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天国の庭

幼い頃、高速道路で時折くぐらなければならないトンネルが大好きだった。

 少し不気味に濃いオレンジ色の空間の中で、前方の車のテイルランプがゆらゆらと光る。それを見るのが好きだった。

 だから、僕は地下鉄が好きだ。あれはずっとずっとトンネルが続いているようなものだから。あまり上等とは言えない、毛羽立った感じのする赤い椅子に腰掛け、僕は車両の一番端っこで壁にもたれている。ごとんごとんと耳に大きなリズムを伝えながら、電車は進んでいく。これが土の中だと思うと、不思議な気分になって目を閉じた。

 ごとんごとんごとん。

 平日の昼間の、利用客が少ない地下鉄。

 ここに潜っていると、世界から取り残されたような気分になる。

 それが悲しいのではなく、ほっとすると感じる僕は、あまり人間だの世界だの、そういうものが得意ではないのかもしれない。

 半年前に、僕は恋人を捨てた。

 捨てたというより、連絡を取れない状態にして逃げたのだ。

 会社を辞め、引越しをし、実家に連絡をせず、電話番号を変え、メールアドレスを放棄し、携帯を捨てた。

 人はこれだけで、 世の中から、もしくは大切な人から行方不明になれてしまえるのだ。それはとても簡単で、たとえば会社に辞表を出すとか引越し先を見つけるとか、そういう必要な面倒さえきちんとこなせるのなら、誰にでも出来る事だ。

 僕は、半年前に、恋人を、捨てた。

 綺麗な子ではなかったけれど、よく笑う娘だった。その娘と居ると、僕まで幸せになれる気がした。ひたむきに、僕を好きで、僕だけを好きで、僕だけを見る娘だった。甘い、お菓子みたいな娘。

 なんで僕は彼女を捨ててしまったのだろう。

 どうして僕は彼女から逃げてしまったのだろう。

 僕は目を開ける。

 前の席に座っている老婆が、うつらうつらと舟をこいでいた。地下なので日も射さないのに、ここはとても暖かい。日向の匂いがする。

 それが僕にとってだけなのか、他の人にもそうなのかは分からない。

 僕は彼女の事を思い出す。

 苦いコーヒーが飲めなくて、いつも牛乳と砂糖をたっぷり入れていた事、自転車でふらふらするのが大好きで、そのくせ日に焼けたと言っては僕に怒っていた事、いちごの苗を買ってきて育てると頑張り、こっそりそれに僕の名前を付けていた事、図書館の匂いが好な事、郵便局で切手を買うのが好きな事。

 僕は彼女の胸に耳を押し付けて眠るのが好きだった。とくんとくんと規則正しい鼓動は、耳に馴染ませるうちに雨音に変わっていく。くすぐったがりやのあの娘は、けれどその時ばかりはじっと耐えて僕に胸を貸してくれていた。そうして、髪を静かに撫でてくれる。二十分ほどでいつも僕は目覚め、そうすると彼女は髪を撫でていた手をそっと鼻に近づけ、「あなたの匂いがする」と笑う。

 あの笑顔は、彼女の中でももっとも特別だった。

 いや、僕の中で、特別だったのかもしれない。

 何度目かの駅を通りすぎた後、僕の隣に一人の女の人が座り込んだ。

 髪の長い、年齢がよく分からない人。

「………知っていますか」

 その人はこちらも見ようとせず、ただ声だけを僕に放った。

「地下で死んだ人は、天国へ行けないんです。ずっと地下でさまよい続けるんです、天国の庭すら知らずに、地に縛られるのです」

 僕は困ってしまい、けれど今更寝たふりも出来ずに、仕方が無いので話を返す。

「………なぜ、僕にそんな話を?」

「あなたが、死にそうな顔をしていたので」

 まさか、と笑う事が出来なかったのは、もしかしたら「死」を考えていたのかもしれない心の奥深くの場所が今、あった気がしたからだった。

「けれど、私に指摘されて驚いているようなら、あなたは死なないでしょう。さようなら、無駄なお世話を言いました」

 次の駅で、その人は降りていった。残った僕には、ただ混乱が残される。

 あの娘に会いたいな、と思った。

 人はいつでも、もう手後れになったところからしか歩き出せない。僕の記憶の中の電話番号やら住所やらは、すでにあの娘ではない、他人のものかもしれないのに、僕は今、頭に焼き付けようと、それらを繰り返し呟いている。手後れかもしれない。手後れなのだろう。彼女が未だに僕を好きで居てくれる、それはただの甘い幻想なのだ。分かっている。頭痛がするほど分かっている、それは。

 どうして人は期待を抱くのだろう。

 僕は泣き出しそうだ。

 あの娘に会いたくて。

 大切なものは無くしてみて初めて分かる、その言葉が本当なのか、確かめたかっただけなのだ。

 彼女はもう、僕を忘れて幸せになっているだろう。

 幸せになっていなければならない。

 けれど、胸の、遠い奥の方でまだ、彼女の車の助手席の扉を開く僕を、そうしてあの娘ははにかんだように笑って、途中で買ってきたコーヒーを差し出してくれたりなんかして、遅かったのね、と笑う、そんな場面を夢見ている。

 彼女のいない、この街で。

 彼女の指先すら見つけられない、この街で。

 地下鉄はごとんごとんと音を立てて進んでゆく。彼女の鼓動のように規則正しい音で。

 僕は彼女を思い出す。

 あの、僕の匂いがすると笑う笑顔を思い出す。

 僕は、あの娘に。

 会いたくて堪らなくなっている、けれどもそれは地下に居るからだ。太陽の光を浴びたら、きっとそんな想いは消えてしまう、霧のように。

 分かっているのに、僕は目的の駅で降りられなかった。

 電車は扉を閉め、規則正しく進み出す。

 僕はまだ、彼女の事を考えていて、そうして少しだけ泣きそうになった。


カフェオレはミルクたっぷりで、そのまま「カフェオレ色」をしていた。クラッシックショコラを注文した後、思い直してベリーのタルトに変更してもらう。

「ね、いくらダイエット中だからって、ここのケーキを前にしちゃ決心も揺らぐでしょ」

一年振りに会った高校の頃の同級生は、先に注文していたオレンジケーキにフォークを刺している。一年ぶりに会ったとはいえ、電話も手紙もメールもファックスも、ありとあらゆる情報伝達手段を使い、ほぼ毎日のように連絡を取り合っているので、ちっとも久しぶりな気はしないのだけれど。

そうだね、と曖昧に笑いながら、私はチョコレートケーキの注文を取り止めた自分に少し動揺していた。あの人が大好きだったチョコレート。好きな人の好きな物はなんでも素敵に見えて、いつの間にか私は、ケーキ屋さんでも喫茶店でもどこでも、チョコレートのケーキを頼む人間になっていた。

「………高野さんから、まだ連絡こないの?」

急に口数の少なくなった私に、麻奈美が心配そうに聞いてくる。 

ううん、うん、連絡は、と誤魔化して、私はにっこり笑ってみせた。

 私の恋人は、半年前に行方不明になった。

 別に雪山を登るのが趣味だったとか、太平洋をヨットで横断しようとしたとか、そういう事ではない。

 ただ、私の前から忽然といなくなってしまったのだ。雪が、春になったから消えるように。

 家の電話も携帯も、「コノ電話番号ハ現在使ワレテオリマセン」と冷たい返事をくれただけだった。彼の住んでいたはずのアパートは空っぽになっていて、いつか彼が自慢気にくれた名刺に書いてあった会社には、もう彼は在籍しなくなっていた。メールは送っても送っても、英文の「その宛先はありません」の答えしか返ってこなかった。

 あの頃の私の混乱を、もう一度味わえというのなら、私は人生を止めてしまうかもしれない。彼が乗っていた車と同じ車種を見れば、必ず追いかけていって運転手を確認した。電話が鳴れば、必ず自分が出て相手を確かめた。メールだって、ほとんど十分おきに確認した。そのうち、外を歩いている時に耳にした他人の携帯の着信音でさえ、彼からの物のような気がして、私は物が食べられなくなった。

 二週間で十キロ落ちただなんて、言っても誰も信じないだろう。けれど、あの頃の私を知っている人達だけは信じてくれる。髪の毛が面白いように抜けた。爪がぼろぼろと欠けた。

 本当に行方不明になってしまったのなら、警察に届ければ良かったのだろう。事件に巻き込まれたのではない証拠に、日々のニュース番組に彼の名前は一度も出てこなかった。

 警察に届けなかったのは、私が彼に捨てられただけだという事が分かっていたからだ。「自分」の全てを消してまで、彼は私を排除したかったのだ。

なぜ?

 それは分からない。私達はとても仲が良かったのに。彼がいなくなる前の日は、一緒にケーキを食べたのに。チョコレートのムースと、タルトショコラと。どっちを食べようか、とてもとても悩んでいた彼を笑って、私はそれぞれのケーキを半分コにして分け合ったのだ。

「ごめん、………思い出させちゃったね」

 麻奈美が本当にすまなそうな顔をして謝ってきたので、私はびっくりして、慌てて首を振った。

「嫌だ、違うのよ、もういいの、あれは済んだ事だし、本当に、今はほら、ぼんやりしていただけなのよ」

 高野さんの事ならもう忘れたし、と付け足そうと思っていた言葉は、けれども喉の奥に張り付いたままで出てこなかった。

 横浜に遊びにおいでと誘ってくれたのは麻奈美だ。休日を取って交通費を払ったのは私だけれど、彼女が誘ってくれなければ、私はまだ鬱々とした、彼の匂いが未だ空気にすら残っている自分の部屋で、どんよりと生活していたのだろう。

 引っ越したいと、考えなかった訳ではない。けれど、私が彼との想い出を築き上げたアパートを出てしまったら、もしも、もしも戻ってくるかもしれない彼を、私は出迎えられない。その気持ちが、私を会社に辞表も出させず、引っ越しもさせず、死ぬ事も許さずに毎日を過ごさせていた。

 お待たせいたしました、と運ばれてきたベリーのタルトには、クランベリーのアイスが添えられていた。私はスプーンでそれを口に入れ、そしてまだ抜けない癖で、彼にも食べさせてあげたいと思ってしまった。

 悲しい、癖かもしれない。

 私は今でもまだ、彼の不在に慣れる事が出来ないでいる。


下車するはずだった駅を過ぎてしまうと、後は各駅停車になる。午後はもう潰す事に決めて、僕は赤いシートに深くもたれる様に座り直した。人はまばらで、みんな眠そうな顔をしている。

梅の味の喉飴を一つと、茶色い書店名入りのカバーがかかった文庫本をカバンから取り出し、僕は終点まで行ってしまおうかとぼんやり考えていた。

手にしている文庫本は、あの娘が一番好きだった本だ。二人の女の人が主人公で、それ以上はまだ読んでいないので感想が言えない。もともと本は読む習慣が無いのだ。あの娘はよく本を読んでいた。風呂の中でも読むと言って、僕を驚かせた。本好きとはそういうものなのだろうか。彼女は本を読む喜びと引き換えに、とても良かった視力をがくんがくんと落としていた。見かねて僕は小さなスタンドグラスをプレゼントした事がある。きちんとした明かりの下で本を読みなさいと言って。

喉飴は乾燥している空気を吸い続けていた僕の器官をゆるゆると癒した。

本は開いても、文字の上を視線が滑るだけで、頭の中には入ってこない。暗い地下をひた走る電車に揺られ、僕はむしろ必死に本の内容を理解しようと努めたのだけれど、それはどうしても無理だった。ふいに彼女の事を思い出したりしたのがいけなかったのかもしれない。この本を読む事自体、意味が無い行為なのかもしれないけれど。

「用」「事」「は」「な」「い」「が」「相」「手」「の」「声」「を」。

表面だけを舐めてゆくだけなので、結局本はしまってしまった。

このまま終点まで行こうかな、と考える。 

今日、本当は仕事の面接だった。そろそろ食いつぶす貯金にも限界が見えてきて、仕事を探そうかと思っていた矢先に見つけた、事務の仕事だった。小さな会社の、雑用係も兼ねたようなものだった様で、僕が広告を見ました、と電話すると、怪訝そうな不思議そうな声が返ってきたのだ。

『うちで募集しているのは、正社員ではなくパートなんですよ』

パートで構わないです、と僕は言ったのに、その人は少し驚いていたようで、年齢を聞かれた。男の人はこういう仕事に申し込まないものなのだろうか。

『取りあえず、面接をしたいと思いますので、履歴書を持ってきていただけますか』

 その約束の日が今日だった。履歴書だってきちんとカバンに入っている。けれど、もともと行く気は無かったのかもしれない。だって僕はスーツを着ていない。紺と薄水色のチェックのシャツに、ジーンズ姿だ。これから面接に行くんです、と誰かに告げても、「パン屋さんでバイトするの? それとも花屋さん?」と言われてしまうだろう。

 働きたくないのではないはずなのに、どうしたんだろう。最近明け方に、あの娘の夢を見るせいだろうか。四時、または五時にそれで一度目を覚ます。昨日は彼女がキスしてくれる夢だった。今でも思い返すと照れる、あの唇の感触に。あの甘さに。自分が欲求不満なのかと恥ずかしくなったけれど、本当のところはあの娘に飢えているだけなのだろう。会わないせいで、僕が逃げたせいで、彼女は僕の中でひどく大きな存在になっている。性格上の欠点一つ、今は思い出せない。いや、欠点すら懐かしく、恋しく思っている。たとえば爪を噛むとか、アイスを食べ過ぎるだとか。

 電車の窓に映る僕は、疲れたような顔をしていた。無理矢理に笑ってみる。彼女と居る頃は、よく笑っていたはずなのに、僕は上手な笑い方を思い出せなかった。


地下鉄に乗りたい、と突然言い出したのは、けれどもいきなりな思い付きではなかった。

「えっと、」

麻奈美が困ったように笑う。

「途中で用事を足していこうと思っていたんだけど、地下鉄だと寄り道が出来ないのよ」

「私、一人で先に帰ってようか?」

そうする? と麻奈美は首を傾げる。子供じゃないんだし、平気よ、と言うと、やっと困った顔をやめた。

「じゃあ、駅まで送る。二番線で、どの電車でも乗って良いわ、全部の終点になってるから」

さっきのケーキショップで買ったケーキの箱は私が持つ。紅茶シフォンと、グレープババロア。シュガーショコラに、チョコチップケーキ。やっぱりチョコレートのケーキを買ってしまう自分が可笑しい。

「駅に着いたら、ぶらぶらしてるから、携帯に電話頂戴」

後で必ず会うと分かっている人にバイバイと手を振るのは、なんだか不思議。

 駅の切符は表が淡いピンク色で、握り締めると壊れそうな気がした。化粧道具と下着、お財布と携帯電話が入っているだけの紺色のバッグを持ち直し、滑り込んできた地下鉄に乗り込む。人はまばらで、急に夜の匂いに染まってしまったように思えた。

 地下鉄に乗りたいと思ったのは、あの人が好きだったからだ。

 仕事で私の住む県に引っ越してきた彼は、地下鉄が無いのをとても悲しんでいた。地下鉄が無いなんて、月の無い夜空みたいだよ、といつも言っていた。 不便はないけれど、少し切ない。

彼がとても素敵に地下鉄の事を話すので、私は乗った事の無い地下鉄にとても憧れた。彼と一緒だったらもっと楽しかっただろうにな、と私は思う。がたんがたんと暗闇を走る電車は、するはずのない土の匂いがした。

明るい車内は外の暗さを引き立てていて、私は何かのアトラクションに乗っている気になる。彼の少しこもりがちな性格に、確かに地下鉄はぴったりだった。

光を知らぬ者、それらは地上に出た時、太陽の光を受けた色とりどりの世界を見て、全ては天国の庭だと感じるだろう。

どこかで聞いた文章を思い出して、私は赤い布のシートに深く腰掛け直した。

あの人といれば、もっと楽しいだろうに。

半年なんて大した時間じゃないんだから、さっさと飛び越えて私の隣に今すぐ座ってくれれば良いのに。


終点のアナウンスが響き終わったと同時に扉が開いた。

生ぬるい風が足元を掬って、重たい音で開いたドアを、しばらく見詰めている。子供の声が遠くで聞こえて、やっと僕は腰を上げた。

ピリリリリ、とアナウンスの為のベルが鳴る。急いで帰る必要も無いし、と思い、ポケットを探って自販機でコーヒーを買った。戻ってきた三十円をポケットにねじ込んで、ホームの一番端にあるベンチに座り込む。

不意に、あの娘の声がした気がした。

プルリングを上げようとしたまま立ち上がって、僕はホームの端の、柵まで歩いて行った。

自分の空耳に笑う。

そんな訳が無いのに。

今日の僕はどうかしている。

地下鉄なんかに乗ったせいだ。

そうだ、きっと、そのせいだ。


 地下鉄の終点なんて、それこそ地の果てまで行ってしまいそうな感じがするのに、実際は四十数分で着いてしまった。

 風が生ぬるいホームに立って、人の流れに立ち止まる。ついて行きたくなかった。微妙にオイル臭い空気に、もう少しだけ触れていたかった。

 だって、彼に触れている気がするから。

ホームの途中に唐突に現れる階段を上って行けば、私は元の世界に戻ってしまう。まだ太陽に会いたくなかった。ケーキの箱が妙に重たい。

ホームの一番向うに行くと何が見えるのかしら、と突然思った。暗闇かしら。それとも何かの光が見えるのかしら。

私は歩くたびに足に絡む、チューリップの柄のスカートを押さえながら、電車の進んできた方向へ歩き出す。

「………え?」

そして私は見つけてしまった。

 私が見間違えるはずのない、背中を。

 私が世界で一番愛していた背中を。

 私の知らないシャツを着て、私の知らないジーンズを穿いている、その後ろ姿は、私の知っている背中だった。もしも間違っていたなら、私はこの場で神様に土下座してもいい。

 あれは彼だ。

絶対に、彼だ。

 でもどうして?

 どうしてここに居るの?

 言いたい事が、聞きたい事が、頭の中でぐるぐる回って、私は吐きそうになる。それとも私は幸せな白昼夢を見ているのかしら?

 呼んでみようと思った。

 もし違う人なら、後で麻奈美と笑おう。

 そう思ったのに、唇は麻痺したように動かなかった。私のケーキの箱の中にはチョコレートケーキ。もしかして、私は、幸せだった半年前の幻を見ているだけなのかしら。

 彼の名前を、呼びたいと思っているのに、喉の奥でそれは固まったまま出てこない。パニックになっている自分が居た。どうしよう。どうしよう、どうしよう。

 声をかけたら消えてしまったら、困る。

 全然違う人なら恥ずかしい。

 でも、あの、背中は。

 左手で握り締めていた、きっちり握り締めていたはずのケーキの箱が滑り落ちた。それは思ったよりも湿った音を立てて、足元に転がった。

 神様。

 あれは、彼なのでしょうか。

涙がじんわりと滲んでくる。

 声を出そうとして、でも無理で、その代わりに心臓の音だけが、独立した他の物のように早く高く、鳴り響いている。

 ゆっくりと、けれども音を立てて、私は一歩を進めた。

 近づいて、その人が振り向いたなら。

 私は祈るように歩いてゆく。

 もしも彼なのなら。

 私は許すのだろうか、許す? 何を?

 落としたケーキの箱を大きく蹴ってしまって、私は躓きそうになる。

 ヒールがかつんと、今までで一番大きな音を立てた。その音に、視線の先の人が振り向きかける。

 その顔を確認する前に、私は声を上げて泣き出した。

 あれは絶対に彼だ。

 確信して、私は泣き出した。

 それはどこか、安心に似ていて、そしてもうそれ以上何も考えられなかった。

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