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第1章:第1部: 「目を開けて。」

「目を開けて」


「目を覚まして」


 奇妙な女の声が、彼の耳元でそう囁いた。


 彼は目を開けた。


 そして、声をかけてきた人物が目の前にいるのだと思った、そのとき……


 ……そこには何もなかった。


 何も存在しないからではない。


 何ひとつ見ることができなかったのだ。


 辺り一面、真っ暗だった。


 夜なのだろうか。


 判断のしようがなかった。何しろ、見えるものが何もないのだ。ほんのわずかな光さえなかった。


 彼は数秒間、その場から動かなかった。


 自分は生きているのか?


 その疑問は、ほとんど間を置かずに頭に浮かんだ。


 しかし、答えは深く考えるよりも先にやってきた。


 辺りには、何かが漂っていた。


 奇妙な匂い。


 古びた場所のような匂いだった。濡れた土のような。それとも、長い間、閉じ込められていた何かのような匂い。


「湿気……?」


 彼はそう呟いた。


 匂いをもっと確かめようと、深く息を吸い込もうとした。


 そこで、あることに気づいた。


 息がしづらい。


 空気が肺にほとんど入ってこなかった。息をするたびに、必要以上の力を使わなければならないような感覚だった。


 もう一度、息を吸い込もうとした。


 だめだった。


 空気の流れを感じられない。少なくとも、自分の周囲で空気が動いているようには思えなかった。


 自分は閉じ込められているのか?


 その考えに、彼は少し不安を覚えた。


 まるで箱の中にいるようだった。


 それはまずいんじゃないか?


 本当にどこかに閉じ込められているのなら、一刻も早く外に出なければならない。


 生きるためには酸素が必要だ。それは知っていた。


 けれど……


 どうして、そんなことを知っているんだ?


 不意に疑問が浮かんだ。


 なぜか、彼はいくつかのことを知っていた。呼吸をしなければならないことも、湿気が何なのかも、声が声であることも知っていた。


 光がない以上、ほかの感覚を頼りにするしかない。


 彼は両手を伸ばし、床だと思われる場所に手をついた。


 指先に触れたのは、冷たい表面だった。


 ひどく冷たい。


 その感触が手から伝わり、全身を駆け抜けるような寒気を引き起こした。


 これは……何だ?


 彼は這い始めた。


 この冷たいもの以外に何かないか確かめたかった。しかし、触れるものはどれも同じ材質でできているようだった。


 冷たい。


 硬い。


 ざらざらしている。


「石……なのか?」


 少なくとも、濡れた土ではなさそうだった。


 もっとも、よく考えてみれば、それも確実ではなかった。


 土に触れれば、それが土だってわかる……よな?


 なぜそんなことを考えたのか、自分でもよくわからなかった。


 妙な感覚だった。


 そのとき……


「イッ! イッ! イッ!」


 その音が暗闇を貫いた。


「……っ!」


 彼はびくりと体を震わせた。


 気づいたときには、すでに後ずさりしていた。


 その音は、あっという間に空間の端から端へと移動していった。


 今のは何だ?


「ネズミ……?」


 考えるより先に、その言葉が口からこぼれた。


 だが、すぐに別の疑問が浮かんだ。


 ネズミって何だ?


 その言葉は知っていた。


 それだけは確かだった。


 発音の仕方もわかるし、意味だって知っているはずだという感覚もあった。


 それなのに、ネズミが何なのか思い出せなかった。


 彼は頭の中を探り、答えを見つけようとした。


 一瞬、もう少しで思い出せそうな気がした。


 だが、その答えは消えてしまった。


 まるで、手が届きそうになった瞬間に、誰かに記憶を引き抜かれたかのように。


「だ、誰かいるのか!?」


 彼の声が暗闇に響いた。


 尋ねたところで、失うものは何もない。


 彼はそう思っていた。


 しかし、口にした直後、あることに気づいた。


 待てよ……。


 恐怖がゆっくりと膨らみ始めた。


 もし、ここに何かがいたら?


 人間ではない何かが。


 自分の声を聞くことができる何かが。


 声を頼りに、自分を見つけられる何かが。


 今、自分がどこにいるのか、わざわざ教えてしまった。


 彼は身動きひとつせず、その場にとどまった。


 待った。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 何も起こらなかった。


 返事はない。


 足音もない。


 声もない。


 先ほど聞こえた奇妙な音さえ、もう聞こえなかった。


 彼にとっては……


 不運、なのだろうか?


 それとも幸運?


 どちらなのかはわからなかった。


 まあ、自分を食べようとする何かと一緒にいるくらいなら、一人のほうがいいのだろう。


 ……本当にそうなのかは、わからなかったが。


 彼は冷たい床に座り、片手を顎に当てた。


「ここは洞窟なのか?」


 周囲の暗闇を見回したが、ほとんど何も見えなかった。


「空気は少ないし、何もかも冷たい……」


 もっともらしい推測だった。


 目を覚ましてから経験したことがこれだけしかない以上、洞窟というのが最も筋の通った説明なのかもしれない。


 だが、何も決めつけることはできなかった。


 まだ、何も。


「そういえば……一体、何が起きているんだ?」


 おそらく、それが何よりも重要な問いだった。


 彼は自分がどこにいるのかを突き止めることに集中しすぎて、もっと根本的なことを忘れていた。


 自分がなぜここにいるのか、わからない。


 ここがどこなのかも、わからない。


 そして、もう一つ疑問を抱こうとした、そのとき……


「ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!」


「……っ!」


 轟音がその場所を揺るがした。


 何か重いものが動く激しい音と同時に、石の床が彼の体の下で震え始めた。


「えっ!?」


 恐怖が彼を襲った。


 恐ろしい音だった。


 それだけではない。床はいつまでも揺れ続けていた。


 何が起きているんだ?


 一瞬、暗闇の向こう側に何か巨大なものがいるのではないかと思った。


 目には見えない何か。


 もしかすると、こちらへ近づいてきている何かが。


 しかし、そのとき……


 彼の目の前に、あるものが現れた。


 小さな光だった。


 彼の目は、その光に釘づけになった。


 数メートルほど上にあった。


「光……?」


 彼は瞬きをした。


「これが……光?」


 馬鹿げた問いだった。


 それが光であることくらい、彼にもわかっていた。


 それでも、いつからかわからないほど長い間、暗闇に包まれていた彼にとって、光を目にすることは奇妙な感覚だった。


 小さな開口部から差し込む光が、周囲の一部をぼんやりと照らしていた。


 そして、目を覚ましてから初めて、彼は安堵に似たものを感じた。


 見える。


 大したものではない。


 それでも、十分だった。


 そのわずかな明かりのおかげで、光へと続く小さな石段が見えた。


「たぶん、あそこが出口……だよな?」


 彼の声には自信がなかった。


 周囲を見渡した。


 ほかに出口がないか探した。


 階段を上る前に、ためらう理由になるようなものがないか確かめた。


 だが、何も見つからなかった。


 部屋のほとんどは暗闇に覆われていた。


 ただ、一つだけ確認できたものがあった。


 苔だ。


 辺り一面に苔が生えていた。


 ああ……。


 それから、床は石だった。


 そのとき、特に重要なことではなかったが、彼の胸の内に小さな満足感が湧き上がった。


 やっぱりな。


 当たっていた。


 見えないまま、ずっと触れていたものの正体を、ようやく確かめることができた。


 これが石なのか……。


 不思議と、心が落ち着く感覚だった。


 少なくとも、自分にもわかるものが一つはあった。


 彼は立ち上がろうとした。


「うっ……!」


 全身に痛みが走った。


 おそらく、長い間、無理な姿勢で横になっていたのだろう。


 もっとも、どれくらいの時間が経ったのかはわからなかった。


 目を覚ましたときにも、全身に軽い痛みを感じていた。しかし、今ではその痛みが強くなっているようだった。


 彼は片手を床についた。


 続いて、もう片方の手も。


 苦労しながら、ゆっくりと体を起こしていく。


 足が震えた。


 体が悲鳴を上げた。


 それでも、倒れることはなかった。


「た……立てた」


 彼はどうにか立ち上がることができた。


 全身が痛かった。


 それでも、立ち上がることができたのだ。


 彼は自分の手に視線を落とした。


 数秒間、それをじっと見つめた。


 何かがおかしかった。


 具体的に何がおかしいのかはわからない。


 目を覚ましてから初めて、自分の体の一部を目にしているからだろうか。


 彼は指を握り込んだ。


 開いた。


 もう一度、握った。


 上には何が待っているんだ?


 その疑問が浮かんだ瞬間、彼の胃がきゅっと縮こまった。


 怖かった。


 それは否定しようのない事実だった。


 ここまでに起きたことは、何一つとして普通とは言いがたい。


 見知らぬ場所で目を覚ました。


 女の声を聞いた。


 暗闇の中で何かが動く音を聞いた。


 そして今、目の前には出口がある。


 どこへ続いているのかもわからない出口が。


 外には何かがいるかもしれない。


 そう考えると、彼はためらった。


 だが、ここにとどまることも選択肢とは思えなかった。


 空気は乏しい。


 暗闇は耐えがたい。


 それに、この場所が安全だと信じられる理由もなかった。


「迷っている場合じゃない」


 彼は深く息を吸い込んだ。


「ここにいたって、何も解決しない」


 もう一度、階段を見た。


「ほかに選択肢はない」


 彼は両手を握りしめた。


「何もわからないまま、ここに座り込んでいるくらいなら、外に何があるのか確かめたほうがいい」


 一歩、踏み出した。


 そして、もう一歩。


 痛みはまだあった。


 恐怖も消えてはいなかった。


 それでも、彼は進み続けた。


 やがて、石段の前までたどり着いた。


 彼は顔を上げた。


 光はまだそこにあった。


 小さく。


 弱々しく。


 それでも、確かに存在していた。


 そして、彼は階段を上り始めた。


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