したものですから、井貫様は一片もお気になさらずに!」


 俺はいいのかよと不満気な涼斗のこめかみを遥花が心配そうな顔で撫でた。


 「少しやり過ぎじゃあ」


 「そうだそうだ。まったく躾のなってねえ犬だぜ!」


 ここぞとばかりに居丈高になると、生活指導は犬歯を平らかにするような歯ぎしりをした。


 「け……検査が終わったならば早めに教室に戻られたらいかがでしょうか?」


 「そ、そうですね。すいませんでした」


 頭を下げる遥花の代わりに涼斗は舌を出した。


 「あの井貫様! 理事長にはくれぐれも宜しくお伝えください!」


 「あい、わかった。苦しゅうないぞ」


 涼斗がしっしと手を振った。哀れ生活指導の顔は原形を留めておらず、大股歩きでトイレから出て行った。


 次会えばタダでは済むまいが、残念ながら残り数日で卒業のため逃げ切りサヨナラだ。


 「あいつらホントお前に甘いよな」


 「きっと……わたしがいつか代わりになると思っているのよ」


 「代わり?」


 涼斗のブレザーの袖を遥花が引いた。


 「そんなことはどうでもいいの」


 遥花は涼斗の腕に抱きついた。

 それは愛を確かめ合うというよりかは、胸を意図的に押しつけているような野生味の溢れるものだった。


 「教室もどろ」 


 涼斗はその場で硬直してしまった。


 まっすぐにこちらを見つめる彼女には、それが恐ろしい破壊力を持っていることを知っているのだろうか。

 

 三月初旬の七八代中学、卒業式を直近に控えた最後のホームルーム。


 真面目で融通の効かない担任の鈴沢は過日に行ったゲノムテストの補足授業を行った。


 「1990年にアメリカで行われた先天性アデノシンデアミナーゼ(ADA)欠損症におけるはじめての遺伝子治療が行われてから今年で35年です。2025年現在は技術が飛躍的に向上しました現在は治療だけでなく診断から予防、改善が行われ、家族の同意があれば未成年でも、20歳以上になれば誰もが遺伝子組み替えによるゲノムデザインが可能になりました」


 やめればいいのに熱を入れはじめる。担任の鈴沢は自説に酔うと饒舌になる癖があった。


 「しかし、同時に様々な問題も起こるようになりました。完成した設計図をいじるのは余程の技量と経験が必要な作業です。一度いじってしまった遺伝子情報を元に戻すということは並々ならぬ労力がかかります。春から高校生になるあなたたちにいま一度考えて欲しいんです。一昨年遺伝子組み替え等の使用等の規制によるヒトの多様性の確保に関する法律……ちょっとばかり長いですね、別に覚えなくてもいいです。通称ゲノムデザイン法が生まれましたが、これは実際にお金さえ払えば誰でも遺伝子組み替えを認めるという法律です。僅差で国会通過した同法ですがそれは単なる個々人に委ねられる倫理感、宗教観の問題だけではありません」


 既に限界だった。思わず箸も進む。


 「ねえ、涼ちゃん」


 「んー?」


 「さすがにお弁当は食べちゃいけないと思うの。最後の授業くらいちゃんと聞こうよ」


 「興味ねえな」


 「結構詳しい癖にぃ遺伝子とか」


 「科学だろうがオカルトだろうが、スポーツだろうがアニメだろうが、俺はすべての物事に対して先入観を持たず、必ず味見をするタイプだからな。大抵は上っ面だけだ」


 遥花は横から手を伸ばして彼の二の腕を突いた。


 「とりあえずそれは早くしまったほうがいいって、怒られるよ?」


 涼斗は口からエビフライの尻尾を出したまま持論を展開する。


 「弁当を食べていた方がマシだっての。何遍も聞かされた話じゃねえか。賢い借金の仕方、破産しないクレジットカードの使い方、ネットワーク・エチケット、見知らぬおじさんについてっちゃいけませんよ。昔はゆとりゆとりってあんだけ叩いた癖に授業数減らして道徳に時間ばっか割いてどうすんのよ」


 「それから改めて大事だってことがわかったからじゃないの?」


 チッチッチと指を振り、水筒を取り出して暖かい茶を注いだ。


 「ゲノムデザインなんて好きにすりゃいいのさ……てめえの身体をどう弄くり回そうがてめえの勝手じゃねえか。お前の大好きなアイドルだって顔いじくってんだぜ」


 「え……誰! 誰なの! もしかして――」


 「うっそーーーーん。ハッハッハ、驚いたか? 風説を鵜呑みにしちゃいかんよ」


 「もう! いいから早くしまいなよお弁当」


 「俺はな、どうせ最後の授業ならさ。人という字は人がさぁさうぇあってぇーできてぇーいます。とかさ、そういう胡散臭いけどヒトの心を打つような言葉を贈るべきだと思うのよ」


 スパゲッティを箸で掬い上げて勢いよく啜った。


 「成る程、ご高説ありがとう。参考になるよ六鳥くん」


 慣れぬプレッシャーに顔をあげると鈴沢が優しい顔で頷いていた。


 「残念だが私はそういう言葉が嫌いなんだ。人という漢字は人がひとりで立っているところを横から見た姿を描いているんだ。世の中は間違っていることがまるで正解のように扱われていることが間々ある。皆も耳障りの良い言葉と、権威を傘に来た洗脳には気をつけるんだぞ」


 誰もがはーい、と物分かりのよい返事。

 

 たかが一年間でよくも上手く飼い慣らしたものだ。


 「けれどお前の言うことにも一理ある。時間はまだあるから試しにお前、代わりにやってみろ」


 「え?」


 「わたしの心を打ってみろ!」


 出席簿の角を鼻っ面に叩き込まれた。


 涼斗は子猫のように首根っこを掴まれ教壇に立たされた。


 笑いを堪えるクラスメイトたちのなかで、遥花だけは胸に手を押し抱いて心配している。


 鈴沢に脇を抓られて涼斗は素っ頓狂な声を上げた。


 「いってぇ! え……えーと……明日を作るのは……今日の自分です!」


 鈴沢が合いの手を入れる。


 「ほお、それで! どうなるんだ?」


 「うーんと、様々な不安や悩みが……今日という日を曇らせるでしょう、けれど明日は必ず晴れます!」


 「だから?」


 「こ……困ったときはいつでも鈴原先生の元へ行きましょう! なんとかしてくれるはずです!」


 笑いも、罵声もなにもなかった。教室はただシーンとしていた。クラスメイトの視線が痛い。


 鈴沢は感じ入ったように唸った。


 「うーーーん。意外とよかったぞ」

 「……さいですか」


 流れ作業のような卒業式を終える。


 小中高と一貫教育を行っている七八代では別れの感慨など起こりようもないと涼斗は思っていたが、遥花が号泣しているのを見て驚いた。


 担任の鈴沢も涙を堪える仕草を見せ、ハンカチを手にぐずっている。


 校舎を少しばかり移動するだけだぞとは死んでもいえないような雰囲気をその二人だけでクラス中に作り出していた。


 鈴沢は気持ちを切り替えるようにして明るくハキハキと喋った。


 「ええ、先日皆さんが受けたゲノムテストの結果、既に自宅に届いていると思いますが前にも言ったように決して他人に見せないようにしてください。そして、少しくらい悪い結果が出たとしても狼狽えないように。医療は日々進歩しています。予防と早期発見さえ出来ればあらゆる病気……癌や脳梗塞などは完全に対応することが出来ます。テストの結果はあなたたちの設計図みたいなものです。もし第三者の手に渡れば種類によっては保険を契約出来なかったり、ローンを組めなかったり、就職の際不利になったりしますので――」


 脳味噌筋肉の佐藤がはいはいと振り回すように手をあげた。


 「センセェー、んなもん俺たちにはカンケェーねぇと思いあっす」


 「いいえ、三年間無遅刻無欠席の佐藤君だからこそ先生は心配です」


 誰もやりたがらない学級委員長を一年間勤め上げた鈴木が手をあげた。


 「先生、どうして他人に公表してはいけないんですか?」


 「良い質問ね、鈴木さん。保険屋さんは病気をしにくいということで佐藤君に契約を迫りますし、悪いお金貸しさんは喜んで佐藤君に借金をさせようとします。そしてその情報は皆で仲良く共有されて誰もが佐藤君と親しくなろうと努力するようになります」


 「別に仲良くなれんならいいっすー、オレ高校で友達百人作るんでぇー」

 鈴沢は教壇を叩き壊すかと思うほどの勢いでぶっ叩いた。


 「皮肉だクソガキ。いいから誰にも見せんなヨ?」


 「は……はい――」


 涼斗は二十五歳の女性に戻った時の鈴沢が好きだった。


 「それと六鳥」


 「ひ……ひぁい!」


 突然呼ばれてひきつった声で返事をしてしまい、クラスメイトの嘲笑を買う。


 「あなたに会いたいっていう人が来ているから、あとで必ず職員室に寄るように」


 「ファンかよ六鳥、めでてぇな!」


 口笛とからかいの的になりながら、涼斗は今度はぶっきらぼうに返事した。

 

 写真撮影や色紙の寄せ書きを一通り終えて、教室に残るクラスメイトに後ろ髪ひかれながら廊下へ出た。


 職員室へ向かおうすると、後を追って来た志治直臣とその取り巻きに呼び止められた。


 「薄情な奴だな。まだ卒業のお別れが済んでないぜ? お前、ちゃんと持って来ただろうなあ?」


 「なんのことだ」


 「もしかして忘れたのか」


 「うるせえな持って来たよ。でも検査ミスったみたいだから見ても面白くないぜ?」


 取り巻きが距離を保ちつつ茶々を入れてくる。


 「ビビったのかよ六鳥ィ?」


 「志治君。こんなヤツの結果見たって仕方ねえよ」


 涼斗は舌打ちしてため息をひとつ吐いた。


 「バレると面倒だからいつものトコいこうぜ」


 小雨の降るなか体育館裏に腰を落ち着けて封筒をやり取りしているととてつもなく悪いことをしているような気になる。


 ゲノムカルテを渡すと、志治は早朝から並んでようやく目当てを手に入れたようにうきうきと中身を確認した。


 「互いに見るなっていわれたら見たくなるよなあ。特にお前のはよ」


 「悪趣味な奴だな」


 「明日死にますって書いてあったって誰にもいわねえから安心しろよ」


 「いいから早く見りゃいいじゃねえか」


 「イキるなよ。俺はただ……大嫌いなてめえがどんな惨めな病気にかかるのか興味があんだよ」


 胸ぐらを掴むと、志治は分厚い頬をつり上げて笑う。


 どういうことだと尋ねたが、志治は聞こえているのかいないのか、真剣な表情でカルテを見た。 


 「なんだこりゃ。ふざけてんのかお前」


 突き返されたカルテには全ての欄にXXXXと書かれている。


 「だからいっただろ、検査失敗したんだよ。前の日に母親が飲んでた梅酒をいただいたからかもな」


 「お前……俺の見てみろよ。持って来たからよ」


 確かに志治のカルテには保有している遺伝子が詳細に書き込まれている。


 「あのよ六鳥。俺さあ……この前聞いちまったんだよ。担任の鈴沢とさ、白衣を着た女がお前のことを話していてさ……少し前にも――」


 「愛しているってか? 俺は年上大丈夫だけどさ、教師と研究者はゴメンだね」


 涼斗は鼻で笑うと、志治のカルテに面白い項目を見つけた。


 「おっ、お前APOE4型を持っているんだな……あっちゃあ、残念だわ。ソルチリン関連受容体を作るSORL1も変異してらあ」


 思わせぶりに哀れみ深い視線を飛ばす。


 「えっ、どういうことだよ? お前それの見方わかるのか」


 「どっちもアルツハイマー発症に関わる遺伝子だろうが。お前授業聞かないばかりかテレビもネットも見てねえのかよ」


 顔を見合わせて首を傾げる連中のために続ける。


 「簡単に言うと死ぬまでに確実にボケるってことだ。おめでとう。いまのうちに成る丈いっぱい思い出作っておけよな」


 本当は発症確実というワケではないのだが、目の前で青ざめている連中を見るのは気分が良かった。


 取り巻きの二人が志治の腕を我先にと掴んで振り回した。


 「マジかよ志治君。俺のことゼッテェ忘れないでくれよな!」


 「お、俺も! 貸したゲームは返さなくていいからさ!」


 志治は肥えた身体を柏餅のように折り曲げると、キュウウと唸った。


 「あ……当たり前じゃネエか! お前らは一生のダチん子よ!」


 卒業式でも泣かなかった三人組が肩を抱き合って泣いている。なんとも感動的な場面に遭遇したものだ。


 涼斗が欠伸をしてその様を眺めていると、校舎の影から遥花が飛び出してきた。


 「あ……涼ちゃん! こんなとこでなにしてるのよ!」


 「いや、こいつらが俺のカルテを――」


 涼斗の言葉を志治が大声で遮った。


 「ベラベラ喋るんじゃねえよ!」


 涼斗はお前が言うのかと呆れた。


 「カルテ……なにかあったの涼ちゃん!」


 そうか、寧ろ問題は『そっち』だったかと涼斗は思った。


 「いや、別になにも。俺は元気いっぱいだよ。ちょっと見せあいっこでもしようかなって――」


 「ダメだよ! そんなの絶対ダメ!」


 あまりの剣幕に気圧され、不必要に何度も頷いた。


 遥花が声を荒げることなど年に一回あるかないかだ。


 前回は犬をイジメていた高校生に向かって放たれた。


 ちょうど去年のいまぐらいの時期だった。


 「他人に見せちゃ駄目だって先生がいっていたじゃない」


 志治は涙を袖で拭ってぐしゃぐしゃのハンカチで鼻をかむと、一歩前に出た。


 「おい井貫ィ、てめえ理事長の娘だからって調子乗ってんじゃねえぞ?」


 志治の凄みに怯むことなく、遥花が物凄い形相で吐き捨てた。


 「いまはそんなこと関係ないでしょ! 悪いけどもう涼ちゃんにちょっかい出すのやめてくれない?」


 「金持ち女が……別に俺だって好きで話しかけたワケじゃねえや」


 志治は油に塗れたような小汚い掌を見せると、鍵盤を叩くように指を動かして舌を出した。

 

 取り巻き連中も何かしてやろうと悩んだ挙げ句、ファックサインと唾を吐き残して立ち去った。


 「あんなのと関わっちゃ駄目だよ涼ちゃん。一緒にいるだけで性根が腐るよ」


 涼斗はうーんと唸って遥花の顔を見た。


 「ああ……でもよ。あんな奴らでも卒業する時くらいはさ……笑って別れたいもんだよな」


 それは限りなく無謀な挑戦だった。


 「なにいっているの? 卒業っていったって、ただ校舎移動するだけだよ?」


 「泣いていた癖にそういうとこはドライなのか。でも、高校では全部が全部学力別のクラス編成になるからさ。もうあいつと一緒のクラスにはならんだろうし、思い出作りだよ」


 遥花がそれを聞いて思いついたように指を鳴らした。


 「思い出作り、それいいね。卒業祝いしようよ。ファミレスでご飯食べてカラオケで卒業ソング歌おう! カメラも持って来たからさ。イカ公園で記念撮影しようよ!」


 イカ公園というのは巨大なイカの滑り台がある公園で、本来は鐘楼公園という名前だった。


 放課後大口を開けたイカのなかで二人で話すのが恒例となっていた。


 遥花はポケットから得意気にデジカメを取り出した。


 まだ真新しい、おそらくこの時のために購入したおろしたてなのだろう。


 「撮影って……どうせ高校になったってお前とはクラス一緒だろう。どっちかが急に伸びたりしない限りはさ」


 「でも、区切りは大事だと思うの!」


 遥花は散歩を懇願する愛玩動物のように円らな瞳をキラキラさせた。


 一旦こうなってしまえば断る方法はない。


 「いつもと変わり映えしねえなあ。卒業だってのに」


 彼女はローファーのつま先で地面をトントンと叩いて、くりくりと土を穿った。

 


 「それがいいんじゃない」



 午後八時半過ぎ、遥花の門限が午後九時厳守のため仕方なく帰宅してみると、深い藍色のBMWX―9が自宅前に張りつくように停まっていた。


 侵入するのを拒むような非常識な止め方に苛立ちを覚えつつ、ブロック塀とそれの隙間を縫うようにして通ると、スモーク張りのガラスのなかで携帯で話している運転手らしき男がこちらを向いた。


 サングラス越しにこちらを見ているのがわかる。


 嫌な予感しかなかった。


 表情は変えずに玄関を開けると白衣を着た女が腕組みをして立っている。


 女は人差し指でこめかみを掻いてから、滑らすようにその指をがじがじと噛んだ。 


 「思えばバックれられた挙げ句に相手の家で健気に待っているなんてはじめての経験ねえ。ってことはあなたはわたしにとってはじめての男になるわけね。うん、なかなか見所があるわ」


 「あれ……あんたはたしか――」


 「会うのはこれで二度目ね。六鳥涼斗君。ゲノムシティ研究所所長の松原汐見です。急で悪いけどあなた高校進学は諦めなさい」


 「は?」


 涼斗は首を四十五度に曲げた。突然現れてなにをいっているのだろうかこの女は。


 松原は腕組みしながら細長い指を振り振り偉そうに続ける。


 「最低でも事態が収束するまではわたしと行動を共にしてもらいます。お母さんとの話は既についているから、説明を受ける前にまずはお別れをしてきなさい」


 涼斗は反論する隙も与えられず押されるようにして玄関に入った。


 まだ五時もまわっていないのに人の気配がする。


 リビングにはやけに豪勢な料理が並べられていた。


 涼斗の母、永久子はそれに手もつけずに黙って佇んでいる。


 「おい……どうしたんだよ」


 永久子が顔を上げた。


 散らばった髪に虚ろな瞳、憔悴しきっているのが一目でわかる。


 「涼斗……遅かったわね」


 「友達と遊んでたからさ。今日はずいぶん早いんだな。いつも残業だっつって遅いのに」


 「母さんね、今日づけで会社辞めてきたの」


 「はあ?」


 耳を疑った。


 永久子は四十木市に本社を置く大手製薬メーカー『ミスミ』で研究職に就いている。


 「最近昇進したって喜んでいたじゃねえか。なんでいきなり――」


 「深刻なレベルの遺伝子汚染による不確定因子の拡散防止……なんていう長々とした辞職勧告が出てね。社内でも……突然のことだから花束も用意してなくて」


 目にはうっすら涙が浮かんでいた。


 「でも心配しないで。ある程度生活保障されるらしいから。井貫さんが……社長さんがわたしたちを見捨てるワケないもの。だってあれだけ貢献したんだから。いまのミスミがあるのもお父さんのおかげなんだから」


 「またその話かよ」


 「わたしたちだけでもきっと大丈夫。失業給付だって、退職金だって、だ……だだだだってでるし……で……でるしっ!」


 目頭をつまむようにして涙を拭うと、不意に顔を明るくした。


 「席につきなさい。料理が冷めちゃうから」


 六鳥家の食卓はいつになく重苦しい空気に包まれた。


 「母さんね……会社でゲノムテストの結果を受け取ったんだけどさ」


 「悪いとこでも見つかったのかよ」


 「いいえ、それどころか長生きするらしいの。母さんはね、KL―VSアレルっていう組み合わせを岩手の実家にいるお爺ちゃんお婆ちゃんからひとつずつ受け継いでいるのよ」


 「そ、そうかよ。そりゃよかったじゃねえか」


 「でもね。それが凄いらしいの。普通の人よりか……抗老化、長寿に関連するのはクロトー遺伝子って呼ばれているんだけど。それが発達していて……凄い長生きするみたいなのよ」


 「いや……だから――」


 「二百歳まで生きられるんだって……あはは」


 会話は途切れた。箸が器を突く音だけが食卓に居座っていた。


 「どうしたんだよ母さん。疲れてんじゃないのか?」


 「そうかもしれない。なにかの間違いだといいんだけど」


 「いい機会じゃないか、少し休めよ。高校入ったら俺も働くからさ」


 箸を持つ母の手が小刻みに震えた。


 「いいたいことがあんならいえよ。他人の家の前にスモークかかったBMWヤンキー止めしているあいつらが関係しているんだろ。ちょっと待ってろ、ぶっ飛ばして来てやっから」


 椅子を立ち上がりかけた涼斗に永久子がいった。


 「十億人にひとりいるかいないか……らしいのよ」


 「はい?」


 「だからね。涼斗は特別なんだって。高校進学を諦めて、ゲノムシティに来てくれないかって話をされたのよ。一般には知られていないけれど、遺伝子異常の子だけをを集める特別な施設があるらしいの。絶対に悪いようにはしないからって」


 「どんくらい?」


 「数ヶ月もしくは数年かかるっていう話だけれど、期限は決まっていないわ」


 「行くワケねえだろそんなとこ」


 永久子は黙って俯いた。


 「嫌だよ。そんなワケのわからねえとこ行きたかねえよ」


 「もうサインしたわ。あとはあなたの同意だけ」


 永久子は一枚の紙を涼斗につきつけた。


 表題に治療実験計画同意書と書いてある。家族署名欄には母のサインがしてあるが病名、症状、治療計画、検査内容、手術内容、日程、その他すべてがXXXXになっている。


 「こんな胡散臭いもんにサインしちまったのかよ」


 「国家プロジェクトの一員になれるのよ。名誉なことじゃない」


 「名誉だって? ふざけんなよクソババア!」


 茶碗を投げつけようとしたとき、涼斗は母の赤く充血した目を見てしまった。


 彼は絞り出すようにいった。


 「だって、俺。友達と一緒の高校行くって――」


 「わたしだってこんなことしたくないわ。涼斗、シティへ行くのが嫌ならいますぐ家から出て行きなさい!」


 「出て行けって……ちょっと待てよ、なんだよいきなり」


 「いまならまだ間に合うかもしれないわ」

 

 「失礼ですが間に合いませんよ。お母様」


 いつの間にか、松原がリビングの戸口に立っている。


 「お話はそこまででいいかしら?」


 「どうして……なんで俺なんだ?」


 松原は腕組みを解くと眼鏡を持ち上げる。


 「ゲノムテストが開始された年、遺伝子異常はその頃からよく観察されたことだったけれど、ここ数年明らかな変化が四十木市で頻繁に観測されるようになったの。遺伝子の欠失、変異と発現パターンの偶発化。私たちははじめそれをエピジェネティックな変化……社会環境などの複合的作用による変質と考えて歓喜し、未知の発見……人類の新たな可能性に心をときめかせたわ。でもね、事態が深刻化すればするほど……楽観視していた時間のぶんだけ打ちのめされたわ……苦渋の決断ながら、最終的にこう結論づけたの――」


 松原は強い口調で言い放った。


 「日本は……いえ、ここ四十木市はバイオテロを受けている! 被疑者が国か個人か団体かも特定出来ないまま一方的に収奪され、いじくられ、書き換えられ、モルモットにされている! 深刻なレベルでの遺伝子汚染はヒトをヒトたらしめるものを次々に奪っていく――」


 「ちょっと待ってくれよ、なにをいっているのか全ッ然わかんねえよ。テロを受けているって……俺たちは至って普通じゃねえか」


 「普通? 普通ってどういう状態が普通なの、平熱? 息が吸えるってこと? 憂鬱でないってこと? 友達がいて恋人がいて母親がいて高校進学が決まっているキミのようなヒトのこと? ヒトがヒトであるために必要なモノってなにかわかる? これは哲学の問題じゃないのよ?」


 松原は深く息を吐くと決然としていった。


 「現にあなたがヒトであると示す根拠は非常に弱いわ」


 「弱い?」


 「脆弱極まりない。例えるならヒトがヒトの皮をかぶって生きているようなものね。それが先日キミが受けたゲノムテストが出した答えよ。あなたには兆しがあるの。観察されたXXXXフォーエックスは地球上に生きる生物八百七十万種のどの生物ゲノムとも類似しないゲノムよ。それはヒトの遺伝子発現を幇助する悪しき兆しと考えられているわ。つまり、あなたが原因なのではないか。これは仮説を立てられた時点で魔女裁判にかけられてもおかしくないわ」


 「俺が?」


 「ゲノムシティが出した見解では今回のバイオテロの犯人はあなた……というよりも、あなたの遺伝子発現を促す力によるものと推察しました」


 「知るか。なんだよそれ……俺がなにしたっていうんだよ。馬鹿らしい」


 「なにもしていなくてもなにかしてしまうのが恐ろしいところでしょ? 手を繋がなくても、唾液を摂取しなくても、粘膜を擦り合わせなくても他人の遺伝子を変容させてしまうのだから。ヒトは想像を超えた過負荷により遺伝子を変異させてしまうの」


 あまりにも飛躍した話に涼斗が追いつく前に松原がとどめを刺す。


 「感染症法には発散罪という罪もあるのよ。量刑は無期、もしくは二年以上の懲役または一千万円以下の罰金。患者が感染していることを知りながら、他人を病気に感染させた場合には、傷害罪になるわ。つまり、いまからあなたが誰かを発現させた場合には傷害罪が適用されることになるわね」


 「俺が……犯罪者になるってのか? 俺はなにも知らないし、なにもやってない!」


 「いま……知ったでしょ。これからあなたが街をぶらつけば、法律用語で言う未必の故意にあたるわね」


 「そんな馬鹿な話があるかよ」


 涼斗は脱力して頭を垂れた。


 「あってたまるか」


 「大袈裟な話でなく日本政府があなたを危険視しているの。でもわたしはあなたを単なるモルモットにする気はさらさらないわ。これは競争なのよ、肝心なのはどちらが先にあなたを手に入れるかということと、手に入れてからどうやってあなたを不活性化、もしくはコントロールできるようにするかということ。イロハも知らないヤツらに牢獄に閉じ込められるのか、イロハを知り尽くしたヤツらに海外に飛ばされるのか、イロハを無視したヤツらに秘密裏に処理されるのかそれはわからないけれど、断言できるのはいまここで! わたしを信じてその身を託せば間違いないということよ。こちらとしても最高の待遇を用意するつもり、それがあなたの気休めになるかどうかはわからないけれど」


 言い分は理解したが、現状を把握するにはしばらく時間がかかりそうだった。


 永久子は涼斗の返事を待っているようで、待っていない。


 どこか落ち着かず、視線を彷徨わせては彼の瞳に行き当たり、弾けたようにまた逃がす。


 「だから俺に出てけってのか……金かなんか貰ったんじゃねえよな?」


 笑って尋ねたが永久子は返事をしなかった。


 「答えろよ。いきなりこんなワケのわからねえ奴の誘いに乗ったのかよ。全部デタラメかもしれねえだろ。こんな住宅街で白衣着こなしているイカれた女の言い草だぞ!」


 「基本引きこもりの研究者が外行きのスーツを用意するのは不経済だわ」


 「そんなこといってんじゃねえ常識を話してんだ」


 「ジョーシキ? TPOってヤツ? そんなものとうに忘れたわね」


 永久子が湯飲みで机をコンと叩いた。


 涼斗と松原はその静かな所作に動きを止めた。


 「いまもまだ迷っているわ。正しいのかどうかはわからない。でもね、これがきっとあなたにとっての最善だとわたしは信じているの。そりゃ悲しいわよ。ひとり息子とこんなに早く離れることになったんですもの。でもね……やっぱり、ごめんなさい。わたしもね、一応仕事してたからわかるのよ色々とね」


 永久子は涼斗の手を強く握りしめた。


 「あなたがどうするか選びなさい」


 「俺が?」


 口を噤んだ永久子を引き継ぐように松原がいった。


 「先程もいったけれど、あなたには力がある。それはバイオテロを引き起こす可能性もあるけれど……埋もれた才能とも言える。それが制御できればの話だけれど」


 「実感湧かねえよ。だいたい誰がいつ俺のせいで迷惑被ったってんだよ!」


 「オブラートって知っている? それいわせちゃうワケ? いま確認されているだけでも影響を被ったヒトは二人いるわ。永久子さんのクロトー遺伝子の増進とあなたの学校のクラスメイトの志治直臣君のアポリポタンパクE……これは3型から4型に書き換えられているわね」


 「母さんと……志治が?」


 「ええ、永久子さんにとってはいい変化だと言えるかもしれないわね。志治君は……残念ながらアルツハイマーリスクが飛躍的に高くなったわ」


 心臓を握り潰すような痛みが走った。


 涼斗は校舎裏で志治直臣どんな言葉を投げたろう。


 「涼斗君、わたしはあなたの意志で来てもらいたいの」


 「意志? 意志だって、こんなやり方のどこに俺の意志があるって?」


 涼斗は机を叩きこわそうかと思うほど殴りつけた。


 「最初っから連れてく気なんだろう。ごちゃごちゃ説明したって納得するワケないんだから勝手にしろよ!」


 「ごめんなさい。どうにも言葉を間違えたわね。形だけかもしれないけど……強制的に連れ出すことはしたくなかったから――」


 松原は立ち上がると涼斗の胸ぐらを掴んだ。


 「あなたが自分の力を制御出来るようになるまでわたしたちの元へ来てもらうわ。これはあなたのためだけではなくて、あなたの周りのヒトすべてに関わることなの、いいわね六鳥涼斗君? 今日は遅いから明日また来るわ。色々……準備しておいて」

 

 無言のまま逃れるようにリビングを出た涼斗に松原が声をかけた。


 「朝九時に迎えに行くからね!」


 二階の自室に戻ると顔を押さえてうずくまった。納得する前に、理解する前に行動を終えなくてはならない。


 引き出しの奥から国際郵便で送られてきた手紙を取り出した。


 まだ彼が幼い頃に母と離婚してアメリカに渡った父は六年前、アメリカで実験中に事故で亡くなった。

 

 日付は事故の数日前になっている。


 涼斗はそれを手にとって眺めた。


 万年筆で殴り書きされたそれの要旨を理解することはできなかったが、こんな状況になってみれば意味も見つかるのかもしれない。

 

 『ヒトとして生きるな。遺伝子の器として生きろ。ヒトとしてあろうとする限りお前が幸せになることはない。遺伝子に背いた私のように』


 もしかすれば父はなにかを知っていたのかもしれないが、いまとなっては確認する手段を持たない。


 名前だけしか覚えていない父など、血の繋がり以外に思うべきところはない。


 着替えとともにその手紙をバッグに突っ込むと、涼斗は心残りに電話をかけた。


 落ち着けと何度いいきかせても心は騒ぐ。


 涼斗は急ごしらえの理由を反芻しながら遥花をイカ公園に呼び出した。


 日は落ち、大きなイカの遊具は墨に塗れて黒々とした公園と一体となっていた。


 彼はそのイカのなかで黙って座っていた。


 松原は三十分でいいと言ったのに一時間も余裕をくれたが、彼はそれほど時間を消費するつもりはなかった。


 数分も待たないうちに遥花が自転車でやって来た。


 「どうしたの大事な話って?」


 遥花はどこか緊張している様子だった。


 「悪いな。こんな遅くに呼び出して。家の人になんかいわれなかったか?」


 「勝手に出て来ちゃった。なんだか……必死だったから」


 「そっか。ありがとな。あのさ、俺。いままで黙っていたんだけど――」


 「うん、なあに?」


 遥花は嬉しそうに問い返した。


 「俺さ、ニュージーランドに留学するんだ。ホームステイでさ。とりあえず三年は行こうかなと思っている」


 涼斗は精一杯おどけてみせた。


 練習したワケでもないのに驚くほどぺらぺらと言葉が出て来た。


 「嘘でしょ?」


 嘘だからなあ。


 「なんで急にそんなこというの?」


 お前からもいってやってくれよ。


 「いつから行くの?」


 「今日だよ。夜の便で行くんだ。辛いからさ、直前まで言わないようにしていたんだ」


 涼斗は遥花の手を強引に握りしめると、公園中に響き渡るような大声で笑った。


 「ハッハッハ、ってなワケだからよ。俺がいなくてもさ、その……うまくやれよな」


 「そんな……そんな……嫌だよ! 涼ちゃんがいなくちゃ! 高校入ってからだってずっと一緒だって!」


 「もう決まったことだからさ」


 「どうして……わたし、これからひとりでどうすれば――」


 「俺がいなくても、お前なら大丈夫だよ」


 「なんでわかるの? なんにもわかっていないのに!」


 次の瞬間、遥花は見たこともない表情で立っていた。


 眉間に強く皺を刻み、朧気な白色灯の明かりを借りて、その目は射殺すように涼斗を貫いていた。


 「なにかあったの? そうよね、なにかあったんだよね?」


 「いや……別になにも」


 「突然どういうこと? なんで黙っていたの?」


 「お前に言うのが辛かったからさ。ごめんな、これでお別れだ」


 それじゃと手を振ると、公園を後にした。ドラマチックな演出はなかった。


 ただ淡々としていた。


 「ごめんね」


 背後から声が聞こえた気がしたが振り返らなかった。

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