初正月
戦国小説の連作。時間的には斎藤道三の娘帰蝶が織田家へ嫁ぎ、初めての正月の前です。
信長と迎える初めての正月を前に、帰蝶は忙しい日々を送っていた。
城主である信長は相変わらず不在だ。彼は真冬であっても片肌を脱いだ布切れ一枚で城下をうろつく。連れているのは数人の供のみだ。無論正月の仕度等する筈も無い。侍女や家来達に命じて正月の仕度を整えながら、帰蝶は慌ただしく日を重ねていた。
美濃の父からは少し早い年玉だが大きな鏡餅が届いた。体に気をつける旨が簡潔に書かれた書状も添えられており、帰蝶は丁寧に返礼をした。他にも城に届いた様々の物に帰蝶は丁寧に、然し的確に返礼していく。織田上総介信長の正室として迎える初の年の瀬。まだ年若い帰蝶には知らぬ事が山の様だった。
十二月三十日、晦日の夜の事であった。
其の日も遅くまで仕度を整えて居た帰蝶の下に元である信長が帰ってきたのは、かなり夜も更けてからの事であった。
「そなた、大層疲れておるのう」
常日頃身嗜みを綺麗にしている帰蝶の髪が乱れて居るのを見て、信長は不思議そうな表情をした。帰蝶は夫の持つ盃に酒を注ぎながら、思わず大きな溜め息を落とした。
「正月が間近でござります、皆忙しいのは当たり前です」
「随分冷めたい言い方をする」
流石の信長も時期を弁えぬ発言だと思ったのだろうか、苦笑いしながら傍らの妻から盃を受けた。
「当然でござります、わたくしひとりでは荷が重うございます」
「何でもそつなくこなすそなただと思うておったが、この手の事には弱いと見た」
珍しく、いや尾張に嫁いでから初めて弱音を吐く妻を見て、信長は目を細めた。
「からかって等居らずに殿も手伝うて下さりませ、わたくしの混乱ぶりが良くお分かりになられるてしょう」
「真っ平じゃ、説教でもされるが関の山じゃろうて」
信長はあっという間に盃を干すと、カッカッと笑った。そなたも呑め、信長は盃を差し出すと帰蝶に持たせる。帰蝶は受け取ると注がれた酒を干した。
「しかし、そなたが嫁いで来て一年経つか」
「珍しゅうござりますね、昔の事を思い出される等」
しみじみと口を開いた信長に、帰蝶はつい素直になれなかった。この様に感慨に耽られても困る。自分とての感慨に耽ることを避けていたのだ。此処が自分の居場所であると強く考える故のことだった。
「昔と申す程以前の事でも無かろう、そなたはこの春に嫁いで来たのじゃ」
信長は帰蝶から返して貰った盃でぐいぐいと酒を呑む。あっけらかんと昔の話を続ける。此の方に正月の話等しても無駄。帰蝶は今までの慌ただしさ、何故夫が傍に居ないのかという恨み事は忘れる事にした。この御仁に恨み事を言うても無駄であろう。帰蝶はそう判断したのだった。そうとなれば夫の傍で笑顔で居る事、それが最も妻に求められる事である。帰蝶はにこやかに笑いながら夫の盃に酒を注いだ。
「仰る通り。されどわたくしは随分長い事此処に居るように感じられまする」
確かに。ここ一年が十年にも二十年にも感じられた、長き一年であった様に帰蝶には感じられた。
「美濃が恋いしゅうなったか」
にやにや笑いながら盃を重ねる信長に、
「そんな事は有りませぬ、わたくしは嫁いで来た日から尾張の人間故」
と帰蝶は気丈に返した。既に嫁いで十月程経って居る。尾張に馴染んで居ないと思われるのは心外であった。
「幾ら恋いしゅうても帰してはやれぬ」
不意に真面目な顔をした信長は一言吐き捨てる様に言った。帰蝶は眉一つ動かさず、
「そうでございましょう」
と返す。信長はピクリと眉を動かすと畳み掛けた。
「決して……哀れとも思わぬ」
「承知しております」
「時と場に依っては、其の場で斬る」
「わかって居りまする」
「…………ちぃっ。何故そなたは儂の申す事に逆らわぬ」
最後には信長が根を上げた。斬ると言っても顔色一つ変えない。帰蝶は只、本当は信長が自分を斬らない事が分かっているからこういう反応をしたのではなかろう。帰蝶は苛々した様子でぐいっと盃を差しだした夫に対し、誠実な口調で話した。
「わたくしはあなた様の妻にございます、夫の言う事に全て是と答えるは妻の務めにございますれば」
……信長の舌打ちが再び響く。貞節を守った妻であるかの様に見えるが、帰蝶の本質は其処では無い。其れが分かって居るからこそ、信長も舌打ち一つで済ます。
「そなた、以前儂の首を捕りに来たと言うた事も有ったな」
如何しても降参させたくなったのかも知れぬ、信長は不意に婚儀をして間もない頃の会話を思い出した。
「左様でございました」
帰蝶もつい、懐かしく思い出す。親父殿に命じられたのであろうと言う信長に対し、父はそんな事は申しませぬ、わたくしの一存にて、と返した事は記憶にまだ新しい。
「今あの懐剣を手元に戻したら何とする」
なんと意地悪な。帰蝶は夫の子ども染みた発言に思わず噴き出しそうになりながら、わざと顰めつらしい顔を作り、
「懐剣故、懐に仕舞いましてございます」
と言った。信長は地団太を踏みたい様な表情で、
「儂の首を捕らずば、使う事もあるまいて」
とさらに問うた。確かにあの懐剣は織田上総介信長の首を捕る為という名目で懐に常に入れて居た。帰蝶は落ち着き払って胸の中に持っていた考えを話した。
「万一殿がしくじって自害なさる時、妻たるわたくしが殿の御手を煩わすも、後れを取るも嫌でございます。自分の人生は自分で幕引きを致します」
帰蝶の返答に信長は一瞬ポカンとした表情をする。そして次の瞬間、声を立てて笑い出した。さすがに是以上の問答は無駄だと思ったのか、又は帰蝶の返答が気に入ったのか、笑い続ける。笑いながら、
「面白い!ほんに儂は面白い嫁を貰うた」
と言った。帰蝶は表情を崩さぬ儘、
「わたくしも、面白い殿の許へ嫁ぎました」
と言う物だから、信長はさらに笑った。面白いのはお互い様であろう、いえ殿の面白さにはわたくし如何しても敵いませぬ、互いに面白いと言い合いながら、二人は果てしなく語った。
晦日の晩、若殿様と奥方様は遅く迄話し込んで居られたらしい。それ故今は昼寝をしてお出でじゃ。
大晦日の昼過ぎ、清洲城の侍女達の間にこんな話が洩れ伝わったと言う。二人揃って除夜を百八つ聞いたかどうか。
兎も角、天文十八年は斯うして暮れた。